父の先見
わたしの渡世日記
朝日新聞社 1976
マセた本というものがある。
オマセが綴った本である。昔なら斎藤緑雨や宮武外骨の本、今なら佐高信やテリー伊藤の本、こういうのがマセた本である。
高峰秀子は日本一のマセた女優だった。わざわざくらべる必要もないが、知らない読者も多いことだろうからあえて老婆心で書いておくと、中野良子・桃井かおり・大竹しのぶ・松田聖子あたりにオマセを感じるのだとしたら、これらのオマセが全員かかっても相手にならない女優、それが高峰秀子なのだ。格段のマセなのだ。
こういう本はともかく楽しんで、読む。ところどころニヤニヤするし、ときにはびっくりするほどの冴えに堪能もする。
ともかく昭和初期の6、7歳のころのオマセな女の子が、そのままずうっと芝居や映画に出ているのだから、その業界の知悉ぶりには驚くべきものがあるし、独特のカンやチエで見抜いた人間批評や映画批評にも、また社会批評にも傾聴すべきものがわんさと詰まっている。
こんなぐあいだ。
曰く、日本映画にペシミズムをもちこんだのは山中貞雄である。曰く、文化学院の教育は野放図で半分デタラメだった。曰く、私の真実の姉は田中絹代だった。曰く、本物の喜劇役者は必ずや生真面目で孤独である。
曰く、杉村春子は背中でもセリフを喋れる天才で、その杉村についで私が尊敬した名優は丸山定夫だった。曰く、敗戦直後の日本の男たちは放心してただ闇市をぶらつくばかりだった。曰く、私の確信では天皇陛下はいい人だった。曰く、日本映画史上の三大美人は入江たか子・原節子・山田五十鈴につきる。
曰く、私が一番嫌いなのは映画界のパーティーだ。曰く、女が最悪になるのは宝石を身につけたくなってからである。曰く、人間には精神的なスポンサーが必要で、私には人生の後半を川口松太郎、池田潔、扇谷正造、大宅壮一、今日出海、池島信平、有吉佐和子…。まあ、よくも言いたいことを憎まれ口のように並べ立てている。
高峰秀子がタダモノでないことは、みんな知っている。
サラ・ベルナールやローレン・バコールと並べたいというのでなく日本の女優としてこんなに頑固で、こんなに屈託がなく、こんなに憎まれ、こんなに執念深い女優はいなかった。
その一方で、いったん高峰秀子に惚れると、たまらなくなるらしい。少女のデコちゃんを養女にほしがり2年にわたって養父をつとめた東海林太郎のような例はべつにしても、女になった高峰秀子を梅原龍三郎や小津安二郎や川口松太郎のように偏愛した男たちも少なくない。
その高峰秀子が文庫本で2冊800ページにおよぶ自伝を書きたいように書いたのだから、おもしろくないはずがない。当時の「週刊朝日」の名物編集長だった扇谷正造がくどいて書かせた。それにくらべると(くらべることもないけれど)、それがいまでは郷ひろみや二谷友里恵なのだから、何をかいわんやだ。
高峰秀子は函館の生まれで4歳からは孤児のようなもの、養父も養母も含めて、育ての親を何人ももって育った。
その育ての親たちが半端ではない。東海林太郎や田中絹代もその一人だが、秀子が文化学院から「学校をとるか映画をとるか」と言われたときの親代わりを申し出たのが、東宝社長の植村泰二、入江たか子、千葉早智子、大川平八郎、岸井明、監督の山本嘉次郎らの6人にものぼった。
こんな生活では恋もできないが、17歳の秀子がほんのり憧れたのは黒澤明だったようだ。が、養母の反対もあってのことか、黒澤は頑なに親しみをあらわさない。そこがまた秀子の黒澤に対する思慕や評価にもなったようである。
どうやらこのときの“初恋”を除いて、秀子が男にまいったのは昭和30年に結婚した貧乏映画人の松山善三だけだったのではないかとおもえる。
それほどに、この女優はすべての男女に“人間”としてつきあった。そして、その“人間”を嗅ぎ分けた。
その嗅ぎ分けが、本書ではたとえば、「日本の戦後は木下恵介と黒澤明と今井正がつくったようなものだ」というような、この人らしい炯眼となって、文中にしばしば炸裂する。
本書は、川口松太郎が「人生の指導書だ」と褒めちぎった言葉どおりの内容ではない。どちらかといえば時代を追った綿密な人生記録で、それぞれの場面も抑制的に書いてある。
それなのに、何かがはぜる。
つまりはオマセなのだ。ところがそのオマセがなんとも名伏しがたい滋味になっている。そのためついつい頷きたくなる。文庫版の解説に沢木耕太郎が書いているのだが、そのような滋味が出ているのは、高峰秀子が他人を書くときに他人に食いこみ、自分を書くときに自分を突きはなしているからだという。一理ある。
ところで、日本には女優の自伝というものがほとんど出現してこなかった。川上貞奴や松井須磨子このかた、苛烈な人生を送った女優は数多くあるのだが、田中絹代も水谷八重子も本格的自伝は綴ってこなかった。
それこそ杉村春子や山田五十鈴あたりが本気で書けばすごいものができただろうが、遠慮してなのか、文才を気にしすぎたせいなのか、そういうものがない。
これは、ちょっと見方を変えると、石井好子や福島慶子や犬養道子が先鞭をきった「女流文化人のエッセイ」とでもいうべき範疇にとらわれすぎているのではないかという心配になる。一流の男たちと丁々発止をしてみせた女性のエッセイだけが、もてはやされてきたせいだとも、いえなくもない。
高峰秀子が、そのような範疇にとらわれなかったことはさいわいである。けれども、これからはもっとオマセなことを日本の女優たちは綴るべきでもある。冒頭に引き合いに出した中野良子、桃井かおり、大竹しのぶに期待されるのは、そういう新たなオマセの爆発なのである。