才事記

対談本や座談本というのは、なかなか売れないらしい。なぜか読者が多くはない。たしかにダメ本が出回りすぎたせいもあるのだが、なんとなく面倒くさいと思ってしまうのだろう。実はおもしろいものはかなりある。エッカーマンの『ゲーテとの対話』(岩波文庫)から小林秀雄の『学生との対話』(新潮社)まで、古典的な名著も少なくない。丁々発止が愉しく、ふだんは隠れている衣の下の鎧も見える。
思想の模様が見えることも多い。クレール・パルネとドゥルーズの『ディアローグ』(河出文庫)やウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(メディアハウス)、佐々木閑・大栗博司の『真理の探究・仏教と宇宙物理学の対話』(幻冬舎)あたりは、対談仕立てじゃなきゃ読めない模様が見えた。編集力によるが、計画的な対話も見逃せない。大澤真幸と橋爪大三郎の『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)シリーズは話題にもなったが、なかなかよく出来ていた。
対話や座談の名人もいる。司馬遼太郎や小松左京がそういう人だった。話術がうまいのではなく、問題意識が自在に行き先を求めて動くのだ。この動きや飛びが貴重なのである。独特の調子がたまらない人たちもいる。ぼくが出会った人々では、禅の大森曹玄、日本文化の白洲正子、踊りの土方巽、神秘学の高橋巌、染色の志村ふくみが印象的だった。それとは逆に、何度喋っても好き勝手なことしか言わないのは稲垣足穂さんである。
かく言うぼくも、なんだかんだの対話本がある。ついでなので紹介する。ジョン・ケージやJ・G・バラードやスーザン・ソンタグと語らった『遊学の話』(工作舎)、レオ・レオーニとの『間の本』(工作舎)、石岡瑛子・楽吉左衛門・美輪明宏・島田雅彦・阿木耀子・辻村ジュサブロー・山口小夜子・安藤忠雄・萩尾望都らとの『色っぽい人々』(淡交社)、山口昌男・ジャック=デリダ・吉本隆明と話しこんだ『間と世界劇場』(春秋社)、平尾誠二とラグビーをめぐった『イメージとマネージ』(集英社)、エバレット・ブラウンとの『日本力』(パルコ出版)、茂木健一郎との『脳と日本人』(文芸春秋)、編集者が仕掛けたドミニク・チェンとの『謎床』(晶文社)、佐藤優との『読む力』(中公ラクレ)、田中優子との『日本問答』(岩波新書)などだ。いまも津田一郎との対談本が進行中だ(これはかなり濃い)。
というわけで、ぼくは対談や座談にはけっこう関心があるのだが、最近の現代思想カンケーでは対談・座談本のほうが著書よりも「弾んでいる」という例が目立っているようにも思う。たとえば、千葉雅也の『思弁的実在論と現代について』(青土社)は阿部和重・いとうせいこう・清水高志・小泉義之・吉川浩満・松本卓也らを相手に、あの堅い文章の千葉の、実はとてもナイーブな側面が醸し出されていて、けっこう味わえた。清水高志・落合陽一・上妻世海の『脱近代宣言』(水声社)も突っ込みどころが古典的かつ新鮮で、読ませた。落合が入ったよさだろう。東浩紀が石田英敬にとことん喋らせてみごとな誘導をしてみせた『新記号論』(ゲンロン)も適確な見取り図が次々に多重トレースされていて、楽しめた。東の控え方がよかった。ゲンロンカフェでの収録だったようだ。
文芸誌や総合誌や思想誌が売れない時代に突入しているが、それらに載っている対談や座談はしばしば虚を突いてくる。書店でパラパラめくって気になれば、入手されるといいだろう。