父の先見
◆このところ格闘技のユーチューブをよく見る。武術アクター坂口拓の『狂武蔵』の電光石火の手際に感心したのがきっかけで、次に朝倉海を、ついで元パンクラスの船木誠勝が淡々と語るものを見て、一気に関連映像を渫った。
◆ぼくは長らく前田日明一辺倒で(いまもこれは変わりないが)、そのぶん他のレスラーやボクサーや武道家を見続けるということをあまりしなかったので、いい機会になった。桜庭和志もミルコ・クロコップも吉田秀彦も一挙に見て、ときとぎ船木の解説語りに戻ると、これがなかなかの味なのだ。ヒクソン・グレイシーに落ちて、その直後に引退宣言したのが船木の奥行きをつけたのだろう。
◆ところで、読書にも格闘技のような技がいろいろある。投げ方を読む、打撃を読む、関節を読む、呼吸を合わせる、呼吸をはずして読む、いろいろだ。ただ読書は(最近は読相術という言い方もするのだが)、勝負を争わない。そこがまったく異なる。また、読んでいる最中の技が外には見えない。だから多くの読書が孤読になっていく。
◆実は、読書のプロセスを少しは外に見えるようにできるかと思って始めたのが千夜千冊だった。もう20年続けたことになる。しかし最初はまったく理解されなかった。いまは多少は知られるサイトになっているけれど、2000年に始めた当初は細々としたもので、すぐさま「ネットで書評したって読まれっこない」「1回分が長すぎる」「自分のことを書きすぎている」とか言われた。
◆500夜前後でアクセス数が100万ビューに達したころは、今度は「なぜ有料ブログサイトにしなかったのか、もったいない」「松岡ならメルマガのほうがもっとおもしろくなるだろう」「こうなったら3000冊をめざせ」云々だ。みなさん、いろいろよく思いつく。
◆書評サイトだと見られている向きもあるようだが、そうではない。書評をするつもりはまったくなかった。批評したいとは思わなかったからだ。ケチをつけるために本を選ぶのはフェアではないし、そもそもケチをつけるほどラクな手口はない。それより、どういうふうに著者やその本をアプリシエートすればいいか、いい格闘技を愉しむか、そこ念頭においてきた。
◆とはいえ気楽に書いてはこなかった。どんな難解な本も必ず要約を欠かさないようにした。あえてネタバレも冒した、ただし、要約編集の仕方を工夫した。千夜の読書はまずはコンデンセーションなのである。
◆格闘技には、かなりいろいろのルールがある。柔道とキックボクシングとはまったく違うし、ボクシングと空手と合気道は、素手とグローブの差もあれば、組み方の違いもある。主宰団体によっても異なる。UWFとパンクラスとリングスはその違いがおもしろかった。それぞれよくよく練ったのだろう。
◆読書や読相術は本を相手のちょっとした格闘技だけれど、やっぱり本によって読みのルールが変わるのである。小説を読むときと学術書を読むときは変わるし(もともと小説と学術のルールが違う)、量子力学の本と進化論の本もルールが異なる。速読術はお勧めしないけれど、このルールをマスターし、体感すれば、いくらでも速く読めるはずである。
◆読書には乱取りも十人斬りもある。何冊も一緒に読みながら斬りまくるのだ。これは将棋や以後の十面打ちより、ずっと格闘わざに近い。もっともそういう乱暴しないで、何をどう読んだのか、そのプロセスを多少は実況しようというのが千夜千冊だったのである。あと100冊くらいは続行することになるだろうか。