才事記

美術建築師・菅原栄蔵

菅原定三

住まいの図書館出版局 1994

 伊東忠太・遠藤新・西村伊作・菅原栄蔵。この大正期に突出した建築家たちのことをまとめて考えたいとおもっていながら、何もはたしえていない。
 だいたい大正という時代の思想や文化を適確に説明することは、明治や昭和初期より難しい。まして相手は建築家。国家や資本ともろに交差しているか、あるいは住宅などがそうなのだが、その時代のライフスタイルに限定されている。また海外建築の動向と流行にも影響される。
 本書は、上記4人のなかでも資料がめっぽう少なく、ライト派建築家としての誤解も多かった菅原栄蔵を、三男の定三氏が“筋”を通して解説したもので、ぼくはこれを発売直後に読むのに栄蔵の内装設計がほとんどそまま残っている銀座のライオンビヤホールの片隅を選んだほど、その未知な歴史の細かい襞に浸りたかったものである。

 日本の近代建築は、ベランダ・コロニアル、ハルデスやウォートルスの活動、清水喜助らの擬洋風建築、洋式工場のブームなどをへて、鹿鳴館や上野博物館を建てたイギリス建築家ジョサイア・コンドルが育てた3人に始まった。
 辰野金吾・曽彌達蔵・片山東熊である。日銀本店や東京駅の辰野、京都博物館や赤坂離宮の片山の2人がよく知られているほどには曾彌が知られていないのだが、日本の社会に建築家というものが存在しうるんだという基礎を築いたのはむしろ曾彌だった。
 その曾彌が明治41年に辰野の弟子の中條精一郎と曾彌中條建築事務所をおこし、そこに大正6年に入ってきたのが、仙台に生まれて京橋で製図にとりくんでいた菅原栄蔵である。現場見習では東京海上ビルに携わっている。

 菅原栄蔵のその後は、伊東忠太と組んだとおぼしい新橋演舞場、いまも耕雲館として遺されている駒沢大学図書館、大日本麦酒の本社社屋、そして水戸の山口楼などとして結実した。大日本麦酒本社がいまの銀座のライオンビヤホールにあたる。ぼくは生ビールでグビリの趣味はないのだが、ともかく室内はほれぼれするほど、すばらしい。訪れたときは、わざわざトイレに行くふりをしてでも店内を観察するべきだ。
 ところで本書では、栄蔵のこうした作品の評価をいっさいしていない。あくまで履歴と事象だけに叙述を徹している。それだけに本書を読むと、何も語ってこない栄蔵の寡黙なデザイン性というものがひたひたと伝わってくる。

 それでも、二つのことが気になった。ひとつはその東北性、もうひとつは数寄者性である。
 東北性というのは、東北キリスト教会の活動の影響で東北出身の大正デモクラットには「全東北をキリストに」というスローガンが謳歌されていてそのもとに育った日本労働組合運動をおこした友愛会の鈴木文治や、大正デモクラシーの旗手だった吉野作造も、ともに仙台出身のクリスチャンだったのだが、菅原はクリスチャンではないにもかかわらず、この東北キリスト教ともいうべきを醸し出しているのではないかということだ。
 もうひとつの数寄者性というのは、菅原は生涯にわたって小堀遠州を好んでいたらしく、その書も遠州にあやかって定家流の書に習熟し、青年時代から楷書千字文を臨模していたのみならず、定三氏の推理では、もし栄蔵が趣味人としての人生を送れたならばきっと茶の湯陶芸の道に入っていたであろうという、そういう傾向がひそんでいたということである。
 実際にも栄蔵は有志や弟子たちとともに「手づくね会」と称した陶芸の会を催していて、駒沢大学の門前に借りた300坪の庭付きの自宅では、建築の話より数寄の話の花が咲いていた。その栄蔵の日本数寄に対する好みは、栄蔵が無茶法師こと川喜田半泥子を理想の数寄の陶工として憧れつづけ、その一方で魯山人を反面教師とみなしていたということに、よく象徴されている。
 このエピソードはよくわかる。なんといっても半泥子こそは当時の遊芸の真骨頂であり、その陶芸のきわどい屹立感はとうていライトもコルビュジェも、また大正を彩るバーナード・リーチも浜田荘司も及ぶものではなかったからである。
 けれども、菅原栄蔵がそのような存在であったということを、今日において偲ぶよすがが、あまりにも乏しい。

「サッポロライオン銀座7丁目店 1階正面(現在)