大隅和雄・西郷信綱ほか
日本架空伝承人名事典
平凡社 1986
ISBN:4582126065

 アの「愛護若」からワの「藁しべ長者」まで、ここにはずらりと日本の神話・伝説・昔話・謡曲・お伽草子・絵本・歌舞伎などに登場するヴァーチャル・キャラクターが勢揃いしている。俵藤太もいれば彦市もいるし、かぐや姫もいれば弁慶もいる。観音、八百比丘尼、太郎冠者なども入っている。
 ヴァーチャル・キャラクターだけではない。稗田阿礼、源信、安倍晴明、空也、楠木正成、水戸黄門、清水次郎長のような実在の人物も顔を出している。実在者であっても、その人物がさまざまな物語の主人公になったり、勝手な伝承の尾鰭をつけているばあいは、このリストにノミネートされているわけなのである。かれらは野史や稗史のなかで翼を広げ、架空の冒険と失意をくりかえし、誇張された喜怒哀楽を発揮した。
 したがって、ここには日本人の想像力の原点ともいうべき原型思考と想像力の多様性とが、ふたつながらアイウエオ順に集約されているといってよい。ぼくは何十回となくこの人名事典のなかを大好きな裏町をくまなく歩くように渉猟したものだ。

 実はこの架空伝承人名事典が刊行されたほぼ同じころ、角川書店からはもっと大部の『日本伝奇伝説大事典』が刊行された。当然、すぐ入手した。
 こちらは人名だけが項目になっているのではなく、事象、風景、事件、作品、職能、建物などとともに人名が並んでいる。むろん実在者も入っている。だから異類婚姻譚、宇佐八幡宮、檀風城、瀬田の唐橋、殺生石、如儡子、重井筒などでも、スサノオノミコト、空海、比企能員、竹中半兵衛、髭の意休、飯岡の助五郎などでも、引ける。ちなみにアは「相生杉」ではじまり、ワは「椀久」でおわっている。大事典というだけあって項目数も多いし、解説もかなり詳しい。飯岡の助五郎でいえば平凡社版の2倍の解説である。
 だからぼくはこの両方を駆使して遊ぶわけで、とくにどちらに編集力の軍配があがるというものでもない。
 が、ここでは人名にかぎってアーカイブの"棚揃え"をした平凡社のほうを採りあげることにした。べつに他意はない。

 世の中の出来事には、その後もさまざまなかたちで語り継がれるものがそうとうにある。それらは語り継がれるにつれ、潤色が加わり、登場人物がふえ、変貌がおこり、関連した場所やエピソードが膨らんで、ついに一個の見違えるようなフィクションとしての物語に至ることが少なくない。
 レヴィ=ストロースはそれを神話段階におけるブリコラージュとよんだけれど、ブリコラージュ(修繕)といったなまやさしいものではないことも少なくない。それこそまさに編集であり、しかも相互編集なのであるが、しかしこの編集は編集者が無名であったり、多数であったり、時代をまたぐこともある。そのため正史としての記述される出来事と、語り継がれるうちにまったく新たな虚構の出来事となったことが、人々の記憶のなかでは区別がつかなくなることもおこっていく。
 そこへもってきて、たとえば近松門左衛門が曾根崎心中事件を戯曲に、上田秋成西行を物語にしていったように、すぐれた作家の想像力がそこに加わると、これらの虚実皮膜の構造はまことにもって事実を上回るエディトリアリティに富み、燦然たる光を放つことにもなるわけだった。
 ぼくはこういうことこそが「想像力の自由な行方」というものであるとおもっている。

