才事記

ぼくがなぜこんなにも本と交際してきたかということを、春を迎える前に述べておく。まずなによりも、本を読むことは思索を深め、自身の構想を多重立体的にしていくにはきわめて有効なのである。
われわれの思索というもの、なかなか充実しにくくなっていて、たえずワインディングや拡散をおこす。理由がある。第1に脳は自活できない、第2に内言語はぐるぐるまわる、第3に確信と連想の区別がつかなくなる。このせいだ。
そこで本を読むと、本が手摺りになってくれるのである。
本にはいろいろな著者たちの言葉と流れがすでに示されている。これは、未知の町には通りがあり、通りには歩道や信号があり、進むにつれて周囲にさまざまな店や看板が並んで待ってくれているようなもので、われわれはこれらを通過しながら何かを考えることができるようになる。本を読むとは、その流れを手摺りにして、自分の考え方の筋道と脇道を見極めたり、勝手な連想や妄想を広げているようなものなのだ。ぼくは本を思索のストリートガイドのようにしてきたのである。
もちろん、それで本の中身が理解できたかどうかは、別だ。ストリートガイドとしてはぼくの思索の欠陥をカバーしてくれたけれど、だからといって中身に入れたかどうかは別問題だ。そこで、本を読みながらマーキングをしたり、メモを書き加えたり、気にいったところをノートに写したりするようにしてきた。犬のようにおしっこをかけ、ビーバーのように小枝で絡み結びをし、カメラ小僧のようにスナップショットを残していくわけだ。
これで、かなり付き合い(交際)が深くなる。愛着も出る。エンガチョがふえるのだ。ただし、まだ充分というわけではない。できるかぎり、その道(その本)をもう一度、通ることが欠かせない。ざあっとでもいいから、もう一度、その本を見るのだ。瞥見読みである。ただし、このとき乗り物を換えるようにする。自転車にしたり、いちいち足で蹴るスケボーにしたり、自動車にしたりする。できれば着物も変えたり、持ち物もちがうものを持つ。
これでなんとか、最初のストリートガイドとしての本は知覚変換されたものになり、一冊の本は少しぼくなりのものになっていく。
本を読むとは、このように理解を深めるばかりが愉しみなのではない。本から本へ亙り、本と本をつなげ、本の中に別の記憶を埋め込んだり、仮説を遊ばせるということもできる。千夜千冊はそのためのぼくの稽古となった。読書はインプットばかりに精を出していても、ダメなのである。適度にアウトプットをすることも必要だ。これはゴミ出しや断捨離ではない。生命が適度にエントロピーを捨てているようなものだ。新陳代謝を動かすのである。
では、溜まった本はどうするかというと、本棚に入れる。このときさまざまな本の並びで、新たなアウト・リーディングを遊ぶのである。諸君、春は鉄までが匂うもの、本をいろいろファッションしてみてはどうか。