ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン
論理哲学論考
法政大学出版局 1968
Ludwig Wittgenstein
Tractatus Logico-Philosophicus 1922
[訳]藤本隆志・坂井秀寿

 誰だってケリをつけたくなるときがある。青春にケリをつけ、仕事にケリをつけ、腐れ縁にケリをつけ、自分の悪い癖にケリをつけたくなる。そうですね。
 ケリって何だろう? 蹴りを入れること? ケリという大工道具か何かのこと? このケリはね、和歌や俳句で「昔はものを思はざりけり」とか「明治は遠くなりにけり」いうときの、あのケリのことで、「来・あり」から転じた助動詞である。和歌や俳句では「けり」で終わることが多いので、「ケリを付ける」といえば、物事や事態のひとつの結末がつくことを意味した。幕末明治以降に流行してきた言葉づかいだった。
 ケリの字義はそういうことなのだが、しかしどうすればケリがつけられるかというと、これが難しい。ケリをつけたつもりが、焼けぼっくいに火がついて、困ることがある。みんな経験していることだろう。けれどもともかくも、われわれは何事であれ、ときどきケリをつけたくなっている。

 では、思想にケリをつけたり哲学にケリをつけるということも可能なのだろうか。
 もちろん、できる。それでケリがついたかどうかは別にして、論理や哲学や数学にケリをつけたくなったって、かまわない。実のところは、ヴィトゲンシュタインはそれまで自分が学んできた論理や哲学の煩(うるさ)い言い分や言い方に、ケリをつけたくなったのだった(本書表記にしたがってィトゲンシュタインと濁点を打つが、最近はィトゲンシュタインと濁らず綴るようになっている)。
 たとえば誰かが「世界はわれわれの知覚や解釈によってどのようにも見える」とか「論理は知識の中の骨格を取り出した文法のことである」などと知たり顔で言っていることについて、「いいかげんにしなさい。そうじゃなくて、世界は自分で世界をつくっている・けり」とか、「論理は自分で自分の世話をするしかない・けり」とかと、ケリを付けたくなったのだ。文章や表現の終わりに、ケリをつけて、それを引っ繰り返したくなったのだ。
 ただし、ケリをどこで付けるかというその付け方に、ケリなりの順序と構造を考えた。ひょっとしたら「ケリだけの論理」というものがあるのではないか、と考えた。それが『論理哲学論考』なのである。

 どうですか。ケリってたいそうなものでしょう。ヴィトゲンシュタインはケリの論理学を作りたかったのだ。
 ところが、だ。のちのちになって、ヴィトゲンシュタイン自身が「あれはちょっと間違いだった」と言いだしたのである。それがなんとも15年も30年もたってのちのことだった。
 何が間違ったと言っているのかはあとで説明するが、ともかくそう言って新たに書き上げたのが『哲学探求』という本だった。これは意外なことだよね。ふつうの学者は自分の間違いなどたいていごまかして、なんとなく意見を補填しながら何食わぬ顔で世スギ身スギをするのだが、ヴィトゲンシュタインは何食わぬ顔が一番嫌いなので、そこに大胆自己介入した。
 そこで、研究者たちは『論理哲学論考』に代表される前期のヴィトゲンシュタインと、『哲学探求』に代表される後期のヴィトゲンシュタインを分けて考えるようになった。これはヴィトゲンシュタイン研究書や解説書にやかましいほどよく出てくる区分なので、とりあえず前提にしておく。
 それにしても、いったいなぜヴィトゲンシュタインは“転換”したのだろうか。いや、その前に『論理哲学論考』はどんな仕事にどんなケリを付けようとしたのか。

 ここで、「カタルトシメス」という言葉を紹介しよう。ギリシア語かラテン語かヘブライ語のように見えるかもしれないが、そうではない。これは「語る」と「示す」をつなげて一つの続き言葉にしたものだ。だからカタルトシメス。
 こんな言い方はヴィトゲンシュタインにもないし、世の中にもないのだが、これからの話の説明のために、ぼくが諸君のための夏休みプレゼントとして用意した。しかしこのプレゼントは強力だ。なぜなら『論理哲学論考』が言っていることは、このカタルトシメスなのである。

