スーザン・J・ネイピア
現代日本のアニメ
中公叢書 2002
ISBN:4120033287
Susun J. Napier
ANIME from Akira to Princess Mononoke 2001
[訳]神田京子
早乙女乱馬と『AKIRA』の鉄雄。
ここには、メタモルフォシス(変身)と
アブジェクシオン(棄却)が跋扈する。
もののけ姫と千と千尋。
ここには、荒ぶる神が猛威をふるい、
森と鉄とが戦いあっている。
いったい日本のアニメは何を語ろうとしてきたのか。
今夜は日米をまたいだ見方を案内してみたい。

本を読んでいるといろいろなことがおこる。遊べる、教えられる、著者の思考を手伝いたくなる、気が抜ける、面倒になる、インスパイアーされる、感服する、アタマにくる、言葉の使い方に触発される、苛々する、挫折する、翻訳に腹が立つ、アイディアが湧く、深く考えこむ、著者との袂別が決まる、もう一度読みたくなる、人に薦めたくなる‥‥いろいろだ。
 その本を読みながら、著者の文章には必ずしも示されていないにもかかわらず、勝手に新たな思想の断片が次々に浮かんで、いつのまにかその本を追い抜いてしまっていることもある。ぼくには、そういう読書が少なくない。町を歩いたり旅をしていると、誰しもそういうことがおこるはずだけれど、ぼくもそのようにして本を旅して読むのだがら、その本から離れて格別な思索をしていることはしょっちゅうなのだ。これを「追い抜き読書」とでも名付けたい。

  
 本書はタイトルそのままで、まさに現代日本のアニメを分析したものである。『AKIRA』『らんま1/2』『妖獣都市』『キューティハニー』の分析から始まって、いったん庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』と押井守の『攻殻機動隊』に至り、ついで宮崎駿の『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』から『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』までを論じ切り、さらに『うる星やつら』『うろつき童子』『電影少女』『おもひでぽろぽろ』などをも縦横に俎上にのせている。
 その手際から論点にいたるまで、多くの論者の視点もとりこんでいながらも、とてもよく論旨を筋立てた。知的な刺激にもけっこう富んでいる。いわゆるオタクのアニメ論ではない。
 著者は高校時代の1年を日本に学び、その後はハーバード大学を出て近代日本文学を修めて、テキサス大やプリンストン大で大江や三島(1022夜)泉鏡花(917夜)倉橋由美子(1040夜)を教えてきた本格的な俊英ジャパノロジストなのだ。いまはテキサス大で日本学を教えている。小松左京や筒井康隆などの日本SFにも詳しいし、月岡芳年の浮世絵のちょっとしたコレクターでもある。 
 つまりは、日本のアニメを論ずるににふさわしい知性と才能と背景に恵まれた著者の本だった。だから、ぼくはこの本に触発されたのだが、いま思い出すと、この本を読んでいたとき、その内容を追い抜いて読んだような気がしていた。
 今夜は、そういう「追い抜き読書」がもたらした感想を、日米にまたがるアニメ観を通して語ってみたい。むろんすべての触発は本書のなかでおこっていたことである。それはご承知いただきたい。取り扱っているアニメ作品は、巻末に付説された『千と千尋の神隠し』をのぞいて、本書が書かれた2001年までのものになる。それもご承知いただきたい。

  
 欧米で初めて日本のポップカルチャーをめぐる学会が開催されたのは、1989年にニューヨークて開かれた大友克洋の『AKIRA』(800夜)の試写会で、みんながみんな度肝を抜かれた直後のことだったらしい。ベス・ベリーとジョン・トリートの主宰である。
 『AKIRA』はすぐにビデオとなり、イギリスではビデオリリースされた翌年から売上トップに躍り出た。アメリカでも『AKIRA』の人気はウナギのぼりではあったが、どちらかといえば玄人や映画制作者たちの技と心を震撼とさせていたほうで、とくに押井守の『攻殻機動隊』にはハリウッドの猛者たちがその出来映えに心底、敬服しきっていた。たとえばクエティン・タランティーノだ。
 日本のマンガやアニメは、日本ではマスカルチャー(大衆文化)に属し、アメリカではサブカルチャー(従属文化)に属する。しかしそのうちの注目すべき日本アニメ作品は、意外にも日本伝統のハイカルチャー(たとえば日本禅・能・武道)を基盤にしたポップカルチャー(たとえば歌舞伎・浮世絵)の甚だしい変容なのである。しかしアメリカで、このように日本のマンガやアニメをあえてハイカルチャーとみなすようになったのは、やっと1999年11月に「タイム」がポケモン特集を組んでからのことなのだ。
 この遅きに失する応対は、アメリカ人がマンガやアニメを「日本のカトゥーン」と捉えすぎていたからだった。つまりディズニーと較べすぎていたのだ。あとでアメリカ人も愕然とすることになるが、日本のアニメは実写映画とまったく同等の価値観によって見なければならないものだったのである。

