ジョージ・ガモフ
不思議の国のトムキンス
「ガモフ全集」第1巻
白揚社 1950
Geoge Gamow
Mr Tompkins in Wonderland 1939
[訳]伏見康治・山崎純平

 ガ、ガ、ガモフーッ。ガーモフ万歳! ガモーフ万歳!
 どれだけガモフ全集のお世話になったことか。ぼくが毛布から抜け出して「物理のめざめーっ」と叫ぶ季節をもったのは、ほとんどこの全集のおかげだった。
 どこかのブランドのノヴェルティのような洒落た装幀の、函入角背クロス貼りの全11巻別巻3巻は、いまやボロボロ、とっくに紛失しているものもある(誰かが返してくれないままらしい)。白抜きのガモフのサインが懐かしい。
 いったいいつ入手したのかと奥付を見てみたら、1966年2月だった。ということは早稲田の2、3年生のときらしい。そうか、そうだったか。いまはっきり思い出したけれど、ぼくが早稲田の後半以降を量子力学やら相対性理論やらに熱中しはじめたのは、最初は近藤洋逸の幾何学思想史や東京図書の「数学選書」シリーズだったのだが、その途中でガモフのことを知って(アイザック・アシモフ経由だったかもしれない)、急にのめりこんだのだった。
 まるでアインシュタインが図面を引いたコニーアイランドか、アーウィン・シュレディンガーの波動関数でできている花屋敷に潜りこんだような興奮だった。そのときが、ガ、ガ、ガモフーッ、ガーモフ万歳! ガモーフ万歳だったのだ。
 しかし、そこまでガモフ全集の砲列にとんとん拍子で入っていけたのは、なんといっても第1巻『不思議の国のトムキンス』のせいだった。この第1巻こそが、あまりにも機知に富み、あまりにも量子めき、あまりにも曲率が効いていて、我を忘れるほどの憎っくい解説だったのだ。
 あとで何度も思ったことであるが、こんなふうに20世紀物理学の本質を名人級に案内ができる物理学者は、ジョージ・ガモフの登場まで誰一人いなかった。いや、その後もいないのかもしれない。

 ジョージ・ガモフが宇宙進化論の最初の提案者の一人で、「星ができる前からヘリウムがあったにちがいない」と確信して火の玉宇宙を提唱したこと、宇宙の核反応段階に関するαβγ理論の確立者で(αβγは共同研究者アルファ、ベーテ、ガモフの頭文字)、ようするに今日のビッグバン理論の先駆者であったことはよく知られている。
 それだけでなく、ガモフはDNAが二重螺旋であることが発見された直後、どのようにして4種の塩基で20種以上ものアミノ酸が形成されるかのしくみを解いて、いわゆる「コドン」の機能を仮説してもいた。
 ようするにガモフ先生は大々大々科学者なのである
 しかし、仮にそのような画期的理論の形成にガモフがいっさい係わっていなかったとしても、ジョージ・ガモフの名は『不思議の国のトムキンス』一冊によって、不朽永遠になっていた。それは『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルが数学者でありながら、アリスの生みの親として不朽の名声を得たことと匹敵しているはずである。だからアリスを知る者は、絶対に、絶対に、トムキンスを知らなければならなーっい。

 もうひとつ言っておきたい。ガモフは第4巻『原子の国のトムキンス』、第8巻『生命の国のトムキンス』で、再三トムキンスに奇妙なフィジカ・ワンダーランドを潜伏旅行させただけでなく、とくに第6巻『1、2、3、無限大』で、今日なおこの本を超える「数と時空の相対性」をめぐった一冊はないと断言できるほどの傑作科学解説をなしとげた。
 かつて、『宇宙論入門』『遠方では時計が遅れる』『ロバチェフスキー空間を旋りて』の著書もある稲垣足穂は、「そやな、ほんまに『1、2、3、無限大』こそ、高校か大学の教科書にせなあかんなあ」と言い、ガモフ全集の何冊かの翻訳者であって、『量子統計力学』『相対論的世界像』のほかに『幅のある時間』『折り紙の数学』という小粋な著書もある日本学術会議の会長もつとめた伏見康治は、「ガモフですか? 全集全部を中学生の教科書にすべきですよ」と言ったものだった。
 言っておきたかったのは、『1、2、3、無限大』も名著中の名著だということだ。

 で、『不思議の国のトムキンス』だが、これはしがない銀行員でハリウッド映画大嫌いのトムキンスが、映画よりもっとおもしろい時間を過ごせるのはなにだろうと思って、ある大学の現代物理学の連続講演に出掛けたわけである。
 ところがトムキンスは、カリガリ博士のような髭をたくわえ、レンブラントの解剖学教室で眼鏡をかけて指導しているような老教授がえっへんと咳払いをし、「われわれの住むこの空間は彎曲し、それ自身において閉じ、加えるに膨張しつつある」と言ったとたん、何が何んだかさっぱりわからなくなってしまったのだ。
 すごすごと家に帰って毛布を被って眠りこんだところ、ふと気がつくと、さあ、こんな奇妙な夢を見ていました、というそういう始まりになっている。

