父の先見
◆オミクロン旋風でまたもやいくつもの装置が風前の灯火をかこつことになりながら、いま日本列島は容赦のない真冬が続いている。こんなに吹き荒れたコロナ感染がもしもやまなかったらどうしょうか? もしもやんだらどうしょうかと思い悩む向きも少なくないと聞く。はたしてコロナ・ウイルスに因果がはたらくでも思っているのだろうか。
◆『正法眼蔵』の現成公案に「前後際断」が出てくる。「知るべし、薪は薪の法位に住して、前(さき)あり後(のち)あり。前後ありといえども、前後際断せり」と示す。薪は燃えて灰になるのではない。薪は薪で完結し、灰は灰で完結しているのだから、そんなところにつまらぬ因果法則をもちだしてくよくよするなと、道元は言ったのだ。薪は薪の因果、灰は灰の因果なのである。ウイルスはウイルスの因果で動く。その因果をわれわれが付き取る必要など、なかったのである。いや、引き取れない。
◆遅まきながら、あけましておめでとうございます。今年の仕事始めは雪が舞うなか、近くの松陰神社に初詣。ゆっくりと「けったい、けっちゃく、けつぜん」(懈怠=怪体、決着、蹶然)と三べん唱えた。まあ、少しは憤然としているわけだ。そろそろ言いたいことを言おうと思っているわけだ。ただ、それだけではダメだろうから、松岡正剛を語るということをしなければとも思う。ただし、これはどのようになるかはわからない。
◆年末年始はスタッフとたくさんの編集学校の諸君に本棚整理を手伝ってもらったあと、末木文美士(すえき・ふみひこ)の仏教もの数冊、ポール・デイヴィスの情報論『生物の中の悪魔』(SBC)、武田梵声の声と音楽をめぐる不思議な異種格闘技ともいうべき『野生の声音』(夜間飛行)、奥野克巳・清水高志の共著『今日のアニミズム』(以文社)、ジョセフ・メイザーの『数学記号の誕生』(河出書房新社)、岡田英弘の遺著にあたる『漢字とは何か』(藤原書店)などを読んでいた。道元なら「東山水上行」と一言ですませるところを、ぼくはこうして他力を馮(たの)んで三昧をする。
◆去年の暮、言い忘れていた二つの慶事があったので報告しておく。ひとつは、宇川直宏君のライブストリーミングチャンネル「DOMMUN」(ドミューン)で、2日間にわたって「AIDA」(あいだ)のエディティング・プラットフォームをライブ配信した。25人くらいのビジネスマンたちが次々に『情報の歴史21』に合わせて自分史クロニクルを披露。こんな私的なトークがおもしろいのかどうか心配していたけれど、絶妙な宇川ナビで盛り上がった。ゲストに田中優子、武邑光裕、佐藤優、フォローに吉村堅樹、そしてぼく。
◆DOMMUNEは画期的なメディアである。2010年から配信が始まったのだが、前身は「マイクロオフィス」という仕事場だかクラブだかわからないライブトポスで、かつてぼくの仕事場にいた野田努が三田格とトークしたり、いろいろなアーティストや書き手が顔を出していた。それが世界配信型のストリーミング・メディアに変身して、とんでもない番組数が放出されていった。静止画デザイン・動画加工・スイッチングを、リアルタイムで宇川くん一人でやってきたことにも驚く。ぼくは「番神」(つがう・かみ)という書を贈った。
◆もうひとつは、角川武蔵野ミュージアムが諌山創、伊集院静、YOASOBIとともに講談社の野間出版文化賞の特別賞をいただいた。林真理子・野間省伸・茂木健一郎らの推薦だった。ありがたく謹んで受理したが、現状の角川ミュージアムはまだまだ充実していない。ダニー・ローズ展「浮世絵劇場」が人気のようだが、全面展開に入るのはやっとこの秋あたりからだろう。展示方法におけるアフォーダンスを工夫したいと思っている。
◆最新の千夜千冊で分析哲学のネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』(みすず書房・ちくま学芸文庫)を書いた。「世界はヴァージョンとともにできている」という主旨で、世界はオリジナル・モデルがどこかで先行しているわけではなく、むしろ「われわれはヴァージョンを制作することで世界を制作してきたはずだ」というのである。こんなこととっくにわかっていたことだが、哲学ではこういうことをまことしやかに糊塗してみせるのである。道元はそこを「一帰何処」と言った。「一、何れの処にか帰す」と読む。三浦梅園は同じことを「一、一、即一」と言った。多様性(ヴァラエティ、ヴァリエーション)の容認とか持続可能性(サステナビリティ)の発揮とかという言い分を「みんなで守ろう」などというのは、かったるい。世界はずっとヴァージョンなのである。
◆この「ほんほん」が読まれているころ、ウクライナは綱引きの真っ最中で、北京は冬季オリンピック開催中に、ミャンマーは「沈黙のストライキ」に突入し、アップルiCloudプライベートリレー」を開始する。「いまだ洗面せずは諸々のつとめ、ともに無礼なり」(道元)。