  
 おおざっぱにいうと、そもそもアメリカ人は、日本の社会文化に対して、ある共通した見方をしてきた。それは、日本人が全般的に現世逃避型のモラルパニックに陥っていて、そこからなかなか脱しきれないのではないかというものだ。とくに1995年のオウム真理教事件で、その本質が露呈したと見えた。
 実際にもオウムに所属する「ベスト・アンド・ブライテスト」(エリート信者)たちは、現世の終末を描いたマンガやアニメのファンばかりだった。こういうことがあったため、オタク現象とともに、日本のサブカルの多くがモラルパニックの産物だと見えたのだ。
 セックスやバイオレンスが子供向けのマンガやアニメに氾濫しているのも、アメリカ人には理解しがたいものだった。ふつうの日本人なら、そんなもの、アメリカの娯楽文化こそがさんざん撒き散らしたではないかと言いたくなるだろうものの、アメリカ側からするとそれはあくまで成熟社会向けのものであって、子供社会とは画然とした一線を引いているつもりなのである。
 ところが日本はそうじゃない。フレデリック・ショットの『ニッポンマンガ論』(184夜)の千夜千冊のときにも紹介したが、成田アキラは「テレクラ専門のセックス魔」で、丸尾末広は「無残絵の悪夢」ばかり、蛭子能収ときたら「本当に常識を知らない」し、石井隆は「女の秘密」しか描こうとしない。ロリコンと少年愛が子供向けのマンガにやたらに溢れているのも、アメリカ人にとっては異常なのである。
 アニメもそうだ。作品としてはよく出来てはいるものの、川尻善昭の『妖獣都市』はサディスティックな拷問がえんえん続くし、柳風臨臨応の『淫獣学園』は地獄からきた強姦魔に支配され、ふくもとかんの『聖獣伝ツインドールズ』には男根信仰にもとづいたようなオカルトとセックスが乱舞する。もっとも、これだってアメリカのスプラッターと変わりないとも言えるのだが、当時はそうは見えなかったのだ。
 しかししばらくたってくると、アメリカも大友や押井や、さらには宮崎駿の作品をよくよく見たせいだろうが、しだいに別の見方をする必要を感じるようになったのだ。「これは、日本の独自の文化なのではないか」「ひょっとすると、われわれはは日本についての見方を変えなくてはいけない」。

  
 映画研究者のスーザン・ポイントンは、「日本のアニメの驚くべきところは、物語がアメリカ人受けになるようにはまったく折衷されていない点である」と書いている。なんだ、アメリカ人はそんなところしか評価しないのかと言いたくなるが、そうなのである。
 では、折衷しないでどのようになっているとかれらが見たかというと、『妖獣都市』『淫獣学園』『聖獣伝ツインドールズ』すら日本の伝統と関係があって、そこには仏画や神道や阿弥陀感覚が活用されているのではないか。そう、みなしたのだ。『淫獣学園』の女は日本の田園風景が好きな民宿好きのくの一で、『聖獣伝』のツインドールズが着ているのは羽衣で、『妖獣都市』は日本のアマテラス的な母性の裏返しなのではないか。そんなふうな解釈を始めたのだ。
 これは当方が面食らう見方かもしれない。けれども、かれらはそのように「ジャパン」を捉えることにした。そして、大友・押井・宮崎の分析に向かったのだった。そして、考えこんだ。「これは未来に対する日本独自のメッセージの表現だ」。
 いやいや、ありがたい見方である。しかしこれもいいかえれば、ハリウッド映画とディズニーアニメに慣れたアメリカ人にとっては、日本のアニメの物語は複雑すぎるか、あまりに形而上学めいていたということなのだった。

