才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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小倉百人一首

みやびとあそび

平田澄子・新川雅明 編著

新典社 2005

秋の田の仮穂の庵の苫の編み。
はらきまりひけしさ16枚。
にしにはつげが8枚。おほふくもとぐ7枚。
がすびた7枚。かちごまきれ6枚。
ここれのぬひ6枚。かかちよせ5枚。春花4枚。
すまへ4枚。ものを4枚。
かさかく風4枚。ままに3枚。
萩3枚。里3枚。みり3枚。から2枚。菊2枚。
のら2枚。ろも2枚。ふら2枚。
そして、むすめふさほせ7枚。都合百札。
古き軒端の忍ぶ草。なほあまりある昔なりけり。

 中京高倉押小路の家で母が「むすめふさほせ」を教えてくれたのは、いつごろだったろうか。娘の房を乾せ?
 9夜で丸谷才一さんの『新々百人一首』をとりあげたときも書いたことだが、わが家では百人一首は毎年正月の恒例で、母が読んでぼくと妹がこそばゆい思いで取りあうか、親戚のいとこたちがやってきて源平に分かれてキャッキャッ笑いながら取りあうか、その年々で少しずつ遊び方は変わっていたが、必ずやっていた。
 普段は着ないセーターなどの、その程度のちょっとおめかしをした晴れ着でいそいそ座卓や炬燵を横にどけ、座布団を並べて畳に札を並べる。やがて母が「そしたら始めるえ」と言って、綺麗な声で読みはじめる。その晴れがましい雰囲気や、いとこたちと顔を合わせ、一年に一度会う伯母たちと出会うのが楽しかった。

百人一首に興じる子供たち(明治時代)

 小学校5年くらいのことだったと憶うのだが、母は「むすめふさほせ」が“一字ぎまり”の札ですよと教えてくれた。「村雨の」→「霧立ちのぼる」、「住の江の」→「夢の通い路」、「めぐり会ひて」→「雲隠れにし」、「吹くからに」→「むべ山風」、「寂しさに」→「いづくも同じ」、「ほととぎす」→「ただ有明」、「瀬をはやみ」→「われても末に」。これらのアタマの一字をとってつなげると「むすめふさほせ」なのである。それをおぼえなさいというのだ。娘の房を乾すわけではなかった。ザンネン。

村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕暮
住之江の岸に寄る波よるさへや 夢の通い路人目よくらむ
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな
吹くからに秋の草木はしをるれば むべ山風をあらしといふらむ
さびしさに宿を立ちいでてながむれば いづくも同じ秋の夕暮
ほととぎす鳴きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞ残れる
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はんとぞ思ふ

むすめふさほせの7枚

 一字札をとるには「む」と聞けばすぐに「霧立ち」を、「す」と聞けば「夢の通い路」をさがせばよいのだが、むろんそうはいかない。6枚の上下の関係はすぐにおぼえられたとしても、その一字札が手札のどこにあるかを見ていると、次に読まれる札がわからなくなってしまって、困ったものだ。それに、自分のところに一字ぎまりの札がくると、そればかりが気になって目のやり場に迷う。
 百人一首は、声を文字にして目で追い、それを手で押さえるという遊びだ。プロたちは手で札を飛ばすけれど、子供たちは飴玉や虫を掴むようにベタッと押さえる。でも、声と目はなかなか合致してくれない。声の区切りが掴めない。
 だからいきおい、自分がとりやすい札ばかりがだんだん決まってきてしまう。最初は3枚くらい、それが年々20枚ほどにふえていく。最初の3枚は「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋は悲しき」「このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」あたりだったろうか。なぜこの3枚になったのかは、さっぱり思い出せない。
 それより当時の情景がはっきり浮かび出してくるのは、「人」のつく下の句の札がやたらに多いのが厄介だったということだ。「ひとこそみえね→秋」「ひとにはつげよ→あま」「ひとしれずこそ→思ひ」「ひとにしられで→来る」「ひとをもみをも→恨み」「ひとこそしらね→乾はく」「ひとめもくさも→枯れぬ」「ひとのいのちの→惜しく」「ひとづてならで→云ふ」‥という具合で、「ひと」「ひと「ひと」なのだ。これが紛らわしくて、嫌いだった。
 それでも「ゆ」や「も」や「し」で始まる読み札は、それぞれ2枚しかないのでわかりやすい。「あさぼらけ」が、次の「う」か「あ」で分かれるのも、やがておぼえた。「あさぼらけ・うぢの川霧」か「あさぼらけ・有明の月」かなのだ。ただし、「あさぼらけ」に似ているのは「あさぢふの」だから、「あさ・ぼ」か「あさ・ぢ」で取りにいく。
 その「あさぢふの」が出たあとは、今度は「あさ」で目を配り、さらに終盤では「あ」で手を動かすことになって、それはそれはめまぐるしい。こういう競技カルタも入口だけは覗いたけれど、あまり気乗りはしなかった。

