エルンスト・マッハ
マッハ力学
内田老鶴圃 1931 講談社 1981
Ernst Mach
Die Mechanik In Ihrer Entwicklung 1883・ 1933
[訳]伏見譲

 科学書の古典に夢中になりはじめたのは25、6歳からである。理科系の大学になぜ進まなかったかと自分の浅薄な進路決定の過去にちょっぴり地団太を踏みながら、たった一人で数式の多い書物にも刃向かっていた。
 ふりかえれば、それがよかった。晩年の湯川秀樹に私淑できたことも、ディラックに出会えたことも、またファインマンを西海岸に訪れる気になったことも、理科系社会のシバリに入らなかったから勝手気儘にできたし、好きな科学者のところにも出入りした。科学書もいろいろ編集した。『全宇宙誌』のときは日本の代表的な天文学者の大半に会った。内山龍雄さんが岩波新書の『一般相対性理論』を書いたときは、『全宇宙誌』のときのぼくのエディトリアル・プランにもとづいてくれた。

 本書の翻訳が伏見譲さんによって出たとき(その前に青木一郎訳があったようだが)、ぼくは6畳とキッチンがある三軒茶屋近くの三宿という町の三徳荘というアパートにいた。まりの・るうにいが同居人である。
 父が50代でけっこうな借金を残して死に、その返済をしていたころで、稲荷ずしと魚フライ定食と、夏はそうめんばかり食べていた。部屋にはベッドも机も冷蔵庫もなかったが、何もかもが茶ぶ台ひとつでまにあった。六文銭の小室等が見かねて、使い古したテレビを譲ってくれたころである。
 ちょっとした赤貧洗うがごとき日々ではあったものの、その期間こそがぼくの「科学の古典」時代だった。
 最初は近所の図書館でド・ブロイやシュレーディンガーやディラックを読んでいた。途中にガモフ全集に手を出した。ついで幾何学から時空幾何学に入りこみ、改造社版のアインシュタインの古本を一冊ずつ手に入れ、これに勝手な感想を書きこむことを課した。ここから一転、しだいに古典に戻っていったのである。
 湯川さんに薦められてボスコヴィッチを読んだのがきっかけだったとおもうが、これが「物質の現象学」を追う科学者の目の深みを見せてくれたため、これはいいやと興奮気味に科学史をだんだんさかのぼり、結局はニュートンとクラークとホイヘンスの論争がおもしろくなってここに分け入って、さらに科学僧バークリーの『人知原理論』をさまよった。ただ、そのあたりで、再び相対性理論の起源を追いたくなったのだった。マッハの『力学』との出会いはこのころだったとおもう。

 マッハには相対性理論の起源のひとつであった「マッハの原理」を知るために重力理論に入ったのだが、そのうち本格的な力学書が読みたくなって、本書に移った。
 後年のマッハにくらべると信じがたいほど懇切に古典力学を順に説いている。しかし静力学の説明から動力学に移ってニュートンを読み替えていくあたりから、本書のマッハはだんだんラディカルになる。
 これはマッハが36歳のとき、すなわち1874年にキルヒホフが「記述論」という画期的な“科学エクリチュール論”ともいうべきものを書いたことに刺激されたのだとおもわれる。動力学にひそむ「普遍的驚異」をマッハが数式の背後に読みとろうとするようにしはじめるのだ。ここからは後年のマッハ(相対性理論にかぎりなく近づいたマッハ)の、面目が躍如する。
 とくに注目すべきは、「切り出し」と「重ね合わせ」という力学思考の“方法”に言及しようとしているところで、こういうことをあっというまに言及できるのが他の科学者には見られないマッハの独壇場なのである。一言でいうのなら、マッハはこのときすでに、ニュートン力学の認識論的な批判に着手していた。

 次の妙技は、ダランベールの原理から最小拘束の法則に入って自乗偏差(自由運動からの自乗偏差)を説明し、ついで最小作用論を媒介にしていよいよハミルトニアンの原理に到達すると、そこから一転、力学原理の流体力学への応用に突進していくところである。
 これは「重さのない液体」を仮想して、その思考実験を進めるために「無重力空間に放置された液体塊」を想定するという妙技の見せどころになっていく。詳細は忘れたが、このときマッハが「開いた球形の泡は存在できないものの」というふうに書きながら、実はすでに鞍形の宇宙に自由落下する重力の魂といったものをおもいついていたのではないかとさえ、当時はおもったものだった。