  
 少々ふりかえっておいたほうがいいかもしれない。もともと日本では、1963年に手塚治虫による国産初のテレビアニメ『鉄腕アトム』が放映されたときをもって、アニメ元年とした。数年にわたって193話が放映された。3年後、手塚は『ジャングル大帝』全52話を放映することに成功し、こうしてシリアル・アニメ(続きものアニメ)の幕が切って落とされた。
 1977年、松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』がシリアル・アニメから映画として切り出された。このとき、今度はアニメ映画ブーム(劇場版アニメ)が始まった。テレビと映画のタイ・イン(抱き合わせ)でもあった。音楽も当たり、声優にもピカピカのタレントを使うようになった。キャラクター商品も次々にバカ当たりし、フィギュアもこれを追っかけた。ここから「アニメは儲かる」というはっきりした風潮が産業界にも定着しはじめ、1988年には日本の制作スタジオでリリースされた作品のなんと40パーセントをアニメが占めるに至るのである。
 そうしたなか、1984年に宮崎駿の『風の谷のナウシカ』が発表された。少女ナウシカが見せたのは、慈しみや思いやりといった女性的クオリアとともに、同時に科学やメカに精通し、武勇に長けるという男性的クォリティをそなえた両性具有的な魅力であった。しかもナウシカはラストシーンでは自身の生命を投げうって、救世主としての再生をとげる。そこには自己犠牲の美しさが謳われていた。

『風の谷のナウシカ』
両性具有的なナウシカの姿と、奇怪な風景が、
超自然的な存在との関係を暗示させた。

  
 ハリウッド映画では、こんなことはない。どんな困難に遭遇して自己犠牲をいったん強いられたかに見えた主人公も、ついにはインフェルノの向こうに活路を開き、最後はもとのカジュアルな生活に戻っていく。けれども日本のアニメはそうならない。ビデオから誕生したビデオガールというニューヒロインを描いた後藤隆幸と黄瀬和哉の『電影少女』では、途中はたしかにアメリカ人にもよろこばれそうな幾つものファンタジックな話が展開するのだが、最後に少年に恋をしたとたん、ビデオガールは苦しみもがき、凌辱され、ビデオ社会に連れ戻されてしまう。
 これはいったい何だ? これこそ日本人なのか? アメリカはそう思ったのである。ナウシカは世界の破壊が悲しみの源泉で自己犠牲に向かい、鉄雄は新世界の出現のためにこそ自身の爆発が必要だったのか。

  
 アニメ映画の隆盛とちょうど軌を一にして、日本はあっというまにバブル崩壊に向かっていった。その前には手ひどいジャパン・バッシングがおこり、レーガノミックスによるアメリカの再生を見せつけられ、そのうち日本の銀行も企業も組織の延命と海外との競争のためには、なりふりかまわずマージ(企業合同)するしかなくなっていった。
 しかしアニメはそういう日本を黙殺する。かくて1988年には『AKIRA』がセンセーショナルに登場して、「変身」(メタモルフォシス)と「棄却」(アブジェクシォン)を主題に、徹底したアンチヒーローを見せつけることになった。闇の力との戦いもある。ハリウッド映画も権力と管理に挑戦はするが、そのあとは新たな安定と生活が訪れる。けれども『AKIRA』には、凄まじいばかりの狂乱があるばかりなのだ。これにアメリカが度肝を抜かれた。
 1993年の高山秀喜監督の『超神伝説うろつき童子』は、その放浪篇で、超神によって廃墟と化した21世紀都市を描き、そのなかで生き延びようとする武獣と念力少女ヒミの宿命を映し出した。そこでは子供たちが武獣とヒミを拷問し、凌辱し、制裁をうける。そこであきらかになってくるのは、大人の成熟社会は子供の未熟社会の支配のもとにあるということなのである。

『AKIRA』
驚異的な超能力と自身の幼さのために、
大人と子供の間を彷徨う鉄雄(上)
政府の超能力の実験のために、
幼い姿のまま異常に老化した老童(下)

  
 どうやら日本のアニメ映画は単調な成長を、決して許さなかったのだ。ネオテニーなのである(209夜1072夜)。幼形成熟でよかったのだ。おためごかしの低成長経済も、新自由主義による福祉政策も、金融工学を張りめぐらしたグローバリズムとのめでたい協調も、アニメにとってはまったくどうでもよかったのだ(ただ、興業側だけはそれで儲かればよかった)。
 こうしてついに、1995年には押井守の『攻殻機動隊』が日本流サイバーパンクの乾坤一擲を放ち、同じ年のテレビ東京からは庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』が放映されはじめ、きわめて日本的な精神分析的ミッションが問われることになったのである。

