伊東忠太・藤森照信・増田彰久
伊東忠太動物園
筑摩書房 1995
ISBN:4480856897

 築地本願寺や湯島聖堂や平安神宮を設計した伊東忠太の、建造物に付与された動物装飾だけに焦点をあてたおもしろい一冊だ。いかにも藤森照信の企画っぽい。写真が増田彰久。
 「予は何の因果か、性来、お化けが大好きである」に始まる伊東の怪物文様学の論文もいつくか収録されている。ちょっと南方熊楠、ちょっとバルトルシャイテス(第13夜)だ。

 伊東忠太という異色の建築家については、いまなお評価が一定していない。さまざまな議論がおこっている。
 日本の近代建築は初期の擬洋風時代のあと、ジョサイア・コンドルによって鹿鳴館や三菱邸がもたらされると、その弟子の辰野金吾の日銀本店・東京駅、片山東熊の京都博物館・赤坂離宮、さらには妻木頼黄の東京府庁・勧業銀行などによって、いわば
“堂々たる本格洋風複合期” を謳歌するのだが、ここでいったん頂点からの転回を取りそこねた。
 そこへ登場するのが伊東忠太である。卒論に「美は常に其形を変じ、其状を替へて各般の物体中に潜伏するものなり」という哲学をひっさげての登場で、言葉と歴史と様式の合理合体を標榜できた。伊東はただちに洋風一辺倒の明治建築に対抗し、ユーラシア全域を背景とする建築にとりかかる。しかしその建築作品と建築思想はいまなお、アジア主義の成果だとか、国粋主義的な建築物だとか、国威掲揚に走ったとか、いやいやその造形力は日本建築史でも屈指の独創性をもっているとか、毀誉褒貶がはなはだしい。
 最近では井上章一が「法隆寺=ギリシア起源論」(いわゆるエンタシス論)に象徴されるその荒唐無稽な建築史論に噛みついた。

 ぼくはどうかといえば、子供のころに京都の祇園閣があまりに変な建物なのでそれに魅かれて写生をしたことが奇縁となってしまったのだろうか、その後も伊東忠太にはどうも引っ張られているふしがある(祇園閣はもともとは大倉財閥大倉喜八郎の別荘。いまホテルオークラの前にある大倉集古館も伊東忠太の設計)。
 湯島聖堂を初めて訪れたときにその静謐な色に感動したこと(その後、ここでアレックス・カーが川瀬敏郎の花を相手に書のパフォーマンスをしたのを玉三郎と一緒に見て、あらためて湯島聖堂に感心したものだった)、そのほか築地本願寺を見たときも、阪急梅田駅のドームに最初に包まれたときも、正直いって奇妙な共感をおぼえたほうなので、伊東忠太には親近感があるらしい。
 だからおまえはナショナリストなんだよという連中もいるだろうが、こういう輩には胸倉をつかんで、「何がナショナリズムか説明をしてみよ」と言えばよい。
 念のため書いておくが、なぜ伊東忠太をおもしろがるとナショナリスト呼ばわりされるかというと、伊東忠太こそは明治神宮・靖国神社の設計者であって、かつ神社木造論の提唱者であるからなのだろう。神社木造論とは、「神社は人間の住宅ではなくして神霊の在ます宮居であり、その神霊の生活は劫久に不変である」(1927「神社と其の建築」)というもので、神社は木造にすべきだという主張である。伊東はこういう思想を披瀝して、頑として譲らなかったからである。

