父の先見
松下政経塾とは何か
新潮新書 2004
特定少数による
不特定多数のための日々。
松下政経塾は、いったい
何を日本にもたらしているのか。
いま、11月24日。きのうは祝日。「勤労感謝の日」という祝祭名はどうにも気にいらないが(働いていることを、あんたに褒められたくない)、その日に東京広尾のカフェ「シェ・モルチェ」に、ISIS編集学校の師範・師範代・学衆たちが120人ほど集った。御存知「感門之盟」だ。会場はお昼すぎから満杯、終始、熱気が溢れていた。
この日は14破の師範・師範代と15守の学衆が中心に、その成果を称えあい、互いに交歓したのだが(そのあとの「香港ガーデン」での打ち上げも熱かったが)、そのことについて、いま書きたいというのではない。1年に2、3度、こうして編集学校の当期の参加者やOBの集まりをしていると、いつも感じることがあるのだ。ぼくは「不特定多数」よりも、ずっとずっと「特定多数」や「特定少数」が好きなんだということである。
赤い衣装に身を包む師範代
「感門之盟」に結集
実は、その前日は「椿座」という催しをしていた。連志連衆會が主宰するごくごく小さな集まりで、会員が毎回30人ほど集ってぼくの勝手気儘な“日本咄”を聞いてもらうという会だ。11月の例会は北山ひとみさんの新宿のお店「由庵」で開いた。江戸の宮園節・新内・河東節・端唄から始めて、滝廉太郎・中山晋平・宮城道雄・早坂文雄・武満徹までの近現代の作品をCDで流しながら、日本音楽の特色を浮き彫りにしてみた。
たった30人を相手の“日本咄”だが、ぼくとしては最高に充実した「音の編集」をしたつもりだし、聞いてくれた方々もそのことを感じてもらえたようで、藤井清水の『佐渡島』や宮城道雄の『むら竹』、早坂文雄の『うぐいす』に涙を浮かべている人も少なくなかった。ラストは武満の『死んだ男の残したものは』と井上陽水の『夏祭り』にした。
終わって主宰者を代表して、福原義春さんが「こんなふうに日本の音楽の流れを聞かせてもらうと、いままで見えなかった日本の調べが一挙に見えてくる」という感想を述べてくれた。
その「椿座」のさらに前日、ぼくはTBSの特番のために熊野古道、那智の滝、新宮速玉神社のゴトビキ岩、伊勢の滝原などの撮影の被写体になっていた。
これは、12月6日に放映される夜7時から2時間のゴールデンの特番で、関口宏が女優の原沙知絵と日本をいろいろ見て歩くという『日本を探しにいこう』という番組の撮影だったのだが、番組はあきらかに「不特定多数」を対象にする。数人の親日派のガイジンさんが得意の日本を次々に紹介し、でも日本のことはやっぱり日本人のセンセイに聞こうよということになって、最後にぼくが出てきて二人を熊野や伊勢を案内するという筋書になっている。
滝に宿る神の話を展開(TBS特番)
巨大なゴトビキ岩(TBS特番)
どんな仕上がりになるかは、わからない。というよりも、それは知らされない。あくまで局と制作会社が企画・構成・撮影・編集をする(この場合は読売映像)。ぼくはたんなるゲスト出演者にすぎない。
不特定多数のためのテレビには、それなりの腕も特色も効果もある。NHKのドキュメンタリーでは、もう何十回も脱帽してきた。教えられたことも少なくない。しかし、番組の狙いの路線がほとんど決まっていて、多くの出演者やゲストがそのトロッコにぴったり乗せられるだけという番組もごまんとあって、そういう番組にはほとんど出ないことにしている。
今度の『日本を探しにいこう』は、民放のゴールデンタイムにこんな硬派の番組が入ったという意味だけでもそれなりに画期的であるので、その出来栄えには期待したいのだけれど、それでもなお、ぼくはいまだに「不特定多数」は苦手なのである。
スケジュールが重なるときは重なるもので、このテレビ収録の前日、ぼくは「未詳倶楽部」の40人の会員たちと鳥羽と伊勢と松坂をめぐっていた。ゲストは建築家の内藤廣さんである。
鳥羽は「海の博物館」を、伊勢は「内宮」を、松坂は「本居宣長記念館」をまわった。そのあいまあいまに、われわれは譬えようのない“真水”を感じあった。これまた「特定少数」の醍醐味だった。なかでも特筆したいのは、その2日間のなかで、準備に奔走してくれた堀口裕世さんと本居記念館の吉田悦之さんが日々屹立していることを伝えてくれたことである。
