父の先見
◆イシス編集学校には2年前から「多読ジム」が開設されている。200人くらいのメンバーが入れ替わり立ち代わりして、好きな本や課題の本をとことん読むためのネットジムで、誰それが何を読んでどんな感想をもったのかということが、お互いに見える。いわば共読ジムなのだ。何人もの「冊師」(さっし)という指南役というか、見守り役もいる。長い準備をへて木村久美子が構想した。ぼくはそこに「読相力」という視点を提供した。読みにも観相術が使えるといいよというヒントだ。
◆その多読ジムで、この秋から大澤真幸の『〈世界史〉の哲学』(講談社)という大著シリーズをみんなで読むことになった。すばらしいシリーズで、こんな本は日本になかった(世界でもない)。
◆古代篇がキリスト教と資本主義の両面から世界を眺望する見方を、中世篇は都市が「死体」によって繁栄した理由や愛を説く宗教がセックスを原罪にした理由などを解く見方を、近世篇がルネサンスと宗教革命とニュートン力学が矛盾しあい連携しあいしながら世界観をつくりあげようとしたプロセスを浮き彫りにする。近代篇は「主体の誕生」とドストエフスキーを通した「資本主義の父殺し」の2冊になっていて、西洋近代が大半の世界ゲームをつくりあげたのはどうしてなのか、その仕組みに問題がないのかということを問う。東洋篇はあれほど中国やモンゴルが巨大な世界帝国をつくりあげたのに、なぜ世界史の主人公を欧米が握ったのか、では東洋の思想システムには何が長けて、何がなかったのか、そこをめぐる。
◆大著であるが、多読ジムの有志に諮ってみたところ、ぜひとも共読したいという反応だ。こうしてさっそく『〈世界史〉の哲学』読みが始まり、大澤さんも乗ってくれた。きっと興味津々になってくれているのではないかと想う。終了期がたのしみだ。
◆大澤真幸がすぐれた視野と思考力とコミュニケーション力の持ち主であることは、デビュー作のスペンサー・ブラウンを扱った『行為の代数学』(青土社)、3冊目の『資本主義のパラドックス』(新曜社→ちくま学芸文庫)のときに感じていた。さっそくNTTの情報文化フォーラムのレギュラーメンバーに呼んだところ、めっぽう柔らかく、おもしろく、鋭い。彼のほうもぼくをおもしろがってくれたようで、千葉大学の特別講座で『情報の歴史』をめぐってほしいと言ってきたので、4日間通って話した。1日目は20~30人だったが、話しているうちに教室が満員になった。いまでも語り草になっているらしい。
◆大澤社会学は学問の是正よりも、ナマの社会が抱えこんだ矛盾と隙間の奥の要因を強烈に照射していく展開に特徴がある。「問い」と「例示」が出色で、実はナマの社会が制度や言葉や取引や同盟で成り立っている「代数」のようなものであること(つまりナマではないこと)が、次々に解明されるのだ。世の中で大手を振る「自由」や「正義」の議論のどこに眉唾があるのか、大澤ほど見抜いている社会学者は少ない。
◆どのように大澤は思索したり表現しているのかということについては、『考えるということ』(河出文庫)や『〈問い〉の読書術』(朝日新書)を、大澤の時代社会感覚については『戦後の思想空間』(ちくま新書)や『不可能性の時代』(岩波新書)を、実はオタクやサブカルをウォッチしているセンスについては『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(KADOKAWA)などを読むといい。
◆日本の社会学は総じて堅いか、左翼思想に覆われているか、言わずもがなの繰り返しだったのだが、やっと大澤真幸の出現でその様相が変わってきた。その全容が姿を見せてくれているのが『ナショナリズムの由来』(講談社)と、そして『〈世界史〉の哲学』なのである。これからはニッポンやネット社会にメスをふるってほしい。