 ヴィトゲンシュタインは、最初にこう書いた。「成立している事態の全体が世界である」「対象の配列が事態を構成する」。
 わかりますか。ちょっと難しいかもしれないが、ここが大前提になっている。ヴィトゲンシュタインは「世界」については、その世界を構成しているモノ(コト)以外のモノ(コト)で世界を語れるわけはない、と考えたのである。
 ここで「モノ・コト」と言っているのは、言い換えが可能だ。ひとつは「言葉」と言い換えられる。世界は世界を構成するモノやコトを指し示す言葉によってしか語れない、そう言っているわけだ。そうだよね。もうひとつは「目盛」とも言い換えてよい。世界を語るとは、それを構成するモノ・コトに接している目盛で語ることなのだ。そう考えるべきだというわけだ。科学がそれをやっている。科学というのはモノ・コト・セカイの目盛を探す学問だからね。
 ちなみに、このように、最初に「世界」についての語り方を問題にする仕方をポンと投げかけておく方法を、「存在論的なアプローチ」というふうに言う。世界の在り方を措定しておいて、その世界に属する問題に言及するという方法だ。自分というものは必ず世界に属しているわけだから、もしこの方法でうまく論理を進めていければ、あわよくば世界と自分が接しあっている最もナイーブな“内接の関係”が示せるかもしれないというメリットがある。
 ここまでは大前提で、ヴィトゲンシュタインのケリの説明にはまだ入っていない。しかしこれによって、世界と存在するものの関係や、世界と言語の関係などが透明に向き合っているという見方を提示することができている。ついでにいうと、こういう世界と存在の関係から入るアプローチは、ニーチェやハイデガー、またホワイトヘッドやガダマーも採用したもので、これらをひっくるめて「存在学」(オントロジー)ともよばれている。

 次にヴィトゲンシュタインは、「語りうることは明瞭に語られうるが、言いえないことについては沈黙せねばならない」、「示すことができるものは、語るわけにはいかない」と書いた。
 なんだ、当たり前のことを書いているじゃないかと思うかもしれないが、ここからが大事な問題になってくる。なんといってもカタル(語る)とシメス(示す)が出てきた。
 カタルは言葉で語ることをいう。だから「語りうることは明瞭に語られうる」というのは、ちょっとでもそのモノ・コト・セカイについてカタルができるのなら、とことんカタル言葉をふやせるという意味になる。ということは、どんなカタルの断片にもそこには必ず同義性のような要素がいっぱい潜んでいて、いったんカタルを始めると、その潜在的な同義性が次々にあらわれてきて、カタルだけの関係を出尽くさせることができるだろうというのである。
 この“カタル型同義的関係”をちゃんと整理したものが、そう、「論理」というものだ。
 この論理というのは、何を何によって語りうるかということをいろいろ集めて、その関係を徹底的に整理していったものだ。ということは、本当の論理をつきつめて作ろうとすると、それは広い意味でのトートロジー(同義領域的表現)になる。そうなりかねない。これは、わかるよね。トートロジーは、日本ではよく同義反復って訳されているけれど、もっと大きな関係を含むものなんだね。それゆえヴィトゲンシュタインはときどき、論理学はトートロジーをあきらかにするための学問だと言っていた。

 一方、「言いえないことについては沈黙せねばならない」というのは、いま述べたことを別の視点でさらに強調したもので、カタルによって構成されていないモノ・コト・世界を、あたかも語りうるかのようにカタルのはやめなさいと言っている、と思えばよい。カタルに不純物を交ぜるなと言っているんだね。
 では、ヴィトゲンシュタインはなぜわざわざそんな当然のようなことを書くのだろうか。
 あとで説明するけれど、ヴィトゲンシュタインは論理学を学んできた人だ。先輩にはフレーゲとかラッセルのような人がいた。才能溢れる論理学者たちなのだが、かれらの書いていることや言っていることに、ヴィトゲンシュタインはなかなか満足できなかった。しかしそれは、かれらの問題というより、そもそも論理を支えている何かの方法に問題があったと気がついた。
 それがカタルトシメスの問題、つまりカタルとシメスの相違にまつわっていたわけだ。
 ちょっとややこしくなってきたが、いいですか。つまり、ヴィトゲンシュタインは「カタル方法」という方法を確立するには、カタルとシメスがごっちゃになっているところを切断しなければならないと考えたわけだ。それには、シメスにも「論理」や「言葉」ではあらわせないそれなりの独得の「シメス方法」とでもいうべきがあるのだろうと考えた。このシメスをヴィトゲンシュタインはまとめて「像」とか「映像」とかとよんだ。つまり、イメージだ。
 こうして、「示すことができるものは、語るわけにはいかない」というフレーズが出てきたんだね。

