アルベール・カミュ
異邦人
新潮文庫 1954
ISBN:4102114017
Albert Camus
L'Etranger 1942
[訳]窪田啓作

 早稲田ではカミュはちょっとした英雄だった。
 そのころ早稲田のキャンパスには学生劇団があふれていて、早稲田祭のときで100をこえ、ふだんでも15をこえる劇団があったとおもうのだが、そのため1年中キャンパスのどこかでカミュの『正義の人びと』や『カリギュラ』の立て看が見えていたものだった。どんなふうにだかは知らないが、ときには『異邦人』を翻案して舞台にのせているところもあった。ついでにいえば、当時の早稲田にはチェホフ、ブレヒト、サルトル、ベケット、福田善之、イヨネスコが多かった。
 そのカミュをぼくは敬遠していた。
 食わず嫌いになっていた。だいたい「きょう、ママンが死んだ」で始まって、太陽のせいで殺人を犯した青年の話など、読めたものじゃないと思っていた。
 カミュは読まなかったが、サルトルは無理やり読んでいた。けれども、カミュ嫌いはサルトルのせいではない。サルトルがカミュを批判したことそのことにすら、興味をもてなかったからだ。

 ところが、何かのきっかけでカミュがジャン・グルニエの影響をうけていたことを知った。
 グルニエは『孤島』を読んで、こんなふうに思索のつれづれを言葉にできたらいいなとぼくが思っていた哲人で、当時の気分でいえば、ジョン・クーパー・ポウイスとともに気にしていた哲学仙人にあたっていた(その後、グルニエの『地中界の瞑想』『人間的なものについて』『存在の不幸』も翻訳され、人知れずというふうに言うのがふさわしいとおもうのだが、含読した)。そのグルニエがカミュの高等中学校上級時代の哲学教授だった。
 ふーん、そうかと思った。
 急にカミュに対する見方が変わり、機会があればいよいよ読もうと決めた。最初は『反抗的人間』だったろうか。まさにグルニエに捧げられていた。『ペスト』はダニエル・デフォーが好きだったので読んだ。たいそう緻密なものを感じた。それでも『異邦人』だけは放ってあった。やっぱり「きょう、ママンが死んだ」が嫌だったのだ。
 そのうち『裏と表』を読んだ。カミュの少年時代のことが三人称で綴られていた。父親のいない5人暮らし。「息子は唖に近く、娘は病身で何も考えることができない」とある。家族を仕切っていたのは70歳になる祖母で、家族は地中界の太陽だけがおいしかったと書いてあった。

 カミュはアルジェリアのモンドヴィで、葡萄酒輸出業者に勤める父のもとに生まれている。
 すぐ戦争で父を亡くし、アルジェ市の場末で暮らした。三つの部屋に5人がひしめく日々。母親はほとんど耳が聞こえなかったという。サルトルも幼年時代に父を亡くしているが、サルトルは祖父の庇護をうけて、どちらかといえば書斎に育った。カミュはそうではなく、アルジェの道端や海岸を走りまわり、サッカーのゴールキーパーでならした。
 そのカミュの『異邦人』なのか。ぼくは今度はやけに謙虚な気持ちでこの作品を読むことにした。読む前にこんなに気持ちを整えた青春文学なんて珍しい。

 読んでみて、なぜこの作品が爆発的に話題になったのかが、やっと了解できた。いま思い出しても、ムルソーこそはやがて世界の消費都市を覆うことになる青年の名状しがたい「きしみ」の感覚を象徴していたからだ。
 その予告が描かれていた。『異邦人』は1942年の作品だから、まだアルジェリアも戦火の中にある。そのなかで、ムルソーは養老院で死んだ母の通知をうけ、何にも刺激を感じられないままに、仕事の事務所に通い、日曜日はバルコニーから通行人か「空」を眺めるだけである。
 もっともここまでならアントワーヌ・ロカンタンだ。2階から眺めていたマロニエの根っこを見て吐き気を催す『嘔吐』の青年である。ところがムルソーにはそういう感情もない。外のどんな出来事もリアルには映らない。そこには社会に反応する実存主義的な心というものもない。

