才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ロストゼネレーション

ユリシーズと関東大震災
失われた世代 1920-1929

シリーズ20世紀の記憶

毎日新聞社 2000

編集:西井一夫・高橋勝視ほか
装幀:鈴木一誌・仁川範子

1920年代はロストゼネレーションだけの時代ではない。欧米おいても日本においても失われたものを引きちぎるほどの文化の灼熱期だったというべきだ。ぼくが20世紀のディケードとして「文化の多彩な爛熟」に注目するのは、このローリング・トゥエンティーズ(Roaring Twenties)だけである。第一次大戦が1918年に終わり、アメリカ大統領ウォーレン・ハーディングが「ノーマルシー」

 二十世紀がまもなく終わるという時期、出版界ではさまざまな「まとめ」が試みられた。世界中で総括と反省と自慢と批評による興味深い試みが連打されたが(放送業界でも記念番組が多かった)、日本では毎日新聞社の「シリーズ20世紀の記憶」が二十世紀をふりかえるということでは至極まっとうな企画であった。企画はまっとうだが、その編集構成感覚はなかなかぶっとんでいた。
 どこかで歴史的予定調和にまとまりかねない見方を裏切りたいというような視点もまじり、痛快な出来を示した。西井一夫が指揮をとったのが、こうさせた。編集賞ものだろう。西井は以前は「カメラ毎日」でその腕を鳴らしたグラフィズムに強いエディターシップの持ち主である。「カメ毎」の前編集長だった山岸章二が突然に自殺したあとを引き受けたから、いろいろ苦労もあったはずだ。エディトリアル・デザインには鈴木一誌が腕をふるった。表紙は一冊ずつすべて意匠を変えている。だからムックっぽい。

 ぜひとも全冊(二〇冊+別冊年表)をナマで見てもらうのがいいのだが、ディケード(十年単位)で区切っていないこと、巻構成に均等な内容配分を振り分けていないことがいまなお斬新だ。よほどおっちょこちょいか、よほど自信がなければこうはできない。
 たとえば「1900‐1913 第2ミレニアムの終わり 人類の黄昏」「1945年 日独全体主義の崩壊 日本の空が一番青かった頃」「20世紀キッズ 子供たちの現場」「1969‐1975 連合赤軍“狼”たちの時代 なごり雪の季節」「1989年 社会主義の終焉 オタクの時代」「1990‐1999 新たな戦争 民族浄化・カルト・インターネット」というふうなのだ。やりすぎや手拍子もある。「1976‐1988 かい人21面相の時代 山口百恵の経験」には呆れた。
 刊行元が新聞社の毎日だということもあって写真も選りすぐってあって、どちらかといえば人物中心になっている(事件型ではない)。プロファイルっぽい。そうそう、このシリーズは一部を除いて全ページがモノクロなのだ。それなのにドキュメンタリーなテイストに巻き込まれていないのは、編集部がピックアップする視点がすこぶる文化思想的で、かつ差分的であるからだろう。鈴木のレイアウトもモノクロを感じさせないものになっている。

「20世紀の記憶」シリーズ表紙
どれも写真、タイトル、サブの組み合わせに工夫が凝らされている。

 本巻は一九二〇年代を扱っているという点では、全巻のなかでは最もオーソドックスな巻立てだ。それでもタイトルの「ロストゼネレーション」に「ユリシーズと関東大震災」というサブタイをもってくるところが、西井チームの自慢なのである。
 一年ずつに橋本治による「年頭言」が入ってくるのも雑誌めく。橋本の文章は一ページまるまるのもので、歴史家がその一年の世界史を案内しているという記事ではない。さすがにそのつどの現代史を切り取ってはいるが、文体はまるで個人の感想に傾くエッセイだ。これも西井の狙いだったろう。
 編集構成を大きく眺めると、ロストゼネレーションを代表するヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジョセフィン・ベーカー(パリで衝撃的なデビューを飾った黒人ダンサー)がフィーチャーされ、そこにジョイス、孫文の死、関東大震災、カポネと暗黒街、ニューヨーク摩天楼、ロトチェンコのタイポグラフィ、リンドバーグの飛行機、ラジオの登場などが交差する。読み物ふうのハイデガーには木田元の、ニジンスキーには三浦雅士の、エコール・ド・パリには深谷克典の解説が付された。
 ワイマール文化、表現主義の実験、ジャズの熱狂、日本のメディア文化、シュルレアリスムの抬頭をもう少し採り上げてもよいのに、このあたりは不発になっている。日本のトピックでは同潤会アパートが建てられていった経緯と写真、松岡虎王麿の南天堂の周辺の出来事が特筆されているのが、めずらしい。

