才事記

◆プーチン・ロシアのウクライナ侵攻が日々刻々報道されている。苛烈なミサイル攻撃が都市と施設に炸裂し、攻守入り乱れての戦闘が交錯し、国民や市民や家族が必死に移動して、二重三重四重の経済制裁が発動される。泣き叫ぶ老婆、わが子を失った若い母親の悲嘆、瓦礫になっていく街が、毎日テレビ画面やネット画面に映し出されている。
◆そのなかで、バイデンのステートメント、プーチンの公式会見、各国首脳の対策提示のニュースが平静を装うかのように流れ、その隙間を破るような普段着のゼレンスキーのナマ声ナマ画面が、ポップアップのように飛び出てくる。これは尋常ではない。
◆オミクロンの感染、北京パラリンピック、中国全人代、韓国大統領選挙、通貨と株価の変動、震度6の地震、そして当然ながらありとあらゆる出来事が、この戦乱の渦中でも同時平行して勃発・施行・上演・管理しつづけているのだが、これらがプーチンとゼレンスキーのシナリオの進捗と変更とは写し鏡にはならない「別件」のように感じられるのは、当然である。湾岸戦争やイラク戦争やシリア内戦とは何かが異なる「戦乱」が白日のもとに晒されているはずなのに、その実態はウクライナの日常の凄まじい破損を通してしか伝わってこないのだ。いったい、われわれは何に立ち会っているのか。あるいは何に立ち会えていないのか。
◆1998年5月、ニューヨークタイムズで95歳のジョージ・ケナン(元ソ連大使)がNATOの東方拡大についてのインタビューを受けて、「新たな冷戦の始まりになる。ロシア人は強く反発するだろうし、ロシアの政治にも影響を与えるだろう。悲劇的なあやまちだ」と述べた。このケナンの記事をウィリアム・ペリー(元国防長官)が自著の『核戦争の瀬戸際で』(東京堂出版)に引いて、さらにこう書いた。「冷戦終結とソ連崩壊はアメリカにとって稀なほどの機会をもたらした。核兵器の削減だけでなく、ロシアとの関係を敵対から融和へと転換する機会がやってきたのだ。しかしわれわれはそれを掴みそこねた。30年後、米ロ関係は史上最悪になる」。
◆まさに史上最悪になった。プーチンの堪忍袋の緒が切れた。その兆しは、2008年にNATOがウクライナの将来的加盟の可能性をユシチェンコ大統領に矛盾したことに始まっていた。2004年、すでにエストニア、スロバキア、スロベニア、ブルガリア、ラトビア、リトアニア、ルーマニアがNATO加盟していたから、この予告は問題がなさそうに見えた。プーチンがそのころからウクライナのヨーロッパからの隔離を謀っていたことを、昨日、91歳のゴルバチョフのインタビュー記事を読んで知った。ゴルバチョフはプーチンがKGBのころからNATOとの戦いを強調していたとも言っていた。
◆NATOは「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」ために結成された軍事同盟である。冷戦終結後は東方の巻き込みが眼目になっていた。そこにアメリカの東欧ミサイル配備、領空開放条約が重なり、ロシアはジョージア(グルジア)、ウクライナのNATO参加を警戒しはじめていた。
◆2008年、プーチンなジョージアとウクライナがNATO参加に踏み切るなら、ロシアはクリミア半島を併合するためウクライナと戦争すると、公然と表明した。ただ、トランプがNATO不要論を吹聴しはじめたので、この戦火はお預けになっていた。しかし、ここからウクライナの方が燃えはじめた。
◆アンドレイ・クルコフというウクライナの作家がいる。新潮クレスト・ブックスに『ペンギンの憂鬱』と『大統領の最後の恋』が入っている。レニングラードに生まれてキエフで育った。日本文化にも詳しく、川端・三島の愛読者にとどまらず、和歌・俳句・旋頭歌を嗜む。
◆心身症のペンギンを飼っている売れない作家が食いぶちのために死亡記事のライターをしているうちに不穏な事件巻き込まれるという『ペンギンの憂鬱』は、読ませた。『大統領の最後の恋』はさらに意外だ。恋に見放されたセルゲイ・ブーニンという男が大統領になるのだが、かつて心臓移植手術をしたその心臓の持ち主があらわれて、ブーニンは自分の思考がどこからどこまでか混乱するのに、その心臓の持ち主である女性に惹かれるというあやうい話になっていた。
◆クルコフには『ウクライナ日記』(ホーム社)というマイダン革命をドキュメントした作品もある。ヤヌコヴィッチ大統領がウクライナのEU加盟の算段を裏切ったことに反対するキエフ市民が、155日にわたってマイダン(独立尊厳広場)に集会を開き、なんとか決起しようとした刻々と顛末を追った。2014年2月に大統領が国外に逃亡して事態は雲散霧消するのだが、クルトフはそのキエフに集中する民衆の怒りを、事実経過をもとに透明に描こうとしていた。
