アン・アリスン
菊とポケモン
グローバル化する日本の文化
新潮社 2010
ISBN:4105062212
Anne Allison
Millennial Monsters――Japanese Toys and Global Imagination 2006
[訳]実川元子 協力:松野泰子
編集:田中久子 装幀:新潮社装幀室
 日本の玩具キャラが、鉄腕アトム(米アストロボーイ)、ゴジラ、セーラームーン、ハローキティ、ゴレンジャー(米パワーレンジャー)、たまごっち、攻殻機動隊、ポケモン、AKIRA、マリオ、千と千尋、初音ミクなどを連打しながら世界を席巻するとは、とうてい予想のつかないことだ

 人種差別の匂いがぷんぷんするアラバマ・クーン・ジガーで有名なルイス・マークス&カンパニーが、日本の玩具工場にゼンマイ仕掛けのポパイ人形を注文したのが1930年代半ばのことだ。昭和日本は満州事変に向かっていた。
 フラッシュ・ゴードンやスペース・ガディットなどの人気キャラクターの版権をもらえなかった日本の玩具屋は、やむなくそれらに似せた人形を作り、ハンドプレス機を巧みに操作してブリキの宇宙船やギョロ目のロボット人形などを輸出した。アメリカ人たちはこうした日本製玩具をあからさまに嗤っていた。敗戦後もその嗤いがしばらく続いた。
 新憲法によって天皇は象徴天皇になったが、そのエンブレムである「菊」は象徴にすらならなくなった。代わってアメリカ主導の連合軍GHQによる日本占領のもと、大津の小管松蔵は「小管のジープ」をつくり、日光玩具はセルロイドの頭とブリキの胴体に英字新聞をあしらった「ニュースボーイ」を製作した。
 ついで1953年、富山栄市郎が戦前に起業した富山玩具製作所は樹脂玩具製作部門を起こし、鉄道玩具「プラレール」シリーズを発売して好成績を収め、10年後には社名をトミーに変更すると、メイド・イン・ジャパンの玩具をリードし、やがて月刊コロコロコミック連載中の「ポケットモンスター」の商品化権を取得、世界に打って出た。本書の著者のアン・アリスンはアメリカ人から見た国民シンボル文化としての話だが、このとき「菊がポケモンに変わった」とみなしている。
 そのトミーを合併して2006年にタカラトミーとなったタカラは、1955年に佐藤ビニール工業所を前身として「ダッコちゃん」「仮面ライダー」などで一気に急成長した玩具メーカーだった。1966年の着せ替え人形「リカちゃん」によって日本の女の子の魂を鷲掴みにした。

ポケットモンスター赤・緑
ポケットモンスターの1作目であり、カードゲームやアニメなどの関連商品やメディアミックスを含めた『ポケットモンスター』(ポケモン)の名を冠する最初の作品。ロールプレイングゲームにおいて、販売本数世界一を記録した。

 タカラのリカちゃん人形はあきらかに米マテル社(元は額縁メーカー)のバービー人形やアイデアル社のタミー人形を念頭においたファッションドールだったのだが、タカラはここで欧米主義と日本趣向をハイブリッドに混交する方に舵を切った。
 バービーが17歳の八頭身であるのに対して、リカちゃんは小学生でフツーの体つき。あくまで3歳児から6歳児あたりの日本の女の子に好かれるための人形になったのである。発売当時はマンガ家の牧美也子が広告のイラストを描いた。
 かくて年齢11歳、おうし座5月3日生まれで、身長142センチ、趣味がお菓子づくり、好きな色が白とピンクで、「ママみたいなデザイナー」に憧れているというリカちゃんが、アメリカン・バービーに屈服することなく自立した。
 そう、アン・アリスンは褒めたいようなのだが、これはやや褒めすぎだ。リカちゃんは西洋に憧れている子で、ハーフっぽいという評判だったし、当時の実際の日本人は50年代から60年代には高度成長の欧米をまねたエンジンをふかしっぱなしで、折からの女性週刊誌ブームでは「女性自身」も「週刊女性」も「女性セブン」も金髪ガイジンばかりを表紙にしていたのである。

リカちゃん人形とバービー人形
リカちゃん初代(1967年~)byタカラトミーリカちゃん CC-BY-4.0
リカちゃん4代目(1987年~)byタカラトミーリカちゃん CC-BY-4.0
バービー初代(1959年〜)by BarbieologinCC-BY-3.0

