才事記

最近になって、「読相術」とか「読相学」というものを考えている。どうも読書法とか読書術とか読書論という言い方に限界や桎梏を感じてきたからだ。マラルメやブランショのころまでは、読書という言葉にはちゃんと「書物」というオブジェクトが黒光りしていた。書物はモノリスだった。それにとりくむのが読書という格闘でありファンタジーであり、陶酔であり反逆だった。けれどもいつのまにか、そういう見方がすっかりなくなった。
読書感想文とか読書コンクールも、いまなお全国どこでも施行しているのだろうと思うけれど、管見するに、かなりひからびてきた。ビブリオバトルも狙いがよくわからない。まだしも学校での朝読(あさどく)のほうがいい。読解力を試す国語の問題づくりも低迷している。
こうした傾向は、書物や本を相手にしていないところに悪習がはびこったのである。文章を相手にしているだけなのだ。著者や執筆者の「言わんとしていること」を質すばかりで、著者や執筆者と交歓できていない。悪しきテキスト主義である。これではハイパーテキスト感覚など、とうてい醸成できない。テキストを正確に解釈するのではなく、本の表紙やページに触ったり離れたり、入ったり出たりすることが大事なのである。
読相術とか読相学というのは、フンボルトらの観相学(フイジオノミー)にも響くもので、モードやフェーズやアスペクトの「相」に注目する。その「相」が相似したり相転移するところを読む。基本的にはそういうことなのだが、もちろん学問として確立したいというわけではなく、ただみんなと本を読みながら、そうしたくなったのである。みんなというのはみなさん一般ではない。仕事仲間、千夜千冊の読者、イシス編集学校の師範代や師範たちのことをさす。
サルトルが読書のことを作者と読者とのあいだに結ばれた「ジェネロジテ」だと言って、所与ではなく贈与としての読書行為を強調したことがあった。ドゥルーズが「パレーシア」を持ち出して、本の中の語りが自分の存在の様式になるために鍛練することを読書として重視したことがあった。いずれも読相術の兄弟になりうるが、ぼくが勧めているのは、もっとカジュアルでファッショナブルなこと、あるいはアートなことだ。本やページや目次に出入りするたびに、なんらかの乗り換え、着替え、持ち変えがおこっているのだが、そのつどの「相」の変化に注目すること、これが前提なのである。
こういうことに注目しているのは、もともとぼくは「読み」というものは本やテキストを読む前から始まっていると見ているからで、われわれは町を歩いていても、コンビニで何かを物色しているときも、会話をしているときも、さまざまな「読み」をしているのである。そもそも知覚や認知が「読み」なのだ。これを仮に「潜読」の状態と名付けると、本やメディアや映画によって、われわれは新たに「顕読」をおこしているわけである。同じことを幼児もやっている。母親とともに潜読していることが、言葉や名前や絵本で新たに顕読されるのだ。
しかし、この潜読から顕読の過程は、テキスト的におこっているとはかぎらない。八百屋の店頭の「ごぼう130円」という書きなぐり、コマーシャルで急にあらわれる色のついた声、新聞の見出しの白ヌキの強さ、絵本の表紙の絵柄、アイドル歌手のメロディを伴った歌の言葉、そういうものも潜読状態にあり、顕読を待っている。読書は国語問題的におこるばかりではなかったのである。
しばらく前に、こうした読相術についてのメモをまとめて、仲間たちと共有しはじめた。いささか詳しいスキルやルーチンもも提供したが、どのくらい納得できるものになるかは、みんな次第なのである。いつの日か、ひょっとして「読相術」といったタイトルの本が登場することがあるかもしれないが(ぼくが書かなくてもいいのだが)、そのときは、この「ほんほん」を思い出してもらいたい。