「Roaring Twenties」
日本語訳は「狂騒の20年代」。元々はアメリカ合衆国の1920年代を現す言葉であり、社会、芸術および文化の力強さを強調するもの。『ロストゼネレーション』p2-3

橋本治執筆の年頭言と同潤会アパート
同書p25(左),p89

 ロストゼネレーションという呼称は、第一次世界大戦に従軍体験をした若者たちが抱いた虚無感をあらわすべく、当時の天下一の突っぱり姐さんだったガートルード・スタインが言い出した時代用語である。この稀代の、レズビアンで美術コレクターでもあった女史は、「あんたたち失われているのね」と言ったのだ。
 すぐさまヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ドス・パソス、フォークナー、E・E・カミングス、マルコム・カウリーらがその刻印に応じた。いや、甘んじた。かれらは国外離脱者でもあって、多くが「パリのアメリカ人」としてやるせない日々をおくった。それを迎え撃ったのがジョイス、エリオット、エズラ・パウンド、モンパルナスのキキ、マン・レイ、コクトー、ココ・シャネルたちのヨーロッパ勢だった。
 こうした連中をのちのちまでアメリカでは「失われた世代」とか「自堕落な世代」と呼び、フランスではしばしば「一九一四年世代」「炎の世代」(génération au feu)などと呼ぶ。行き場のない世代、迷える世代、それゆえ日々の享楽に耽った世代なのである。ちなみに、この世代の子供の世代がビート・ジェネレーションに、そのまた子供の世代がヒップ・ジェネレーションになる。

 ついでながら、ロストゼネレーションという用語は二一世紀の日本に飛び火して、なぜか「ロスジェネ」という時代用語になった。バブル崩壊後の「失われた十年」(ほぼ一九九〇年代)に社会に出た世代(二五歳~三五歳)をさした用語で、二〇〇七年に朝日新聞がフリーター、ニート、引きこもり、派遣労働者、就職難民をひとまとめにして名付けたものだ。一九七〇年から一九八二年に生まれた世代がロスジェネで、約二〇〇〇万人いるらしい。「氷河期世代」とも呼ばれる。
 これはいったい何だろうと思い、雨宮処凛の『ロスジェネはこう生きてきた』(平凡社新書)、岩木秀夫の『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(ちくま新書)などを読んでみたが、軌道電車がない都市でメル友に言葉を費やしながら、姿の見えない管理社会を敵にまわそうとしている叫びだけが、伝わってきた。
 さらについでに余計なことを言っておくと、戦後日本にはロスジェネに及んだ“かたまり”が、それぞれ流行語大賞ふうの世代俗称になっている。
 一九四七年~四九年生まれの「団塊」の世代、五〇年代後半~六四年生まれの「新人類」、六五年~六九年生まれの「バブル世代」、七〇年~七四年生まれの「団塊ジュニア」、八七年~二〇〇四年生まれの「ゆとり世代」、その途中に七〇年代生まれを中心にした「ロスジェネ」がいるというふうになる。
 まあ、そう言われてもまったく何の説明にもならないだろうが、残念ながら日本にはガートルード・スタインがいなかったのである。

 話戻って、一九二〇年代はロストゼネレーションだけの時代ではない。欧米においても日本においても失われたものを引きちぎるほどの文化の灼熱期だった。ぼくが二十世紀のディケードとして「文化の多彩な爛熟」に注目するのは、このローリング・トゥエンティーズ(Roaring Twenties)だけである。
 第一次世界大戦が一九一八年に終わり、アメリカ大統領ウォーレン・ハーディングが「ノーマルシー」(Normalcy=常態に復する)を選挙スローガンに掲げたのだが、戦争の終結がもたらした解放感は常態復帰などにとどまらなかった。
 まずは技術文化が目を見張るものになった。自動車の開発(競争レースが過熱した)、鉄道の充実(旅行がはやった)、飛行機ブーム(リンドバーグの大西洋横断とツェッペリンの飛行船が世界を周遊して耳目を驚かせた)、無声映画とトーキーの氾濫(ドイツ映画の『カリガリ博士』やチャップリン、バスター・キートンらの喜劇が当たった)、カメラの技術革新(ライカが世界を瞠目させた)、ラジオの一挙的普及(アメリカの商業放送がKDKAによって一九二二年ピッツバーグで開始した)、都市における建築ラッシュ(ニューヨークの摩天楼が完成した)などが連打された。つまり目に見えるインフラがことごとく一新されたのだ。