ともかくも、かくして約1週間にわたって、ぼくは何かの催事や地方の仕事やメディアに連続して携わったわけで、自分でもはたしてこれだけのことを連日こなせるのか、見当がつかなかった。途中もたいそう慌ただしくて、たとえば未詳倶楽部を終えてから熊野に駆けつけるのも、ロケバスで3時間を走りっぱなしだった。
これを書きはじめた明日(11月25日)も、ちょっと痛快な研修会で半日しゃべりっぱなしになる。ただし、相手は大手企業の十数人だけの「特定少数」である(だから、明日の準備があるので、以下は2日後にまた書くことにする)。
さて、ここからが本題だが、こんな私事の話を枕にしたのは、今夜とりあげる本書のテーマになっている「松下政経塾」と、ぼくがかかわってきたあれこれのこととの比較を、ちょっとばかりしたかったからだ。
松下政経塾というのは、松下幸之助が昭和54年(1979)に設立した財団法人松下政経塾のことで、神奈川県茅ヶ崎に敷地7000坪、塾舎だけでも2000坪の威容をもって発足した、世界でもめずらしい政治家養成のための私塾である。
幸之助の晩年の宿願を象徴する塾で、自身が70億円の私財を、松下グループが7年間にわたってさらに50億円を拠出した。中間法人連志連衆會が「連塾」の参加費を含めて、毎年数百万円ほどの会費で賄われていることをおもえば、べらぼうのスケールだ。
しかも、募集人数は年間1期で30名。特定少数といえば、これほど贅沢な特定少数はない。
該当者も当初は25歳以下で(現在は22歳から35歳まで)、大学卒業者あるいは大学院在学者、または3年以上の社会人経験者にのみ門戸を開いた。研修期間は5年(現在は3年)、全寮制である。全員が起居をともにする。研修費も月額13万円以上が、3年以上は15万円以上が支給された(現在は1年生が20万円、2年以上が25万円)。これは当時の松下電器の初任給に匹敵した。加えて年に2回の特別研修資金というボーナスも用意されていた。
が、これだけ贅沢な措置でスタートしたものでありながら、1980年に開塾した第1期の23名を除いて、その後は一度も定員には達しなかった。
その一方で、国政の政治家や地方の知事や市長になった松下政経塾出身者は30人をこえている。民主党が多いけれど、なかには前原誠司のように、党の代表になった者もいる。神奈川県知事の松沢成文、横浜市長の中田宏、東京杉並区長の山田宏も政経塾出身である。いまぼくが親しくしている樽床伸二も3期生だった。幸之助は樽床の期の面接の最後に出てきて、やおら「君は悪ができるのか」と訊いたという。
それにしても、なぜ松下幸之助はこういうものを作ったのか。なぜこんなにお金をかけたのか。
よく知られているように、松下幸之助は早くからPHP研究所を作っている。PHPは「Peace and Happiness through Prosperity」(繁栄によって平和と幸福を)の略で、幸之助の苦汁の体験から生まれたキーコンセプトだった。そのPHPから出版社と政経塾が生まれた。
苦汁の体験というのは、立志伝で名高い“松下幸之助伝記”のたぐいを読めばすぐわかる。幸之助は明治27年(1894)に、和歌山県海草郡和佐村に、8人兄弟の末っ子で生まれた。家はそこそこ裕福だったのだが、父親が米相場で失敗したため小学校を4年でやめ、9歳のときに大阪に心細いままに丁稚奉公に出た。しかし、持ち前の不屈の根性がめざめたのであろう、火鉢屋や自転車屋で奉公したあと、22歳でちっぽけな松下電器をつくった。
それから20年をへて松下電器はしだいに拡張していったのだが(そのへんの立志伝は省略しよう)、そこへ戦争がやってきた。戦時中、幸之助は海軍の依頼で木造船や木造飛行機の生産を受注する。が、これが仇となって戦後はGHQから財閥家族扱いをされ、公職追放の憂き目を食らった。そのため、飛行機受注の代金が払われなくなった。
戦前、幸之助の個人資産は2000万円ほどあったらしいのだが(現在に換算すれば2000億円くらい)、これでしばらく税金すら払えなくなった。新聞はすかさず「滞納王」と叩いた。
50代になったばかりで脂が乗り切っていたにもかかわらず、幸之助はこうして戦後社会で苦汁の再出発をせざるをえなかったのである。これが苦汁の体験だ。
このとき発案したのがPHPだった。安易に戦争を引きおこした政治に対する強烈な不満と、自身の手で新たな日本を再建したいという決断にもとづくものだった。
