父の先見
華厳経
御茶の水書房 1995
Ko Un
Hwaumgyong 1991
[訳]三枝壽勝
小説である。韓国の現代作家が書いた。『華厳経』が膨らんでいる。『華厳経』といっても善財童子が総勢53人の善知識をたずねて修行の旅をする「入法界品」だけを扱っている。それでも長い。そもそも「入法界品」自体が『華厳経』の4分の1以上を占めているからだ。
それにしても珍しい。なぜこんな長編仏教小説が韓国に生まれたのか、最初にそのことを説明しておく。
著者自身の述懐によると、高銀は26歳のころは生意気な禅学院の学生(がくしょう)で、そのせいか、転虚こと李学泳和尚から「華厳経を読め」と言われたらしい。
理由がもうひとつあった。すでに韓国では近代文学運動の推進者の一人の李光洙が『華厳経』の現代語訳を試みようとして、実現できなかった。そこで李光洙の又従兄弟の李学泳が、この無念を高銀の才能によって晴らそうという気になったというのだ。
これだけでは、事情はいまひとつわかりにくい。まず李光洙という人物のことを知る必要がある。そこからは意外な日韓近代史とアジア仏教における華厳観の問題が見えてくる。その関連で、高銀という現代韓国でもあまりに異色な作家の経歴にもふれておく。訳者の三枝さんの解説などを参考に、まとめてみる。
そのうえで華厳経について、ふれたい。
李光洙は『無情』などで有名な韓国近代文学の立役者の一人で、かつ独立運動にも上海臨時政府にもかかわった活動家だった。
ところが日本が朝鮮を植民地化していた時期の後半に日本の戦争に協力したとみられ、1945年以降は親日派民族反逆者として断罪されることになった。しかし李光洙はこの断罪と白眼視に耐えて、周囲から“法華の行者”といわれるほどに仏教研究に入りこみ、さらには『無明』『愛』『元暁大師』(古代新羅の華厳僧を描く)などの仏教小説を手がけた。そこには法華経と華厳経からの引用が多くある。
李光洙が華厳経の翻訳にも着手しようとしていたのは、このころのことらしい。が、翻訳は実現しなかった。また李光洙の仏教作品には華厳経からの引用は六十華厳の「盧舎那仏品」から「十地品」までに限られていて、「入法界品」についてはまったく触れてはいない。
そのかわり李光洙は、自分の身を犠牲にしても他者の救済に尽くそうとする菩薩行に徹底した関心をもち、またそのことを実践しようとしていたようなのである。
こうして『華厳経』入法界品の韓国文芸化はまわりまわって李光洙から高銀の手に落ちた。けれども、その高銀が華厳に手を染めた背景が、またまた興味深い。
師の李学泳から翻訳を勧められた高銀は、いっこうに華厳経に関心がもてないでいた。そのころの高銀は般若経典の思想のほうに、すなわち「空の思想」のほうに惹かれていた。
そのうち高銀に彷徨の時代がやってくると、善財童子の純潔な求道が自分の境遇と遠いものではないと思いはじめ、やっとその一部に着手した。翻訳ではない。自分なりの華厳世界観を交えた小説として、書くことにした。入法界品の冒頭部分を『幼い旅人』としてまとめたのだ。
それから22年をかけ、高銀は『華厳経』を完成させる。なぜそれほどの時間をかけたのか、かかったのか。
高銀といえば1980年の光州事件で有名である。逮捕された。
けれども高銀はそれ以前から、東亜日報広告禁止事件や維新憲法「民主救国憲章」の発表や逮捕や、そして脱獄で、もっと有名だった。拷問をうけて聴覚を失ったため、不屈の意志と手術で聴力を回復させたというニュースも伝わってきている。
高銀がこのような過激な活動をするようになったのは、1974年に自由実践文人協会を創立して初代幹事になってからのことである。しかしそれ以前から高銀の活動には異様なものがある。
高銀は1933年生まれで、少年期に書堂で漢文を学び古小説を堪能した。やがて日本の韓国支配がおわると、学校で日本に協力した校長を排斥する運動を始めるような生徒になっていた。それがたたって師範学校入学を拒否され、郡山中学に行くのだが、あるとき癩病詩人の詩集『韓何雲詩抄』を読んで衝撃をうけ、詩人になる決意をする。
ところが1950年の朝鮮戦争で民間人による大量報復虐殺を目撃して精神異常をきたし、自殺衝動と闘いながら翌年に出家。それ以降は各地で座禅修行をするようになった(この時期のことは、のちになって『一九五〇年代』という貴重な現代史の証言としてまとめられた)。
その後、ソウルに入って総務院で仏教新聞の編集執筆をし、しだいに現代仏教の代表ともくされるようになって、幹部として禅学院に迎えられている。一方、1958年に詩集『肺結核』を刊行、さらに『彼岸感性』を発表するようになると、折からの政治的仏教混乱の現状を見て、今度は仏教に疑念を抱くようになって、1962年には還俗してしまう。