 これでだいたい見当がつくと思うが、ヴィトゲンシュタインは人間の考え方や見方や感じ方には、カタル方法とシメス方法の二つがあることに気がついて、それらが論理学という厳密だと思われてきた学問のなかでごっちゃになっていることに、なんとかケリを付けたかったんだねえ。おもしろいね。
 しかし、話はこれでは終わらない。では、カタル方法をつきつめるとどうなるか。新しい論理学がそこから出てくる可能性があるかもしれないという問題がある。また、ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』ではそんなに作業をしていないのだけれど、シメス方法っていったい何だという問題がある。われわれはイメージをどのように動かしているのかという問題だ。
 こういう問題があるのだが、ところがここからヴィトゲンシュタインは、たいへん変わったやりかたで以上の問題に一挙にケリをつけようとした。それを説明するのはなかなか難しいのだけれど、カタル方法とシメス方法を分けないで、まとめて「カタルトシメス」という方法があるのではないかと言い出した、そう見るといいのではないかと思う。
 ヴィトゲンシュタインはこう考えたのだ。

 実はもともとカタルとシメスは一緒のもので、それが何かの理由か何かの原因で分断されて、カタルとシメスに分かれていったのではないか。
 そうだとすると、カタルトシメスという原方法が自分で自分の何かの限界を知って、その限界に応じてカタルとシメスが必要に応じて別かれ分かれになったということなのではあるまいか。そう、考えたのだ(いや、そう考えたにちがいないと松岡正剛は見抜いたのだ)。
 これはどういうことに気が付いたのかというと、「限界」ということからモノ・コト・セカイに切りこむという方法があるということなのである。いいですか。

 ふつうわれわれは、最初っから限界など気がつかないもので、いろいろ試したり表したりしていくうちに、モノ・コト・セカイのあらわしかたには限界があることがわかってくる。それで自分の努力をさておいて、いやー、もう限界ですなどと言う。
 けれども、これはおかしい。限界というのは、最初から対象としてのモノ・コト・セカイに潜んでいるのではないか。そして、いったん限界がわかると、その限界そのものを方法にするということが可能になってくるのではないか。
 たとえば庭を作ろうとかレストランを作ろうとすると、いろいろやりたいけれど、面積とか水まわりとか、人の動線に限界があることがわかる。そこで、いろいろプランをいじくりまわすのだが、そのうち、それらの限界を生かした方法で庭やレストランを作ればいいんだということにハタと気がつく
 こうして借景が生まれ、回遊式が工夫され、キッチンカウンターに客を並ばせるという方法ができてきたわけだ。
 つまり限界というのは、実は、方法の母体だということだ。わかるよね。ということは、いささか高級な表現になるけれど、「母体カタルトシメス」(なんだか怪物みたいだね)は、自らその限界を外側に持ち出した“方法の母”ということになる。そう、なりますね。これって、凄い説明だねえ。