かくして幸之助は、PHPを標榜する活動に着手したころから、自分の手で筋金入りの政治家を育てたいという宿願をもつようになった。周囲にも「右手にはそろばん、そやけど左手には政治やな」と洩していた。
とはいえ、なんら具体的なプランのようなものはなかったに等しい。ひたすら「明治維新の再来」を望んでいただけで、幕末維新の担い手が既存の政治家ではなく、もっぱら下級武士によって遂行されていたことに憧れただけだった。昭和43年(1965)、松下電器が創業50周年を迎えたとき、幸之助は京都東山に「霊山顕彰会」というものを私費でつくるのだが、これは維新で活躍した志士たちの遺品を集めて、その偉業を称えるという、それだけのものだった。
本書は、そういう松下幸之助が用意した松下政経塾が、いったいどのように発足して、どのように変遷していったかを突っ込んで書いたコンパクトなレポートである。
著者は英字新聞の記者をへてフリーになったジャーナリストで、著書に、反米黒人工作の実態を克明に追った『日本から救世主が来た』(新潮社)というユニークな視点によるノンフィクションがある。だから、本書もいろいろ工夫した構成になっている。よく調査もしているし、松下政経塾の矛盾や限界も指摘する。
本書はそういう本なのだが、ぼくがこの本を紹介する気になったのは、本書の内容を細かく知らせたいというよりも、主に3つの理由によっている。第1に今日の政治家のていたらくに呆れていること(この1週間の復党騒動であきらかだろう)、第2に政経塾出身の政治家たちと比較的よく出会っていること(あとで説明する)、第3に「特定少数を育てることとは何か」という難問にあいかわらず関心があるということ、この3つである。
もともとぼくは、政治家にはとんと関心が薄かった。交わりもほとんどなかった。それが細川護煕の中央政界登場をもって事情が変わってきた。ほぼ時効になっていることも少なくないだろうから、その話からしておきたい。
あるとき細川護煕が訪ねてきたのである。「新党をおこしたいので、その結党宣言に手を入れてほしい」というのだ。
細川さんにぼくを紹介したのは、ソニーの盛田昭夫会長やNIRAの下河辺淳理事長だった。二人から「そういうのは松岡さんに見てもらうといい」と聞いた細川さんが、一人で青葉台のぼくの仕事場にやってきたのは、平成3年(1991)の夏のことだった。熊本県知事をやめた経緯、このままでは日本をほっとけないこと、実は新党を結成したいことなどを手短かに語ると、こんな原稿を書いたので松岡さんに手を入れてほしいと言った。
1991年というのは一方では1月に湾岸戦争が始まり、他方ではベルリンの壁が崩壊して、急速に東欧の民主化がおこっていった年である。この年の年末にはソ連が解体した。二極構造だった世界がドラスティックに変わるだろうという印象は、バカでもチョンでも、誰でももっていた。
盛田さんと下河辺さんの紹介だったので、とりあえず原稿を預かって読んでみるので、もう一度会いましょうということにした。次に会ったのは、軽井沢である。たまたま細川さんの別荘とぼくの山小屋が近かったので、ぼくの山小屋で会うことにした。が、読んでみた原稿はとうてい使えない(おそらくは自分で書いたのではないだろう)。そのことを言うと、「だから手を入れてくださいとお願いしたんです」と言う。
そういう“政治的内密”な作業をしていいのか迷ったが、やけに丁寧だったので(言葉づかいだけは丁寧なのだ)、結局、3回にわたって手を入れた。とくに元の原稿にはまったく主語の発動もそのウケの言葉もなかったので、「私は」という主語を十数箇所にわたって入れ、そのウケの言葉を片ッ端から直していった。ぼくの勘では、この新党は「細川護熙という私」を全面に出すしかないと思われたからである。そこで文章も「細川という私」が躍如するようにしてあげた。電子政策やNPO的活動についても言及がなかったので、入れた。
この原稿は1992年5月10日発売の「文芸春秋」に、「自由社会連合結党宣言」として、抜き打ち的に掲載されるものだった。細川はこの掲載をもって初めて世に新党結成の意志を発表するという魂胆で、それまでは新党の準備をしていることをいっさい伏せていた(たとえば盛田さんはこのことを洩れ聞いて、「はやまらないように、と伝えてほしい」とぼくに託したものだった)。