【ゆ】
夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろやに秋風ぞ吹く
由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行方も知らぬ恋の道かな
【も】
もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし
ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり
【し】
白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
【あさ】
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里にふれる白雪
浅芽生の小野の篠原忍ぶれど あまりてなどか人の恋しき

競技カルタの大会風景
競技かるたの愛好者は100万人近いと言われる

 そんな程度だから、母が女学校時代には袴姿の「かるた取り」で鳴らしたというわりに、ぼくは百人一首の闘士とはならなかったのだが、それでも百人一首は大好きだった。
 ひとつには、下の句の札がすべて仮名文字になっていて、そのタイプフェイシャルな並びがおもしろかった。「よをうぢやまとひとはいふなり」、「けふをかぎりのいのちともがな」「ぬれにぞぬれしいろはかはらず」「すゑのまつやまなみこさじとは」「くもゐにまがふおきつしらなみ」といった仮名の並びが、何かを訴えてくる。
 ぐにゃぐにゃしているのに、どこかにゲシュタルト(1273夜)がはたらいた。子供にとって、それは判読不能の謎文字や判明不能の宝地図と睨めっこしているようなゲームであったわけである。白洲正子(893夜)も『私の百人一首』に、お家流のたっぷりした肉筆の読み札は、文字が読めない子供でも形を感じられたと書いていた。
 もうひとつには、調子と雰囲気。ぼくはお経の声や読み方に惹かれるタチなので、百人一首の読み上げの調子もすぐに好きになった。前の下の句が読みおわり、やおら一段と声が高くなって「あきのたの~」と張っていく。すぐに母を真似したくなったものだ。
 雰囲気のほうは正月らしさと和歌らしさに尽きる。「正月めく」「和歌めく」ということだ。とくに大人にまじって和歌めく気分は、なんともいえなく擽ったい。しかし“わかめき”(こういう言葉をつくるといい)なるもののニュアンスは、子供こごろにもちゃんと沁みこんでくる。つまりは「雅びなるもの」はあっというまに子供を包むのである。これが坊主めくりでは、そうはいかない。
 よくぞ、こういうものが考案されたものだと思う。日本の遊戯具というものの仕立ては、むろん将棋も囲碁も、花札も源氏香も、双六も投扇もよくできているけれど(それがパチンコやファミコンにまでなったわけだが)、百人一首ほどに「雅び」と「遊び」がつながっていて、それが今日なお家庭で生きているのはめずらしい。