 ヴィトゲンシュタインがこんなことに気が付いたのは、言語の性質というものにとても深い関心をもてたからだった。これは当時の論理学者としては特異な才能だった。
 そしてさらに、こんなことに気がついた。「わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する」ということに――。
 これは凄い。ホントーにすばらしい。ぼくがヴィトゲンシュタインを最初に読んだとき、ここにさしかかってガーンと脳天に鶴嘴を打ちこまれ、クラクラッとしたものだ。そうなのだ、言語の限界が思考の限界なのである。そうだ、そうだ、なぜそんなことに気づけなかったのだろうか。ええっい、バカ、バカ、バカの壁。当時、そんなふうに感動とともに、思ったものだった。
 けれども、ちょっと待てよ。ちょっと待ちなさい。言語の限界が思考の限界だということは、言語は自分の限界を自分で知るような場面をもっているということなのだろうか。そういう特異点でもあるのだろうか。それとも、言語がある程度に同義的に消費されていくと、そこで思考が追いつかなくなるか、あるいは思考のほうに限界ストップ装置のようなものがあって、それが光りだしたり、アラームを出すのだろうか。
 うん? これは困ったことである。言語と思考の両方の臨界値を同時に探しださなくては、この限界はどうもあきらかにはなってはこない。では、どう考えればいいのだろうか。ヴィトゲンシュタインも、ここで躓いた。それで蛮勇をふるって当時はどうケリをつけたかというと、「世界は私のところでぼけている」、あるいは「世界はそもそもぼけたヘリをもっている」と考えた。
 ぼくなら、ここで妥協して、これでもいいんじゃないか。このケリの付け方はかっこいいと思ってしまうところなのだが、ヴィトゲンシュタインはそうではなかったんだ。ずっとあとになって、別のケリの付け方を思いついたのだ。そしてここからが、後ヴィこと、いわゆる後期ヴィトゲンシュタインになっていく。

 ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』のあらかたの草稿を仕上げたのは1918年の29歳のときだった。天才・鬼才と聞いていたのに案外遅いんだと思うかもしれないが、これには事情がある。
 そこでこのへんで、ヴィトゲンシュタインの人間としての生き方や考え方を見ておこう。きっとびっくりすることだらけだと思う。こういう人だった。

 ヴィトゲンシュタインは1889年にウィーンで生まれ育った。世紀末のウィーンがどれほどすばらしいところかは、いくら褒めても誉めたりない。
 詳細ははぶくけれどヴィトゲンシュタインがこの世紀末ウィーンにいたということが、まず象徴的である。建築家アドルフ・ロースなどにも参っている。この時期、とくにショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』に感動極まったようだ。
 13歳のとき、兄のハンスが自殺した。それもキューバに行って自殺した。15歳になると、今度は別の兄ルーディがベルリンで自殺した。考えてもみなさい。自分の兄弟姉妹が一人自殺したってショックは大きいが、思春期に二人の兄が自殺したのだ。ヴィトゲンシュタインはこのことについてほとんど触れてはいないものの、このあとのことを見れば、何を感じていたかは、すぐわかる。

 17歳、ベルリンの工科大学に入って機械工学を学んだ。凧揚げや飛行機が好きだったようだ。19歳には上層気象観測所にもぐりこんで、凧揚げと航空工学の実験に夢中になっている。
 この熱中はそうとうのものだったようで、秋にはイギリスに飛んでマンチェスター大学に入り、航空機エンジンの開発やプロペラ設計に取り組んだ。当然、数学にも関心が出てきたところへ、ここにとんでもない才能の持ち主が次々に出現した。
 1人はゴットロープ・フレーゲだ。数学教授で、戦術と論理学をつなげた。『概念記法』という画期的な書物があって、ぼくも『知の編集工学』でベタ褒めしている。ぼくに述語の論理について目を開かせてくれたのが、フレーゲである。もう一人が西田幾多郎。ヴィトゲンシュタインはそのフレーゲの『算術の基本法則』の英訳を試みた。
 2人目はフランク・ラムゼイで、のちにケンブリッジ大学の数学教授になった。ヴィトゲンシュタインより少し若くて、二人はずいぶん議論を闘わせた。ぼくは「ラムゼイ文」とよばれるモードに惹かれたことがあって、それ以降しばらく「セイゴオ文」の開発にとりくんだものだ。ラムゼイは天才肌だったが、26歳で夭折した。
 そして3人目がバートランド・ラッセルだ。すでにホワイトヘッドとともに『プリンキア・マテマティカ』を書いていた。そのころから哲学界・論理学界の大立者だ。22歳のヴィトゲンシュタインはフレーゲに勧められて、マンチェスター大に籍をおいたままケンブリッジのラッセルの研究室に出入りするようになった。ここでブルームズベイリーのホモ達、たとえばケインズなどとの交流がある。