ところが、この掲載原稿のプリントが漏れてしまったのである。そこで発売直前の5月7日、細川はやむなく日比谷プレスセンターで記者会見を開いた。そのニュースはすぐにテレビに流れたのだが、細川の隣に一人の見かけぬ男が座っていた。長浜博行という男だった。
これを見た政経塾の出身者や関係者が騒ぎだした。長浜は政経塾2期生なのである。いったいなぜ細川新党と政経塾が関係しているのか。政経塾の幹部も、世間も、訝しく感じた。
少々、説明がいる。
本書にも縷々スケッチされているのだが、政経塾は政治家養成のための塾ではあるものの、ある時期から幸之助はあまりに政治家が育っていかないことに業を煮やし、新党をつくる覚悟になっていた。88歳のとき、側近の江口克彦に「政経塾ではまにあわんかもしれんな」と言っている。それが昭和57年(1982)のことで、日本は鈴木善幸内閣の時期、国の財政は10兆円の赤字をかかえていた。
この一言をきっかけに、その年の10月、新党のための綱領試案が内々にまとめられた。「日本国民大衆党」という冴えない党名も記されていた。試案の中身は「無税国家の理念」「政治の生産性の向上」「日本的民主主義の確立」「多様な人間教育」をモットーに、「所得税一律5割減税」「建設国債の発行」「新国土創成事業の立ち上げ」「国際社会への寄与」などといった当たりさわりのないものになっている。無税国家というのが幸之助らしいところだが、その対策が練られていたわけではなかった。
新党構想は極秘であった。幸之助はある時期、ソニーの盛田、ウシオの牛尾治朗、京セラの稲盛和夫、演出家の浅利慶太、政治学の香山健一などに政経塾や新党の構想を相談したことがあったのだが、かれらはのらくらするばかりで、まったく乗ってこなかった。それなら一人で事をおこすしかないと、幸之助は密かに新党構想に着手したわけである。
が、そういう気配は隠せば隠すほど伝わるものだ。血気にはやる塾生たちには、噂を聞いて何かをしたくなっていた者がいた。
血気にはやる塾生に、山田宏という男がいた。
明治維新大好きで、愛読書が勝海舟の『氷川清話』(338夜・第7巻所収)だった。京大受験に失敗して、予備校に行くかたわらお茶の水でジャズ喫茶に入り浸っているうちに、新自由クラブのビラに惹かれた。
気になって手伝いを始めてみると、のちに政経塾の1期生となった野田佳彦(民主党)が早稲田の学生ボランティアで活動している。3期生となった松沢成文(神奈川県知事)も慶応の学生として、新自由クラブの田川誠一の選挙に駆り出されていた。
山田は一浪ののち京大に入り、高校時代からやっていたラグビー部にも入部して新たな青春を謳歌しようとしていたのだが、膝をケガしてラグビーから身を引いた。そこへ松下政経塾がつくられるというニュースが飛びこんできた。4年になるのを待って、山田は政経塾に入る。2期生である。そこに長浜博行がいた。
山田はたちまち2期生の中心メンバーとなったようだ。しかし、政経塾の授業はどこかかったるい。全寮制にありがちの節制主義と儒教道徳主義と、三浦半島一周マラソンのような体力主義がまざっていた。山田は、やがて「潮流の会」というものを立ち上げて、有志塾生だけで新たな動きをしようという機運をつくる。長浜、神蔵孝之、海老根靖典(藤沢市議)、本間正人(NPO法人代表)らが集った。
松下本体から出向していた政経塾の職員幹部は、こうした分派活動を好まない。幸之助の新党構想はあくまで極秘であったし、塾生には一人一人が政治家になってもらいたい。政経塾は政党ではない。
こうして山田らの動きが意気消沈してきたころ(山田は自民党の熊谷弘の秘書に、海老根は自民党の志賀節の秘書になっていた)、例の幸之助新党構想の噂が漏れ始めたのである。
昭和60年代(1985年以降)は、中曽根体制から安倍晋太郎・竹下登・宮沢喜一というニューリーダーの台頭に移りつつあった時期である。もっともニューリーダーとは名ばかりで、日本の政治がさらに弱腰になって、坂道を転げ始めた時期といったほうがいい。自民党の55年体制はヒビだらけになっていた。
ついに老体幸之助の焦りが爆発した。山田は目を輝かせて新党結成を迫ったが、幸之助は政経塾を新党化するつもりはない。もっと大きなムーブメント(これを「国民運動」と呼んでいた)をおこしたかった。山田はやむなく杉並区の選挙に立候補し(山田は現在も杉並区長)、野田は千葉県議に立候補した。