 日本人が玩具キャラクターの選択で自立したというなら、ぼくはバンダイが鉄腕アトムやゴジラやマジンガーZや機動戦士ガンダムに手を染めたあたり、70年代になってからの勝負のほうに重点があったと見たほうがいいと思っている。
 バンダイは山科直治の萬代屋(ばんだいや)から発展していったメーカーで、その子会社ポピーが1971年からキャラクター玩具を始めて破竹の勢いをもった。70年代から80年代にかけてはウルトラマンと超合金のブームにも乗った。
 しかも、これらはまだ前哨戦だった。タカラトミーやバンダイによる日本キャラが世界の市場とサブカルマインドを圧したとすれば、それはそのあとのマジンガーZやセーラームーンやポケモンやたまごっちによるもの、また、任天堂の「マリオ」や大友克洋の「AKIRA」や宮崎駿の「千と千尋」によるものだった。

日本のキャラクター玩具
上左「マジンガーZ」、右「ガンダム」、下左「ウルトラマン」、中「鉄腕アトム」右「たまごっち」

 ごくおおざっぱにいえば、イギリスとドイツの玩具メーカーは長らく「日常生活の縮小」にこだわってきた。だからドールハウスやミニ自動車を作るのが好きで、ときには玩具にイギリス人好みの道徳やドイツ人好みのステート主義を求めもする。
 英独にくらべると、アメリカはコミックや絵本の人気キャラクターを「拡張スター主義」として玩具やゲームに仕立てるクロスマーケティングの国だ。市場とメディアに出入りする可能性がありそうなものなら、ポパイでも蜘蛛男でもダースベイダーでも何でもいいから、そこに子供のためのファンタジー消費を次々にインストールして作り出す。そしてプロパティを売りまくる。これがアメリカである。ディズニーがいい例だ。
 この観点からすると、そういった英独米どちらの文化体質もマーケティングも道徳ももっていなさそうな日本の玩具キャラが、鉄腕アトム(米アストロボーイ)、ゴジラ、セーラームーン、ハローキティ、ゴレンジャー(米パワーレンジャー)、たまごっち、攻殻機動隊、ポケモン、AKIRA、マリオ、千と千尋、初音ミクなどを連打しながら世界を席巻するとは、とうてい予想のつかないことだったろうと思う。これらの日本のキャラと物語の出来とその細部の技能的仕上がり感は、敗戦日本を見ていたアメリカ人たちの虚を突くものだったのだ。
 なにしろ鉄腕アトムやゴジラは「核」と「原水爆」と「被災」の申し子あるいは副産物なのである。日本が最も悲劇的だった被爆の本質を抱えているキャラなのである。それなのに、アトムもゴジラも、平気で大暴れをしながら破壊と救済の両方の力を暗示する。これにはアメリカ人は驚いた。驚いたのはそれだけではなかったようだ。

日本が生み出したキャラクターたち
左上から「AKIRA」、「ゴレンジャー」、「千と千尋の神隠し」、「スーパーマリオ」「セーラームーン」「攻殻機動隊」「初音ミク」「ハローキティ」

 1951年(昭和26年)、手塚治虫(971夜)は前年に連載していた『アトム大使』からアトムを切り出し、光文社の「少年」に『鉄腕アトム』の連載を始めた。少年セイゴオが『ヨウちゃん』『赤銅鈴之助』『冒険ダン吉』『矢車剣之助』とともに毎月たのしみにしていた連載だった。
 鉄腕アトムは、10万馬力の原子力モーター、ジェトエンジン機能のある足、アンテナ化した鼻、善悪の見分けがつく電子頭脳、60カ国の言語を話せる能力、涙も出るサーチライト付きの目をもっていた。妹にウランがいて、アトムの同型ロボットにコバルトがいた。物語はすべて勧善懲悪である。
 しかし16歳のときに敗戦を体験した手塚は、アトムの育ての親をお茶の水博士にして、アトムの実の父を物語から消去していた。それまで日本がしがみついてきた家父長制を否定したのである。そんな主人公は日本の少年マンガにはいなかった。それでいて1961年からテレビアニメ化されたアトムでは、「メカ化」がマンガ以上に過密になっていた。当時の世の中、何が何でもオートメ(オートメーション)だったのである。今日のIT化するほどの機械主義だ。
 アメリカでは1963年にNBCがアニメプロデューサーのフレッド・ラッドの構成編集にもとづいて『アストロボーイ』が放映されるのだが、そこでも人体や車だけでなく蜂・蟻・犬などありとあらゆるものが超メカ化されていた。