江戸時代の百人一首かるた

 藤原定家(17夜)が小倉の山荘で百人一首を編んだ。『明月記』によれば文暦2年(1235)の5月あたりだった。しかし定家は、それ以前にエチュードともいうべき『百人秀歌』(嵯峨山庄色紙形)を選んでいて、それを手直しして「小倉山庄色紙和歌」、つまり百人一首の原型にしたと思われる。
 そういう定家の初期の編集経緯の真相はまだ研究者たちによっても突きとめられていないのだが、それともかく、それがいつしか百人一首という“歌組織”になり、カルタになっていったことについては、結構な変遷があったはずである。
 とくにアワセとカサネとツラネが意図された。そもそも巻頭に天智天皇(秋の田の仮穂の庵の)と持統天皇(春過ぎて夏来にけらし)の親子の歌が、巻末に後鳥羽院(人もをし人もうらめし)と順徳院(ももしきや古き軒端の)の親子の歌が、それぞれ配されたのが意図的である。あとはほぼ没年順に並ぶのだが、これらは定家の仕業ではないだろう。
 56番から和泉式部(あらざらむ)・大弐三位(有馬山)・赤染衛門(やすらはで)・小式部内侍(大江山)・伊勢大輔(いにしへの)・清少納言(夜をこめて)と女流歌人が並ぶだなんていうところも、とうてい定家のプランとは思えない。
 次に、あまり指摘されていないことだけれど、詞書(ことばがき)が削られた。これは和歌体であることからゲームとしての歌カルタ体に脱出変態していくという遊芸の意図をはっきりさせる。しかし誰がいつごろこんなふうな仕組みに興じる気になったのかは、まだ“和歌って”いない。
 歌仙絵がいつ読み札にくっついたかということも、ちょっとした謎である。あきらかに佐竹本「三十六歌仙」の藤原信実の絵が踏襲されているのだが、それが現存最古の素庵や道勝法親王の筆になる百人一首カルタ以前のどこで確立したのか、これも“和歌らない”。
 だいたい三十六歌仙には天皇は入っていないので、カルタにするにあたっては天皇を繧繝縁(うんげんべり)の畳に坐わらせるという絵柄の工夫をしているのが、ほほえましい。持統天皇の札ではわざわざ几帳を垂らしている。
 おそらくは蓋と身に同じ絵を描いた「貝覆い」が先行しているのだろうと思うけれど、ただし「貝覆い」が貝を伏せて遊ぶのに対して、百人一首では上の句と下の句が分かれていて、貝の裏表をどのように律したかは推測がつきにくい。仮りに地貝に上の句、出貝に下の句があてがわれたとしても、それでは和歌を暗記していなければ貝合わせはできないことになって、よしんば出所が「貝覆い」であったとしても、そこから何段階かの変転があったとしなければならない。

歌貝2種
2枚1組の歌貝を用いた『貝覆い』という遊びが古くから日本に伝わる

 なかで一番の変転は、上の句と下の句をたんに二枚に分けるのではなく、「読み札」に一首のすべてを書きこんでしまったことである。これでゲーム性と鑑賞性の両方が満足することになった。
 中村幸彦の『歌がるた』(『中村幸彦著作集』第3巻)によると、そういう“改革”を施したのは、細川家ゆかりの「しうかく院」という人物によるのではないかという。この人物が色の違う2枚の料紙に、和歌の全句を上の句札にして、下の句札と分けたらしい。
 中院通村が最も古いカルタの発注者であったということも、斯界には知られていることだ。通村はやはり細川幽斎の弟子で、素庵と光悦と宗達がコラボした嵯峨本のアドヴァイザーでもあったから、やはり百人一首は細川家に縁の深いところから街に躍り出たのかもしれない。
 こうして江戸の社会文化では、かなり初期から百人一首カルタが流行することになった。近松門左衛門の『娥(かおよ)歌かるた』という浄瑠璃にも、中宮御所で建礼門院と女官たちが百人一首カルタに興じている場面が出てくる。そのなかには「サア、上の句を読むぞえ」というセリフもあった。いや、近松にはけっこう歌カルタの場面が多い。
 だから江戸時代は、いろんな場面の、いろんな連中によって百人一首が遊ばれたはずである。とくに狂歌や川柳におびただしい百人一首の「もじり」(パロディ)があるのは、その証左になっている。たとえば最初の9首にして、次の如し。

(1)秋の田の御製の露は身にあまり
(2)いかほどの選択なれば香久山で衣ほすてふ持統天皇
(3)人丸の画像写すも長々し
(4)真っ白な名歌を赤い人が詠み
(5)赤人の尻に猿丸きつい事
(6)かささぎの恋ゆへ身をも若白髪
(7)天のはら古酒みれば奈良ぞおもふ
   三笠山に出し月かもおひまかも
(8)わが望む桟敷をよそへ渡されて世をうぢ山と人はいふなり
   わが庵はたつみあがりや鹿の声
(9)花の色のうつるや小町うば桜
   鼻の皺よりにけらしないたづらに我が身年ふけ歌うたふまに
   九人目は雨もふらせた女なり

 これを「もじり百人一首」という。元歌が日本の古典を代表する歌人ばかりのアンソロジーになっているのだから、ついつい揶(からか)いたくなってパロディにしたくなるのはよく和歌る。日本のパロディの歴史やミメロギアの歴史は、実は片や「源氏」で、片や「百人一首」でというものなのである。これを法政大学の江端崇は「源氏カルチヤー」と「百人一首カルチャー」の両輪と言っている。
 こうして蜀山人(太田南畝)の『狂歌百人一首』を頂点に、『犬百人一首』『戯場百人一首』『狂歌百人一首闇夜礫』、近藤清春が絵も加えた『どうけ百人一首』『今様職人尽百人一首』『江戸名所百人一首』など、どのくらい版行されたかわからないほどのアナロギア・ミメーシス・パロディアが、巷間に乱舞した。さっきも書いたが浄瑠璃にも、また落語や俗曲にも波及した。