 大森彦七という武士がいた。
 南北朝期の伊予の国の者だが生没年はわからない。歴史上の記録も『太平記』の巻二十三に足利尊氏の陣営に属して軍功をあげたというばかりで、そのほかはまったく詳細がない。
 その軍功が、湊川の合戦で足利方の細川定禅に従って楠木正成を窮地に追いこんだということが、この大森彦七を伝説的な人物に仕上げていくことになった。なにしろ相手が楠木正成なのである。人々の想像力が逞しくなっていった。
 まず、正成が窮地に追いこまれたことを恥とおもう。これは天下の正成ならありうることである。恥を忍びそうである。だいたいこういう「~するはずだ」という庶民的な判断が、幾多の伝説のきっかけになる。ついで、その正成が亡霊となって彦七にリターンマッチをする。彦七もそこは譲れず応戦をする。正成は自分を苦しめた彦七の刀をとりあげようとするが、なかなか成功しない。そこで正成の亡霊は鬼女に変身して、さらに彦七に復讐をする。正成なら復讐までは似合わないが、鬼女ならば復讐こそがふさわしい。
 こうして物語は、正成の亡霊としての鬼女と勇猛果敢な彦七の呪術合戦に変わっていく。彦七は窮地に追いこまれ、辛うじて大般若経の功徳で救われる。ここでは仏教説話のパターンがつかわれることになっていくのである。

 やがてこの伝承は、時代物の浄瑠璃『蘭奢待新田系図』に発展した。近松半二・竹田平七・竹本三郎兵衛の合作である。明和2年に上演されている。
 それがまた明治に入って舞踊劇になった。福地桜痴の名作『大森彦七』である。これは舞踊として振付を得てまことにエレガントになっているだけでなく、彦七は業平の移し身になっていて、こうしてまたまた新たな物語イメージが加わった。ついに楠木正成と在原業平という日本を代表する二大スターがつながったのだから、これ以上の尾鰭はない。
 ざっとこんなふうに伝承伝説が膨れあがって、それが作家の創作性にまで結びつくわけである。
 では、もうひとつ例を出す。これはちょっと複雑になる。人名事典や伝説事典を何度も引きくらべなければならない。

 逆髪(さかがみ)という名の異形の女性がいる。
 生まれながらに髪が空に向かって逆立っている。醍醐天皇の第三皇女ということになっているが、そんな女性はどんな記録を見ても実在しない。謡曲の『蝉丸』だけに登場する。逆髪はまったくの虚構の人物なのだ。
 では、なぜこんな異形の女性が想定されたのか。実は醍醐天皇の第三皇女だという設定にすべての想像力が発育していく要因がひそんでいる。醍醐天皇の第四皇子といわれている人物に、蝉丸とよばれている謎の人物がいるからである。そうであれば、逆髪は蝉丸の姉宮だということになる。
 このことを物語にしたのが謡曲『蝉丸』で、盲目の蝉丸が逢坂山の藁屋で琵琶を弾いているところへ、逆髪怒髪の業ゆえに遺棄されて放浪をしている姉宮が立ち寄り、薄幸の姉と弟が束の間の奇遇をよろこび、なぐさめあい、二人が名残りを惜しみながらふたたび離れていくという筋書きになっている。ここでは蝉丸は盲人の琵琶の名手、しかも蝉丸もまた捨てられた宿命を背負っている。

 とりあえず、これだけでもさまざまな因数分解や積分が可能であろう。なによりも醍醐天皇がいる。この天皇は延喜帝ともいわれる名君であって、ここからさまざまな人脈や事歴が浮かびあがる。醍醐帝の子息や皇女や后たちも物語に関与する可能性がある。
 問題は第四皇子とされている蝉丸だが、「百人一首」に選ばれているほどその名を知られているのに、まったく経歴がわからない。例の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」は『後撰集』に入っていて、「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに」といった詞書がついている。名前からいって僧体である。だから、その名前から類推すれば、「丸」という名の日本文化史が引きずり出てくるかもしれない。