 そんななかで、ヨーロッパでは一九二二年にジョイスの『ユリシーズ』とエリオットの『荒地』が登場して、文学を一変させたのである(荒地とは「死の国」のこと。その詩は一人称ではなく多人称だった)。こんな大きな文芸事件はめったにないが、それだけではなかった。
 すでに一九二〇年にトリスタン・ツァラがチューリッヒからパリに来てダダを撒きちらし、そこにフランシス・ピカビアやマン・レイやデュシャンや、ミロ、マッソン、キリコ、モディリアニ、エルンストがリプレゼンタティブに林立していった。まだ若造だったコクトー、ピカソ、サティはとっくに「バレエ・リュス」のゲイのロシア人ディアギレフの挑発でおかしくなっていた。
 ぼくが好きなエピソードもある。ピアニストのジョージ・アンタイルがパリに来て作曲家に転じ、ジョイスを育てたシルヴィア・ビーチの書店「シェイクスピア&カンパニイ」の二階に借り住まいしたことだ。アンタイルの《野生のソナタ》はいま聴いてもぞくぞくさせられる。
 これらの動向のなかで見落とせないのは、ドイツ表現主義が絵画においても文芸においても映像においても、歪んだ心理の変形ヴィジュアル化をもたらしたことと(前衛グループ「ブリュッケ」と「青騎士」が先頭を切った)、これが無意識に挑むフランスのシュルレアリスムの抬頭につながっていったことだろう(アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』の起草が一九二四年だ)。その背後にはキャバレー文化とカフェ文化が波打っていた。ヨーロッパにおけるダダ、未来派、表現主義、シュルレアリスムなどの「逆上するムーブメント」については、いまこそ日本のロスジェネ以降の世代がつぶさに観察するといい。

1920年代のインフラ革新
ニューヨーク摩天楼(左)、NYのモータリゼーション(右上〉、ラジオを楽しむ英国の老夫婦(右中)、リンドバーグと愛機「スピリット・オブ・セントルイス号」(右下)。同書p11,p12,p120,p166

バスター・キートンの映画「忍術キートン」公開中の映画館(1924年)
第一次世界大戦を機に急速に映画産業が伸展していった。同書p19

ジェイムズ・ジョイスと『ユリシーズ』を読むマリリン・モンロー

 この時代、アメリカでは「ハーレム・ルネッサンス」が高じて、ジャズエイジが誕生した。一九二一年にブラックスワン・レコードが開設された。当時の洗練された感覚と頹廃的な感覚はほぼすべてジャズが担ったと見ていいだろう。ハロルド・スクラッピー・ランバートの高音には誰もが胸をかきむしられた。
 当時のジャズはいまだ社会的少数派のものだ。大衆の多くはスウィートミュージックに走り、少数派のハードコアはホットミュージック、あるいはレイスミュージックとみなされていた。そのなかでルイ・アームストロングが意味のないスキャットを延々とインプロし(最近のヒップホップにはこれがない。つまり黒いダダがない)、シドニー・ベチェットがサックスを使えるようにした。これらを吸引して、二〇年代のおわりにはそうとうな変わり者だったデューク・エリントンのビッグバンドさえ登場した。
 みんな体を動かしたがっていたとも言える。フォックストロット、ワルツ、タンゴ、チャールストン、リンディホップが流行し、全米にダンスホールが次々に開場して、ボブ・ダグラスが黒人ばかりのバスケットボール・クラブをつくった。コットンクラブでは着飾った紳士淑女がジャズに酔いしれた。
 禁酒法が施行され、そこにアル・カポネを代表とするギャングが横行したことも、アメリカのローリング・トゥエンティーズを異様に彩っている。この「異様」が次から次に対抗文化の様相を呈したのが、二〇年代ではとんでもなく看過できないことになっていった。シカゴやニューヨークやサンフランシスコにスピークイージー(潜りの酒場)が出現して、妖しい女とギャングが結びついていったことなど、いまや再現するすべがない(タランティーノやフランク・ミラーやロバート・ロドリゲスは復活したがっている)。
 そこに醒めた目でコートの衿を立てて登場したのがレイモンド・チャンドラーやダシール・ハメットのハードボイルドだ。短文が連なる文体には「女はバケツのような口をして笑った」といったあけすけな描写が切り刻まれていた。いまなおアメリカ映画はこの時代のギャングを主人公にした哀切を得意気に描き続けている。

