才事記

やっと酸素ボンベを使わないですむようになってきた。ただし、声を出して話すとまだまだ息が切れる。ハーハーする。ハーハーすると言葉づかいが変調をきたす。それでみなさんに心配をかける。「松岡さん、ヤバクない?」。
思考はアタマの中の「ワードとフレーズのオーケストレーション」で指揮棒を振っているのだから、喋ると息が切れるからといって、言葉がもつ意味のストリームがひどく変形するわけではないはずなのだが、実際には「語り」がきれぎれになると、思考もふだんとは別の断続や連接をおこすのである。思い当たることは、いろいろある。
少年時代に吃音で悩んだこと、緊張するとうまく喋れなくなること、久々に京都弁で話題を話すとアホになること、睦事にはふだんの言葉が出てこないこと、手術後の数日は言葉が連続できないこと、猫たちと話すと赤ちゃんのようになること、森や林や庭のテラスで会話をしていると平易な話が多くなること‥‥。こういうこととカンケーがあるのかどうか。カンケーあるに決まっている。言葉は体の函数なのである。
さて、オリンピックとともに新型コロナの第4波が猛威をふるいそうになってきた。デルタ株などの変異ウイルスの強力な蔓延によると言われている。体内潜伏時間も2日ほど短くて、バンバン活性化するらしい。なぜ、かれらはわれわれの体を好むのか。そこで変異をおこすのか。ズーノーシスとマイクロバイオームを温床にしてきたからだ。これはいまさらのことではない。
『土と内臓』(築地書館)という本がある。デイビッド・モントゴメリーとアン・ビクレーが書いた。アレルギーやストレスが食べ物を通した「内臓からの信号」に左右されていることを告げていた。われわれの「調子」の多くが土にひそむ微生物にカンケーしているという本だ。モントゴメリーは『土の文明史』(築地書館)の著書でもある。大農場だ、整地だといって土壌をやたらにかきまわすな、それこそが文明をおかしくさせるという名著で、ユヴァル・ハラリやマルクス・ガブリエルを読むより、ずっと文明的な説得力があった。
モントゴメリーが注目するのは、土と体に共通するマイクロバイオームである。土の文明を左右しているだけでなく、われわれの体にひそむ腸内フローラなどのマイクロバイオームがわれわれのさまざまな「調子」を左右しているという話だ。こうした微生物がつくる「調子」の上にコロナ・ウイルスも乗ってくる。
土と体の両方にまたがる微生物の隠れた役割については、ロブ・デサールとスーザン・パーキンズの『マイクロバイオームの世界』(紀伊国屋書店)などがわかりやすく説明している。この本の第5章「私たちを守っているものは何か」にとりあげられている「ワクチン、免疫系、植物と動物の免疫、抗菌剤の正体」などのくだりは、必読だ。
さらに重大な警告を発しているのは、微生物学のマーティン・フレイザーが書いた『失われてゆく、我々の内なる細菌』(みすず書房)だろう。人体には細胞の3倍以上の細菌が活動している。ということは、われわれを構成している細胞の70パーセント以上がヒトに由来しないものだということだ。かれらはヒトに由来しないけれども、ヒトと共生してきた独自の有機的な群れなのである。われわれは3歳~5歳くらいで、そのヒト由来でない細胞を組み込んだ構成によって「自分」をつくったのである。ピロリ菌などが有名になった。
最近、「ポスト・コロナ」ということを合言葉にするきらいがある。ぼくも「ポスト・コロナ社会はどうなると思われますか」とよく訊かれる。空語ではないけれど、「コロナ以前に戻る」とか「コロナ以降を展望する」とかと、あまり設定しないほうがいい。地球系と生命系とわれわれ系はずっとまじってきたのだから、その「まじり」を研究する気になったほうがいい。
それにしても肺ガンで肺の一部を切除したくらいでハーハーし、ハーハーすると発話に損傷をきたすというようでは、ぼくもナンボのものかということだ。タバコと「復煙」するのではどうか。それはもっとヤバイというなら、俳句のように短い言葉で話をするというのでは、どうか。