才事記

このところ角川ソフィア文庫の「千夜千冊エディション」に追われていて、これじゃ好き三昧に本が読めなくなるなと思っていたのだが、なんとこれが逆だった。最近は目がおかしくてモニターを見ながら文章を打つのが2時間くらいでいったん、へたる。そこで、机を離れてそばの松岡正剛事務所が用意してくれたリクライニングチェアに身を移して目を休めるのだが、しばらくするとむずむずしてきて、まわりの本棚から本を取り出してパラパラ読みをする。これがたまらなく高速集中になって、とくに若い連中の思想もの、文芸誌の小説など、いくらでも進むのだ。むずむずがいいらしい。まったく因果なことである。「千夜千冊エディション」はおかげで『理科の教室』まできた。その前の『面影日本』は神田でベスト10に入ったらしい。どのエディションもそうだが、この仕事はぼくの集大成の一部を担っている。かつての千夜千冊を並べなおし、おそらくは50冊か80冊くらいにするというシリーズなのだが、一冊に20夜から30夜くらいが入るので、これを章立てをし、すべてにヘッドラインをつけ、さらに一行ずつすべてを読みなおして推敲する。加筆もあるし、削除もある。千夜千冊を書いたときの気分から抜け出て、新たな構成意図で綴りなおしているような気分になれるのだ。『理科の教室』は構成そのものを3度くらい組み直した。
これはいったい何をしているのかなと考えてみたら、それなりに長く歌ってきた歌手が、自分の持ち歌(レパートリー)でリサイタルをしているようなものかなと思った。毎回、レパートリーを替え、バンドもアレンジも衣装も違うから、気分も変わる。ただぼくの場合は、そのつど歌詞も少しずつ違っていくのである。『面影日本』も『理科の教室』も200カ所以上、味付けが変わっているはずだ。なかにはお茶漬けだったものが海鮮丼に、エッセイ風だったものが思想クロニクルを盛り付けた皿ものになっている。
ヤバイこともおこっている。エディションを始めると、足りない本がいくらだって出てくるのだ。千夜千冊は好きに一夜ずつを摘まみ食いをしてきたのだから、流れでは書いていない。それが4章立てや5章立てに選んで並べるということになると、ヌケが気になってくる。プラトンとエピクロスは書いていたのに、アリストテレスを書いていなかったという感じだ。とはいえ角川エディション用だけに新たに追加するわけにもいかないので、困るのだ。忸怩たる思いになる。そこで先を見通して、千夜千冊の最新夜にのちのちの流れを補填できる本を選ぶということになりかねないのだが、これは何がおこっているかといえば、本末転倒だ。日記を書くためにその日の出来事をふやしているというヤツだ。まったくもって因果なことである。
ところで新刊を出した。『雑品屋セイゴオ』(春秋社)というもので、35年前にSF雑誌に連載していたものを、太田香保と寺平賢司の勧めでまとめたものだ。ぼくの子供時代に執着した商品やオブジェを120個採り上げた。当時のぼくのフェチが洩れ出ている一冊になっている。菊地慶矩君が120枚のすばらしい絵をつけてくれた。もう一冊、手書きの原稿用紙のまま本になった『編集手本』(EDITHON)も本屋に並んだ。これは以前、編集工学研究所にいた櫛田理君と佐伯亮介君が入念に仕上げた。『雑品屋セイゴオ』も『編集手本』もザッピングがねらいなのである。クリスマスにどうぞ。