 トムキンスが目をさますと直径10キロもある岩の上にいる。しかもその岩は空中に浮かんでいて、まわりを別のたくさんの岩も飛んでいる。トムキンスはその飛行する岩のひとつにへばりついているらしい。
 おそるおそる岩の端っこに落ちそうになりながら進んでみると、不思議なことに自分の重みで岩に押し付けられているのか、落っこちない。こりゃなんたる不思議だと思ってよくよく見ると、そこに例の教授先生が立っていて、なにやら手帳に計算をしている。「おはようございます」と挨拶をすると、教授は「ここには朝というものはない」とニベもない。トムキンスは寂しい宇宙でせっかく出会えた唯一の人物が、なんともつきあいにくい学者だと知ってがっかりするのだが、そこへ事件がおこた。
 どこからかやってきた小さな岩が教授の手元を通過して、手帳を飛ばしてしまったのだ‥‥。

「ここには朝というものはない」

「ここには朝というものはない」

 以上が、トムキンスが最初に見た「おもちゃの宇宙」の冒頭である。この「おもちゃの宇宙」は全体として30キロか100キロ程度の半径でできている。ただし、しだいに膨張しつつある。
 遠ざかった教授の手帳の行方を、教授に促されたトムキンスが双眼鏡で覗いてみると、手帳はだんだん小さくなっているだけではなく、ぼんやり赤くなっている。それがしばらくすると、今度は大きく見えて像がぼけている。これはてっきり戻ってきたのだとおもうと、そうではないらしい。
 というわけで、ここからはプランクとアインシュタインが舞台の後ろで大道具を操っているかのような、目眩く天体力学のショーの見せ場になっていく。そもそも岩たちを浮かばせている空間そのものが少しずつ膨張しているらしい。いや時間も変になっている。そのなかで教授の手帳がついに教授の手元に戻ってくるまでのトムキンスの驚愕は、まことに見ごたえがある。
 ここでは主として光の収差、曲面と測地線の科学、赤方偏移、光のドップラー効果、非ユークリッド幾何学、宇宙の膨張などが次々に、しかし必ず暗示的にだけ解説されるのだが、それがひとつひとつトムキンスの見聞に関与して、納得させられるのだ。

 やがてトムキンスはもうひとつの夢、「量子の部屋」を見る。これは教授が例の講演で、「すべての運動はただ“お粥”のようなものであらわされる」と言ったその“お粥”が、トムキンスのどこかに引っ掛かっていて、それが夢になったものだった。
 いったい何が“お粥”のようなのか。この「量子の部屋」の比喩的解説が、またまた痛快でみごとなのである。
 場面はビリヤードルームに変わっている。ここでは最初に「非可換の無限行列」が説明されるのだが、その前にトムキンスはここのビリヤードの球が突かれるたびに、ぼわぼわっと広がりながら進んでいくのに腰を抜かしてしまったのだ。
 トムキンスはそれが“量子”という「拡がる物質」だと聞いて、なぜ今夜はウィスキーを飲んでいないのにこのようなものが見えるのか、何の見当もつかない。ただ、なるほどこれが“お粥”なのかと思うばかり、それにしても粥状の球とは、どうにも意味がわからない。そこで教授が「この二つの量子の球がぶつかると、どうなるだろうねえ」と、さらに難題をふっかけて不気味に笑った。
 その直後に目の前で起こったことを、トムキンスはとうてい誰にも話せない。衝突した「拡がる球」は互いに交じったまま、なんとあらゆる方向に進み始めたのだ! しかもどんどん拡がっていく。いわゆる角運動量ゼロのS波の散乱である。
 得意満面の教授は混乱するトムキンスを尻目に、もっととんでもないことを言い出した。量子の球が拡がったのは、この世界では球が「だいたいここにある」とか「一部はどこか他のところにある」としか言えないような、そういう状態をあらわしているのだと説明するのである。
 まさにハイゼンベルクの不確定性原理を説明している場面だが、いま読んでもまことに巧みに書いてある。教授は偉そうに、続けてこう言った、「一方を決めれば、他方がますます拡がっていくじゃろう」。

 トムキンスが見た第三の夢は「のろい街」の出来事である。ここでは光の速度が1時間に20キロ進む以外は、ふつうの物理現象がおこっている。
 そこでトムキンスはなんだ別におかしいところなんてない街じゃないかと思うのだが、向こうから自転車に乗ってやってきたパイプを口にした紳士の姿を見て、ぶったまげてしまった。その紳士は運動方向に対して自転車ごと平べったくなっている! やがて広場の時計が12時を告げると、紳士は自転車をもっと速くこぎはじめ、ますます板のように薄くなっていく!
 しかしこのころ少しは知恵がついてきたトムキンスは、ははん、これは「運動体の収縮」というやつだと思う。実は先日、教授がそういうことを書いてくれた本を読んだからだった。けれども、それ以上のことを知るには、この街には癪にさわる教授の姿が見当たらない。チェシャ猫もハンプティ・ダンプティもいないのだ。そこでトムキンス一人の前代未聞の冒険が始まるのである。

ますます板のように薄くなっていく!