  
 押井の『攻殻機動隊』は、しばしばリドリー・スコットの『ブレードランナー』とくらべられる。たしかに酸性雨の降りしきる未来都市の異次元めいた雑踏感や、デッカード刑事がレプリカントたちを捜し出して抹殺するという筋書きや、ともにサイボーグ的人形性を前面に出しているところなどは、似ていなくもない。
 しかし、『攻殻機動隊』の草薙素子は人形遣いを追跡しながらもその一方で、自分自身のゴーストを探求するのであり、デッカード刑事が結局はプライベートな現世自己に戻るのに対して、『攻殻機動隊』の主題はあくまでも「自己からの離脱」なのである。しかもその離脱の先は、ハリウッドが建前としての技術批判ばかりに走るのに対して、押井は「技術との融合」をさえ待ちかまえさせていた。

『攻殻機動隊』
サイボーグとしての草薙素子(右)は
自身の存在を成立たらしめる「ゴースト」の謎を探求する。

  
 このような発想はアメリカにはない。少なくともアニメにはない。やはりここには「ジャパン」があるとしか思えない。ジャパノロジストたちは考えこんだ。それだけではなかった。2年後の1997年、スタジオジブリが総力を挙げた宮崎駿の『もののけ姫』が全国的な大ヒットになると、その影響がもろに海外にも波及していった。
 物語は難解だ。ぼくは日本の観客の多くも、ほとんど正確な理解はできなかったのではないかと思っている。かつて学生をふくむ何人もの連中にストーリーを訊いたことがあるのだが、大半がストーリーをおぼえていなかったか、ただ混乱しているだけだった。それも見終わってすぐのことだ。そういう難解な物語なのに、日本中の観客が見た。いったい日本人は何を考えているのか。日本アニメはどこへ向かっているのか。かくて日米のアニメ事態の解釈の差異は決定的になっていく。

  
 『もののけ姫』の舞台は14世紀である。物語は一匹の巨大なイノシシが森の木々をなぎ倒していくところから始まる。イノシシにはタタリ神という凶暴な神が憑いている。凶暴なのはイノシシに鉄の弾丸が打ちこまれていたからだった。
 暴れまくるイノシシはついにエミシという部族集団を襲う。これを仕留めたのがこの集団の若きリーダーのアシタカである。しかしイノシシは今際(いまわ)のきわにアシタカに呪いをかけた。そのためアシタカの右腕には呪いの痕跡が刻印された。スティグマ(聖痕)だ。呪いを解くにはどうするか。アシタカは旅に出る。
 二つの象徴的なトポスに出会った。ひとつは大鹿のようなシシ神が司る森である。ひとつはエボシ御前が治める鉄火器製作のためのタタラ場だった。森には山犬モロに育てられた「もののけ姫」サンがいた。サンは森に生きて、自然の怨霊に憑かれていた。それゆえ人間を憎むサンは、エボシがタタラ場によって人間文明を強化しようとしているとみなす。一方、エボシはのけ者扱いの女や業病を負った連中をかかえ、理想郷づくりをめざしている。
 森とタタラ場は、14世紀の日本のメイン・トポスではない。実際の日本社会は天皇家と貴族と武家軍団が中央を争っていて、網野善彦(87夜)らがあきらかにしたように、そこにいよいよ山の民や海の民たちが新たなネットワークをつくりつつあったという情況だ。それにくらべれば、森は縄文以来のトポスであって、のちに宮崎自身や小松和彦(843夜)が指摘したように、中尾佐助が熱心に説いた古代照葉樹林帯の原郷を引きずっている。もし、そういう言い方でよいのなら、森は原日本人の魂の原郷なのだ。
 宮崎が長らく藤森栄一に敬意をはらっていたことも思い出したほうがいいだろう。藤森は信州にいて銅鐸や鉄鐸の研究をしつづけていた考古学者である。ぼくも何度かお目にかかった(いずれ千夜千冊したい)。その藤森は「日本は森だ」と言い続けていた。もとより南方熊楠の思想でもある。
 タタラ場のほうは、鉄を溶鉱して武器や農機具をつくる技術のトポスである。だから、こちらは14世紀であっても、どこかで文明の進歩と直結する。まだ鉄砲づくりなどはしていないが(映画はそこをずらしているが)、その技術において国家とも民衆とも商工業とも結びつく。
 しかし、宮崎が用意した物語は森とタタラ場の宿命的対立を描くのである。サンは2匹の山犬とともにタタラ場を縦横無尽に襲い、タタラ場のエボシも退却はしない。彼女は病者や敗北者たちを庇護しつつ、森の破壊を思念して譲らない。ここではフラジャイルな者たちが森に制圧されるという捩れた現象がおこっていく。