自民党の凋落は止まらなかった。ついに平成元年(1989)の参院選では大敗を喫し、マドンナブームに乗った社会党が大幅な躍進を果たした。新党は結成できないままだった。そして、その前に幸之助の寿命が尽きた。94歳の大往生だった。
政経塾のいっさいは2代目塾頭の上甲晃が引き受けた。上甲は松下電器との関係を断ち切ろうと考えた。それとともに「地域から日本を変える運動」(略称「ちにか」運動)を提唱した。地方新聞社と連携して地域フォーラムを連打しようというのだ。これを受け、まずは京都政経塾が、ついで東京政経塾が設立された。山田は東京政経塾のリーダーとして長浜を選んだ。
このとき長浜が細川護熙と接触したのである。細川は長浜に言った、「松下幸之助さんの遺志を継いで新党をつくりたい。どうか力を貸してほしい」。東京政経塾は細川新党と合流することをこっそり決めた。しかしぼくの知るかぎり、細川は政経塾を活用したかっただけで、幸之助の哲学にもほとんど共鳴していなかった。
当時の政経塾本部は特定政党に与(くみ)することは認めていない。けれども東京政経塾の動きも、もう止まらない。長浜は細川を選び、秘書として活躍することになる。
そこへ中田宏(10期生・横浜市長)が加わって、細川とともに日本新党のもうひとつの顔となる小池百合子の秘書になった。前原誠司(8期生・民主党)も日本新党関西方面の応援を始めた。前原は山田に憧れていた男で、京都府議に立候補していた。
結局、知っての通り、日本新党は何の根っこも政治イデオロギーもなかったにもかかわらず、全国を揺るがすブームをおこした。脆弱な殿様の実力はともかくも、自民党は決定的な惨敗を刻印されたのである。この動向を政界再編成しか関心のない小沢一郎が見逃すはずはなかった。細川は一国の首相という“大殿様”になり、そしてたった8カ月で退陣していったのである。
殿様の正体を見た前原は、すぐさま枝野幸男、荒井聡、高見裕一らとともに日本新党を離脱して「民主の嵐」を結成、そのままの勢いで、玄葉光一郎(8期生・民主党)、宇佐美登(10期生・民主党)らのいる「さきがけ」に合流していった。
紆余曲折はいろいろあるものの、だいたいはこんな事情があったのである。ぼくが巻きこまれたのも、この時期だ。
細川さんは首相になるまでぼくのところにしばしば顔を出し、首相をやめてからまた顔を出した。相談したいことがあるというのだ。「今度は何をするんですか」と問うと、「国民運動をしたいんです」と言ったので、「ええじゃないか運動? それはやめましょう」と言っておいた。いま、細川さんは陶芸家として実力を発揮しつつある。
さて、いったい日本新党と松下政経塾にどんな関係があったのか。実際には正式な交流はまったくなかったといってよい。全員がやむにやまれぬ気持ちで動いていたのであろう。米ソ二極構造が崩れたとはいえ、それを日本がとりこめるほどの“主知”をもっていたのかというと、はなはだ頼りない。むしろ安保同盟が強く発動して、アメリカ一辺倒になるのは目に見えていた。
ぼくはこれらの動向を多少は間近に見ながら、はたしてこんな程度で一国の政治が動くのか、これが幸之助が描いた御一新なのかと、半ば呆れて見ていた。
おそらくは政経塾の動きよりも、細川新党の“孫子の兵法”めいた動きがずっと速かったのである。それで政経塾は統一的な動きができないままに、長浜博行に象徴されるようなフライングがたびたびおこっただけなのだろう。
しかし、話はそうだったとしても、その後の日本の政治はあいかわらずフライングばかりなのである。先手必勝の取りちがいか、そうでなければ挙手傍観だ。いったい「特定少数」が動いているのか、「不特定多数」が世を制しているのか、いまなおわからないままになっている。これは幕末維新とは似ても似つかない。時代はなお「夜明け前」なのだ。
後日談をしておこう。
ぼくのほうは、細川退陣後にまたまた別の動きをもちこまれた。鳩山由紀夫と船田元が、二人してぼくの仕事場に通うようになったのだ。そこに何人かの者が加わった。談義は1年くらい続いたろうか。
