才事記

「歌まね・ものまね」番組をよく見る。最近のコロッケやプロレスラーの一発モノマネ芸はつまらないが、コージー富田、原口あきまさ、福田彩乃、青木隆治、ざわちんなど、ときにほれぼれする。フツ、フッ、フッ、ひそかに贔屓にしている。ああ、あれあれ、そうそう、これこれと「思い当たらせる」のが、ものまねの真骨頂なのだ。「思い当たらせる」というのは編集力の賜物でもある。
ものまね芸はルーツが古くてその裾野もやたらに広い。そこには古代ギリシアこのかたのアナロギア(類推)・ミメーシス(模倣)・パロディア(諧謔)の伝統があるし、日本では世阿弥がもっぱら「物学」(ものまね)を最大限に重視した。ぼくなどは、そもそも「似せる」という表現こそが、すべての表象行為の原動力になってきたと見ているほどだ。ガブリエル・タルドの『模倣の法則』(河出書房新社)、アウエルバッハの『ミメーシス』(筑摩叢書)、カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)を持ち出すのもナンだが、カリカチュア、ミミクリー、ギミック、フェイク、イミテーション、シミュレーションは、思想にとっても最重要課題なのである。
ものまねは芸能だけでなく、肖像画、似絵(にせえ)、似顔絵、マンガ、パントマイム、メーキャップ、扮装、ファッションにも深く関係する。ぼくはコスプレにも唸ってみたいと思ってきた。だいたい思想と映画の大半がコスプレなのだ。現代アートから見ても森村泰昌やシンディ・シャーマンは極上の「ものまね芸術」だ。
ところで、「なりきる」と「誇張する」がまじってくると、そこに滑稽が生じる。滑稽とは字義通りには「すべって乱れて酔わせます」ということである。ものまねはそこに「本歌どり」と「見立ての妙」が加わる。たんなるお笑いやユーモアなのではなく、これは「擬き」の芸なのだ。「肖り」であり、「準え」なのだ。日本の芸能が「擬き」を主眼にしてきたことは、夙に折口信夫に詳しい。
大室幹雄に『滑稽』(岩波現代文庫)があった。古代中国で異人のありかたが強調されて、ストレンジャー(異人)が里人にとっての滑稽だったことを証して、折口のマレビト論の奥を覗いた。『のらくろ』シリーズの田河水泡は『滑稽の研究』(講談社学術文庫)で、マンガがどうすると滑稽になるのか、笑いどこで生じるのかを解いた。「ころび」に注目していた。どこで転ばせるか、そこがポイントなのだと言う。2年ほど前に刊行されたばかりの『〈ものまね〉の歴史』(吉川弘文館)は、なんと仏教学者の石井公成がまとめた。インド・中国・韓国の寺院芸能にあった滑稽芸が日本に来て、大幅に変化していく変遷を追った。まじめすぎる研究だが、ものまねが信仰と隣リあわせだったことには、頷けた。
先だって国立劇場で『妹背山』を見た。久々に堪能させてもらった。呂勢大夫に色気がふえて、勘十郎は華麗が漲り、蓑助さんはますます凛としていた。ちょうど「千夜千冊エディション」の新刊『芸と道』(角川ソフィア文庫)で、その口絵に玉男さんが時姫を操って世阿弥の文庫本を見ている写真を入れさせてもらっていたので、なんだか他人事ではなく見てもいた。
人形浄瑠璃は中世の傀儡(くぐつ)の辻芸をルーツにしている。傀儡は変ちくりんな人形だが、それが箱から取り出されてちょこちょこ操られるのが、おもしろい。おかしい。けれどもそれがしだいに極め付けの芸術に達した。竹本義太夫、近松門左衛門、紀海音、植村文楽軒らの才能がそうしてみせた。文楽である。人形は三人遣いになり、大夫の浄瑠璃と太棹の三味線が付いた。世界最高の芸術芸能だ。しかし、その奥は「口移し」であり、「人形ぶり」であり、「合わせ」なのである。つまりは「擬き」であって「準え」なのだ。
最近は若手旗手の竹本織太夫の『文楽のすヽめ』(実業之日本社)なども出て、若いファンも広がっているが、やっぱり安藤鶴夫の『文楽』(朝日選書)や竹本住大夫の『文楽のこころを語る』(文春文庫)あたりで冷や汗をかいたほうがいいように思う。何を真似るべきなのか、そこがキモなのである。
ところで先月、大屋多映子の『馬琴と演劇』(花鳥社)が上梓された。40代になったばかりの著者による、滝沢馬琴や山東京伝に出入りする「舞台」の影響に迫ったもので、浩瀚な出来になっている。近ごろは伝統芸能を女性が切り結んでくれることが多く、新鮮である。福田彩乃も大いに活躍してほしい。