百人一首のパロディ本『犬百人一首』

 そういう教養遊びを背景にして遊ばれてきた百人一首が、しだいに男女の集いの場になったのはいつごろだったのか。尾崎紅葉の『金色夜叉』(891夜)にはそんな“交際カルタ会”の場面が描かれているから、やっと近世末期か近代になってからなのかもしれない。
 さらにその百人一首遊びが、早取りを競いあう競技カルタになったのはもっとあとからのこと、「萬朝報」の黒岩涙香(431夜)が「東京かるた会」を明治37年に催したのがきっかけになっている。

 百人一首についての本はまことに多い。古くは安東次男の『百首通見』(集英社)、池田弥三郎の『百人一首故事物語』(河出書房)、林直道の『百人一首の秘密』(青木書店)、そのあとは島津忠夫や有吉保や鈴木日出男の全訳注もの、織田正吉の『百人一首の謎』(講談社現代新書)、松村雄二の研究、吉海直人の研究など、懐かしい。吉海の『百人一首への招待』(ちくま新書)など、新たな視点も加わっていた。最近は高橋睦郎さん(344夜)の『百人一首』(中公新書)もまとまった。
 ぼくもこうした本をなんとなく入手してはなんとなく“摘読”や“首読”をしてきたのだが、むしろ本格的な研究書よりもバラエティに富んだもののほうが、百人一首ものとしては手にとることが多くなった。マンガや「くもん式カード」などというのもあったっけ。

漫画『はいからさんが通る』

 そういうなか、本書は比較的新しい案内書だが、本気の解説と仮説の紹介と遊びとしての百人一首にふれた箇所とが、とてもいい案配になっていて、初心者にも中級者にも推薦できる。とくに謡曲・浄瑠璃・歌舞伎との関連に詳しいのが、出色だ。

 では、今夜は正月松の内の「千夜千冊百人一首」という趣向のつもりで綴ってきたので、最後に“六字ぎまり”の2首をとりあげておく。
 “六字ぎまり”は6枚ある。「あさぼらけ・あ」「あさぼらけ・う」で2首、「きみがため・はる」「きみがため・をし」で2首、そして「わたのはら・こぎ」と「わたのはら・やそ」の2首である。このうちの「わたのはら」の2首を案内したい。それだけでも話はいろいろ広がっていくはずだ。

A わたの原漕ぎ出でて見れば久方の 雲ゐにまがふ沖つ白波
B わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣舟

 この2首は両首ともに「わたの原=海原」や「漕ぎ出でる」を詠んでいて、かなり似ている歌に見えるかもしれないが、実はかなり異なっている。歴史的背景も編集術も、ほとんど似ていない。いや、この2首にはそれぞれ“恐ろしい”ものがひそんでいる。
 A「わたの原漕ぎ出でて」のほうは藤原忠通(ただみち)の歌で、この人の時代とのかかわりがなかなかなのだ。「公家の時代の終焉」にさしかかっていた。

法性寺入道 前関白太政大臣(藤原忠道)

 忠通は、百人一首の作者名では「法性寺入道 前関白太政大臣」とあるように、藤原一族の「氏の長者」であって、これより上の者はいない。25歳で関白になった。ところが父親の忠実(ただざね)が白河法皇の怒りにふれ、そのときに関白の座が忠通に移ったせいで、父子の関係が悪くなる。そのため「氏の長者」の地位も弟の頼長に奪われた。
 それだけではなく、これは有名な激突だが、同じ時期、鳥羽上皇と崇徳院が皇位継承をめぐって不和対立し、鳥羽上皇が没したのをきっかけに保元の乱がおこったのである。このとき忠通は先を読んでか、後白河側についた。このサイドには平清盛・源義朝がいた。他方、崇徳院のサイドには父の忠実、頼長、源為義・為朝がついた。つまりは、武門の台頭の決戦と、藤原一族の内部対立があからさまになったのである。
 結果は後白河サイドが勝って、崇徳院は讃岐に流され、忠通はこれでまた「氏の長者」に復活することになる。
 歌のほうは「海上遠望」がお題になっている。歌意は「広々とした大海原に船を漕ぎ出して眺めわたせば、遥かかなたには、白い雲と見まちがえるような沖の白波が立っている」というもので、ただ芒洋とした広大な光景をうたっているかのように見えるけれど、そうではないのだ。
 この歌は崇徳院が開いた内裏歌合で詠まれた。となると、「ひさかたの雲居」というのは、実は至尊の御座所を示していて、その雲居にまがふ白波は、朝廷を擾乱するかもしれない波濤の予兆なのである。忠道はその予兆を歌に詠んだのである。