『もののけ姫』
タタラ場のリーダーであるエボシ(右)と
自然と結びついた娘、サン(左)の衝突シーン。

  
 こうして、中央から派遣された武士や僧侶たちとエボシの一団が組んで、森のすべての生きものたちとの戦闘が激しく展開する。
 エボシたちはついにシシ神の頭部を奪い、勝利をおさめかけたに見えるのだが、その瞬間に、森の全体の崩壊が始まるのである。大地は茶色になり、ばりばりと裂け、森の精霊たちは次々に萎えていく。巨大なシシ神は奪われた頭部を捜そうとむなしくうごめく。エボシがシシ神の頭部を取ったのは、これを天皇に献上するためだった。中央からの使者にエボシはそれを約束し、かわりにタタラ場の安定を約束させる。
 ところが物語はここでふたたび急展開し、サンとアシタカが協力してシシ神の頭部を奪い返すというふうになって、シシ神にひそんでいた原初的な象徴の蘇生をもたらすことになる。森は緑を回復し、世界はみるみるよみがえっていく。
 が、これでよかったのか。アシタカは万事が納得できずにタタラ場にとどまることを決意する。サンを誘ってみたが、サンにはそんなことは許せない。サンは人間を許すことはできないと言い張った。
 かくて映画はアシタカが「会いにいくよ」と言って終わるのだが、さて、日本人はどうしてこんなに難解で複雑なアニメ映画を家族そろって見に行ったのか。アメリカ側には、いまひとつ理解ができないということになる。

  
 アニメ評論家のヘレン・マッカーシーの解釈は、こうだ。『もののけ姫』はさまざまな愛を描き、そしてさまざまな愛に付随する喪失を描いたのだ、と。まあ、そうだろう。宣伝文句もそうなっている。糸井重里のコピーも「生きろ!」だった。
 が、そこまではこのアニメを見に行くためのロジックなのである。見終わった者たちが語っていく解釈にはなりえていない。少なくとも日本アニメの真髄の解釈にしはなりえない。愛の多様性とその喪失など、ハリウッドもフランス映画も韓国映画も、どんな映画もテーマにしてきたものなのだ。
 さあこうなると、アメリカ側の解釈は日本アニメに「ジャパン」の、そのハイカルチャーの根拠を発見したくなる。なぜ宮崎は14世紀の日本に森とタタラ場の対決を描こうとしたのか、なぜ精霊の力を描いたのか。アシタカもサンも苦悩したのは、なぜなのか。
 本書の論点も、だいたいは以上の認識から先のことを議論しようとした。ただ著者はそこで、たとえば『攻殻機動隊』には神道と仏教があり、草薙素子が人形遣いと結ばれるのはアマテラスの幻影を暗示するのであって、そのテーマ音楽には祝詞(のりと)からのインスピレーションと涅槃のイメージが付与されているだろうというような、そういう推測をせざるをえなくなってしまうのだ。
 気持ちはわかる。けれども、はたしてそういう推測でよろしいのか。それでもスーザン・ネイピアは突進するのである。そして、注目すべき日本アニメのモダリティはまとめれば、「終末モード」「祝祭モード」「挽歌モード」の3つに大別できると考えたのだ。

  
 ネイピアがあげた終末・祝祭・挽歌とは、原著の英語では「アポカリプス、フェスティバル、エレジー」である。当たっていなくはない。エレジーというのは、押井守の『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』(1984)、高畑勲の『火垂るの墓』(1988)や『おもひでぽろぽろ』(1991)、森本晃司の『彼女の想いで』(1995)などを想定している。