 盲目であること、琵琶の名手であることからも想像力がかきたてられる。盲目の琵琶法師は当道座を組んで平家語りなどにかかわっていた。そこには何十人、あるいは何百人がいた。なかには名人もいたであろう。ひょっとすると、そうした名人が所有していた琵琶の名器がかかわっていたとも考えられる。楽器流転伝説というのも、世の中ではつねに噂にのぼるものなのである。
 しかし当道座は南北朝のころにさかんになったもので、醍醐時代 にはそんなものはなかった。
 そこで調べてみると、『江談抄』に「会坂目暗」という者の話があって、その者は宇多天皇の皇子の敦実親王の雑色だったとある。名前ははっきりしないが、蝉丸か、その前身にあたる者らしい。逢坂は会坂でもあったらしい。
 さらには『今昔物語』巻二十四に、源博雅という管弦の名手が逢坂山の盲目の蝉丸のもとに3年通って琵琶の秘曲を習得したという話が収録されていた。これはかなり劇的なエピソードで、博雅が習得した秘曲が『流泉』『啄木』だとまで書いてある。『世継物語』には木幡にいた卑しい盲目の法師のもとに博雅が百夜通って琴の秘曲を授けられたという話になっている。琵琶が琴に変化し、小町の百夜通いのような話が交じっている。
 こうしたことを連結させてみると、醍醐天皇に近い者で落魄した者が、盲目となって琵琶の名人になっていたという流れが想定できることになる。しかし、はたしてそうなのか。

 一方、逢坂山というトポスにも何かが生まれる要素が隠されているはずである。実はこの逢坂関は平安初期より道祖神が祀られていて、平安京から東へ向かった最初の重要な関所になっていた。そこが急坂でもあったので、道祖神は「坂神」ともよばれた。
 坂神? そうなのである。
 逆髪のサカガミは実は坂神のサカガミかもしれない。しかも逢坂山は病気の者や賤民や下層民とも密接な縁をもつ場所で、どうもこのあたりに一種の下層民のセンターか芸能者のセンターがあったと考えられている。かれらは賤視されてしばしば"坂の者"とか"所の者"とよばれた。
 どうも蝉丸があやしい。高貴の出身のくせに、乞食のような日々を送っているし、盲目の琵琶法師になっている。しかしあらためて腰を落ちつけてみると、これを裏がえてして推理すれば、そのような盲目の琵琶名人があとから高貴の出身に見立てられていた、そのようにも考えられる。
 あるいは芸能者たちが自分たちのルーツを保証するために、高貴な人物を借りて仮託したとも想像できる。木地師や轆轤師たちはつねにそのように自分たちの職能が貴人との縁で起源したことを語ってきたものなのである。

 まあ、こういったぐあいにあれこれ想像を逞しくしていくと、そこに広範な「蝉丸伝説構造」といったものがあったことが浮上してくるのである。
 おそらくは芸能の始祖を誰かに託したくて蝉丸が延喜帝の第四皇子に擬せられたのであったろう。
 最初は源博雅のような人物が逢坂山か木幡かの"卑しい所"で、琴か琵琶を習ったというような話があった。やがてその"卑しい所"の者はたいへんな名人で、なぜ名人かというと高貴な生い立ちをもっていたということになった。そして、その名も蝉丸ということになった。
 そのうち博雅が抜け落ちて、蝉丸に通う者には坂神の加護がある者だということにもなり、その坂神がいつしか「逆髪」という女性になった。そして、その逆髪は醍醐天皇の皇女で、蝉丸もまたその隠れた弟だということになっていった‥‥。
 実際にも、逢坂山では中世になると蝉丸と逆髪を一対の男女神として習合させて「関明神」と称する信仰がおこっていた。『寺門伝記捕録』にはそのように蝉丸の御霊を合祀したのは、朱雀天皇だということになっている。これが流れながれて、いまは大津市にある蝉丸神社になった。
 本書には、このような蝉丸伝説が近松門左衛門の浄瑠璃『蝉丸』となり、さらに歌舞伎の『蝉丸二度の出世』『蝉丸養老滝』『蝉丸女模様』『蝉丸逢坂ノ禄』『相坂山鳴神不動』『若緑七種ノ寿』『梅桜仁蝉丸』などに変幻していったこと、『無名抄』に「関明神の事」があることなども添えられている。

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