才事記

75歳になってから目の調子が思わしくなく、困っている。数時間ごとにワープロとコンピュータから目を遠ざけないと、ぼんやりしてくる(ぼくはワープロとPCを二重使いしている)。そうすると、思考のキレも悪くなる。だから机から離れて、ちょっと休む。肺癌手術のあと、仕事場の書斎に松岡正剛事務所がリクラニングチェアを入れてくれたので、そこで休むのだ。
声の調子も少しおかしい。人前で話していると、隙間があく。かつてはそういう隙間も何かのチャンスだと思って、そこで発想を加速させたりギアチェンジしていたのだが、そのキレも悪くなった。
キレが悪いとどうなるかというと、第1にこれまでストアしてきたレパートリーの棚からの引き出す技が甘くなる。第2にその引き出しについての自分の「当たり」がズレる。第3に連想力が落ちる。なんとなくアレだとは思うのに、そこへ一気呵成に向かえない。キレが悪くて、ズレがおこって、アレが思い当たらないのでは、処置がない。
もともとぼくの思考は、たくさんのレパートリー(目次録)にもとづいて、あえてキレ・ズレ・アレを活かして連想編集を愉しむというものだったのに、そこに齟齬が生じるのは、まことにヤバイのだ。
第4に手摺りと鏡の役割が変調をきたすようになった。これはどういうことかというと、ぼくの編集思考は少女たちがバレーを習うように、手摺りに掴まりながら鏡に向かって手足を動かしていくというレッスンから始まったのである。その手摺りがダーウィンや情報理論の手摺りだったり、芥川やベルクソンやヴィトゲンシュタインの手摺りだったりするわけで、そのどこに掴まったかを鏡(マッピングボード)に映しながら編集するのだ。だから手摺りはいつも違う。まあ、ボルダリングのカラフルなホールト(突起物)のようなもので、掴まるところが次々に変わる。
ところが最近になって、この手摺り(ホールド)と鏡(ボード)との関係がぴったりこなくなってきた。これまたヤバイのだ。アタマで掴もうとした箇所と、それが鏡に映って見せてくれるところの関係に誤差が生じるのだ。おそらく立体的な(トポロジックな)誤差だろう。これは立体顕微鏡を覗きながらの操作がまちがっていくようなものだ。
第5に以上のような編集思考を文章にしていくとき、迷うようになった。中身で迷うのではない。表出すべき転位のレベルに迷う。それまでの作業とはまったく別のことを書きたくなってしまうのだ。それなら最初からパスカルやモンテーニュや内田百間のエッセイでよかったのだ。
そんなわけで、いろいろ青息吐息なのだが、ところが、ところが、である。75歳になってから、なんと読む本の数がどんどんふえてきたのである。倍くらいになっている。これはリクラニングチェアで休むときに、しばらくたって回復感がやってきても、机に戻らず、近くの書棚から次々に本をパッセージさせるせいだ。これがやたらに気分がいい。いったん弛緩させた何かが、別様の動きを見せてくれるのだ。努力も集中もしていないのだが、どんどん読める。疲れればそのまま仮眠に入ればいいので、気楽なのだろう。
それで思うのは、そうか、ぼくはこうして死んでいくのだろうということだ。セミやチョウチョがどんなふうに死んでいくのかは知らないが、これまで飼ってきた犬や猫は死に支度を心得ていた。読み遊んで死んでいく、少なくとも仮死状態になっていく。これはけっこう悪くない。