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(上)
『おもひでぽろぽろ』(下)

 が、「アポカリプス、フェスティバル、エレジー」はいかにもアメリカ的だ。アポカリプスではコッポラの『地獄の黙示録』になっていく。日本にもベトナム戦争を扱った作品なら吉田秋生の『バナナ・フィッシュ』という傑作マンガなどがあるけれど、それはアポカリプスではない。
 だからそういう英語を使うなら、たとえば「ディストピア、カーニバル、ノスタルジー」などと名付けたほうが英語的日本の実情に合う。そんなふうにも思う。さらに勝手なことをいえば、日本の注目アニメのほとんどはその大半が「ゾーンもの」で、そこに「インターセクションもの」と「ファンタジーもの」と「ナンセンスもの」が競いあい、結局はそれらの混合が日本アニメの全容に流れ出していると思っていいのではあるまいか。
 日本のアニメにおいて、とりわけディストピア性とゾーン性が格別な意味をもってきたことは強調しておいていいことだろう。実は、すでに『ゴジラ』がそうだったのだ。また『大魔神』がそうだったのだ。
 これは日本が世界で唯一の被爆国であること、つまりはつい先だって国土を破壊されたばかりだという、生々しい喪失記憶を引きずっているせいでもあった。だから、『ゴジラ』や『大魔神』までは、言ってみれば、そうした近過去の破壊や喪失に対する制作者や表現者たちの逆襲だったのである。

『AKIRA』
終末的な冒頭の光のシーン

 ところが、日本列島は再生し、新幹線は走り、経済は高度成長して自動車が溢れ、消費文化はアメリカを真似したそっくりさんになっていった。ぼくはとくに、「女性自身」などの女性週刊誌の表紙がのきなみ金髪のアメリカ人ばかりを登場させていることに、どうにも理解しがたいものを感じていたものだ。つまりはゴジラでは日本の近過去も近未来も描ききれないことになったのだ。日本人は、そこでいったんディストピアを捨てて、金髪でポップで、コカコーラでハンバーグな安易に変身できるアメリカン・ユートピアの使い手に転向してしまったのだ。
 しかし、この転向はみかけほど愉快なものではなかった。あまりに急激な変調と歪みは、バブル崩壊がその最もわかりやすい例ではあるが、すでに70年代後半から80年代にかけて、さまざまなかたちで吹き出していた。

  
 こうしてどうなったかというと、マンガやアニメやゲームが、そしてアキハバラが、これらの変調と歪みを引き取っていったのである。それだけではなかった。
 高度成長とその停止とアメリカ偏重の日々のなか、ここに新たな鋭い表現者たちが輩出して、独自のスタイルとテイストを、つまりは独自の「趣向」と「崇高」を問い始めたのだ。その方針を一言でいうことはできないが、あえていうのなら、ひとつには日本の近未来に対してディストピア性を付与し、そのトポスはあくまで海外や宇宙ではなくて日本列島のどこかのゾーン性に依拠するのだという発想をもたらし、もうひとつには、そこに異様なほどのナンセンス性を加えることになったのだ。これが『美少女戦士セーラームーン』と『もののけ姫』の両方がともに迎えられる日本のポップカルチャー(ハイカルチャー?)というものになったのである。
 もちろん、すでにそのようになるかもしれないというアウトノミアな系譜は準備されていた。それは文学では安部公房(534夜)、大江健三郎、村上龍、島田雅彦、村上春樹などの「近傍の崩壊」と「世界の終わりの光景」を歌う作品にあらわれ、映画では今村昌平『ええじゃないか』、森田芳光『家族ゲーム』、伊丹十三『タンポポ』、若松孝二の『寝取られ宗介』などの、アーナーキー・ナンセンスな作品にあらわれていた。これらはミハイル・バフチンやノースロップ・フライが注目したカーニバル色が濃い「メニッポス・ジャンル」でもあった。

  
 では、以上のように見れば日本の注目アニメの特色があらかた説明できるかというと、そうは問屋が下ろさない。まだまだいくつもの説明が必要だ。
 今夜はそこまで踏みこむつもりはないが、たとえばそのひとつに、日本の注目アニメには「ステートレス」(無国籍)という著しい特徴があることを指摘すべきなのだろう。
 これは海外から見るとエキゾチックに見えるか、上野俊哉のいうテクノオリエンタリズムに見える。またジャパン・クールにも見える。押井はもっと踏みこんで、「日本人にとっては、アニメだったらなんでも異世界なのだ」と言ってのけたものだった。

