野口雨情
野口雨情詩集
彌生書房 1993
ISBN:4841506829

 ふーっ、雨情を書く夜がきた。
 きっとどこから書いても雨情になるだろうものの、ちょっとでも気が緩めば雨情から離れてしまうという気もする。
 雨情は言葉を削ぐ人だった。いつも緩んでいなかった。「昨日は君をかへりみで 雲の山路もこえました すげなき曲(たま)のたまだれの 雨に鳴くかよきりぎりす」。
 「ぬばたま」という詩の一節だ。詩の中の「雨に鳴くかよきりぎりす」は、雨情独得の「雨降りお月さん雲の蔭」や「磯の鵜の鳥や日暮れに帰る」や「あの町この町日がくれる」にまっすぐつながるもので、黄昏が気がつかないうちに人跡未踏の夕闇に落ちてゆくような寂寞(せきばく)を捉えて、なんともせつなく、そしてやるせない。

 雨情は「はぐれる」とか「取り返しのつかないこと」という消息を歌いつづけた詩人だった。
 童謡の一、二を思い出してみればすぐ了解できるように、「赤い靴はいてた女の子」は「異人さんに連れられて行っちゃった」ままなのであり、青い目をしたセルロイドの人形は「迷子になったらなんとしょう」「わたしは言葉がわからない」と、ただ涙ぐむばかりなのだ。
 いまではこんなふうに「はぐれる」なんてことや「取り返しのつかないこと」など、童謡に書く者はいないし、ましてそれを子供に歌わせたいと思う親もいなくなってしまった。ぼくはこういう歌こそが存在学を心底鍛えると思っているのだが、そういうこともほとんど理解できなくなっているらしい。
 理解できない者のために一言だけ説明しておけば、この「異人さんに連れられて行っちゃった」とか「わたしは言葉がわからない」というのは、これはいってみれば、「序破急」の、「序・破」ときて、「急」のところで見えなくなるものがあるという、そういう切羽詰まった消息なのである。そういう息が抜けない消息が、夕暮にはどこの町でもおこっているよということなのだ。

 雨情が「はぐれる」と見たものは、セルロイド人形や赤い靴の女の子ばかりではなかった。
 もっと本来的な何かが、われわれの日常からふと姿をくらましていることを過敏に捉えていた。「ささのめ」という詩にはそんな感覚が微妙に揺動している。

  くなどの神の 関の戸の 森の烏が鳴きまして
  手をとり玉(たま)へ ささのめの 
  雲の陰より 日はささむ

 解説などいらないだろうが、「くなどの神」は分岐の神のこと、万葉以来、夕暮に出没する方途の神。そこに森のカラスが鳴いて、ふと見れば笹の芽がわずかに土を蹴っている。そんな暗がりに小さな残照が届いていて、そこに手をのばせば、なにもかもがささんでささくれ、ささめごとになっていく。そんな詩である。
 ここではぐれているのは存在の消息そのものであって、取り返しがつかなくなるかもしれないからこそ、そこに刻印された消息なのである。
 雨情は、こんなふうに寂寞のなかの消えゆく跡形ばかりを追っていた。シャボン玉が飛んで屋根まで飛んで、そこで壊れて消えてしまう消息を詠んだ。

 このような消息がありうることを雨情の詩や歌に知ることは、しかし、ぼくにとってはかけがえのないフラジリティの根源に触知することであり、ごくごく揮発的な触背美学の最も柔らかい部分に出会うことだった。
 そのようなフラジリティを感知できたのは、むろん雨情だけではない。岩野泡鳴も上田敏も鷹見久太郎も、すでにフラジリティを詠んでいた。鷹見の「櫂とるになれし弱手を胸にして物思ふ子よ舟は流るる」には、その先駆性が歌われている。また、雨情と前後して大正童謡運動に立ち上がった西条八十・北原白秋・三木露風らにもその感知はすぐれて歌われた。すでに『日本流』の冒頭に描いてみたことであった。
 けれども雨情はかれらのなかでも、とりわけその社会感覚においてフラジリティそのものを囲った。雨情はその暮らし方や喋り方や羞かしがり方そのものにおいて、フラジャイルだったのだ。そのような雨情を、少しだけだが案内したい。

