父の先見
絶対安全剃刀
白泉社 1982
「少女の気持ちってどういうもの?」って聞いたら、山口小夜子は「そうね、高野文子を読むとわかるわよ」と教えてくれた。
小夜子がそのとき勧めたのは名作『おともだち』で、ぼくはただちにそれを読み、そしてますます少女が不可解になった。ますます魅力的にも見えてきた。
それからというもの、ぼくの少女マンガの読み方が変わっていった。とくに高野文子と大島弓子については、まるで少女に関する哲学書のように読んだ。そういう少女世界について、いかにフロイトやラカンや河合隼雄や岸田秀が役に立たないかということは、すぐにはっきりした。おかげで吉本ばななが出てきたときは、そのルーツがすぐに見当がついたものだった。
もっとも、これで少女感覚がわかったということはない。まったくぼくにはないものとして、ひたすら崇敬するだけなのだ。あいかわらず不可解なことは多く、首をひねることも少なくない。そのうちファッション感覚やモード感覚や人形感覚については、以前同様に山口小夜子に聞く。たとえばリボンを結ぶこと、ソックスをずらすこと、人形を抱えることもあれば蹴飛ばすこともあること、などなどである。一方、たとえば松田聖子が好かれもし嫌われもしながら少女のアイドルでありつづけたというような、ぐっと深い社会性については、ときどき萩尾望都さんに電話をしては、少女の秘密の一端を“解説”してもらう。
が、そんなことをいくらしても、実はわれわれ男性は少女感覚のどんな本質も描けっこないのである。それをあざ笑うかのように軽々と証明しているのが、高野文子であり、大島弓子という稀有な才能なのである。
ここにとりあげるのは『絶対安全剃刀』という初期作品集で、高野文子の少女感覚が如何なく発揮されている。ほんとうは『おともだち』もとりあげたいのだが、誰かに貸したまま戻らない。
標題になっている「絶対安全剃刀」(1978)は、高野文子が日本男児を心する二人の美少年に託してアンビバレンツな感覚を描いたもので、ここにはまだ本音がちょっとしか出ていない。
それがいよいよ本領発揮となるのは「ふとん」(1979)と「田辺のつる」(1980)で、「ふとん」ではカジュアルな観音と遊ぶ少女の好き嫌いのはげしい感覚が、「田辺のつる」ではおばあちゃんになってまで生きつづけている少女感覚の怖い本質がずるずるっと引き出されている。とりわけ「田辺のつる」などは絶対に映画にはなりえないマンガ独得の手法もつかわれていて、ただただ感服させられた。
しかし、これはまだまだ序の口なのである。
「うらがえしの黒い猫」(1980)では、少女が日々の出来事のなかでどのように神話と多重人格をつくるかがあきらかにされる。ビリー・ミリガンの話なんぞよりもずっと淡々としているが、ずっと意味深長である。とくに幻想の中の黒猫の扱いは、とうてい少年が真似できないものになっている。
フツーの女の子の感覚も描かれる。「うしろあたま」(1981)であろうか。これは残念ながら少年にもわかる。文子さん、このあたりのことは少年もうすうす感ずいているのです。けれども、文子さんのようには描けないし、またたとえ小説やコントに仕立てようとしても、とうてい書けないものがある。
それは「少女の勝手な混乱」というものだ。
これは名作「おともだち」の主題でもあるのだが、われわれ男児には、その混乱の開始と錯綜のタイミングがつかめない。そして、そのぶん女性の中の神秘的な少女性なるものに、必ずまちがって惚れることになる。その、まちがって惚れることについては、藤村・鏡花・中也だって、ヘッセ・ブルトン・ブコウスキーだってわかっていることなのだが、それでもまちがって惚れるのである。
その理由がどこにあるかはさだかではないが、ひとつはっきりしているのは、われわれ男児には、その「少女の勝手な混乱」をとうてい描けないということである。そして、それを描けるのが高野文子であって大島弓子であり、吉本ばななであって江國香織であるということになる。
こうした少女感覚の絶頂は、本書では最後に収録されている「玄関」(1981)に結晶化する。
この作品は「おともだち」の前哨戦的な解題にあたっているようなもので、「えみこ」と「しょうこ」の二人の少女のフラジャイルな日々の距離感覚を通して、一人の少女の中に育まれていく“得体の知れない何か”に迫っている。迫っているといっても、それは夏の陽差しのような、すぐに眩しい思い出になるような、そういう光景のなかの出来事だ。
では、その“得体の知れない何か”は何かというと、これがわからない。高野文子は、それは少女のみが感得している“自分が嫌いになる嘘”のようなものであるのだと言うのだろうが、それはあまりに傷つきやすいものなので、誰もこれだとは言わないようになっているらしい。