ヨン=ロアル・ビョルクヴォル
内なるミューズ
NHKブックス 1999
ISBN:4140018658
Jon-Roar Bjorkvold
Det Musiske Menneske 1989
[訳]福井信子

 このところぼくは「母なるもの」とは何かということを、なんとなく考えつづけている。母語、母国、母性、母型といった「母なるもの」である。
 あまり厳密には考えていない。しかし、考えるというのは、その考えたい“正体”を漠然と自分の心のスキーマのどこかの釘にひっかけておくことであって、何かにつけてその釘にひっかけた額の中の仮に描いた粗野なスケッチを眺めつつ、しだいにその“正体”の特質を言葉や機能やイメージで立体に彫塑していくようなことなのである。
 そのため、突然にその“正体”を特質づける何かが見えることもあれば、それらがいくつか絡まって見えにくくなることもある。またこういう時期には、できるだけその“正体”に触れているような書物を摘まむように読むこともするのだが、つまりは「母なるもの」なら、たとえばバッハオーフェンやヴィコツキーのものや幼児語の研究書や母国語をめぐる各国各民族の文献などを読むのだが、そういうことをしたからといって考えが深まるとはかぎらない。
 むしろそういう読書をしながら、ときにおもいがけない夕焼けのような思索の光景がアタマの中の西の空にあらわれたとき、急速に“正体”についての考えが進む。そういうものなのだ。

 こうして、ああだこうだと「母なるもの」を考えるうちに、この数年のことでいえば、突如に「デノミネーターの消息」とか「母なる空海」という言葉も浮かんできたのだった。デノミネーターとは分母のことである。
 そのうち「マザリーズ」についても考えるようになった。マザリーズというのは「母親が幼児に喋る言葉」のことで、子供がいないせいなのか、ぼくにはこれがたいそう気になった。このころから子をもつ若い母親が愛しくもなった。

 さてところで、このマザリーズを追いかけていくと、どこかで「音楽的母語」とでもいうべきものに辿りつく。どうもこのへんのことが「母なるもの」の本質の何かと関係しているらしい。
 そうこうしているときに、本書に出会った。著者はオスロ大学の音楽学者で、日本人が発音しにくい名前と髭面からはいかにも厳しそうな印象をもつが、どうしてどっこい、まことに柔軟な音楽的母語世界の案内をしてのけていた。
 母国の日々に自信をもっているというのか、徹底してノルウェーの音楽状況や音楽教育の現場を背景にしているところが頼もしく、またおもしろかったが、幼児や児童の歌にひそむミューズ的なるものを解くにあたって、認知心理学からロックンロールまで、ミハエル・バフチンからショスタコーヴィチまで、メルロ=ポンティからナルニア国まで持ち出しているのが愉快でもあった。

 本書のタイトルになっている「内なるミューズ」とは、音楽にひそむミューズ(音の女神)のことをいう。著者は、そのミューズは胎児のころから根差しているものではないかという。
 胎児が、母親のもつリズムやメロディの影響を受けているのではないかという仮説はずいぶん以前からあった。とくにめずらしくはない。しかしそれがコレウィン・トレヴァルセンあたりから「相互同時性」(intersynchronicity)という考えに向かい、あるいはまた「生得的間主観性」(innate
intersubjectivity)として議論されるようになってきて、広く人間性の普遍的な“正体”として浮上してきた。
 この“正体”は概念としてまだ規定されていないものであるが、本書の内容に即していえば「聞き覚えがあるもの」に近いものである。なんとなく「聞き覚えている」ということ、それがなかなか重要なのだ。もっと一般的にいえば「見覚えのあるもの」「触り心地のあるもの」「食べ覚えのあるもの」などでもある。
 このような“覚えのある正体”がどのようにミューズによってもたらされたのかということは、まだはっきりしていない。ひとつにはやはりマザリーズが大きな役割をもった。なんといっても母親の言葉の使い方やイントネーションは幼児に大きな分母のようなものを与えているにちがいない。
 もうひとつは幼児たちの相互の「遊び」が重大な影響を及ぼしている。とりわけ「ごっこ」遊びである。そこで子供たちはたいていの役割になれることを学んでいく。
 子供たちがもつ驚異的な副次連想力は、こうして大半がマザリーズによるものか、遊びによっていると考えられる。ここまではヨハン・ホイジンガもジャン・ピアジェもロジェ・カイヨワも見抜いていたことだった。

