才事記

長らく千夜千冊を書いているので、ふーん、最近の松岡さんはこの本を読んでいるのかと思われがちなのだが、あれは採石場からの「切り出し」で、実際にはいろいろの石を読んでいる状態が継続している。
その「いろいろ」にも幾つかの筋目があって、これはと思った著者をそのまま続けて読む(お百度読み)、その本にまつわる別の著者の本を読む(親類縁者読み)、気分転換のためにその時のコンディションで何の脈絡もなく気楽に読む(反脈読み)、部屋での坐った位置でその近くの本棚から取って読む(腰掛け読み)、ゴートクジの仕事場をまわりながら物色して読む(棚卸し読み)というふうにかなりまぜこぜなのだ。そもそも読書はポリフォニックなのである。
小林惠子の『聖徳太子の正体』がちょっと変わっていたので、そのあとは『広開土王と「倭の五王」』『興亡古代史』(いずれも文藝春秋)、『大伴家持の暗号』(祥伝社)などをちらちら読んだ。クリストフ・コッホの『意識をめぐる冒険』(岩波書店)を読んだときは、そこにジュリオ・トノーニの総合情報理論の言及があり、そのヒントに導かれてトノーニの『意識はいつ生まれるのか』(亜紀書房)から十数冊の路線バスの旅が始まった。こういうことばかりしている。
最近のお気にいりは細胞・細菌・微生物である。ぼくはこの数年はネンキン生活をしているのだ。ブレイザーの『失われてゆく、我々の内なる細菌』(みすず書房)、デサールとパーキンズの『マイクロバイオームの世界』(紀伊国屋書店)が痒いところに手をのばしていた。
思い出し読みもする。ああ、あのへんずいぶんほったらかしにしてきたなと、何かの折りにその著者の流れに舞い戻るという読み方だ。テイヤール・ド・シャルダン、徳川夢声、蘇東坡、遊民研究の沖浦和光、ホッファー、神秘学の高橋巌、エーリッヒ・フロムなどだ。ダマテン読みも多い。レヴィナス、佐々木中、多和田葉子、片岡義男、森博嗣、片山杜秀、セール、東浩起、モラン、笙野頼子、阿部和重、宇宙物理学の佐藤文隆、デリダ、赤坂真里、ファイヤーアーベント、千葉雅也などは、まだ千夜千冊していないが、ほぼ隠れファンの気分で読んできた。
しかし、ふりかえって一番のコツは何にあったかといえば、何度も何度も繰り返して読んできたものがあったということだと思う。モンテーニュ、稲垣足穂、蕪村、シオラン、寺田寅彦あたりだ。これはみなさんにも、いまさらながら奨めたい。絵本でもマンガでも教科書でも、なんでもいい。数年単位の再読でもいい。できるだけ繰り返して読むことだ。まあ、水中歩行読み、もしくはビタミン読みである。
ところで、平成30年は思想本が突出できなかったように思う。ハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』(河出書房新社)はこの手の人類文化史ものが初めての諸君には恰好の入口になるだろうが、シュペングラー=ローレンツ=ダイアモンド型の読書に慣れてきた者には新しくはない。AIものが話題のわりにはつまらなかったのも目立った。アタマ打ちをしているにちがいない。本当は仏教思想の新たな展開に期待しているのだが、さあ、どうか。