 ゴジラは原爆の申し子というより、アメリカの太平洋の原水爆実験がもたらした怪物であって、文明の不遇の嫡子であった。巨大であって破壊的で、悲しみに充ちた目を潤ませて、赤トンボのような自衛隊飛行機の砲撃を雨あられと受ける。それでも壊滅も解体もせず、静かに太平洋に消えていく。
 東宝が『ゴジラ』を公開したのは1954年の11月3日だった。円谷英二らの特撮スタッフが怪獣映画として発想したもので、香山滋の原作をもとに田中友幸がビキニ環礁での原水爆実験を素材に組み立てた。日本人なら全員が第五福竜丸事件を思い出せた。監督は本多猪四郎、音楽を伊福部昭が担当した。961万人が観た。
 驚くべきは、そのゴジラは一度の映画出現でおわったのではなく、何度も何度も日本の大衆の前に現れたということだ。現れるたびに眷属やライバルを伴い、破壊力を増し、第2作の『ゴジラの逆襲』(1955)ではアンギラスが、第3作ではなんとキングコングが引っ張り出されて『キングコング対ゴジラ』(1962)になった。アメリカ映画を象徴するキングコングが敵対者に選ばれたことを深読みするかどうか、アメリカ人の批評家はさすがにためらった。
 のみならずその異様な容姿はその後は、やっぱり「メカ化」をおこしていったのである。アン・アリスンには、いったいなぜゴジラ映画にメカゴジラが出現しなければならなくなったのか(第14作『ゴジラ対メカゴジラ』1974が初登場)、もはやわからない。
 アリスンをさらに考えさせたのは、ゴジラの物語に描かれた都市や町はすべからくディストピアであるということだった。それなのにそこに登場する者たちは妙に小市民的で、かつ変身願望をもっていた。その後、『AKIRA』にいたって、アメリカ人はその理由をやっと知ることになる。とくに大河原孝夫の『ゴジラ2000ミレニアム』が、日本人はゴジラを自分たちと同一視して、心の底ではゴジラになりたいと思っているということをあきらかにしてからは――。

ゴジラとアトム
両者はともに、核エネルギーの出現と、日本での原子爆弾投下を背景に、1950年代に生み出された。

 日本の自立と矛盾はアトムやゴジラだけではなかった。もっとソフトなキャラもかなり風変わりになっていた。
 セーラームーンはおしゃれな女の子なのに突如として戦士になることで「クール」を獲得し、ポケモンはペットであるのに交換可能なのだし、「かわいい」のにずっと戦闘状態にいる。たまごっちは想像上のデジタルペットでありながらユーザーに飼育を強いて、愛情を求めてくる。おまけに「たまごっち憲章」や「たまごっち母子手帳」が送られてくるうちに、「とんがりっち」「くさっち」「ますくっち」「はしたまっち」「ぎんじろっち」がふえている。

 本書は、これらのミレニアル・モンスター(千年紀の怪物)たちを擁した日本のポップカルチャーが、どうして「ファンタジーと資本主義とグローバリズム」という3要素をものにできたのか、なぜそこに「テクノ・アニミズム」あるいは「ノマディック・テクノロジー」ともいうべき日本独特の表象力が加われたのかを、大まじめに論じた一冊である。
 著者のアン・アリスンはアメリカのデューク大学のドライブバイ文化人類学やカルチュラル・スタディーズの教授で、上智大学でも教えていたことがある。ドライブバイというのは走っている車から標的を銃撃することをいう。『ミレニアル・モンスター』が原題。「日本の玩具とグローバル・イマジネーション」が副題。なかなかのセンスの『菊とポケモン』は邦題だ。

日本のキャラクターに囲まれる著者のアン・アリスン
文化人類学者。デューク大学ロバート・O・コヘイン研究室教授。現代日本の日常生活における政治経済と想像的な夢想世界との相互関係を研究。東京でホステスとして働いた経験もある。

