父の先見
日本のマッチラベル
京都書院 1998
世界一のマッチ・コレクターは日本人である。吉澤貞一さんであるが、亡くなった。いまは誰が厖大なマッチやマッチラベルとともに秘密めいた日夜を送っているのだろうか。
先々代の桂文楽や柳田国男もマッチコレクターだった。明治36年には日本燐枝錦集会というものも開かれている。そのころマッチラベルのことは「燐票」といった。同好会もいろいろ結成されて、あれこれコレクションを自慢しあったすえ、福山碧翠が63000の燐票を集めたというので、当時の日本一になった。マッチの天下人である。
いっとき「想燐」というマッチのための趣味雑誌も出ていた。たしか東塚広さんという人が編集兼発行人だったけれど、いまはどうなっているか。
ぼくもマッチが好きだし、マッチラベルにも気が惹かれる。とくにコレクションはしていないが、ちょっと変わったデザインのマッチがあると机の下の箱の中にとっておいた。店の電話番号を控える代わりでもあった。
ところが最近はおもしろいマッチのデザインがめっぽう少なく、店で貰って帰っても、しばらくすると捨ててしまう。煙草を吸うにもしだいにマッチを使わなくなってしまった。これは自分では堕落だとおもっている。だから、グラフィックデザイナーの市川英夫があいかわらずマッチを擦ってホープに火を点けているのに会ったりすると、ふと気まずい気持ちになる。
日本最初のマッチは新燧社のマッチである。新燧社の名はまさに燦然と輝いている。金沢の清水誠がフランスに留学して、そこで吉井友実にそそのかされてマッチ技術をマスター、明治8年に三田で試作に成功した。有名な黄桜印である。新燧社は黄桜印についで赤馬印・鶴印・赤鳳印をあてた。
実はマッチは関西が本場である。それも阪神間に集中する。いまでも健在の「姫路燐寸」という商標がこれをよく象徴した。マッチの本場を関西に移したのは公益社の井上貞次郎と、神戸マッチの伝統をつくった明治社の本多義知で、いずれも国内向けと輸出用を量産した。
こうした先駆者をうけて滝川弁三と安田浅吉の清燧社(せいすいしゃ)が出てくる。蟠桃のマークで一世を風靡し、さらにシノワズリー・デザインを駆使して中国を席巻した。それが国内に逆流して明治末期のデザイン・ムーブメントをリードした。
べつだん調べたわけではないが、ぼくの勘では北原白秋や三木露風や木下杢太郎のモダニズムや、竹久夢二や恩地孝四郎の感覚というものは、意外に燐票デザインと連動しているのではないかと見ている。
本書は明治大正期のそうした燐票を地域別、生産製造所別に集めたもので、著者は「ギャラリー上方」の人である。