『攻殻機動隊』
攻殻機動隊で描かれた都市は、
国籍を持たない新しいタイプの
ハイブリッド空間を創造した。

 日本人には一方に“兎追いしふるさと”の「原郷」があって、他方には縄文の森やタタラ場のような「異世界」がある。島田雅彦は多摩川べり郊外住宅に育ち、向こう側に横浜ドリームランドという異様な明るい世界があることを見て育ったのだが、それもまた「異世界」なのだ。それは滝田ゆうの「抜けられません」であり、つげ義春(921夜)のネジ式で、また新宿ゴールデン街なのだ。つまりは荒木経惟(1105夜)の、あの写真なのだ。
 ここには「原郷」と「異世界」の歪んだ関係こそが昨今の日本なのであるという判断がある。斎藤環ふうにいえば「解離」がある(1248夜)。しかしこの歪曲や解離はアタマで判断しているだけではカタチにはならない。それを言葉や映像に表現してみるしかない。そして、それをしてみると、それをすればするほど、この二つの歪曲的解離的関係が同時にあらわされるという必要になってくるのだった。「原郷」と「異世界」とを。これを決定的に描けたのがアニメ演出家たちだったのである。
 歪曲と解離はそれをちょっと未来にもっていけばネクストTOKYOのディストピアになった。それを近傍のゾーンにもってくれば、『うる星やつら』のラムちゃんの学園や『めぞん一刻』の下宿なのである。問題はそのゾーンをどこまで細部にわたって描き抜くかということだ。都市かキッチンかの二択ではない。この細部の手法において、文学は一歩立ち遅れた。

  
 いま、日本社会はますますジグムント・バウマン(1237夜)のいう「リキッド・ソサエティ」(液状化する社会)に向かっている。そのことと、今夜とりあげた本書の注目したアニメ作品が根底で表現しようとしていることとは、必ずしも重ならない。
 日本アニメは現実の液状化よりずっと早く境界線の侵犯をおこし、さらにそのうえで“日本という方法”を「ジャパン」の描き方に(最近は「J」という言葉のほうが出始めているが)、仕立てあげていったからだ。それらは、ステートレス(無国籍)のように見えていて、やはり日本なのである。
 が、今夜は、とりあえずここまでにしておこう。いずれにせよ、本書は日本アニメ論としては、アメリカからの見方の動揺と努力と変遷をもたらしていて、いろいろ参考になった。ぼくは今夜は本書を「追い抜き読書」のサンプルにしてしまったが、他意はない。また、本書にはここにとりあげたもの以外の作品についての言及も多々あって、そこには日本人は『源氏物語』(1569夜)の時代も浮世絵の枕絵でもまったくハダカに関心がなかったのに、なぜハダカを表現したがるメディア的国民性をもったのかといったコメントも随所に挟まれている。関心のある読者は覗かれたい。
 日本側のアニメ論については、まったくふれられなかった。すでに東浩紀が『郵便的不安たち』(朝日文庫)に「庵野秀明はいかにして80年代アニメを終わらせたか」を書いているほか、以前からの上野俊哉や大塚英志の議論から北野太乙の『ニホンアニメ史学研究序説』(八幡書店)にいたるまで、当然ながら日本側の反応もそうとうに出ている。なかで上野の『紅のメタルスーツ』(紀伊国屋書店)はお勧めだ。また、小谷真理(783夜)の『聖母エヴァンゲリオン』(マガジンハウス)のようなアブェクシォンを背景としたぶっとんだものもあるし、セカイ系の切通理作の『宮崎駿の世界』(ちくま新書)もある。また、そのうちとりあげてみたい。その一部については明日の「連塾」(OAGホール)で、押井守本人と話してみることになるかもしれない。
 最後に、著者が『千と千尋の神隠し』を論じたうえで、宮崎駿の言葉で最も印象深いものとして示している一節を紹介しておく。それは、こういうものだ。「ボーダーレスの時代、よって立つ場所をもたない人間は最も軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史なのである。歴史をもたない人間や過去を忘れた民族は、カゲロウのように消えるか、ニワトリになって食らわれるまで、卵を生みつづけるしかないだろう」。

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