『菊と刀』と『菊とポケモン』
邦題『菊とポケモン』は、米国の文化人類学者ルース・ベネディクトが戦時中の調査研究をもとに1946年に出版した日本文化論の著作『菊と刀』へのオマージュ。装丁はポケモンのピカチュウを思わせるデザインになっている。

 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』は、アメリカでは『スピリテッド・アウェイ』というタイトルで大ヒットした。日本ではこの映画は「失われた文化をめぐる転移と喪失の物語」としてうけとられ、資本主義文明へのアンチテーゼとも解釈されたが、アメリカでは伝統世界に対するノスタルジーよりも「異世界への強烈な誘い」が評判になった。
 前作の『もののけ姫』が「よくわからない作品」とみなされたのに対して(このへんがアメリカ人のかなりヤバイ限界なのだが)、『スピリテッド・アウェイ』はユートピア願望の物語として受容され、そのため大人にも子供にもブレークしたのである。宮崎駿の意図とは真逆の解釈でブレークしたわけだ。
 ジェンダー・アイデンテイティが多様に変容するのも、アメリカやフランスでのヒットにつながった。フロイト(895夜)はかつてそれを多形倒錯(polymorphous perversion)と名付けたが、『千と千尋』には多形倒錯というより多形変容がめざましく、かつその変容に自信が漲っていた。アメリカ人はたとえおかしなキャラでも自信に満ちているのが好きなのだ。

 そもそもアメリカのスーパーヒーローには一貫したルールがある。それはスーパーマンやスパイダーマンに代表されるように、たとえどんなことを仕出かしても、たとえ人類愛や異常な戦闘能力や出生の秘密をもっていようとも、ホームポジションは日々の日常生活にあるということだ。スーパーマンやスパイダーマンが“個人的に”好きなガールフレンドも、職場の一員か市井の一員なのである。アメリカン・ヒーローはどんな冒険をしても、生活者に戻るのだ。
 これに対して、日本のスーパーヒーローは日常生活を飛び出したままになる。たしかに仮面ライダーがそうだったように、変身以前のフツーの姿も少しくらいは見せもするけれど、物語は変身状態が多彩に変化していくほうに圧倒的な重点がおかれ、その姿もスーパーマンのような定番スーツがあるのではなく、サイボーグ009やウルトラマンやゴレンジャー(米パワーレンジャー)のように変貌しつづける。かれらはコスプレ平気のスーパースターなのだ。
 おまけに主人公は、過去も神秘も時代も友情もやらずぶったぎりで自在にまたぐのだから、その意識と行動たるやスキゾフレニアを敢行しつづける。
 アン・アリスンはそうした日本人の嗜好は小学生や女学生の通学感覚や持ち物感覚にもあらわれていて、そこには「メディエイテッド・トランジション」(移動する中間状態)のようなものが沸々としているのではないかと見た。日本のローティーンは気になるものなら何だって携帯ストラップにぶらさげ、どこにもぺたぺたシールを貼って、いつでも自分がトランジットできる状態を用意しっぱなしにするけれど、それは日本のサブカル・キャラの投影だったのである。

 ひるがえって考えてみると、日本のサブカル文化は精霊や妖怪に対する敬意をあまり払ってこなかった。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』などのマンガに登場する夥しい数の妖怪や怪物の由来や歴史を知っているのは、水木しげるか小松和彦(843夜)か荒俣宏(982夜)だけなのだ。
 日本人にとってのキャラクターは定位的でなく、つねに隠喩的で換喩的なのである。それがどのように変じるかのほうが関心の対象なのだ。精霊や妖怪の由来や神話性や歴史性などよりも、そのキャラクターたちの虚構力や非実在感や「おもしろさ」や「ありえなさ」のほうがずっと気になる。キャラが変じてくれるから、そのぶんユーザーは妙に無意識になれるからである。
 この傾向を、かつて中沢新一(979夜)は『ポケットの中の野生』(岩波書店)では、レヴィ=ストロース(317夜)に倣って「原始の無意識状態」というふうに指摘した。ダナ・ハラウェイ(1140夜)は「有機体による機械吸収がもたらしたサイボーグ性」と言った。そうだとしら、そこにあるのはまさにテクノ・アニミズムなのである。「原始の無意識状態」が数々のサイボーグ化するキャラたちを経験値やファンタジック・テクノロジーで武装させさえすれば、なぜか気がすむのだ。
 だから日本のマンガやアニメにはどうしても武装したメカトロニックなキャラが多くなる。ロボットなのではない。はなっからサイボーグなのだ。かつての横山光輝の『鉄人28号』(米ジャイガンター)も永井豪の『マジンガーZ』も、そういうメカフェティッシュだった。