 そもそも雨情を読むこと、雨情を唄うことは、ぼくにとっては長らく極上のことだった。
 最初に何を母が唄ってくれたのかは、もはやはっきりしない縁側の日々のことではあるが、ごくごく少年のころ、雨降りお月さんのもと、お嫁に行くときゃ誰とゆくと言われ、お嫁さんがやっと「ひとりで傘(からかさ)さしてゆく」と慎ましく答えたのに、「からかさないときゃ誰とゆく」とまた重ねて問われ、仕方なく「シャラシャラ シャンシャン鈴つけた お馬にゆられて濡れてゆく」というその歌の結末に、もうどうしていいかわからないほどの混乱と理不尽と、子供心にも憐憫が襲ってくるのを止めようがなかったことをよく憶えている。
 母が唄いおわるまで息を止めて聞き、それからは泣きじゃくったはずである。
 それは妙なことに、一見、何でもなそうな『黄金虫』のような歌でも同じことだった。「黄金虫(こがねむし)は金持ちだ。金蔵建てた、蔵建てた」というところまでは、まだよかった。ところがその次が急に「飴屋で水飴、買って来た」なのだ。これでワーンだったのである。
 なぜお蔵まで建てた黄金虫が、水飴を買ってきましたとだけ言うのだろうか。金持ちなのに、なぜ子供には水飴だけなのか。
 いやいや、歌詞の意味でワーンとなったのではない。すでにぼくの子供心にもこの歌を作った作者の暗示の何たるかが伝わってきていたはずなのだ。野口雨情という人は、歌詞の数行にすべてを賭けて、そういう「社会の隙間」を告示した。
 それは子供にだって、ちゃんと伝わってきた。

 雨情の故郷は茨城県である。常陸の国である。「恋の薬」にこういう文句が入っている。
 「三千年の埋木(うもれぎ)に 石の中より日は照りて 桜の花は咲くまいし 恋の薬といふものは 影も形もまぼろしも 見えるものではあるまいし 常陸の国にはぐまれた 思い出ぐさに咲く花が 恋の薬になればよい」。
 茨城県多賀郡北中郷村大字磯原一〇三番地。そこの素封家の家に生まれながら、この家は「常陸の国にはぐまれ」ながら、没落していった。「船頭小唄」の地からも遠くない。
 時は明治15年だから1882年の生まれになるのだが、その時代の符牒も雨情の境涯をつくっていた。その符牒は、雨情が斎藤茂吉小川未明、金田一京助、種田山頭火らと同い歳であることに気がつくと、突然にわかってくることだ。これらの名前を並べてじっと見ていると、そこに何かの日本の遠い琴線のような、明治の時の翅音のようなものが聞こえてこよう。
 かれらはすべて1900年ちょうどに19歳になったのだが、ということは、日清と日露のあいだに「明治という青春」が挟まれたということだった。あとで少しふれることにするが、実は倉橋惣三も同い歳だった。

 東京専門学校(早稲田)高等予科は中退した。それでも早稲田は雨情の第二の原郷である。坪内逍遥の薫陶をうけつつ、ここで相馬御風・三木露風・加藤介春・人見東明らを知って、やがて雨情の詩魂が開花する。
 しかし、刺激はそこにあったのだけれど、雨情がその詩魂を削ぎに削いだ数行の言葉にしていくには、流浪が必要だった。彷徨が必要だった。最初は北海道である。そこで雨情よりさらに困まり果てている石川啄木に会った。啄木もほとほと果てていたが、雨情は何を思ってか、さらに最果ての樺太に渡る。そして、そういうところから拙(つたな)い詩を「月刊ハガキ文学」や「月刊スケッチ」に送りつづけた。
 20代の日々をこんな北端に流浪したことは、雨情を決定的に変えていく。
 26歳、旭川の新聞社勤務を最後に、雨情は東京に戻り、しばらくは小川未明のところに寄寓したりしていたが、やがて詩壇を離れて故郷の常陸の国に戻る。『船頭小唄』を作って、作曲を中山晋平に頼んだのは大正8年のこと、もう38歳になっていた。

 童謡が雨情の詩魂から次々に絞り出されるのはそこからである。大正9年(1920)、雨情は斎藤佐次郎の編集する「金の船」の童謡欄の選者となり、『十五夜お月さん』(本居長世作曲)を発表したのちに、みずから決して東京童謡会を結んだ。
 ここからの雨情の童謡にはすべて曲がつく。『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』(本居長世作曲)は、いずれも大正10年の発表だった。

