才事記

心するものがあって、このところあらためて仏教を総浚いしている。いったんは古典古代に戻ってブッダの意図、原始教団のこと、アビダルマについて、大乗仏教の起こり方などを見直しているのだが、同時に21世紀にとっての仏教がどんなものだか、いろいろ判断をしている。アンベドカルやティク・ナット・ハンも見極めたい。木村文輝がまとめた『挑戦する仏教』(法蔵館)、ケネス・タナカの『アメリカ仏教』(武蔵野大学出版会)なども参考になった。
日本の近現代の仏教も抉らなければならない。そう思って曽我量深などを読んでいたのだが、大谷英一らが『近代仏教スタディーズ』(法蔵館)という愉快で精緻なガイダンスを仕上げてくれた。この本はみんな、買っておくといい。初めて「もうひとつの日本近代」が見えてくる。
「現代思想」10月号が「仏教を考える」という特集をした。冒頭、末木文美士が近松から入って近世の釈迦伝を浮き彫りにしているのと、安藤礼二が得意の大拙・折口・井筒を交差させて「東方哲学」をスケッチしているのがあいかわらずの手際だったが、ぼくは宮川康子が富永仲基と慈雲飲光を取り上げたのがおもしろかった。仲基も慈雲もほとんど議論が置き去りにされてきた近世仏教者なのである。とくに仲基の「大乗非仏説」はいまこそ検討されるべきものだ。
いま日本の寺には、とんと力がない。ボーズたちも鬱屈しているか、当たり障りのないことばかりを言っているか(へたくそ説法ばかりだ)、遊んでばかりいる。むろん例外はあるけれど、このままで日本仏教がアクチベイトするはずはなく、といって、こういうときにどのように革新者が出現してくるのか、その様相をの予想もつかない。近現代仏教はこれまで新興宗教者以外に、この手の革新のシナリオをもってこなかったのだ。オウム真理教の傷など気にすることなく、ここらで猪突猛進が見てみたい。