何の談義をしたのかは、このことについてはまだ時効になっていないようだからこのくらいにしておくが、それだけではなかった。当時、ぼくは全7回だけの「時塾」(小沢かすみ主宰)というものの語り部を頼まれていたのだが、そこから松井孝治・鈴木寛という二人の参議院議員が誕生した。政治家になりたい理由など何ひとつとして思いつかないぼくとしては、こういう展開は意外であった。森喜朗首相の“転換”を求めて、亀井静香が突然に訪ねてきたこともあった。
むろん、何の協力もしなかったし、できもしなかった。けれどもそんなぼく自身は、もっと頻繁に、かつ多様に、政治家諸君と交わることになったのだ。日本財団と加藤秀樹さん(構想日本代表)の要請で、若手の政治家諸君のための「幹塾」というものを引き受けることになったのだ(若手というのはギョーカイ用語)。そこに樽床伸二・前原誠司といった政経塾出身者、松井孝治・松本剛明・古川元久・細野豪志といった民主党議員、梶山弘志・林芳正・河野太郎・野田聖子・世耕弘成といった自民党議員たちが顔を揃えた。地方の首長たちもいる。自然科学界から松井孝典・長谷川真理子さんも加わった。
このメンバーにはなんら共通点はない。顔触れを選んだのは加藤さんであって、ぼくではない。談義はもっぱら「日本に残したいもの・日本にいらないもの」という方向で進んでいて、ときに近世・近代の古典を読んでいる。
いったいこんなことが政治の何の役に立つのかは、わからない。ぼく自身は「政治」よりももっと広い「日本という方法」にこそ関心があるので、その話は熱度をもってするのだが、はてさてそれが政治家の諸君のどんなサプリメントになるやら、すべては本人に委ねるしかない。
(左が加藤秀樹さん、右が松井孝典さん)
松下政経塾がその後はどうなっていったかは、本書を読むか、政経塾の二十五年史を読んでもらうことにして、ここでは触れない。
いや、触れようにも、活動も実績も拡散しつづけていて、どうにもまとまらない。現在、政経塾出身者は衆議院議員が28名、参議院議員が2名、都議会議員が15名、市区町村議員が13名、知事が2名、市長区長が9名になっている。すばらしい戦績ともいえようし、こういうことだけを松下幸之助が望んでいたのかともいえよう。
戦線が拡張していることは、むろん成果のひとつである。しかしながら、そのことと「有志」や「志士」が連結しているかどうかということは、まったく別物だ。かれらがいつ時代の一撃となるかは、かつてポール・ヴァレリーが予言したように「雷鳴の一夜」を互いにどこに感じるかという一点にかかっている。
もしも「維新」というものを標榜したいなら、拡張や拡散はたいして意味がない。焦点がぼけていくばかりであろう。けれども政治家は革命家でなくたってかまわない。風土を守り、商店を扶け、生徒たちを逞しく育てることも重要だ。ただし、それをやるのに「不特定多数」を相手に選挙得票にしなければいられなくなっていくというのは、どうか。小学校の教師として、一介の医師として時代に投企しつづけることだって可能なのである。幕末維新には、選挙はなかったのである!
政治は政治を自己目的にしすぎているようだ。すでに今日の社会は、重い病気に罹っている。議会政治が行き詰まるから議会政治をしつづけるという病気に罹り、地域を平等化するたびに地域格差を大きくしていくという病気に罹り、公共暴力を取り締まれば私的暴力をふやすという病気に罹っている。
もっと根本的な症状もある。すでにジャン・ボードリヤールが指摘していたことだが(639夜・第7巻所収)、生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっている。銀行は銀行の維持のために、大学は大学の維持のために、百貨店は百貨店であることを、議会は議会を自己言及するために、そこに生じている生産と消費を食べ尽くしている。
これでは、政治は政治であろうとすること自体で、自身のシステムの保存にかかわるしかなくなっていく。これは危険である。「構造的な窮乏感」の演出だけが政治になってしまうからだ。小泉純一郎がその矛盾を衝いて「構造的な窮乏感」を政治にできたのは、何も生み得なかった政治家の最後の演出だったと見るべきなのである。
かくて、話は最初のところへ戻っていく。ぼくは「不特定多数」から最も遠いところにいたいということだ。もしもそれでも多数が世界を動かすのだというのなら、多数が勝手にぼくのほうに動いてくればいい。それならそれで、ぼくはまた「特定少数」にノーマッドするだけなのである。