 雨情は自分がどのように童謡をつくるべきかということを、熱心に考えた人である。
 大正10年からの数年間、数々の名作を世に問いながらも、自分の童謡論ともいうべきを『童謡作法問答』から『少年文芸童謡の作り方』まで、次々に問うている。これは雨情が「方法の人」でもあったことを訴えるもので、ぼくはそれらを読むたびに胸が熱くなっていた。
 雨情はとりわけ主知主義と物量教育を嫌ったのである。そのうえで「正風童謡」と「童心性」と「郷土童謡」を純乎として説いた。説いたといっても朴訥な雨情のことである、次のような言い方をした。
 「童謡は童心性の表現であります。ですから正しく子供の生活が表現されてゐさへすれば、その作者が大人であらうと、子供であらうと、些かも問ふところではないのです」。「童心はまさに良心であって、良心は即童心であります」。「童謡の正風は土地の自然詩でなくてはなりません」。「ほんとうの日本国民をつくりまするには、どうしても日本国民の魂、日本の国の土の匂ひに立脚した郷土童謡の力によらねばなりません」。
 雨情の童謡に寄せる決意というものがひたひた伝わってくる。とくに日本国民の魂と童謡を重ねているところが雨情らしい。けれどもその一方で、ぼくは雨情が「滑稽」「諧謔」「洒脱」ということを徹底して考えようとしていたことを、ここでは強調しておきたい。雨情は『童謡十講』の第四講で小林一茶の次の句をあげたのである。

  九輪草四五輪草でしまひけり

 この句を通して、雨情は「滑稽を通り越した洒脱なる諧謔」こそが正風童謡の真骨頂になると述べている。これは雨情のもうひとつの創意の姿勢をあらわす言葉として貴重であろう。雨情はさらにこのように言ってのけていた。
 「諧謔は真摯な、涙ぐましいまでに率直な感情から出発してゐるものであり、その真感情こそ、子供の心に触れて、彼等を動かして行く」。
 この「滑稽を通り越した洒脱なる諧謔」が「真感情」であるという雨情の判断は、そうとうに筋金が通っている。滑稽から洒脱をへて諧謔へ。そこを、通り越す。この、意味がきりきりと洒脱に際立つものへの投企こそが、雨情の言葉を律動させ、夕闇に紛れさせ、少年少女に樋口一葉とジャン・コクトーの忽然を与えつづけたのであったろう。
 このような際立つ諧謔を雨情が尊重したことは、『兎のダンス』や『証誠寺の狸囃子』(いずれも中山晋平作曲)によくあらわれている。この二つの歌はまさにそこを突いていた。その諧謔はアヴァンギャルドでさえあった
 「証、証、証誠寺、証誠寺の庭は、ツ、ツ、月夜だ、皆出て来い来い来い」。「ソソラ、ソラソラ、兎のダンス、タラッタ ラッタラッタ ラッタラッタ ラッタ ラ」。
 寺の名前を「証、証、証誠寺」と連音してみせたことも独創的であるけれど、月夜がツ・ツと吃ること、それに加えて「みんな、でて、こいこいこい」なのだ。それはさらにはドレミの「ソソラ、ソラソラ」が「そ・そら・そらそら」や「空々」になっていく。これはひょっとして日本語のヒップホップのルーツとさえいえそうなほどに、驚くべき収穫だった

 こうした雨情の詩作の感覚哲学ともいうべきがどこからきたのかという詮索は、あまり必要がない。また、とくに議論されてもこなかった。
 それでも雨情の初期には、社会主義の影響アナキズムの影響キリスト教の影響トルストイの影響があったことが指摘されてきた。たしかにそういうものはある。けれども、このような影響は当時は石川啄木から竹久夢二にまで共通するもので、この時期の青年に共通するものでもあった。
 そこでぼくは、ここでは、内村鑑三とその周辺の詩人とのあいだに甚だ精神的で瑞々しい共振の日々があったことだけを、あえて書いておこうとおもう。

 雨情がかなり若いころに内村鑑三の「東京独立雑誌」を読んでいたことは、わかっている。記録はないようだが、内村鑑三の肉声の講演も何度か聴いていただろう。
 内村はこの雑誌や講演のなかで、無教会主義や日本的キリスト教への模索を通しながら、明治の青年を鼓舞し、その魂魄に勇気を与え、「2つのJ」に股裂きにあった日本人への自覚を呼びかけていた。しかしそれとともに内村は、暗示的ではあるけれど、しかし断固として、このなかで欠かさずに言っていたことがある。
 それは、「孤児(みなしご)」や「棄人」や「離脱者」に象徴的に託された“悲しいものとしての存在”に対して、内村独自の格別の方針を与えようとしていたことである。
 内村が、その“悲しいものとしての存在”をめぐってどのような思想を展開していたかはここには省くけれど、わかりやすくはたとえば次の言葉にその思想が言い尽くされている。今日では誰も言いえないような、鬼気迫る方針だ。
 「父母に棄てられたる子は家を支ゆる柱石となり、国人に棄てられたる民は国を救ふの愛国者となり、教会に棄てられたる信者は信仰復活の動力となる」!
 すでにあらかたのことが了解されるだろうに、ここには雨情がその後に「はぐれた子」の心情に何かを訴えようとした感覚の起源がすでにあらわれている。それは痛烈というのか、痛哭というのか、ちょっとやそっとの尋常なことではなかったのであろうということは、内村の文章からいまなお推知されてくる。