しかし仏教界を離れてみると、自身の内なる「存在の不安」に抗しきれず、さかんに自殺にあこがれる。その衝動をなんとか乗り越えていくうちに、政治事件に絡んで拘束された文人の釈放活動に携わるようになるのだが、そこからは、さきに紹介した自由実践文人協会を立ち上げるまで、さかんに社会活動に邁進する。
ここまで社会活動に高銀を駆り立てたのは、1970年の全泰壱の焼身自殺であった。
このような高銀が、「民主救国憲章」の発表や逮捕や、そして脱獄をくりかえすなか手掛けたのが『華厳経』なのである。ぼくは華厳を選んだことに感心してしまった。
さて、そもそも「入法界品」は、善財童子が文殊菩薩の刺激的な示唆によって53人の善知識を訪れて、最後に普賢菩薩の教えによって法界に証入するというもので、どうみてもこれ自体で独立した物語になっている。おそらく紀元前後に最後に編集的に組み込まれたものなのであろう。
もともと華厳経は遠大な構想のもとに編集された経典で、いろいろヴァージョンがあるのだが、よく読まれてきた「六十華厳」でも「八十華厳」でも、「十地品」「性起品」「入法界品」の章が中心になっている。
ごくごく簡単にいえば、「十地品」では本格的な菩薩道のための修道の最後のプロセスが10段階にわたって述べられる。それまでも経典は十信・十住・十行・十回向という40ステップにわたる心の準備をさせているのだが、そのうえで十地のステージでの高レベルな認識を求める方向を示すのである。とくに第六「現前地」には有名な「三界唯心偈」があって、ここで初めて「三界は唯心である」という華厳経の核心がつかめるようになっている。
大乗仏教では、人間は般若(智慧)が完成したら慈悲に転じていくべきことを説く。第六「現前地」で見えるのは慧であって、智は第十「法雲地」で身につくようになっている。
この智と慧の両方をひっさげて「性起品」に入っていくと、そこでは広く十門の性起が出現する様子が説かれている。理論的にはこのあたりが華厳経全体の最高峰になる。性起(しょうき)は人間に本来的に備わっている仏性(ぶっしょう)があらわれることで、華厳経ではここが実に多様に、かつ豊富で絶妙な比喩をもって説明される。これで十身如来の「性起円融の大用」すなわち「挙体全真」があきらかにされる。
こうして華厳経は最後に「入法界品」をおくのだが、ここはさきほどのべた十住・十行・十回向・十地のステップを、迷える善財童子が旅を通して実践するというバニヤンの『天路歴程』ふうのスクリプトを採っていて、飽きさせない。
わかりやすくいえば「認識と階梯のキャラクタリゼーション」なのである。それを善財童子とその出会いの相手とに分けた。そのため旅程の物語という結構を採った。
つまりは「巡礼」という画期的な構造を提示してみせたのだ。イエスが生まれる前の編集である。これが仏典というもののもつ驚くべき編集構造の発見なのである(このことについては別のところでまたふれたい)。
ところで、実際に善財童子が訪れるのは55ケ所にわたっていて、最初の文殊が54ケ所目に再度登場し、遍友童子は説法していないので、善友の数は53人になる。うち20人が女性、菩薩以外にも長者・賢者・婆羅門・外道・夜神など、まことに多様な存在者が交じる。観音菩薩は28番目に、弥勒菩薩は53番目に登場する。ようするに世のすべての象徴的な人材との出会いを善財童子は次々に実現して普賢菩薩に至るのだ。
ちなみに徳川幕府による東海道五十三次の設定はこの数字を借りている。また世に伝わる華厳絵巻では、東大寺にのこる絵巻のように『華厳五十五所絵巻』というふうになっている。
ところが、高銀はこの55ケ所53人のもともとの結構に、いささかダンテ『神曲』ふうの不思議な時空構造と、語り部(ナレーター)と、フィクショナルな人物を相当に加えたのだった。
前世の痕跡が地下世界という姿で継続していたり、地上の道が弥勒菩薩の高楼に通じていたりするという時空の捩れを加えたのもおもしろいが、小説としては妖しくも高潔な人物をどっとふやしたのが、より華厳の現代化という試みを強固なものにした。文図の娘の尼蓮、若い漁師、隊商の妻、少女の世以也、阿弥華、歌姫の羅利陀、スメラ(サネタ)、サナンダ(提婆達多の息子)、マニ夫人、チホル、ステ、アーラヤ識の娘、老いた船頭たちなどだ。とりわけ尼蓮は物語冒頭で善財に絡んでなかなか重要な役割を演じる。
これらによって善財は仏教的なウィルヘルム・マイスターであるだけではなく、どこか精神的なカサノヴァとしての影をおび、さらに高銀の『華厳経』の全容を輪廻の趣向の強いものにすることに成功した。
語り部をサナンダにしているのも、物語技法上の常套手段ではあるが、相手が経典ではあってもこのようなアイディアの導入に踏みきったのは、さすが高銀の魂胆である。