 そのムルソーが酷暑のなかでアラブ人たちの喧嘩に巻きこまれ、殺人を犯す。ナイフをふりかざして襲ってきたアラブ人にピストルの弾を四たび撃ちこんだ。
 太陽がギラギラ照りつける海岸である。ムルソーは仲間と遊んでいただけだった。しかも直前までは、「笛を吹いているやつの足のゆびが、えらくひらいている」のを見ていたりした。友人のレエモンが「やるか」とけしかけたときも、ムルソーは「よせ」と言っていた。レエモンがピストルを渡したときも、まるで時間が停止しているかのようなだけだったのだ。
 けれども殺人がおこる。そして、「すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った」。
 ここから『異邦人』は第2部に入り、ムルソーの監獄生活と裁判が描かれる。検事の言葉や証人の態度が淡々と綴られ、何度も御用司祭の訪問を断るムルソーの「やる気のなさ」が、申し訳なさそうに挿入される。ムルソーにとって、自分の味方のはずの弁護士をふくめ、裁判のすべては自分抜きですすんでいる。存在抜きなのだ。こうして検事の次の言葉が、ムルソー的なるもののすべてが今後の社会で誤解されつづけるだろうことを告知する。「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴にゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」。
 カミュは第2部でのちに批評家に絶賛される「社会の不条理」を抑制をきかして書いたのだ。が、不条理というより「きしみ」なのである。その「きしみ」のためにカミュは用意周到に文体を練っている。

 ところでムルソーは、裁判のなかで自分がインテリだと思われていることを知って、釈然としなくなっていく。その平凡な町の強靭な「知」は、ムルソーの僅かに悟りきったような言葉の端々に見える「知」を見抜いて、その虚妄を暴こうとしたのである。
 これはカミュが共産党に入りながら、その僅かな言葉の使い方によって、その"真意"を問われ、やがて除名されていったことをおもうと、まさにカミュが知っていた社会のおかしさというものだったろう。社会や集団というものは、いったんその個人が異質な言動をとったとたん、その個人の言葉づかいのどんな細部にも異質なものを発見しようとするものなのだ。ムルソーはそのことによって異邦人にさせられたのだった。
 なるほど、早稲田でカミュがちょっとした英雄だった理由はよくわかった。
 そのころ早稲田も、日本も、すでにアルベール・カミュのように不条理を語る能力が失われていたということなのだ。「きしみ」はあったのに、「きしみ」を昇華できなかったのだ。そこでせめてカミュを借りて世の中に文句をつけたくなっていた。しょせんは、そういうことだったのだろう。

 その後、『異邦人』をめぐって三つばかりの感想をもった。
 ひとつは日本の文壇では、昭和26年に広津和郎と中村光夫のあいだで『異邦人』論争が交わされていたということで、少し覗いてみてギョッとしたのは、日本ではムルソーの犯罪と裁判を借りてしか日本の社会の議論をできなかったのかということである。
 二つ目はルキノ・ヴィスコンティがマルチェロ・マストロヤンニをつかって『異邦人』を映画にした。それを新宿で見ながら、そうか、ヴィスコンティはムルソーを「ゲームに参加しない男」として描ききったなという感想をもった。
 三つ目の感想は、カミュが46歳で死ぬ前に、グルニエゆかりの南仏ルールマランに家を購入し、最後の手紙をグルニエに出していたということを知ったとき、なんだか胸がつまったという、それだけのことである。

 ぼくはカミュの良い読者ではなかったようにおもうにもかかわらず、このように、しだいにカミュについて付け加えたいことがふえていったのだった。
 とくに『カミュの手帖』を読んでから、ぼくの中のカミュはしだいに膨らんでいった。1935年から1960年に死ぬまで、カミュは大学ノートに日記(カイエ)をつけていたのだが、なんともせつない日記であった。そして、なんとも告発的な日記であった。『異邦人』についても、発表直後にこんなことを綴っている。
 『異邦人』で問題になるのは芸術的な手法であって結末ではないことを述べたあと、こうつぶやくのである。「この本の意味はまさに第1部と第2部の並行関係のなかにある。結論はこうだ、社会は母親の埋葬に際して涙を流す人たちを必要としている。人は自分に罪があると思うことによっては決して罰せられない。他にも、私にはさらに十くらいの結論が可能である」(大久保敏彦訳)。
 ところで話は変わるが、二年前のこと、ぼくが主宰している未詳倶楽部ではいちばんフランスに近い高野純子に俳号を贈るとき、彼女がオトグラフのコレクターでもあって、ぼくの知らないフランスをぼくにもたらそうとしてくれているのを感じて、カミュの音をひそめた「紙由」(しゆう)という号を思いついたことがあった。そのとき、ぼくの感覚には、実は次のような文字と音とが交差していたものだった。
 Mersault(ムルソー)は、ひょっとしてmer(海)とsol(太陽)なのではなくて、"meurt"(死ぬ)と"seul"(ひとり)だったのかもしれない、というふうに。

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