 ついでながら、もうひとつふたつ、内村鑑三が雨情に影響を及ぼしていたことがあったことを書いておく。
 ひとつは「東京独立雑誌」に掲載されていた児玉花外の文章や詩である。花外は内村の「孤児を見る目」をいちはやく表現作品におきかえた詩人で、雨情の御子息である野口存彌さんの研究調査によると、西川光次郎の「東京評論」に『二人の孤児』という鮮烈な作品を書いていたということだ。
 花外とは別に、内村の高弟ともいうべき倉橋惣三も雨情に大きな影響を与えていた。すでに述べておいたように、倉橋は雨情とは同い歳で、内村の感化のもとに若くしてフレーベル会の活動などにかかわっていた。のちに
日本の幼児教育の父” とよばれた倉橋は、聖書と子供をつなげ、婦人と子供をつなげるにあたって、内村以上に日本近代の子供たちに本物の体温をもたらした。その倉橋の真剣な言動に、雨情は激しい共感をおぼえていた。

 童謡の雨情と詩人の雨情は切り離せない。
 詩人の雨情が口語定型詩を確立し、童謡の雨情は民謡詩人であった、というふうには言えないのである。ここには分かちがたいものがある。
 ここに採りあげたのは『野口雨情詩集』だから、童謡は一作も収められてはいない。けれども、その大半に大人の童謡を感じることができる。そこには、大人もまた「取り返しがつかない一刻」の手前に、決然として何かを始めるべきであることが必ず歌われているからだ。
 そういう詩の一つを、最後にあげておく。
 これは樺太にいて故郷を偲んだ作品である。常陸鹿島という地名が出てくるが、そこは鹿島神宮の神奈備(かんなび)が静かに漂っている。そのことを思って雨情はこんな詩を詠んだ。
 ぼくの一番近いところにも常陸鹿島の神奈備に連なる者がいる。太田香保・太田剛の姉弟である。姉は慶応図書館にいて機織りなどしていたが、ぼくの仕事場にある日やってきたまま、そのままずっとぼくの仕事の機織りをしてくれている。その文様はますます深くなっている。弟は姉の引っ越しを手伝いにきて、たまたまぼくに出会って、高校教師を棄ててぼくの仕事場にやってきた。もっぱら機織りの機構のほうをつくってくれている。その弟にある日、同郷の山内晶子が嫁ぎ、そのまままたぼくの仕事を支えてくれている。
 雨情の「大人の童謡」を紹介するにあたって、次の詩を、この二人と一人にも贈りたいとおもう。『月は月波の』という仮題がついている。

  月は月波の いただきに 
  山のかなたも 照りぬべし
  常陸鹿島の わたつみに 
  海の真珠(またま)も 照りぬべし。  

  山にありては 山彦の 
  音はおぼろに 響くなれ
  海にありては 千万の
  海の音こそ 聞くもえん。

  花は涅槃の 雲もあれ
  雲にたなびく 花もあれ
  かぎり知られぬ さいはひの
  深き泉は 湧きぬべし。

 今日、1月27日は実は野口雨情の命日である。敗戦の年の、昭和20年1月27日だった。一方、ぼくの「千夜千冊」は今日、700冊目となった。1月27日はぼくの誕生日の2日後にあたる。だからというのではないが、雨情とともに、こう言いたい。「かぎり知られぬさひはひの、深き泉は湧きぬべし」。

参考¶野口雨情の全集は『定本・野口雨情』全8巻(未来社)がある。補巻に書簡が入っている。「詩と民謡」が2冊、「童謡」が2冊、「地方民謡」が1冊、「童話・エッセイ」が1冊、「童謡論・民謡論」が2冊である。これで雨情が何をどれくらい書いたかの見当がつくだろう。意外に童謡論が多いことに気がつく。評伝と伝記は子息の野口存彌さんが書いた『父野口雨情』(筑波書林)と『野口雨情・詩と人と時代』(未来社)を定番として、いくつか短いものがあるが、まだ充実していない。詩集には本書と、その続編にあたる『船頭小唄』(彌生書房)が読みやすい。童謡はいろいろの童謡集のたぐいに収められているが、藤田圭雄が編んだ『野口雨情童謡集』(彌生書房)がまとまっている。

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