チャールストンダンス 1920s

1920年代のギャングたち
1920年代のアメリカで禁酒法が施行されたが、酒の密造、密売、密輸入が盛んとなりギャングが横行することになる。同書p14

 ドイツでは表現主義だけでなく、ワイマール文化の浸潤とバウハウスのデザイン教育を重視するべきだ。第一次世界大戦で大敗したドイツは一九一九年に最悪の経済状態になっていた。そのなかで組み上げられていったのがワイマール共和国だ(一九一八~一九三三)。ヒトラー政権が確立するまでのドイツはもっぱらワイマール文化がその習熟した方法論によって牽引した。二〇年代のベルリンはワイマール文化の頂点だった。
 ワイマール文化の特徴は「知の再構築」にある。マンハイム、エーリッヒ・フロム、アドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼ、カッシーラー、フッサールらの知識人が毎夜にわたって世界の構成方法をめぐって議論した。こういうところがドイツ人の徹底した理論根性だ。かれらのすべてがシェーンベルクやアルバン・ベルクの無調音楽や十二音階技法の意味を考えていたことにも驚いたほうがいい。
 ヴァルター・グロピウスがワイマールにバウハウス(「建築の家」という意味)を建てたのは一九一九年のことだった。すぐさま構造・構成・構匠それぞれのデザインは技法を伴っていることが告知され、ハンネス・マイヤー、クルト・シュヴィッタース、パウル・クレー、ヨハネス・イッテン、モホリ゠ナギらが次々に講師に立った。バウハウスがなかったら今日のデザインはない。

 時を同じくして、途方もなく画期的なメソッドを提出していったのがロシアだ。ドイツ表現主義に比肩する構成主義にはカンディンスキーからマレーヴィチまでが登場し、バウハウスに比肩するデザインではロトチェンコやリシツキーらが登場し、これらを覆ってエイゼンシュテインの驚くべき映像技法が開花した。あの「オデッサの階段」の名場面で唸らせた《戦艦ポチョムキン》は一九二五年の制作だったのである。エイゼンシュテインはメイエルホリドの演技技法を習得し、独特のモンタージュ理論を打ち立てた。日本の歌舞伎の様式にいちはやく注目し、日本人が伝統を見離して欧米の猿真似をすることに苦言を呈した。
 その一方では、さきほどもチョイ出ししておいたディアギレフによるロシア・バレエ「バレエ・リュス」がヨーロッパをひっくりかえしていた。ニジンスキー、アンナ・パブロワ、イーダ・ルビンシュタイン、タマラ・カルサヴィーナらの夢幻のような踊りは、世界中の誰も見たことのないものだった。今ならさしずめ、冬季のフィギュアスケート、夏季のシンクロナイズド・スイミングのロシアチームに瞠目するようなものだろう。ぼくはこのロシア浪漫の原動力がどこから来るのか、ぜひ知りたい。
 ロシア人の二〇年代については、レーニンやトロツキーの革命活動とその文章力にも注目したい。レーニンはマッハの感覚論について、トロツキーは未来派について、偏ってはいたが、鋭い考察をしてみせた。ぼくはソチの冬季オリンピックの開会式の映像演出にロトチェンコもレーニンも出てきたことに喝采をおくったものだ。

ロシア構成主義
1913年、ウラジミール・タトリンが鉄板・木片等をつかったレリーフを「構成」と名付け、素材の特性に創造原理を求める構成主義理論を提唱したことから始まる。

芸術家たちの仮装写真
狂乱の20年代を象徴する有名芸術家たちが一堂に会したパーティーの様子。藤田嗣治やブラマンクらの顔も見える。同書p153

 日本はどうだったかというと、一九二〇年が大正九年になる。第一次世界大戦で火事場泥棒めいた景気を貰っていた日本は、その濡れ手で粟の反動でしばらく戦後不況に悩まされるのだが、しかしながら、そんな不景気と大正デモクラシーの中でこそ二〇年代文化が切り拓かれた。
 一九二〇年ちょうど、読売新聞が文語体から口語体にすると、二年後に「週刊朝日」(初期は旬刊)と「サンデー毎日」が、三年後に「文藝春秋」が創刊され、同じころ蒲田には撮影所が設立されて「キネマの天地」を謳歌した。サワショーこと沢田正二郎の新国劇が《国定忠次》を上演したのもこのころだった(のちまで続くチャンバラ・ブームはここからおこる)。
 こうして開花した大正中期文化は、一九二三年の関東大震災で決定的な打撃を被った。また、それまで破竹の勢いでアナキズムを激情させていた大杉栄が震災とともに殺害され、ここに幸徳秋水以来の社会主義文化も退嬰しそうになっていくのだが、そこからがしぶとかった。
 まずは帝都東京がめざましく復興されたのである。後藤新平が旗を振った。かくて昭和が始まる一九二六年前後からは東京のメインストリートにはモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)が溢れ、カフェーの女給文化に文士たちさえいちころになった。
 昭和文化は朝鮮や満州ともつながっている。大陸浪人や馬賊が行き交い、山東出兵は侵略の野望に満ちていた。こういうこと、戦後以降の日本ではもはやまったく想像するだにできないことだろう。しかし、一言で日本の二〇年代を一人の短い生涯によって象徴させるなら、ひょっとすると宮沢賢治をあげるべきかもしれない。賢治の『春と修羅』は大正末年の一九二四年の刊行だ。三七歳の生涯を終えたのは昭和八年、一九三三年のことだ。日本が満州事変に突入し、忌まわしい日々に揉まれていった矢先、賢治は透徹した表象に全身全霊を賭け、その言葉の錬丹術を鉱物的結晶のごとくに究めていた。本巻では与那覇恵子が賢治のページをうけもっているが、そこには賢治は日本を「異人の目」で見ていたという適確な指摘がしてある。

