父の先見
イスラーム経済論
未知谷 1993
Muhammad Baqir-s-Sadr
Iqtisad-na
[訳]黒田壽郎
ぼくはいつかイスラム文化と日本文化の交錯するところを書きたいとおもっている。
たとえばイスラム文化というのは基本的には省略文化なのであるが、またそのイスラミック・カリグラフィが音声とも信仰ともつながっている特異な文字文化をもっているのであるが、そのことは日本における省略文化や書文化とどのように比較できるのか、いまのところはそういうことに誰も着手していそうもないからだ。いずれは、そのへんのこと、ゆっくり追ってみたい。
しかし、イスラム文化はその根底においてムスリムたちの宗教・哲学・歴史・社会・経済に深く結びついている。イスラムにかぎっては、他のいっさいの自由資本主義国にとってあたりまえのことがあてはまらないことがある。そこがなかなか推理が及ばない。だからこそイスラムを見ることは未知の国の探検に似て、ぞくぞくするのだが。
さて本書だが、一度読んだだけではまだ信じられないことがいっぱい書いてある。本書を、同じ著者による『イスラーム哲学』とともに読んで、哲学はともかくも、その経済システムがこんなふうに実在していることに、ぼくはまだ驚いたままなのだ。
イスラムの社会にイスラム経済なんてものはない、経済はどんな国でも経済なんだ、という意見が資本主義にどっぷりつかっている経済学者たちから何度か提出されてきたことは、よく知っている。ぼくも多少は疑いはした。
にもかかわらず、どうも本書に書かれたイスラム経済の特徴が、たとえどんな濃度であれ、どんな局部らであれ、実際に動いていることは事実なようなのだ。ましてかつてのイスラーム社会では、その経済システムが全面開花していたようなのだ。それが21世紀になってしだいに再生しつつあるとしたら、これは世界中の資本主義諸国にとって脅威である。
とはいえ、だからといってサミュエル・ハンチントンがイスラム資本主義と儒教資本主義は、アングロサクソン型の資本主義やライン型の資本主義とはまったくちがっているのだから、これらはいずれ正面衝突するだろう、と『文明の衝突』で言ったようなことがおこるとは、思わない。ハンチントンがイスラム経済をちょっとでも理解しているとも思えない。
本書があきらかにしているイスラム経済の特徴は、ぼくの読解ではほぼ次のような点にある。
ひとつひとつ吟味してみると、あれっこれはコミュニズムじゃないのかとも見えるところがあるし、いやこれはハイパーコミュニズムあるいはハイパーファシズムとでもいうべきものだとも見える。また、そうか、これがイスラムのイスラムたるゆえんなのかとも見える。
むろんイスラム圏内の経済がすべてこういうふうになっているというのではなく(著者もそう書いている)、あえて一部の特徴を列挙すればこういうふうに見えるということである。が、いずれにしても、やけに未来的なのだ。
たとえば、次のような特徴がイスラム経済をかたちづくっているとしたら、これは“楽園”である。
◇さまざまな規制によって資本の集中と退蔵を禁止するための措置がある。
◇労働の市場商品性が否定されている。
◇労働成果が帰属する先がどこかに集中することを排除している。
◇土地を私的に所有することに制限をもうけていて、土地私有が集中することを避けている。
◇貨幣が自己増殖することを否定し、逆に退蔵することも否定している。
◇利子を禁止して利息つきの資本を認めない。これがイスラム経済における資本を工業商業プロジェクトにスムーズに転化させている。
◇資本の所有権は死後に親族に移転するのを容認する。
◇国家はすべての生産機関を公共セクターに役立てるための統率ができる。
これだけでは、どうも「システムとしての経済のしくみ」が整合的に見えないが、それはぼくが勝手なピックアップをしているだけであって、著者のせいではない。それでも資本主義経済では想定がつかない特徴が際立っている。
なぜこんな特徴が生じうるかというと、ようするに、イスラム国家とムスリム共同体とのあいだには、かなりヴィジョンに満ちた財務関係がイスラム法によって規定されているか、もしくは潜在しているということなのだ。ともかく驚くべきことである。
イスラム経済はイスラム法によって支えられているのだから、イスラム法なきイスラム経済はない。ゴリゴリの資本主義者はそこを強調する。けれども、その特徴のいくつかが資本主義に部分的にとりこまれる可能性はあるとも言わなくてはならない。
そんなことは、そもそもイスラム商人が発明した複式簿記のしくみがヴェネチアやジェノヴァノの商人をへてヨーロッパにもたらされた歴史からも予想のつくことなのである。
ぼくがイスラム経済を理解することがなぜ必要であるかは、まだあまりわかっていない。
けれども、近いうちにそうとうに深入りする必要があるようにも見えている。かつて井筒俊彦さんがお元気だったころ、そのことをうっすら実感していたのだが、なんだかんだとその実感の確認を先送りしてきた。
が、やはり深入りする必要がある。
それはたとえば、鎌倉の御家人制度や華僑(華人)の経済システムやユダヤ経済史を詳細に理解することが、ぼくにとってどれほど重要であるかということに近いようで、実はそれとはまったくちがう重要性をもっているような気がするからだ。
もっとも、その理由は、本書に書いてあるようなイスラム経済の特徴のいくつかに、われわれが「資本主義なんてどこかおかしいんじゃないか」とおもっている疑問を解くようなヒントが隠されていると見えるからでは、ない。法と経済と信仰の関係をゆっくり考えたいからである。