斎藤茂太
女のはないき・男のためいき
第三文明社 2003
ISBN:4476032508

 茂太さんは今年で87歳になる。それにしては粋なタイトルだ。お父さんの斎藤茂吉はそこまで粋ではなかった。
 この本はしかし、粋な話ではない。鬱は治るという話だ。けれどもやっぱり粋なのである。さっきざっと読んだばかりなので、何を書くかは決めていないが、感想を綴ることにする。

 最初は、茂太さん自身が奥さんの強大な支配権力のもとにいることが、自分の心身をものすごく楽にしているということを告白している。
 これは負け惜しみか、さもなくば夫人への配慮か点数かせぎでもあろうが、どうも本音らしい。奥さんはいまでも茂太さんの「ミカンの食べ方がおかしい」といったたぐいの文句をしょっちゅうつけているようだが、そこは茂太さんが「心の要求水準」をぐっと落とすことによってクリアするらしい。この「心の要求水準」の“ぐっ”との持ち方が、鬱と関係する。

 斎藤家では奥さんが検察官かつ弁護士で、茂太さんは裁判官である。あれこれ文句をつけ、罪状を並べたて、その一方で子供たちの言い分もよく聞くのは夫人の役割で、主人はイエスかノーか、それだけを判断する。
 これが家族がいちばんうまくいく方法だという。その役割が逆転すると、ファザコンもマザコンもおこる。
 いま、茂夫さんは一週間に一度は病院に行って、さまざまな精神を病んでいる患者さんに接触しているという。ただし、やっているのは患者とニコニコ握手をするだけで、診断や治療はしていない。こういう医者はいい。けれどもここまでキャリアが十分になってくると、握手をしているだけでだいたいのことは見えてくるようで、そこが茂太さんの滋味なのだ。
 たとえば、これからの時代、日本はマザコンがどんどん増えるらしい。この処置がたいへんだという。マザコン自体はたいした病気でもないくらいのものなのだが、そこから派生する傾きが次々にいろいろな心の病気になっていく。しかしマザコンの最大の問題は母親が暇すぎるというところにあるのであって、昔は子供の数がやたらに多かったし、炭もおこさなくてはならなかった。料理も出来合いのものが街にいくらでもあるわけではなかったから、大根ひとつゆっくり煮て、目が離せない。
 ところが、いまは子供の一挙手一投足を母親がまるで珍しい虫を観察するように見つづけている。子供なんてそもそもが矛盾だらけなんだから、これを合理的に解釈したり納得するなんてまったく無理なのに、それをしようとするから、母親がノイローゼになっている。それで子供には甘やかすので、子供はその期待と心配のアンバランスを察知して、マザコンになる。実は母親が病気なのである。
 こういうことが、茂太さんには握手しながら見えてくる。

 それではいったい何が鬱病かというと、鬱の症状で目立つのは億劫という現象である。テキパキ動く者は鬱にはかからない。
 何かを決めたり行動しなければいけないのに、なんだかだとグズグズしているのは、鬱の初期状況か、すでに進行しているかのどちらかだから、早く処分したほうがいい。こういう連中は会社にいても何の訳にも立たない。
 茂太さんは、本屋で本を買おうとしていろいろ迷っている連中の大半が、おそらくは自律神経失調症か鬱病だとおっしゃる。これはすごい目だ。たしかに本屋で迷っている連中は多い。ただし、こんな連中には仕事の能力は、まずないだろうと思ったほうがいいらしい。
 鬱病の核心は、決断力の放棄なのである。だから、こういう連中を激励したらダメなのだ。これは気をつけたい。かれらは激励に答えることができないから、鬱なのである。

 けれども鬱は治る。一番の処方箋は「少欲知足」の状態をつくること。欲を小さくして、知ることをふやしていく。
 鬱の人たちはともかく自分が「睡眠が足りない、食事もちゃんとしていない、集中力がない」などということをクヨクヨしている。これは完璧な睡眠、完璧な食事、完璧な集中を欲望としてもちすぎているということで、まずはこれを壊さなきゃいけない。
 完璧を望まないようにするには、簡単に完璧なんてできないことをする。たとえば学習なんていつまでたっても完璧にはならないから、これは鬱に効く。ただし学習意欲もない鬱もいるので、こういう人は花でも育てるといい。花を完璧に育てるのはたいへんなのだから、かえっていい。ちょっとずつ育てるということが、そのうち鬱を放逐してくれる。そういうことをして億劫を解消する。

