父の先見
◆左肺上葉部の腺ガン摘出手術は無事おわりました。2度目だったので警戒していなかったのですが、術後の胸がけっこう痛いので、鎮痛剤を3種、一日3回のんで紛らわせています。こんなところに綴るのは横着ですが、何人もの方々からお見舞いのメッセージや祈祷のお札をいただき、ありがとうございました。励みになりました。築地の病院でみなさんのことを思い出していました。一人ずつにお礼ができないままで、ごめんなさい。
◆おかげで、いまは毎日、仕事場に行っています。ただし、まだ万全というわけではなく、有酸素呼吸力に少し難があるようで、自宅と仕事場に酸素ポンベが置かれ、ときどきこれで酸素補給をしてます。そういう姿はさすがに情けないもので、何か、がっかりさせられます。喋るときにハーハー息が切れるのも困ったもので、意図のアーティキュレーションが分断されてしまいます。
◆そのせいかどうか、このところ読書アビリティに変化が出ているように感じます。ページを開いて読み出したり、ここぞと読みこんでいくときの速度や深度に、ばらつきが出るのです。同じ読書姿勢を続けにくいのも要因でしょうけれど(すぐ背中が痛くなる)、こういう認知曲線に少しでも狂いが出てくると、内角低めのボールに手が出にくくなったり、バックハンドの打ち損じが出たりするのと同様で、いろいろな「読みの不如意」が出てくるのですね。
◆言葉をめぐる技能というものは、もともとたいそう微妙なものです。言語は、一方では文字や単語や概念の出来にもとづいてリテラルな言葉づかいを成立してきたわけですが、他方、発語する言葉のすべては必ずや「呼吸を吐くとき」に成立しているので、呼吸のリズムや呼吸量とともに発展してきました。この、息を吸いながらオラルな言葉を喋ることができないということ、息を吐くときだけ言葉が出るという片方性は、われわれに意外な言葉のアビリティの制限をもたらしました。
◆蝉や鳥とちがった方法で、哺乳動物が吠えたり唸ったりするようになったとき、すでに吐気とともに獣声を出すしくみができたのでしょう。それがヒトザルがヒトになるにつれ、咽喉や舌や歯や鼻孔のぐあいで複雑な言葉を操るごとく喋れるようにしたのでしょう。そうではあろうものの、このこと自体が曲者なのです。言語文化にいろいろな片寄りをつくったのです。
◆最初、われわれの呼気言語は、赤ちゃんや幼児の喃語のようにアーアー・ウーウー・エーエーといった母音中心の言葉でした。そこにク音やガ音やツ音などの子音をまぜる工夫が加わって、だんだん複雑な言葉を発音できるようになるのですが、このとき各地の風土や気候や食事による影響が出て。それが口唇事情に微妙な変化をもたらします。
◆こうして各部族・各民族の言葉に独特の違いが出てしまったのです。それぞれの母国語(祖語)が異なるものになったのです。それもフランス語やドイツ語やノルウェー語の違いだけでなく、同じ日本語でも津軽弁と名古屋弁と広島弁の違いもおこします。これは方言というより、生きた「土地語」です。けれども、ここが大事なところですが、本人たち(われわれ)には、そういうことは意識(自覚)できません。自分が喋っている言葉の特徴が意識できないということは、おそらくは人間の意識や自我の重大な特質をつくりあげた重大な要因になっているように思います。
◆そこへもってきて、世界中で国語教育が始まり、国語それぞれに標準語(基準語)か確立されました。これは自分の喋っている言葉とはまったく違うもので、先生やアナウンサーといった「言葉のアンドロイド」がつくりあげたものです。呼吸もプロのものです。これでますます「自分の言葉」の特徴が見えなくなったはずです。
◆近代以降、リーディング・スキルがすっかり「黙読」中心になったことも、自分の言葉づかいに意識を重ねていけない理由になっていると思います。黙って新聞や本を読むのは、もともとの言葉の呼吸リズムを無視して読むということで、「文字と目の直結」が呼吸という潜在力を度外視させているということなんです。はっきりいえば、黙読は「内語」の知覚から呼吸性を奪ったのですね。
◆おまけに最近はツイート文化の普及によって、相手の口語的なセンテンスを目で読んで、それに対する反応を親指で口語的発信する奇妙な慣行が広がりました。喋ってもいないのに、口語を親指送信するのですから、これはかなりメチャメチャです。いったいどんな複合知覚がこれからの言語文化をつくりあげるのか、容易には想像がつきません。
◆まあ、こういうことをあれこれ左見右見してみると、肺機能が少し低下して、ぼくのリーディング・スキルに変化が生じているというのは、ホモ・サピエンスっぽくて観察に足ることだということになるかもしれません。そんなこともあって、先週は山極寿一さんのゴリラ本を堪能していました。