◆普段着が好きなウォロディミル・ゼレンスキーは、このマイダン革命に刺激を受けて登場する。翌年のテレビドラマ『国民のしもべ』全24話を元気に主演したのち、2019年の大統領選挙に立候補すると、決選投票で当選した。相手はオリガルヒ(新興財閥)出身の現役大統領ポロシェンコと元首相のティモシェンコだった。これでゼレンスキーは圧倒的な人気で政界リーダーになったのだが、ミンスク合意で決められていた親ロシア派の分離独立を認めなかったため、ロシアとの関係が悪化して、そのぶん一気にNATO加盟を謳う欧米派に接近した。その主旨はわかりにくく、2021年10月には支持率が25パーセントまで落ちた。プーチンがベラルーシとの特別軍事行動に踏み切ると見たゼレンスキーは、ここで敢然と立ち上がり、うっちゃり作戦に打って出た。支持率は90パーセントを超えつつある。ロシア語読みはウラジミール・アレクサンドロヴィッチ・ゼレンスキー。
◆ウクライナは中世以来のキエフ大公国の伝統をもっている。東スラブの中心で、キリスト教正教を奉じ、大穀物地帯とロシア・フランスに次ぐヨーロッパ3位の軍事力を誇る。4000万人の人口もヨーロッパで4番目に多い。そうではあるが、歴史的にはつねに領土がポーランド・リトアニア、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国などによって分断されてきた。ロシア革命期に民族自決が高まってウクライナ人民共和国を宣言したのだが、ソ連・スターリンの圧政に苦しんだ。第二次世界大戦ではドイツ軍からもソ連軍からも侵攻をうけた。やっと独立したのが1991年だ。独立のときに中立国を標榜したにもかかわらず、この路線はたえずふらふらしてきた。
◆学校でそういうことを教えないのが問題だが、世界の文明は4大河川で動いてきたのではなく、紅海と黒海とベンガル湾で動いてきた。そのうちの黒海にはトルコ、ブルガリア、ルーマニア、ロシア、ジョージアがくっついている。かつてはイスタンブールにビザンツ帝国が栄え、中世はハザール・カガン王国が、近世にはオスマントルコが世界最大の力を見せていた。
◆そのウクライナについては、黒川祐次の『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)、タラス・シェフチェンコの『ウクライナ:コブザール』(AMAZON限定)、オリガ・ホメンコの『ウクライナから愛をこめて』『国境を超えたウクライナ人』(群像社)などがあるものの、決定的な本はない。プーチンについてはいろいろ本が出ているが、真野森作の『プーチンの戦争』(筑摩叢書)、フィオナ・ヒルらによる『プーチンの世界』(新潮社)が定番か。
◆では、ロシアとウクライナはどうなるのか。「予断を許さない」なんておためごかしはいくら言っても仕方がないが、どう見ても根っこが深すぎる。アメリカは傍観しつづけるだろうし、NATOも自分からは出てきやしない。失敗はすでに30年前におこっているのだ。それなら折り合いがつくのかといえば、たとえばクルコフはマイダン革命を通して、ウクライナとロシアが共存する可能性がかなり薄いだろうことを痛感したようである。それは歴史の奥からの判断ではなく、戦後の現実とソ連解体後の欧米とのかかわりのミスリードから来ていると見ているものだった。
◆ところで太田剛がペガサス・ブログ版にデヴィッド・ハーヴェイのウクライナ情勢に寄せる暫定ステイトメントが掲載されていることを知らせてくれたので、数日前に読んでみた。今日の世界を失敗に導いた軍産共同体の志向、軍事ケインズ主義の動向、冷戦解体後の組み立ての未熟そのほか、ウクライナ紛争の背後にひそむいくつもの要因をあげたうえでハーヴェイが結論づけていたのは、この半世紀、世界は共産主義とソ連を解体させたプロセスを幸運にも共有したにもかかわらず、一度たりとも西側の諸国アドバンテージを切り出して、マーシャル・プランのようなしくみにその「負荷」の削減を組み込むような提案を出してこなかったこと、とくにロシアと中国にそのチャンスを与えてこなかったことが、すべて裏目に出てきたという見解だった。
◆新自由主義の正体を真っ先に暴いた地理学者ハーヴェイ独特の論法であるけれど、半分以上は当たっているし、それにこういうことをステイトメントする思想家はなかなかいなかった。だから、はいはい、ハーヴェイやっぱり書きましたねと感じたけれど、もっとこの手の議論は噴き出てこないといけない。そのためにはベルリンの壁解体以前と以降をつなげる発言がもっと必要だ。ぼくはゴルバチョフが元気なうちに、さらにさらに本音を漏らすべきだと思っている。