 本書を読む者を真に驚かせるのは、第4章第4節にいたって突如として「科学の経済」という一節が出現することだろう。
 ここにはのっけから、「あらゆる科学は、事実を思考の中に模写し、予写することによって、経験とおきかわる、つまり経験を節約するという使命をもつ」という、有名なテーゼがあらわれる。模写の原語は“Nachbildung”、予写は“vorbilden”である。
 この一文がもつ意味をマッハ自身は次のように説明した。「事実を思考の中に模写するとき、私達は決して事実をそのまま模写するようなことはなく、私達にとって重要な側面だけを模写する」と。また、「われわれは模写するときには、いつも抽象しているのだ」と。これはのちにマッハが「思考の経済」とよんだ考え方の予告であった。詳しいことは『感覚の分析』や『認識の分析』などの感覚論や認識論を読むことを勧めるが、そこにも述べられたように、このときすでにマッハの考えはゲシュタルト形態学のエッセンスに近接していたのである。

 しかし、マッハはゲシュタルトにとらわれていただけでもなかった。この一節には、もうひとつ「自然は一回しか存在しない」という有名な一刀両断もあらわれる。
 ここではヒューム、カント、ショーペンハウアーを批判的に摂取して、時代を変える思想を準備しつつあるマッハの狙いが、言葉は少ないのだが、よく見える。それが頂点に達するのが、フッサールの『論理学研究』と一戦を交えるところであろう。
 このマッハとフッサールの“知の戦争”を、その後に誰かが本格的に研究したという例をぼくは寡聞にして知らないのだが(広松渉を除いて)、ここには恐るべき暗示が含まれていた。それは「科学がつくった“意味”はどこからあらわれるのか」という問題をめぐる。フッサールの本をとりあげるときに、このことについては一言ふれるつもりである。
 ともかくも、こうしてマッハの教科書『力学』は意外な高揚を見せたところで、大団円を迎える。
 読者に残されたのは、ニュートンの質量定義がおかしいという指摘、絶対時空といった観測の手掛かりがない発想を物理学から排除する姿勢、原因と結果ではなく、そのあいだの関係関数が重要だという予告と、そして「模写と予写の原理」ならびに「フッサール論理学との対決」である。

 ところで、マッハの科学思想はその後、レーニンによってこっぴどく批判された。『唯物論と経験批判論』である。これはぼくも読んでみたが、レーニンとしては最大の誤解であり、最大のお手付きだった。
 このレーニンの批判が祟って、マッハは不当な無視をうけつづける。要素一元論者とか経験至上主義とか、ようするに物質の本当の姿を見ていないという非難だった。かくて『感覚の分析』や『思考の分析』が無視されただけではなく、『力学』や『熱学の原理』すら放置された。日本でも武谷三男や伏見譲らの少数者をのぞいて『力学』はお蔵入りしてしまったのである。
 けれども、マッハはあきらかに力学に関するニュートン以来の革命家であって、アインシュタインの先駆者であり、またゲシュタルト心理学の最大の冒険者であって、科学と思想と経済を初めて結びつけた最初の計画者であった。

 このようなマッハに惹かれてやまなかったぼくは、一念発起、なんとかマッハを蘇らせたくて、「遊」に「マッハ復活」の特集を組んだ。1972年のこと、「遊」2号、執筆者には広松渉さんを選んだ。
 広松さんは、「えっ、雑誌でマッハ特集ですか。それは大胆だ」と笑ったが、快く引き受けてくれた。でも広松さんは付け加えた、「ぼくがマッハ復活の弁を書いたら、かえってマッハ・ファンが遠のくかもしれませんよ」。
 そうなのだろうか、ぼくの若気の至りだったのだろうか。そうではなかったようだ。少なくともぼくはこれをきっかけに、『力学』の翻訳者の伏見譲さんとも出会うことになり、マッハとアインシュタインについて、こんなにおもしろい雑談を今後することはないだろうというほどに、堪能した。
 ただ伏見さんは、「松岡さんの言っていることは、もうマッハではなくて、その次の世界像になっていますよ。マッハにこだわらないほうがいい」とも言っていた。そして、これからは“時間の物理学”をおやりなさいと勧められたのだった。伏見さんが『幅のある時間』を書いているときのこと、ぼくが28歳をおえる冬のことである。

参考¶エルンスト・マッハの邦訳は『感覚の分析』『認識の分析』ともに法政大学出版局。『熱学の諸原理』が講談社。

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