 若い連中で多いのが分裂病である。病理的には総合失調症というのだが、激しいばあいは暴れたり、他人に食ってかかるようになるが、軽度であれば「引きこもり」になる。
 他人に食ってかかるのがいたら、これは病気なのだから避けること。それができなければわざと謝ってあげたほうがいい。その理由を聞いたところで、辻褄なんて合うはずがない。「引きこもり」は自信喪失がきっかけであるから、どの自信をつければ改善するかは人によってまったく異なってくる。
 いずれにも共通しているのが「関係妄想」で、芥川龍之介の『黄色いレインコート』のように、主人公がどこへ行っても黄色いレインコートが自分を見張っていると思うようになる。これが進むと被害妄想や追跡妄想になって、自分の危機感を自分で処理できない。 ただ分裂病の困った特徴は、そういう特徴や傾向が自分にあるということに気がつかないし、認めたがらないところにある。こういう人ちたちはもともと関係意識がおかしいのだから、関係づけを基本的にやりなおす必要がある。すなわち、関係の自由を知るべきなのだ。
 それでもどうしても鬱病も分裂病も治したくないというのなら、その人はこっそり天才をめざして、表現者になるしかない。茂太さんの家系は精神病を治す家系の一族なのに、実はだいたいはどこか心の病いにかかっているところがあるので、みんながみんな短歌を詠んだり(父の斎藤茂吉)、小説を書いたり(弟の北杜夫)してきた。言葉や絵が好きなら、この手も残っている。ただし、売れるとはかぎらない。

 こうして茂太さんの見るところ、男は判決の自信を、女は解決の自信があれば鬱にはかからないという。男は自分で決めたことがあれば、それが自分で進められなくて誰かがやってくれることでも、それで自信がついていく。
 女は自分で決めても、自分で解決できたということに拘わらなくては、なかなか満足しない。だから女の仕事や悩みはその当人の方法でしかピリオドが打てない。相談にのったところで、多少のヒントは出せたとしても、それ以上にはならない。そのうち自分で何かの手を打って、それが周囲から見てとても妥当には見えないことであっても、それが必要なのだ。
 では、なぜ男は男なりの鬱に、女は女なりの鬱にかかるかというと、男は「ためいき」をつきすぎて自分で自分の処置に困るようになり、女は「はないき」をつきすぎて自分で自分の処置に困っただけなのだ。これはもういっぺん、自分にふさわしい何らかのちゃんとした「ためいき」や、ちゃんとした「はないき」にしなくては、離心する。
 男の溜息、女の鼻息は要注意。けれどもまたそこが男と女の本分なのである。そうではありませんか。

 ついでながら、女の鼻息でもうひとつ困るのはいわゆるヒステリー症状で、これは自分のストレスを自分の病的発散で解消しようとするので、まわりが困る。
 とくに頭痛を訴える女性は、実はそれで自分のヒステリーを解消しようとしている。内科的には頭痛の原因にあたるものなんて、ないことのほうが多い。けれどもこれは内向的なほうだから、本人がいちばん辛いだけなのだ。
 もっとも最近は男にもこれが多くて、すぐに胃が痛い、腰が痛いといって、なんとか自分のヒステリーに折り合いをつけようとしている。しかし、これではかえって胃も腰も痛くなる。こういう症状は内向的で女性的な男性に多い。男のばあい、これはやっぱり自分の「判決力」を発揮する機会をふやすことによって治すしかない。
 男は溜息をつくところをずらし、女は鼻息を荒くする相手を変えること、そんなこと、お勧めします。

参考¶茂太さんの書くものは、実は斎藤茂吉一家という特異な一族のドキュメンタル・レポートとして貴重なのである。たとえば『回想の父茂吉・母輝子』『精神科医三代』(中央公論社)、『茂吉の体臭』(岩波書店)など、北杜夫の『楡家の人々』(新潮文庫)とともに、傑作。
 

 

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