 さて、この3人がヴィトゲンシュタインの鬼才に舌を巻いたのである。その雰囲気はいまではほとんどあきらかになっているのだが、ともかくも自信過剰というほどのもので、みんなが感心しながらも手を焼いたといったほうがいいだろう。
 とくにラッセルに自分の考え方を滔々としゃべったというケンブリッジの光景は、いまでは「論理についてのノート」として読めるようになっている。そこには「哲学には演繹はない」「哲学は実在については何も言ってはいない」というようなことが発露されていた。ラッセル先生、驚いたろうね。
 しかもこの24歳のとき、ヴィトゲンシュタインは父の死によって莫大な財産を相続してしまった。この金額はさすがに使いきれないものらしく、のちにオーストリアの芸術家たちのための基金にその一部分をあてている。その恩恵にあずかったのがリルケたちである。

 大学を出たヴィトゲンシュタインは、まったく大学に興味を示さない。せっせとノルウェーに旅行したりして、自分の思索をまとめることだけを考えている。そのときに概要がまとまったのが『論理哲学論考』(以下『論考』)なのだ。ただし、このときはまだ草稿のようなもので、精査はしていなかった。
 そこへ第一次世界大戦が勃発した。25歳のヴィトゲンシュタインは待ってましたとばかりに義勇兵になる。このあたりが男っぽいねえ。それから大戦が終わる29歳までのあいだ、ヴィトゲンシュタインは戦役を転々としながら、ひたすら軍務と思索に耽ってばかりいる。たまにウィーンに戻れたときはたいていアドルフ・ロースに会って建築論を交わした。
 戦争が終わったときは、イタリア軍の捕虜だった。そのころちょうど完成した『論考』を、ヴィトゲンシュタインはフレーゲとラッセルに送っている。

 捕虜から解放されたヴィトゲンシュタインがさっそくやったことは、『論考』を出版することだった。ラッセルが推薦文を書いてくれたのだが、うまくいかない。
 あまりに奇矯なスタイルだったからだ。なにしろ番号付の短文だけが並んでいるものなんて、哲学にも論理学にも数学にもなかったのだ。それに、出版社には何を書いているのか、さっぱりわからない。
 幾つか目の出版社は、ラッセル先生の序文をつけてなら刊行できると言ったので、渋々ラッセルの序文を待った。ところがヴィトゲンシュタインはこの序文と一緒に印刷されるのは困るといって拒絶した。いまわれわれが『論考』で読める、あの序文のことだ。
 こんなことがさんざんあって、やっと『論考』が出たのは1922年のこと、33歳になっていた。すでに論理学に情熱を失っていたヴィトゲンシュタインは、小中学校の教員の資格をとって、小学校の臨時教員になっていた。まったくおかしな男だね。
 このあとも情熱を燃やすのは子供の教育のことばかりで、35歳には辞書を作ったりしている。小学生用の辞書だ。けれども子供にはいつも腹をたてていて、急に殴ったりもしている。おかげでこれが事件になって、学校をやめた。それでもいっこうに平気なようで、今度は住宅建築の設計に没頭したり、少女像を一心不乱に彫刻したりする。おかしいですねえ。いいですねえ。
 こうして40歳のヴィトゲンシュタインがしたことは、なんとトリニティ・カレッジの大学院に入学したことなのだ。そこでラッセルの口述試験などを受けている。大金持ちなのに、奨学金ももらっている。人を食っているというか、遠大な目標にひたひたと迫っているというか。
で、ここからが『哲学探求』の時代、『青色本』『茶色本』、そして『数学の基礎』執筆の時代に入っていくんだね。つまり後ヴィの時代。ただしそこでも、フレイザーの『金枝篇』に夢中になったり、ロシア語を習いはじめたり、ソ連に行ったりしているんです。どうにも、最後まで変な人だったようだ。

