才事記

きのう、浅草のギャラリーで、松田行正・臼田捷治と「戸田ツトムのブックデザイン展」をめぐる鼎談をしてきた。聴衆はすべてリモート。こんなに早く戸田君が亡くなるなんてと思いながら話したので、あの繊細で鋭く、切断と陰影に充ちていた戸田君のエディトリアルデザインを偲ぶのが痛ましかったが、せめてブックデザインやエディトリアルデザインのことがもっと世の中の話題にのぼるようにとの思いで、あれこれ話した。
本というもの、実に多様な職人と諸事情とコンテンツが集約されて出来上がっているもので、「著者がいて、本ができました」なんてことはありえない。版元、エディター、著者、ライター、文字組、写真家、図版屋、印刷関係者、製本、書店、販売営業、帯づくり、いろいろな努力としくみが複合化する。それが本だ。ブックウェアだ。なかで「造本」という領域が実に多彩な仕上げに向かっているわけで、この分野のことはもっともっと語られなくてはいけない。
ぼくはさいわい杉浦康平さんの薫陶を受け、30代に「遊」を通して多くのクリエイターに出会えてきたので、本や雑誌がどのように出来上がり、どんな才能が起爆したり切り取られていくかをつぶさに間近で体験することになったけれど(その現場に戸田君もいたわけだが)、いまは何でもネットでコミュニケーションができると思われ、ウェブユーザーがオーサリングできていると勘違いされているので、本の「独壇場」がどんなものかは、ますますわからなくなっている。残念だ。
貨幣が電子マネーになったわけではなく、森の生活が都市のビル住まいになったわけではなく、演劇が古典ギリシアとともにあるように、今日の本も2000年にわたる積層された変遷を、いまなおあれこれ演じているのである。戸田君や松田君はそれを引き受けてきた。
そういう本の姿を思い切った方法でもっと堪能してもらおうと思って用意した「エディットタウン」が、角川武蔵野ミュージアムの4階に、高さ8メートルの本棚劇場とともにオープンした。ワインディングするブックストリート、違い棚ふうの本棚、大小4段階におよぶ立体見出しの出入り、天井から吊り下がる数々の多変バナー、横置きを辞さない提示法、本棚に埋め込まれたチビモニターたちなど、いろいろ工夫してみたので、かなり賑やかだ。おかげでかなり話題になっている。
本はつくるときにはいろいろの手立てが総合されているのだが、これがいったん流通に入ると、まことに寂しく、通りいっぺんになる。大手取次店の配本にもとづき、書店も図書館も十把一からげになっていく。図書館の10進分類も管理のためばかりで、なんら訴求力がない。閲覧室は病院のようだし、書庫は墓場のようだ。
とくに書店は、もっと好きに棚組みをしたり好きに飾ってもいいはずで、本以外のものも置いてもいいのに、そうしない。これではネットに顧客を奪われても仕方ない。だいたい書店はサービス業だと思っていないようだし、書店員は「いらっしゃいませ」も「ありがとう」も言わない。本を見て、本を選ぶという行為にまつわる工夫もしない。たとえば本は3冊以上持ってレジに行くのが手いっぱいになるのだが、ちびカゴもカートもない。
一番まずいのは、書店は「知的なお店」だと思いすぎていることだ。本はそもそもありとあらゆる分野をカバーしているコモディティで、そこには哲学からポルノまでが、お仕着せから被害の告発までがある。くだらない本もたくさん混じっていて、それで本屋さんなのである。済まして並べていて、いいわけがない。
ついでに言うけれど、ブックカフェなるものもふえているようだが、かっこを付けすぎていて、いただけない。もっと、片隅にボロボロのマンガ本が並んでいた昭和の喫茶店のようものも、復活してほしいのである。ぜひエディットタウンを見てほしい。