 が、百人一首の解釈としては、これだけではまだ足りない。この歌は76番に配当されているのだが、その直前の75番が藤原基俊になっていて、「契りおきしさせもが露を命にしてあはれ今年の秋もいぬめり」の歌が入っている。ここには、忠通と基俊の関係が詠まれていた。
 基俊は自分の息子の光覚という興福寺の僧を、維摩会(ゆいまえ)の講師(こうじ)という名誉職につけたいと思って忠通にその斡旋を頼んだところ、忠通が「私にまかせなさい」と言ったのですっかりその気になっていたのに、その約束が果たされなかった。そこで基俊は恨みがましくも「契りおきし、させもが露を命にしていたのに、ああ、あはれ、今年の秋も過ぎていぬめり」と詠んだわけである。
 貴兄の「私にまかせなさい」という約束は恵みの露のような言葉だったのに、それを命綱としているうちに、早くも、今年の秋も過ぎ去ってしまったではないか。そういうブログのクレームのような意味なのだ。
 なかで「させもが露」がわかりにくいけれど、これは、忠通が「なほ頼め標芽(しめじ)が原のさせも草わが世の中にあらぬかぎりは」という歌で約束をしてくれたので(当時は約束も和歌めいていた。つまりはメールでのやりとりばかりなのである)、基俊は「契りおきしさせもが露」とメールを返したわけだった。露という言葉を使ったのは、忠道がさせも草というメタファーを送ってきたので、そこに置かれた露をアワセた。「させも」が、「さしも草」と「然しも」の掛詞になっている。

 この75番をうけてさっきの76番の忠通になるわけである。ところが、話はこれでもまだおわらない。これを引きずって、次の77番が続くのである。それが「むすめふさほせ」の「せ」にあたる、崇徳院の「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」になっていく。
 この歌は、崇徳院が自分の宿命を滝川の早瀬の流れに託しているもので、意思と事態とが分断されて別れ分かれになろうとも、必ずやその滅裂の末でも一志一事にしてみせようものを、と詠んでいる。激しい恋情を歌った歌だという解釈がふつうであるが、そんなことはない。これは恨みつらみどころではない、ここには狂気に近いものがある。
 崇徳院については、讃岐に流されたことに激昂して舌を噛み切り、その血で「日本国の魔王となりて天下国家を悩まさん」と書くと、生きながら大天狗の姿となって崩御したと伝えられている。
 その配流の場所の名がそもそも「雲井御所」なのである。その後、崇徳院の亡骸(なきがら)は白峯に移されて、そこで何がおこったかは、上田秋成(447夜)が『雨月物語』の「白峯」に壮絶にも悲壮にも描いている。また近松半二らの合作浄瑠璃『崇徳院讃岐伝記』では、魔道に堕ちた崇徳院が、一転、衆生を救う金毘羅権現になる。
 これらから、たんに「われても末にあはむとぞ思ふ」といえば、必ず崇徳院の怨念につながるメタファーになっていったのだった。また、この歌は当初は「ゆきなやみ岩にせかるる谷川の」というものだったのが、それをあえて「瀬を早み」「滝川」に手直ししたことで、崇徳院の激越な感情をさらに増水させていたということも、付け加えておく。

 一方の、Bの「わたの原八十島かけて」は、11番目に配当された小野篁(おのの・たかむら)の歌で、なんとなく雄大な海原の光景が広がっているようだが、やはりそんなナマやさしい歌ではない。実は貴種流離のマザータイプを背景にしている歌なのである。

