父の先見
デジタル・ストーリーテリング
国文社 2000
Janet H. Murray
Hamlet on the Holodeck 2000
[訳]有馬哲夫
マレーはハーバードで英文学を専攻したのちにMITの先端人文科学研究所に入って所長となった。その後はジョージア工科大学のコンピューティング・ラボにいる。ぼくも2度ほど会っている。ふつうのおばさんである。
ところが、このおばさんは物語と電子の関係に関しては誰よりも情熱的で、しかも世界中の文学事情に詳しいばかりか、デジタル・ナラティブの超専門家ときている。話しだしたら止まらない。そんなことはぼくもとっくに考えていたということも、けっして譲ってくれない。
一部の人は御存知かもしれないが、ぼくは1990年代に入って「オペラ・プロジェクト」という構想に着手していた。
世界の物語群から100作を選び、これを電子化するだけでなくつなぎあい、それらにレクシア(ホットワード・リンク)をたっぷり入れて、互いに作品間を行き来してもらおうという構想である。100作には文学作品だけでなく仏典も博物学も童話も科学書も入っていて、これならハイパーリーディング(知の横歩き)がそうとう自由になるのではないかと思ったのだ。
この構想には北海道大学の田中譲さんをはじめ多くの研究者や技術者が加担してくれて、当初はかなり膨らんだ構想になりつつあった。すぐに電子劇場構想をもっていたブレンダ・ローレルやジョセフ・ベイツなどにも知れわたり、いっとき大きな期待も寄せられていた。が、あまりに開発予算が大きくなって挫折した。
けれども、このときに構想した物語研究の成果とナラティヴ・ナビゲーターのアイディアはその後もずっと生きていて、ぼくの編集工学の仕事に役立っている。
本書もナラティヴ・ナビゲーターではないが、マルチフォーム・マルチプロットの物語をつくってこれを電子化し、自在にデジタルリーディングをさせようという計画を多様な方面から検証する内容になっている。それを「文学的構成の技法」と「コンピュータ的構成の技法」はどこまで重なりあえるかという主題にして、追っかけている。
しかし、さんざん検証しているわりには、マレーおばさんが出した結論はデジタル・テクノロジーのヒントから得たものではなく、人間がつくりだした物語の構造にひそむ特徴に耳を傾けるべきだというものになっている。
たしかにマルチメディアやITを駆使して物語世界をつくるにあたって、電子世界にだけひそむ物語の特質があるわけではない。物語は物語なのだ。
本書にも紹介されていることだが、物語にはもともと基本的なテンプレートというものがいくつも隠されている。電子といえどもこれを活用するのが得策だ。このテンプレートはキプリングなら69の基本プロットとして、ボルヘスならせいぜい12の型として、ロナルド・トバイアスなら20のマスタープロットとして発表されてきた。たとえばトバイアスは、あまり上出来ではないが、次の20のマスタープロットの型をあげ、その組み合わせでどんな物語もつくれると豪語した。
探求 冒険 追求 救出 逃亡 復讐 謎 張り合い 誘惑 負け犬 変身 変型 成熟 愛 禁じられた愛 犠牲 発明 あさましい不節制 上昇 下降
ホメロスの叙事詩を研究したミルマン・パリーの弟子だったアルフレッド・ローでは、もっと型が絞られている。「結婚と闘い、織り交ぜられた救出と解放」。たったこれだけさえあれば、この“一つの歌”から大半のストーリーが派生すると考えた。
もっともこれをマルチメディアにするにはシステムのほうの引き取るものが多すぎる。そこで7割くらいは物語の構造に複雑性と多様性をもたせ、残りをシステムが介護する。マレーおばさんのお勧めもそこにある。
けれども、そこで選択肢があれこれにブレることになるのだが、いったいシステムに埋めこむ物語構造の、どの階層やどの分岐点をシステムが引き取ったらいいのかということである。
仮にシェイクスピアの『ハムレット』をシステムに入れることにする。そのときまず『ハムレット』をどのような「意味のアーキテクチャ」にしておくか。
物語は登場人物で分けられたり組合わさったりもする。場面もいくつかに分かれている。会話もそれぞれちゃんとシェイクスピアが用意してくれている。けれども、以上をそのまま入れたのではデジタル・ストーリーテリングになるわけはない。戯曲を読むのと変わりがなくなってしまう。では、場面を選択させるようにする? 会話はアイコンをクリックして出させるようにする?
そんな苦労をしたところで、シェイクスピアをデジタル・シアターに入れたことにはならないだろう。ここで考えるべきなのは、もともとシェイクスピアの演劇世界をメタレベルで背景にもとうということなのである。
それならシェイクスピア以前のエリザベス朝の演劇世界をアーキテクチャとしてもっていたほうがいい。それなら、それ以前のルネサンス期のタブロー・ヴィヴァンの構造をアーキテクチャにしてしまったほうがいい。そういうデジタル構造をメタ物語構造にしたものを背後にしながら、そこにシェイクスピアが呼び出され、そこからさらにハムレットが躍り出たほうがいい。マレーおばさんも、ぼくも、そういう考え方なのである。
これは、コンピュータそのものをストーリーテリング・マシンにしてみようという構想である。ぼくの用語でいえば、ナラティヴ・ナビゲーターということだ。
実はもともと映画は「フォトプレー」とよばれるものだった。映画が確立する以前、エティエンヌ=ジュール・マレーやエドワード・マイブリッジがしていたことは、フォトプレーとしてのストーリーテリングをどのように実現するかということだった。
これは今日のマルチメディアが物語をコンピューティングしようとしているときの出発点と酷似する。実際にもフォトプレーには、蓄音機と拡声機能が加わり、ムービー機能が加わり、劇場機能が加わって、映画というものに成長していった。
デジタル・ストーリーテリングだって同じことなのだ。むしろ大事なことは、映画をつくるにあたって脚本や演出やカメラワークや音楽が大事であるように、コンピュータにおける物語はどんな効能によってより電子的な物語らしくなるかということなのである。
そして、その「電子的な物語らしさ」というものを追求することが、ほんとうはデジタル・ストーリーテリングの将来を決定づけるのである。
残念ながら、本書にはその解答は出ていない。その解答はマレーおばさんが出すべきものでもない。諸君のうちの誰かが一人の電子上の手塚治虫になることだけが解答なのである。