日本には、これほどまでに仏教小説にこだわる作家はいない。またこれほどまでに華厳観に関心をもつ作家もいないし、仏教界で華厳と現代が議論されているともまったく思えない。それを一人の韓国人の作家がなしとげたことに嫉妬をおぼえるほどの勇気を感じるのだが、では、いったい華厳の現代化とは何を意味しているというべきなのか。そのことについて、ちょっとだけふれておきたい。
華厳世界観が顕教の最高の位置を示す経典であって、かつ密教の最高の入口になっていることについては、省略する。ぼくの『空海の夢』(春秋社)を読まれたい。あの本の後半はこの問題の解明に尽くしている。
その華厳世界観には恐るべき方法論がある。「一即多」と「相移即入」である。一つの事象をすべてにつなげ、それらの関係をことごとく相互共鳴させるように世界を眺めたいという方法だ。このホロニックで、かつ超平等な方法によって『華厳経』を読むと、世界が次のように見えるようになっている。
まず「事法界」がある。現象の世界というもので、現に存在しているあらゆる事物や事実がそこに見えている。一個一個と自己をつなげることはできるが、これらは一見バラバラである。この段階は小乗仏教思想の全般と大乗仏教思想の相始教があてはまる。
ついでよく目を凝らしてみると、「理法界」が見えてくる。理法界は理性が見る世界ともいうべきもので、いったん空じて世界を見ていることにあたる。すなわち仏教的には中観あるいは空観にあたる。もっとも、空というのは何かを意識や解釈が空じようとするということであるから、ここには関係の現象学が全面化したとみるべきなのである。かつてシチェルバトスコイは「空」を英訳するにあたって“relativity”を選んだものだったが、まさにそうなのである。すべてはここで関係化はされうる。
しかし、この両者の認識論的で現象学的なインターフェースだけでは世界の本質はまだ見えない。二つの見方の根底を大きくつなげる必要がある。
これが「理事無礙法界」という世界の見え方で、ここに華厳経の最も重要な「無礙」(むげ)があらわれる。無礙とは疵(礙)のない鏡面のようなメタファーであって、その無礙によって世界の事と理を見ようというもので、鏡面だからそこには向こう側の事も頭の中の理も映る。いや、映りあう。これがいよいよ「一即多」と「相移即入」の方法の面目躍如するところで、世界は劇的にかつダイナミックに理事が溶けあってくる。
この見え方は、仏教史的には如来蔵の「随縁」という見方を敷延して先鋭化したところなのであるのだが、ここでとくに重視するべきことがある。それは、仏教ではしきりに真如ということを言うのだが、その真如が次々にいろいろなものを随縁して「方法」そのものになるという抜群の思索が華厳では展開されているところであった。ぼくはかつて、この、わかりやすくいうなら「理解はやがて方法になっていく」という“発見”に、どれほど衝撃的な示唆をうけたことだったか。
けれども深遠無辺な華厳世界観はこれでもまだ終わらない。「理事無礙法界」からさらに「事事無礙法界」に進むのだ。
事事無礙法界は事物や事実や現象の性起そのものすら無礙になっていくという世界の見え方で、ここからはヨーロッパの哲学のいっさいが届かない。なぜなら、結果に囚われないだけでなく、原因に対する見方も消えて、理性はすべて消失し、ただすべてがあたかも最初期の存在のようにありのままにつながりあってしまうからである。しかも、このように見えたからといって、それは原始世界のつながりが復活したのではなく(それならヨーロッパ的な思索が発見したアニミズムでも説明がつくが)、そういうのではなく、見方そのものが方法的に驚くべき相互浸透によって深くなっていて、方法と世界との区別さえつかなくなっていくことなのである。
禅や密教がこの事事無礙法界を見て一念発起したことはまちがいがない。たとえば『臨済録』の奥にある思想は華厳なのである。
かくして華厳はこのような華厳の観法をもって「海印三昧」に近づいていく。
ぼくの考えでは、本来の三昧とは「称える」(たたえる)や「称する」(名前をつける)が「称なう」(かなう)になっていくことをいう。言葉で解釈したり数学で理解したりしたことをこえて、その称した世界がその世界そのものに称なう境地で見えてくることをいう。
これを何というかといえば、これが「融通無礙」というものなのである。
しかし現代にあって、この「一即多」と「相移即入」の方法をもってしだいに現象界からノミナリズムをへて、言語と事物を融通無礙にさせていく思想がまったく浮上してこないのだ。
多くがせいぜいフッサールやレヴィナスに、カオス思想や複雑性にとどまったままにある。まして精神や意識の科学はまったく頓挫したままに、一人の錯乱を治療しえないでいる。それだけではない。現代の仏教がカオスや複雑性の思想の消化にさえ向かえないでいるというべきなのだ。
こういう今日、高銀が『華厳経』に着手して、そこに華厳世界観の奥への突破口を開いたことを称えたい。けれども、それはまだ称えるということであって、称なうということには、至らない。