 伊東忠太は明治元年が1歳である。幸田露伴・尾崎紅葉・夏目漱石宮武外骨・藤島武二と同い年になる。
26歳の明治25年に『建築哲学』という東大の卒論を書き、32歳で法隆寺論(これが例のエンタシス論)を著して建築史を開拓し、36歳のときにそれを確かめるべく中国・インド・ペルシア・トルコを驢馬にまたがって、延々3年をかけてユーラシアを踏破した。ギリシア神殿と法隆寺とを結ぶ決定的証拠はほとんど見つからなかったのだが、そのかわりヒンドゥ・仏教建築の大半を見た。こんなに多くのアジア建築の実物を見た日本人はほかにはいない。
 39歳で東京帝国大学の教授となって、43歳で「建築進化論」を発表、明治最後の44年に真宗信徒生命保険会社という大胆な建物を設計して、自身の成果を初めて造形化した。その後、祇園閣、湯島聖堂、一橋大学の校舎群(図書館・兼松講堂)などを次々に発表していった。築地本願寺は昭和9年の完成だった。この間、敦煌をはじめとする仏教遺跡探検隊を組織した大谷光瑞とはぴったり結ばれている。
 いま伊東忠太の建築を評論する気はないが、一言だけ感想を言っておくと、伊東は外部の造形によって内部が圧し潰されない建築設計をめざしたはずなのに、やはり内部の造形には力及ばず、結果としてはナショナリズムを体現できなかった建築家だった。その造形は、むしろ汎ユーラシア主義ともいうべきもので、ぼくには早坂文雄の作曲技法が聴こえてきたりする

 こうした伊東の “戦歴”から、本書は西本願寺真宗保険会社(1912現在は布教研究所)、阪急梅田駅壁画(1923)、一橋大学兼松講堂(1927)、京都東山の祇園閣(1927)、赤坂ホテルオークラの大倉集古館(1927)、本所横網の震災記念堂(1930現在は東京都立慰霊堂)、靖国神社の遊就館(1931)、湯島聖堂(1934)、築地本願寺(1934)、などを採り上げ、そのファサードや柱頭や屋根の各所に付着した怪獣・幻想動物のみを解説した。
 この藤森の採った視点は、伊東忠太を壊さず褒めすぎず、恋慕を失わず内奥を問題にせずという“距離”をいかして、なかなか憎いものになっている。
 カラー図版を見てもらえばわかるように、伊東が執着した動物たちは、すべて異形のものたちである。その異形にはそれぞれ土地と歴史と民族の記憶とが生きている。しかし、いつしかそれらは交じり合い、変形しあって、ついにそのイコンとしての機能を近現代になって喪失していった。今ではただの“お飾り”になってしまったものたちばかりである。伊東がそれを起源の造形を扶けるかのように、自分の設計した建造物の各所に蘇らせようとしたのは想像するに難くない。
 見ていると、なんだか痛ましい気分にさえなってくる。慈しみやいとおしささえ感じてくる。
 けれども、本書に収録されている論文を読んでもわかるように、伊東は大真面目だった。それどころか、現在なお各地の建物からこちらを睨んでいる空想動物たちを眺めていると、そこからはユーモアあるいはブラックユーモアさえやってくる。それもそのはずで、伊東は実は北斎漫画に憧れた漫画も手慰みした人だったのである。そういう目でみれば、伊東は水木しげるや楳図かずおや小松和彦の先駆者であろう。
 そこでふと思うのは、意外なことに、きっと伊東忠太はホルヘ・ルイス・ボルヘスのような資質の持ち主なのではなかったかということだ。Don't
you think so ?

 なお、これは付け足しだが、朝日新聞社が「二十世紀の千人」として全10巻のシリーズを刊行したとき、日本の建築家で採り上げられたのは伊東忠太・村野藤吾・前川国男・西山夘三・丹下健三・磯崎新・安藤忠雄の7人だった。
 この人選はかなり不思議なものであるが、とりわけ伊東忠太の組み込みがまことにもって異様きわまりない。

「怪奇図案集」 絵:伊東忠太

参考¶伊東忠太を読むには『伊東忠太著作集』全11巻がある。その多くが戦前に『伊東忠太建築文献』全6巻に入っていた。伊東をめぐる本格的評論はいまなおないが、たとえば中谷礼仁『国学・明治・建築家』(一季出版)、五十嵐太郎『近代の神々と建築』(廣済堂出版)などの新たな視点の議論が出てきて、頼もしい。これらの嚆矢ともなったのが井上章一『法隆寺への精神史』(弘文堂)であったろう。なお近代建築史の入門には本書の企画執筆者でもある藤森照信の『日本の近代建築』上下(岩波新書)が手頃。

 

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