父の先見
◆新しい元号が「令和」になった。中西進さんの提案だ。天平2年、太宰府の大伴旅人邸での梅花の宴で詠んだ32首の和歌に付けられた「序」からの採字である。ついに和書が出典になったと政府も巷間も沸いてはいるが、万葉集の「初春令月気淑風和」は『文選』の「仲春令月時和気清」からの翻文なので、「まるごとニッポン」というわけではない。王羲之の香りがする。
◆昭和の「和」がはやくも再使用されたのも、どうか。選考プロセスが堅すぎたのではないか。中西さんなら、そのへんの相談をすればもっと代案をつくってくれただろうに。万葉秀歌や古今集や源氏にブラウジングしてもよかったのである。『古今集』の真名序と仮名序の対比、藤原公任の『和漢朗詠集』の漢詩と和歌の重畳対比からして、すでに和漢をまたいだうえでの「まるごとニッポン」の試みなのだ。
◆これは冗談だが、マンガなどで遊んでくれるといいのだけれど、ヴァーチャルには仮名の元号があっても、おもしろい。たとえば「てふてふ元年」とか。マンガにでもなると末次由紀の『ちはやふる』(講談社)以上のものになるかもしれない。
◆それはそれとして、改元発表で万葉集が本屋に一挙に並んだ。このまま万葉ブームがくるのかどうか知らないが、これはこれでおおいに結構なことだ。ただしかなりの歌数なので、うまく遊べるかどうか。斎藤茂吉の『万葉秀歌』(岩波新書)、それこそ中西さんの『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫)、ビギナーズ・クラシック『万葉集』(角川ソフィア文庫)あたりで愉しむのがいいだろう。上野誠や鈴木日出男のものも入りやすい。ぼくとしては折口信夫の『口訳万葉集』(岩波現代文庫)を推したい。
◆万葉は日本人が「歌を詠む」という行為がいったいどういうものだったかということを、明かしてくれているものだ。日本人のリプレゼンテーションの方法がわかる。それは一言でいえば「寄物陳思」と「正述心緒」だ。「物に寄せて思いを陳(のべ)る」か、それとも「正に心の動きの端緒を詠む」か、この二つだ。むろん、日本語のリズム(律)や枕詞や歌語・縁語のルーツもわかる。ぼくは人麻呂の「代作性」に関心をもってから、万葉が詠みやすくなった。
◆アーティストとしての万葉に溺れたいなら、歌人別に読んだほうがいい。万葉はアートだから。入門的には「コレクション日本歌人選」(笠間書院)がとてもよくできている。人麻呂、額田王、憶良、家持、東歌・防人歌、そして大伴旅人などが一冊ずつになっている。このシリーズは古典から寺山修司のような現代歌人まで、実にバランスよくラインアップされている。
◆ところで、改元を機に「元号をどう思いますか」という街頭インタビューやアンケートがされているようだが、あったほうがいいに決まっている。ぼくはメートル法や太陽暦の絶対施行にも文句があるほうで、なんであれ呼び名はいろいろあっていい。人も町名もお菓子も国も、暦も校名も名所も会社名も、呼び名は愛称なのである。読売ジャイアンツが「巨人」でもいいように。ハンドルネームや道号や雅号はあれこれ出入りするべきなのである。どんなアイデンティティもグローバル基準になる必要はなく、どんなものも併用多様が望ましい。
◆元号が気になるなら、諡号や追号も気になってほしい。「諡」というのは「おくりな」のことだ。人だけではなく刀や器にも「おくりな」がつく。日本は「贈る」「送る」「諡る」の国なのである。これは自分で付けるのではなく、戴く(頂く)ものである。