ますます板のように薄くなっていく!

 まずトムキンスはその紳士を追いかけようと決め、傍らの自転車に飛び乗ってまっしぐらに走ってみた。さぞかしみんなが自分の姿が自転車ごと平べったくなっているのを感心して見ているだろうと鼻高々だったのだが、ふと周辺を見て驚いた。なんと、通りがだんだん短くなり、店のウィンドーが細長い隙間のようになり、お巡りさんも薄っぺらくなっている。それにくらべて自分の姿のほうはあんまり変わらない。
 もっと変なのは広場の時計が30分たったのに、自分の腕時計は5分しか進んでいない。どうも「相対性」という言葉に関係がありそうなことがおこっているらしかったが、トムキンスはこのあたりで降参してしまう。
 なぜなら停車場で降りてきた見るからに若そうな人物を、「おじいさん!」と呼んで再会をよろこんでいる婦人を見てしまったからだ。なぜあんな若い奴がおじいさんであるものか。ふん、あれも相対性なんだろう。でも、わしは「相対性の髭」なんてはやしてやるものか。そう、トムキンスは独りごちたのである。

自分の姿のほうはあんまり変わらない

自分の姿のほうはあんまり変わらない

 ‥‥ざっとこんな具合なのである。トムキンスはさらに「量子のジャングル」の夢、「のろい街」の解説を教授にしてもらうための「休息の一日」、そしてありとあらゆる自然界の定数が飛び回っている「最後の冒険」をする。
 「最後の冒険」では海岸近くのレストランで教授の娘の美しいモード嬢も登場し、負の曲率のコップやら「空間の地震」やらが次々に出来事をおこして、気がつくとレストランにはモード嬢そっくりの娘さんがどんどんふえている。
 量子定数が狂ったらしい。そのなかでやっと本物らしいモード嬢をみつけたトムキンスは、令嬢が「わたくし、飛ばした帽子をとってまいりますわ」と言うのを制して、「そんなことをしたら、戻られたときにはぼくはおじいさんになっているかもしれません」と思わず口走る。
 ついにトムキンスは何かを理解したようなのだ。気がつくとモード嬢の優しい手がトムキンスを握っている。その瞬間、空間には大きな襞が拡がり始め、太陽の光線がそれてしまい、トムキンスと令嬢は海岸いっぱいになっていた。せっかくのチャンスをトムキンスは逃がしたのである。
 ぼうっとしてしまったトムキンスに、遠くから鈴のような声が聞こえてきた。「まあ、お父さまったら、また難しい物理の話をしてトムキンスさんを眠らしてしまったのね」。トムキンスはバネに弾かれたように目をさまし、そしてそして、二人はやがて教会で結婚式をあげましたとさ。

「注意するんだぞ!量子定数も気が狂ったようだから!」

「注意するんだぞ!量子定数も気が狂ったようだから!」

 『不思議の国のトムキンス』には、お話以外にもとびきりの魅力が加わっている。ひとつはガモフが描いたとおぼしい何枚もの挿絵だ。マグリットとエッシャーの絵に匹敵できる「おかしな空間」の絵として、この挿絵に勝るものはない。おまけにガモフは「おかしい時間」の絵も描いた。
 もうひとつは第2部に別立てになっている。トムキンスが居眠りをしてしまったという例の「教授の講義」だ。これは「空間の彎曲と引力」「作用量子」の2本立てで、いよいよ数式が登場し、ローレンツ変換や重力場方程式やシュレディンガーの波動関数が懇切丁寧に解説される。
 しかし最初にも書いておいたように、ガモフは『不思議の国のトムキンス』だけで講義をすませたのではなかった。この名調子が実に11巻に及ぶのである。シャーロック・ホームズと同じこと、一度引っ込んだトムキンスが何度も引っ張り出されるところも、悪くない。やっぱり、ガ、ガッ、ガモフ、ガーモフ万歳、だ。あとはトムキンスとアリスが結婚するだけである。

参考¶『ガモフ全集』は何度かリニューアルされて、いまでも白揚社から全巻が刊行されている。絶対にお買い得。なおごく最近になって、新たな科学理論や最新実験結果を加えたトムキンス物語のヴァージョン・アップがラッセル・スタナードによって試みられて『不思議宇宙のトムキンス』(白揚社)になったり、古川タクのイラストレーションによる『トムキンスさん』(白揚社)になったりしていて、いわば蘇ったホームズ探偵に似た“続編”や“劇画化”がブームになりそうなのだが、どちらも感心しない。古川タクはぼくも好きなイラストレーターの一人ではあるものの、このトムキンス劇画は、まったくつまらなかった。

 

コメントは受け付けていません。