 まあ、こんなふうに短い案内をしていっても詮方ないだろうが、総じてはともかくも一九二〇年代はかつてないポップとヒップとクールの奇瑞ともいうべき爛熟を集約させたのである。それがどうなったかといえば、一九二九年、ウォール街の大暴落とともに終焉を迎えた。
 恐慌から立ち直った米欧が見せたものは、金融政策とアーリア主義と流線形とアールデコと、そしてナチスの抬頭である。日本はひたすらアジア大陸と太平洋への野望に盲進していった。それらのことについては、このシリーズの別の巻に詳しい。

モガ・スタイル
『モダン・ガール』を略していった語。西欧文化の影響を受けた先端的な若い男女のことを、主に外見的な特徴を指してこう呼んだ。

宮沢賢治『春と修羅』
宮沢賢治28歳のときに刊行した詩集。詩人の佐藤惣之助は「彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた」と、その表現の新しさを絶賛した。しかし本はほとんど売れることはなかった。

⊕ シリーズ20世紀の記憶 ロストゼネレーション ⊕

∈ 編集長:西井一夫
∈ 発行所:毎日新聞社
∈ デザイン:鈴木一誌・仁川範子
∈ 校閲:聚珍社
∈ 制作管理:安斎征ニ・水谷裕保

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ロストジェネレーション1920-1929年
∈ ロスト・ゼネレーションの作家 1920年代のヘミングウェイ
∈ アメリカンスポーツ
∈ チャーリー・チャップリン
∈ バスター・キートン
∈ イタリアファシズム
∈ 『ユリシーズ』と『荒地』― 奇跡の年1992年
∈ 水平社
∈ 有島武郎情死
∈ 特集 関東大震災
∈ ロシア構成主義
∈ 特集 関東大震災(続)
∈ 関東大震災と朝鮮人虐殺の真相
∈ 大杉栄虐殺
∈ 同潤会アパート
∈ ミュンヘン一揆
∈ 虎の門事件
∈ レーニンの死
∈ ロシア革命とロシア構成主義・社会主義リアリズム
∈ 中産階級の誕生
∈ 1920年代とは何か―モダニズムについての一考察
∈ アインシュタイン
∈ 大正デモクラシー
∈ エコール・ド・パリ 芸術家インターナショナル
∈ モガ
∈ リンドバーグ 翼よあれが巴里の灯だ
∈ 芥川の自殺
∈ 昭和金融恐慌
∈ 『存在と時間』をめぐる思想史
∈ スターリン粛清の始まり
∈ 満州某重大事件
∈ 大恐慌の始まり
∈ 白山南天堂書房―大正・昭和初期の「四つ辻」
∈∈あとがき

⊕ 編集長略歴 ⊕
西井一夫
1946年、東京都生まれ。1968年慶應義塾大学経済学部卒業、1969年弘文堂新社編集部を経て毎日新聞社出版局へ入社。「サンデー毎日」「毎日グラフ」記者を経て、1983年〜1985年の休刊まで「カメラ毎日」編集長を務める。1989年に「写真の会」を結成し「写真の会賞」を主催。1996年毎日新聞社出版局クロニクル編集長としてシリーズ「20世紀の記憶」全20巻を立ち上げ、2000年12月同シリーズの完結後に選択定年退職する。2001年食道癌で死去。著書に『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社)、『写真的記憶』(青弓社)、『20世紀写真論・終章ー無頼派宣言』(青弓社)、『暗闇のレッスン』(みすず書房)などがある。