参議篁と記された小野篁の札

 もともとは『古今集』に所載されていた歌で、詞書には「隠岐の国流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける」とある。隠岐に流されるだなんて、いったい何がおこったのか。
 小野篁は遣唐使に任命された。副使だった。それで準備万端をして難波の津に赴いたところ、出帆が遅れた。あげくに大使の藤原常嗣の船が破損したので、副使の篁の船と交換することになった。それで篁はむっとして乗船を拒否、「西道謡」(さいどうのうた)というものを詠んだのだが、それが嵯峨天皇の逆鱗にふれ、隠岐に流罪になってしまったのである。
 私は隠岐に船出することになったけれど、あの広々とした海原に点在する島をめざして出て行ったのだというふうに、都にいる人に告げてほしい。それを釣り舟の漁師に頼みたい。そう、詠んだわけである。
 それだけなら、やっぱり恨みつらみの歌じゃないかとも見えてくるが、いやいや、それだけでは和歌の問屋は卸さない。ここは、もっと踏みこんで、小野氏がそもそも小野妹子の遣唐使の歴史に始まっていたことを思い出すべきなのである。さらにさかのぼれば小野氏は和珥(わに)氏の系譜をもつ一族で、新羅・渤海・歴代中国地域とは頻繁な交渉歴をもってきた、いわば外交派の名門だったことを思い出すべきなのだ。
 その小野一族の名声を背負って声望高かった小野篁は、当然に漢詩も漢文もめちゃくちゃ強かった。それが藤原常嗣に正使がまわり、自分副使にさせられたことそのことが、もはや一族にとっての屈辱だったのである。
 だから、そういう篁を隠岐に流したのは、嵯峨天皇であるはずがない。仕掛人はむろん藤原一族なのである。
 というわけで、ここからは日本人独得のこの歌の背景にまつわる「類の記憶」が付託されていく。つまりは、そこが貴種流離のマザータイプが動いていくところなのである。

 実際にもこの歌は、その後も何度にもわたって「流刑の貴人」と結びつけられていった。
 まずもって定家が三十六歌仙にも漏れた小野篁を、この歌をもってあえて百人一首に入れたのは、おそらく後鳥羽院が隠岐に流されたことに符牒を暗合させたものだったろう。また、『太平記』にも後醍醐天皇が隠岐に流されたことを、「わが朝の小野篁は隠岐国にながされ、海原や八十島かけて漕ぎ出でたと云々」と言寄せているのだが、ここにもこの歌は暗澹たる影を落としていた。
 つまりは、この歌こそが王朝以降の「雅びの貴種流離」のマザータイプの歌となった一首なのである。ところが、ところがである。伝承というもの、どこでどんな想像力をかきたてるかわからぬもので、のちに小野篁はしばしば閻魔大王の化身とか冥官であると見立てられ、ついには霊界とも密接なつながりをもって語られることにもなっていったのだ。
 これは小野篁が六歌仙よりもまだ前の時代の人物で、和歌よりも漢詩に強く、やはり漢詩も強かった嵯峨天皇と幾多の才能を交わしあったことなどが、さまざまな「異能の転位」として語られたにちがいない。諸君、何か悔しいことがあり、許しがたいことがあったのなら、一人で切歯し扼腕したりせずに、せめて一首をのこすべきなのだ。
 それはそれ、こうしてこの歌は「八十島」とか「 あまの釣り舟」という言葉を、別のコンテキストのあいだに入れるだけで、どこにも「異能の転位」が通じることになったのである。宗祇の『筑紫道記』、謡曲の『竜虎』、竹本義太夫の『融(とおる)の大臣(おとど)』、怪談集『垣根草』などなど、この編集術を巧みに採りこんでいる。

 それでは最後にもう一言。
 この小野篁の歌の前10番には何が配当されているのか、御存知か。誰の、どんな歌か、御存知か。10番は蝉丸なのだ。「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」なのだ。蝉丸伝説がどういう内実をもっていたのかは415夜に逆髪伝説をまじえて詳しく書いたので省略するが、蝉丸が醍醐天皇の第四皇子でありながら、盲目のために捨てられたということは思い出していただきたい。つまりこの歌が10番にあるということは、すでに貴種流離が始まっているということなのである。
 そしてそれより驚くべきことが次に待っている。その10番の蝉丸の前の9番に配当されたのは、誰のどんな歌かは御存知か。小野一族のジェンダー・シンボルの歌だったのだ。説明はいるまい。次の歌をよく噛み締めていただきたい。ジャーン!

花の色はうつりにけりないたづらに
    わが身よにふるながめせしまに (小野小町)

小野小町像
(佐竹本三十六仙歌絵)