アルベルト・マングェル
読書の歴史
柏書房 1999
ISBN:4760118063
Alberto Manguel
A History of Reading 1996
[訳]原田範行

 この「千夜千冊」を毎日毎晩書きながら、さらに新しい読書をつづけるというのは、「千夜千冊」そのものがぼくのささやかな“千日回峰”だという当初の覚悟をやすやすと挫くほど、ぼくをせつない気分にさせる。
 新しい読書の大半は新刊書あるいは買っておいたままになっている書籍である。「千夜千冊」にそういう新たな書物を加える規則も束縛もないのではあるが、以前に読んだ本ばかりを並べたてるというのがどうにも納得がいかないため、ついつい寸暇を割いて新たな書物にも目を通すことになるわけなのだ。それに、書店で気になった本をずうっと放っておくなんてことは、これまでの習慣上、とうていできない。
 では、それでいいじゃないか、せつなくなる必要などないではないかということだろうが、それがせつないのだ。なぜかというと、ちょっと読むというわけにはいかないほど熱中してしまう本が少なくないからである。そんな本は山ほどある。こうなると、どうしていいかわからなくなる。すぐには読み切れない。そこで、ありとあらゆる時間の隙間にその継続読書を挟んでいく。そうすると、「ねえ、そんなふうには読まれたくはないんだがね」という、その書物からの声が聞こえてくるのである。
 実は、本書も、そういう1冊だった。読み通すのに、4カ月くらいがかかってしまった。

 これはものすごい本である。どのくらいすごいかを説明するのが息苦しいほど、この手の本ではダントツだ。類書はとうてい及ばない。いや、類がない。
 まずもって、読書という体験こそが「経験」であると断じきっている。たとえば毎年『ハムレット』を読んでその感想を書きとめておくことは、それ以外のどんな経験を書きとめておくより、著者にとっては経験的なのだ。また、書物がお守りなのである。2巻本のロレンス・スターン『トリストラム・シャムディ』、ペンギン版のニコラス・ブレイク『野獣死すべし』、マーティン・ガードナーの『注釈つきアリス』などであるらしい。

 マングェルは、そもそも読書は累積的でなければならず、かつ買い進み読み進んだ書物たちはアタマの中や書棚の中に超幾何学のように構成されていくのだという信念をもっている。
 さらに、その書物が理解できるかどうかなどということは問題ではなく、その書物がむしろ「いつまでも未知の領域を含んでいる」ようにおもえることが読書家の醍醐味なんだと思っている。
 こんな読書家はあまりいない。すべては偏見に満ちていて、それでいてその偏見こそがこれまで多くの読書家が到達したかった目標なのである。ぼくが見るに、この偏見は書物が誘う蠱惑の条件を幾通りものフェティッシュに区分けできているところに発しているとおもわれる。

 なぜマングェルがこんなに多様な書物フェティッシュに、あるいはこんな言い方をしてもよいならぜひ言いたいのだが、多様な読書フェティッシュになれるかは、著者がブエノスアイレスでボルヘスの影響のもとにいたことをあげれば、少しはわかってもらえるとおもう。
 マングェルは、そのころすでに目が見えにくくなっていたボルヘスのそばで本を読んで聞かせる役目を仰せつかったのだ。だからマングェルのボルヘスへの傾倒は尋常ではない。ボルヘスが朗読の途中に挟む絶妙な合いの手はマングェルを大きく膨らませた。
 しかし、ボルヘス趣味だけでは、こんなふうには書けない。マングェルは独自の“鳥の目”と“虫の目”をもって、読書という世界像の構築に邁進していった。