テクノ−アニミズム:資本主義的日本の精霊(たち)
米国誌「ニューヨーカー」2002年3月18日の表紙より
Illustration by Christoph Niemann
『菊とポケモン』p41

 アン・アリスンによると、日本のミレニアル・モンスターが受け入れられたのは、アメリカ人から見たいくつもの理由が揃ったせいではないかと言う。
 しかしそれは、ジョセフ・ナイが『ソフトパワー』や『スマートパワー』(日本経済出版社)で指摘したように日本社会にクール・エンパワーメントが溢れてきたからではないし、日本の玩具メーカーや任天堂が日本のサブカル文化の本質に気がついたからでもない。
 本書のあちこちに散見する理由候補にぼくがもう少し加えておくと、ざっと次のような傾向が顕著に読み取れるようになったからではないかと思う。( )内はぼくが補ったちょっと過激な注解だ。

 ①日本らしさという魅力が増してきた
  (日本のアニメにはどこか無常観が漂っている。登場人物に
   はやさしさがある。しかもそのうえで徹底的に細部を重視
   する。あげくに幼い顔と異形な顔が併存する。これらが独
   特の日本らしさになっている。)
 ②アジア的な神秘性と密教性を感じる
  (表意文字のもつ意味不明な力が何かを告げている。そこに
   仏教感覚やタオイズムや儒教的礼節の不思議がまじってく
   る。それらが精神の奥座敷にあるのではなく、日本アニメ
   が描くようなごちゃごちゃした町の喧噪になっていく。)
 ③幾重にもわたる変身力への期待が募る
  (変身力とは「うつろい」と「多義性」と「多身力」が重視
   されていることをいう。しかしこれはいいかえれば自己完
   結性やアイデンティティが希薄だということでもある。)
 ④ノマド的な多様性に満ちた異世界願望がある
  (日本人はどこかに浄土を感じている。それが日本的ノマド
   だ。そこには行く先における多神多仏性が関与する。しか
   も異世界においても花鳥風月や雪月花が守られる。ともか
   くも日本人はみんなやたらに彷徨したがるのである。その
   彷徨感覚はジル・ドゥルーズの言うポストモダンなノマデ
   ィズムとはいささか異なっている。)
 ⑤模倣感覚が横溢している
  (これははっきりしている特徴だ。日本人は見立てやものま
   ねやモドキが大好きなのだ。フェイクやキッチュを平気で
   盛っていけるのだ。そこからカラオケ感覚やコスプレ感覚
   も躍り出る。)
 ⑥不可解をそのままにしておく傾向がある
  (その通りだ。日本人は決してロジカルな解決をしたがらな
   い。アナロジカルな傾向をもつし、保留のままでもやって
   いける傾向をもつ。これはいいかえれば、未完成に価値を
   おく傾向があるということになる。)
 ⑦「ごっこ遊び」や「小さなもの」への偏愛を感じる
  (もともと日本人は狭い住宅や道路でも愉快に暮らし、存分
   に遊んできた。そこには和歌や俳諧の短詩型にはまりやす
   いという小さめの美意識、茶室感覚や坪庭や扇子に見る日
   本的ミニマリズムが去来する。)
 ⑧独特のヴァーチャルリアリティ感覚をもっている
  (これについてはもっと研究してもらいたいが、昔ながらの
   土偶・仏像配置・絵巻・人形・浮世絵・歌舞伎の書割りが
   下敷になり、そこに劇画感覚・電子ゲームなどが加わって
   日本っぽいVR&AR感覚をもたらしたのだと思う。)
 ⑨霊性オンパレード主義ではないか
  (たしかに、そうだろう。マンガ・アニメ・ゲームのいずれ
   にも霊性に対する寛容が目立つ。これは神社仏閣のお守り
   が好きな日本人の御利益主義ともつながってる特徴だ。霊
   性の安売りかもしれない。)
 ⑩事物や部品にこだわるストーリー性が強い
  (まさに日本は万葉以来の寄物陳思の国なのである。モノは
  「物」であって「霊」であり、物語とは「モノ・カタリ」な
   のである。それがサブカルに噴出し、そこに「もののあは
   れ」も出入りした。)