 しかし著者は、これらのさらに奥に実は音楽的なるものが動いているのではないか考えた。
 喃語で歌うこと、母親のあやしに笑うこと、リズムに乗って体を動かすこと、どこかから聞こえる音楽に耳を傾けること、そして母親や父親やお兄ちゃんの声‥‥。これらこそが“内なるミューズ”の“ファンタジックな正体”ではないかというのだ。
 ここにはきっとウォルター・オングの「視覚は孤立させ、音は合体させる」という考え方がある。“NOTEN”(記的なるもの)に対するに“TONEN”(音的なるもの)の重視である。これらの“TONEN”こそが次にマザリーズや遊びによる急速な発達を促すのではないかというのである。

 ぼくは最近の音楽人類学というものが片寄りがちになる「音楽はともかく普遍的なもので、人々の心をつなぐんだ」という考え方が気にいらない。
 多くのミュージシャンは排他的であるし、カラヤンや尾崎豊がそうであったように、民衆など信じていないところも少なくない。また、モーツァルトのように自身のミューズしか信じない者や、ヤニス・クセナキスのように数学的思考に徹する者の音に、かえって驚かされることも少なくない。
 音楽心理学という分野も、色彩心理学と同様にあまり信用していない。音楽で心理を解明されたらたまったものじゃない。音楽心理学者にかぎってプレスリーやピンク・フロイドを毛嫌いするものなのだ。
 しかしながら、音楽人類学や音楽心理学が幼児に向かうとき、かれらは急に優しい目をもちはじめ、われわれがいままで見過ごしてきた多くのことに気がついてくれる。かれらは子供にとっての音や声というものがもたらすものがやはり相当に大きいものだという共通の認識をもてたのである。
 本書の著者も残念ながら音楽人類学や音楽心理学の研究者であった。が、本書はこの学問がもつ陥穽を脱していた。音楽が解放だとは言わないで、音楽は根っこにあるものだから、これを取り出しまちがうと、かえってとんでもないことになるという考え方なのである。そこを考えていくのなら、そこにはきっと「母なるもの」に連なる“正体”が見えてくる。

 スワヒリ語に「ンゴーマ」という言葉があるらしい。アフリカ人にとっての音楽的なるものを意味する言葉で、全的感覚である「シキア」が派生してるという。
 「ンゴーマ」はいっさいの合図の原初でもあって、またそこからいっさいの類推的模倣が出てくるところの原感覚でもあるようだ。つまりはスワヒリ語を母語とするアフリカ人にとって「ンゴーマ」は音楽的なモダリティの母型をあらわしているわけである。
 実際にも「ンゴーマ」からこそ、ブルース、ソウル、ゴスペルが生まれてきた。
 著者はこの「ンゴーマ」にあたるものが世界中の幼児と音楽の関係にあるのではないかとみなした。しかし、その“正体”が何かということは指摘しきれなかった。「母なるもの」の起源には辿りつけないままになっている。
 けれども、起源はいまのところはっきりせずともかまわない。ぼくは本書のような思索をたまさか通過することで、充分なヒントをもらえたとおもっている。
 そのヒントが何であるかをここで書くのは事情があって遠慮しておくが、ただ一言でそのヒントが指し示しているものを言っておくのなら、こういうことである。
 それは、幼児たちにいつしか芽生えている「仮想の他者というもの」(the virtual others)というものだ。このことが本書を読んで、ぼくのアタマの中の釘にひっかかっている額の絵に加えられた新しいスケッチだった。

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