 アレクサンドリア図書館のカリマコスのことなら本書を読むべきである。アミアン大聖堂のリシャール・ド・フルニヴァル司祭がどのようにソクラテスの読書方法を批判したかを知るにも本書を読むべきだ。
 この本には何でも書いてあるというのはありえないとしても、こんなことまで詳細に指摘されているという点では、何でも書いてあると言いたい。たとえば、ダンテが字義読書法と神秘読書法の二つの読み方で一冊の本を読み分けていたこと、シモーネ・マルティーニが描いた『受胎告知』でマリアが隠しもっている書物が何であるらしいかということ、エラスムスの著作の大半を編集したレナヌスの編集方法のこと、16世紀スペインの神秘家フライ・ルイスが森羅万象とは書物の中の文字のことではないかと指摘したこと、のちに聖人に数えられたデ・ラ・サールが『キリスト教社会における礼儀作法の規範』でどのように読書の習慣を口をきわめて非難したかということ、アンゴラの毛におおわれた爺い詩人ホイットマンがマーガレット・フラーという天才的な読書家に出会ってうけた影響のこと、カフカの読書法こそがカフカ文学の謎をとく鍵だというベンヤミンの見方のどこに限界があるかということ。
 こういうことはそのひとつでもほとんど知られてこなかったことであるが、驚くべきことに、そのすべてを関連づけて語れる男がここに、いた。

 本書は、その凝った構成にしてからがすでに読書という行為を意識している。
 冒頭に「最後のページ」があり、最後に「見返しのページ」が置いてある。むろんぎっしり文章が詰まっている。全体を「読書すること」と「読者の力」に分けていて、それぞれ10章があてられているのだが、よくよく読むと、この一冊の全体が来たるべき『決定版・読書の歴史』の不完全な準備であるように設(しつら)えられている。
 前半では読書を成立させている技法にまつわる視点、すなわち脳が文字を読むはたらき、黙読の発生、キケロからアウグスティヌスをへてペトラルカにおよぶ読書と記憶術の関係の追跡、文字を読むために人類が工夫してきた技法の数々(1世紀にクウィンティリアスが全12巻の『弁術教育』を書いていて、そこに文字教育から読書教育まで言及していたのには驚いた)、さらには挿絵と書物の関係、「読み聞かせる」という技法のこと、そして造本とブックデザインが取り扱われる。

 後半は「読者の力」だが、これが読書フェチを擽るにはすこぶるよくできている。
 最初こそ楔形文字のこと、写字生のこと、アレクサンドリア図書館のことなどの起源と発生を渉猟しているのだが、13世紀のヴァンサン・ド・ボヴェイの『知識の鑑』の紹介に入ってから俄然濃くなってくる。とりわけシビルとよばれた女予言者の言葉を書物がどのように吸収し、それを読者の力がどのように照応していったかというくだりは圧巻である。
 紫式部に注目して、これを「壁に囲まれた読書」というふうに仕立てた章、朗読者や翻訳者がどのように最初の読者になっていくかという問題を扱った章も悪くない。

 ところで、本には万引きがつきものだが、本書には盗書癖についての一章もある。「書物泥棒」という。
 ここでフォーカスがあてられるのはグリエルモ・リブリという伯爵である。無類の書物フェチで、レジオン・ドヌール勲章ももらっている。この伯爵がなかなかの曲者で、フランス各地の図書館を訪れてはめぼしい本をかっぱらっていった。大きなマントを着て犯行におよぶので、誰にも見つからなかったようだ。しかしマングェルはそのような話を紹介したうえで、あわてて盗書は古代図書館ができたときから始まっていたというローレンス・トンプソンの言葉を引いて、さっそく盗癖の擁護にかかっている。
 自慢できるわけではないが、ぼくも『遊』を創刊してまもないころまでは、本の万引には言い知れぬ緊張と興奮をもって挑もうとしていた。それなりに成功率も高かった。取次店に行くことが多く、そこの書籍倉庫がぼくを心から待っていた。
 が、あるときスタッフからそんなことをしていたら版元として申し開きのしようがないのだから、それだけはやめてくださいと懇願され、ピタリと盗書癖がなくなった。いまでは時効だろうとおもうので、付け加えた。

 以上、本書がどんな類書にも似ていない独断の書であることを言いたかった。
 たったひとつだけ、文句をつけたい。本書はブックデザインがよくない。ぜひ作り替えると、もっと話題に包まれることだろう。もし事情が許せば、2段組ではなく1段を通し、ハードカバーにもしてもらいたい。なんならぼくがデザインをしてもいい。

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