 ということで、後期ヴィトゲンシュタインの執拗な考察は、最初に言っておいたように『論考』を脱却するところにあった。いわばケリの位置を付け替えるという作業になっていく。では、その話をまとめて説明しよう。
 この作業は一言でいうと、それまでは「論理」を問題にしていたのが、「意味」を問題にするようになっている。そう見ればいい。いわば、カタルトシメスのカタルとシメスの間にめりこんだ意味を取り出そうとしたんだね。
 これまではいってみれば「論理の原子」みたいなものを相手にしていたのだが(そのため前ヴィの成果を「論理的原子論」などともいうのだが)、後ヴィでは「言語の原子」ともいうべき「語」に注目した。そういうことだ。
 ところが、この「語」の単位をあれこれ動かしているうちに、またまた変わったことに気がついた。それは、いっさいの言語活動や思考活動は「言語ゲーム」なのではないかということだった。しかも、言語そのものの成り立ちや思考の構造が言語ゲームになっているのではないかという確信が出てきた。
 ということはどういうことかというと、仮に人間のコミュニケーション体系のようなものがあるとして、言語ゲームこそがその体系の本質なのではないかと考えたのだ。これはヴィトゲンシュタインを気に入らせた。そこで『論考』を越えたと思った。だから、あれはちょっと間違いだと言い出したんですね。そして、このことを集大成したのが『哲学探求』なのである(以下、『探求』という)。

 言語ゲーム。なんとも奇妙な言い方だよね。
 だいたい論理学者や哲学者が使う用語じゃない。しかし、ヴィトゲンシュタインにとってはそんなことはどうでもいい。知ったことじゃない。世の中の知ったかぶりの欺瞞だけを粉砕したいだけだった。
 しかし、言語ゲームが言語活動の本質だと言ったとしても、その代表的なモデルのようなものはどこにあるのだろうか。
 人間のコミュニケーションの本質が言語ゲームだということは、そこにはまだ発見されていない規則や意図のしくみがあるはずだということになる。そうだよね。だから『探求』はその規則や意図を追いかけることをするんだが、ここでまたヴィトゲンシュタインはとんでもないことに気がつくのだ。
 それは、いろいろ考えてみたけれど、日常的な会話こそが、そのあるがままの姿において完全なのではないかということだった。そこにモデルがちゃんとあるということだった。ISIS編集学校なんですね。
 なんということだろうね。人々が勝手にしゃべっている会話に言語の本質もコミュニケーションの本質もみんなあらわれているというわけだ。つまり、論理とか論理学はそれらをもっとダメにした姿なのではないか、茶殻や茶滓のようなものだというんだね。
 しかし、これはその通りだと、ぼくは思う。言葉を使うということは、そのこと自体がカタルトシメス作用なんだから――。つまりは子供が言葉をおぼえながら使っている言語は、言語ゲームとしてのすべての形式と内容を含んでいるはずなんだね。少なくとも子供はそう感じて、喋っている。

 そうだとすると、その子供の言語ゲームをそのまま言語ゲームとして引き取れなくなった大人が問題なのであって、本当は、そのような原型的な言語ゲームのままにコミュニケーションをするのが本来的なのではないかということになるわけだ。
 これはきっとすぐに了解できることだよね。いわばラッセル先生とコギャルが話しているときにも、言語ゲームがほぼ完璧に確立しているということだ。
 しかし、ここで注意しなければならないことがある。このラッセル先生とコギャルの間の言語ゲームは、外から解釈してもしかたがない、そんなことをしてはいけないとヴィトゲンシュタインが考えていたということだ。その会話自体がカタルトシメスであって、それをいまさらカタルとシメスに分けるもんじゃない、そうヴィトゲンシュタインが考えたということだ。
 もうひとつ、さらに大事なことがある。このような言語ゲームには、倫理が必要なんじゃないかということだ。
 これはヴィトゲンシュタインが後期になってずっと考えていたことで、自分の考え方を推し進めていくと、ヤバイことも入ってくることに気が付いていた。それは言葉が相手を突き刺し、憎悪を駆り立て、せっかくの言語ゲームが感情のゲームになってしまうということだった。そこでヴィトゲンシュタインは、言語ゲームと倫理の問題を結びつけようとした。
 つまりは、最後になって、哲学に戻ってきたわけなんですね。
 よろしかったでしょうか。

 いささか長い話になったけれど、これが松岡正剛の夏休みのプレゼントの第一弾でした。題して「ヴィトゲンシュタインのカタルトシメス問題」。
 第二弾は、明日の熱帯夜にお届けしよう。

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