 だいたい、こんなところだ。
 ただし、これらをもって「クール・ジャパン」という冠りをかぶせるのは、ぼくは気にいらない。気にいらないだけではなく、当たってもいない。だいたいアトムやゴジラはむろん、たまごっちもポケモンも、「AKIRA」も「千と千尋」も、ちっともクールではない。
 本書で最大の取り扱いをうけているポケモンにしても、開発者の田尻智の構想は少年の昆虫採集、ゲームボーイ感覚、通信と交換と対戦のインタラクティビティ、ニユーエイジによる家族合わせなどに発したのであって、そこに行き渡ったのはクールなゲームというより、「想像する生態系」の興奮だったはずである。アリスンのポケモン資本主義の議論からしても、あれは百鬼夜行がトークン化あるいは通貨化したおもしろさなのだ。
 かつてロラン・バルト(714夜)は『神話作用』のなかで、「イメージが神話的な意味から吐き出されて意味をもたない空の形式に変換されていけば、そこにはイデオロギー的な内容が入れられていく」という指摘をし、それを「常時まわりつづける回転木戸」と呼んだ。ポケモンも「意味」と「形式」がたえず入れ替わる回転木戸になっていた。そのような回転木戸はキャラクター資本主義的であっても、必ずしもクールではない。
 が、そうであるからこそポケモンはユニークだったのである。そこには、マルセル・モース(1507夜)の互酬的贈与こそが躍動したはずなのだ。

日本から米国市場へ、そして米国内でのポケモンの広がりを示す関連製品の展開ライン
Original artwork by Dwayne Dixon
『菊とポケモン』p359

 あえてアン・アリスンが指摘できなかったことを、いくつか加えておきたい。
 第一に、日本のポップキャラの多くには「ネオテニー」(幼形成熟)がおこっている。早くに伊藤穣一や高橋龍太郎が見抜いていたことだ。第二に、キャラクターと背景の表現には多分に「浮世絵」と「歌舞伎」の影響が大きかったはずである。このことは三宅一生や村上隆にもあてはまる。第三に、日本のアニメやゲームにはつねに「察知のアルゴリズム」が効いていて、「さしかかる/とびうつる/かいま見える」といったトランジット感覚が長けてきた。
 第四に、日本のサブカル・ストーリーは「影」や「陰」が大好きで、どこかに影の軍団や陰の人物がたいてい出入りする。ここには茶における裏千家、剣における直心陰流(じきしんかげりゅう)、谷崎潤一郎(60夜)の『陰翳礼讃』などが控える。第五に、日本のサブカル作家たちは権力者を描けないのだが、描く場合はついついバサラ化やカブキ者化をおこさせるか、うつけ者にする。そこにはヤクザやアウトサイダーに対する憧憬が滲んでいる。
 第六に、いまさら言うまでもないけれど、日本のポップカルチャーはすべからく暗示的で、アブダクティブなのである。以上。

⊕ 菊とポケモン グローバル化する日本の文化力 ⊕

∈ 著者:アン・アリスン
∈ 訳者:実川 元子
∈ 発行所:株式会社 新潮社
∈ 発行者:佐藤隆信
∈ 印刷所:錦明印刷株式会社
∈ 製本所:錦明印刷株式会社
∈ 編集:田中久子
⊂ 2010年08月30日 発行

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 序文
∈  第1章 魔法をかけられた商品
∈  第2章 灰燼から立ち上がるサイボーグ
∈  第3章 新世紀の日本
∈  第4章 パワーレンジャー
∈  第5章 セーラームーン
∈  第6章 たまごっち
∈  第7章 ポケットモンスター
∈  第8章 「全部ゲットしちゃおう!」
∈∈  エピローグ
∈∈  謝辞
∈∈  日本語版刊行によせて
∈∈  訳者あとがき
∈∈  原注
∈∈  参考文献

⊗ 執者略歴 ⊕

アン・アリスン
文化人類学者。デューク大学ロバート・O・コヘイン研究室教授。現代日本の日常生活における政治経済と想像的な夢想世界との相互関係を研究。上智大学で教鞭をとっていたことがあり、調査のために現在も頻繁に来日。

 

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