ウィリアム・ゴールディング
蝿の王
集英社文庫 1978
ISBN:408760022X
William Golding
Lord of the Flies 1954
[訳]平井正穂

 正直なことをいうと、二度と読む気はしないような気がして放ってあった物語だが、それだけに忘れられなかった。
 このたび、ある日の新幹線で通読してみて、その構成と文体と会話の妙が巧みであったことにあらためて気がつくとともに、ゴールディングという作家が少年に寄せた感情の深さにしんしんと聞き耳をたてた。
 ついでにゴールディングについての評論や批評も拾い読みしてみたが、これははなはだ情けないものだった。日本人が『蝿の王』を語ると、闇と悪の問題を過大に語りすぎることになるか、あるいは逆に闇と悪の奥からやっと光をあらわす神性を裏読みしすぎて、つまらない。これはユイスマンスなどの批評にもいつも感じていたことだった。ぼくは澁澤龍彦という人が大好きなのではあるけれど、このあたり澁澤の影響には少なからぬものがある。
 英米の批評では、今度はおおむね文明論や極限論が勝ちすぎる。極限論はとくにアメリカの批評家に多く、ベトナム戦争や湾岸戦争が好きなアメリカ人を反映する。つまりはフランシス・F・コッポラの『地獄の黙示録』をめぐる議論なのだ。そこへもってきて権利、義務、チーム、分担といった文学を越える議論が参集していて、読んでいて、やかましい。

 『蝿の王』は近未来小説である。
 第三次世界大戦がおこっているらしい状況のもと、少年たちを遠方に脱出させる旅客機が南太平洋の孤島に不時着する。そこは核戦争をよそに豊富な食料に恵まれた楽園で、大人たちがまったくいない世界を少年たちは満喫しはじめる。
 まさしくミルトンの楽園だった。少年たちはしだいに互いを知りあい、徒名をつけあい、島内を冒険する。高いところに登ると、まわりが珊瑚礁に囲まれていることがわかった。少年は一挙に解放されていく。
 そのうちいろいろなことが少しずつ決まっていった。ホラガイを象徴とすることも決まった。隊長を選挙で決めた。選挙ごっこである。ラーフが隊長になった。狩猟隊もできた。
 が、当然のことに、少年たちの性格はまったくさまざまだった。ビギーは合理派である。サイモンは敬虔なものに憧れている。ラーフはコモンセンスをこそ大切にする。双子も交じっている。それにヘンリやモリスやジョニーや、ちびっこのパーシヴァルや悪童めいたジャックやロジャーがいた。

 島のことも少しずつわかってきた。ただし、それはそれを見たとか感じたという別々の少年の断片的な見聞の寄せ集めなので、ほんとうに島内に何があるかははっきりしない。
 たとえば島には豚がいることになった。たしかに豚がいた。けれどもジャックはそいつをナイフで殺しそこねてしまった。蛇もいるようにおもえた。が、その大きさは少年によってまちまちだった。焚火もした。火の勢いがさかんになると、これを消せないことがわかってきた。火は守らなければならないものだったのである。
 それでもともかくはしばらくはすべてが順調で、少年たちは自分たちに自信が漲っていることを知る。
 ところがしだいに、少年たちは我知らずその内面の邪悪なものを吐露せざるをえなくなっていく。ちびっ子たちが一日中遊んだり喚いたり、泣いたり沈んだりしているのは最初こそよかったが、年上の子からすれば、それはだんだん煩わしいものに変わっていった。火が林に燃え移り、山林に及ぶと、そこは煙によって修羅場のように見えてきた。なんであれ何かの肉を獲得しなければならないこともわかってきた。しかし、何の肉を?
 野生の豚を少年の力で殺すことは難しい。少年たちは歌をうたうことにした。豚ヲ殺セ、喉ヲきレ、血ヲ絞レ。

 そのうち島内にはどうやら悪のようなもの、闇のようなものの支配があるらしいということになってくる。
 大きな蛇のようなもの、獣のようなものを見たという少年も出てきた。ぎらつく海が盛り上がり、いくつもの層に分かれることも目撃した。ピギーはそれは蜃気楼だというのだが、少年たちは納得できなかった。
 そんなある日、ジャックがついに豚を仕留めた。手伝った者もいた。喉を掻き切った者もいた。凱歌があがった。が、誰がどこを食べるのか。どのくらい、どのように? その肉を食べつくしてなくなったら、どうするのか。やがて獣を見たという少年が説得力をもちはじめた。言葉の力というものは大きかった。
 けれども、それは単なる想像力の力でもあって、その想像力が力をもてば少年たちはその恐怖に脅えるだけだった。しかも、その恐怖は必ず闇から這い上がるようにやってきた。

 やがてその得体の知れない闇の獣のようなものに対して、殺した豚の首を捧げることにした。その首が闇を支配してくれるとおもえたからだった。
 それが「蝿の王」である。
 「蝿の王」は胴体から切り離された豚の首だったが、そこには黒山のように蝿がたかっていた。ベルゼブルと呼ばれた
 ついでサイモンが「蝿の王」の言葉を聞いた。サイモンが自分で「蝿の王」の言葉を代弁したのか、実際に「蝿の王」が喋ったのかは、わからない。なぜそうなったかも、ほんとうの「蝿の王」の正体もわからない。少年たちがそう呼んでしまったから、そうなっただけなのである。こういう得体の知れないものに対する奇妙な確信が物語の中に撹拌されていくことを、ゴールディングは巧みに綴っていく。
 少年たちは二派に分かれた。ジャックやロジャーが悪魔に操られたような行動に走りはじめたのである。そこには病いのような権力に対する意思が芽生えていた。
 そのうち夜空にぱっと閃光がひらめいて爆発音とともに異様な物体が落ちてくる。落下傘兵士の死骸である。事態はいよいよのっぴきならないところにまで達していた。何がおこってもおかしくはない。少年はもはや少年ではなくなっていた。

 さて、このあとどうなるかは、伏せておく。
 が、最後には孤島の少年たちは救助され、読者はほっと胸を撫でおろす。ぼくも最初に読んだときは、ほっとした。しかし、かなり吐き気を催す寸前まで、物語は進んでしまうのである。

 こうした物語を読んで、ほら、ここには「悪」や「罪」というものが寓意的に描かれているというのは、いただけない。
 そのような「悪と罪」は無垢であるはずの少年にも必ず宿るものですよというのも、ほら、お母さん子供は邪悪なものですよ、気をつけなさないねというのは、もっといただけない。
 また、そのようなことを描いたゴールディングはこの一作によって20世紀文学史上のヨブ記の位置を占めたというのも、ぞっとしない。すでに述べたように、この作品の批評には、なぜかろくなものがない。
 だいたいぼくは「悪の哲学」をまことしやかにふりまく思想に関心が薄い。悪はどんな時代のどんな社会においても前提である。
 しかもこうしたまことしやかな哲学では、悪はほぼ突出してたえず正の領域に凄みをもって君臨し、逆に善はすっかり凹むか萎むかして、サドが『美徳の不幸』に描いたように負の領域にある。だから作家も批評家も、「悪」を綴り「悪」を論ずるにあたっては、機関銃をぶっ放し、死体を切り刻むように思う存分を書く。まるで、それはビートたけしの暴力映画とその批評のようなのである。そんなものがおもしろいわけがない。

 いまや悪は静かに描くべきなのである。たとえていうなら親鸞がそうしたように。あるいは悪は意識において気配において、淡々と流出するベきである。たとえていうならピエール・クロソウスキーがそうしたように。
 ゴールディングもそのような作法を知っていた。そうとうに知っていた。『蝿の王』は悪や原罪を描いたというよりも、まさに少年の本来を描いてみせたのである。それは『銀の匙』となんら変わらない一対の鏡像なのである。
 けれどもそこには血が流れた。キリストの血ではない。少年の血である。『蝿の王』はその血を感じて読むものである。

 ゴールディングは英国コーウォールに生まれ、その家が墓地に隣接していた。少年ゴールディングは、そこに埋まっている死体を感じざるをえなかった。
 ジュール・ヴェルヌのSF群、バランタインの『さんご島の三少年』、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、少年ゴールディングの愛読書だった。これらと『蝿の王』をつなぐものが、ゴールディングの思想になっている。
 ただ、ゴールディングは長じて第二次世界大戦に海軍士官として従軍し、ノルマンディ上陸作戦にも参加した。反戦思想が芽生えたのではなく、戦争がロジェ・カイヨワのいう意味での興奮をもたらすことを知った。
 ぼくは数年前にこんな結論を得た。世界中の子供たちは同じ遊びをやっている。それは「ごっこ遊び」か、「しりとり」か、それとも「宝さがし」かのいずれかに決まっている

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