才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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琵琶法師

〈異界〉を語る人びと

兵藤裕己

岩波新書 2009

編集:古川義子

日本人はもっと平曲を聴いたほうがいい。江戸の浄瑠璃や豊後節に始まる三味線音楽はむろんのこと、昭和の歌謡曲も最近のJポップにも平曲が生きている。平曲は『平家物語』をテキストにした曲目だが、琵琶法師が平曲を演じることは「語る」と言った。「歌う」とは言わない。これがいわゆる平家語りだ。以降、日本の歌謡には「語る」と「歌う」が併存してきた。

 巻末にミニDVDがついている岩波新書は、これ1冊だけだろうと思う。新書にDVDをつけた例もほかにないかもしれない。山鹿良之の《俊徳丸》3段目が収録されている。肥後の琵琶弾きだ。声を振り絞って哀切を訴える説経節はこれまでもいくつか聴いてきたが、山鹿の語りはたんなる哀切というより、時代の終焉のようなものを感じさせて胸がつまった。
 説経節の《しんとく丸》と山鹿の《俊徳丸》はやや物語の筋書きが異なっていて、重い病に罹って各地を流浪する俊徳丸を助ける者たちの話が強調される。巡礼遊行する俊徳丸を手引きするのが許婚の初菊姫(《しんとく丸》では乙姫)であるのは、古い説経節と同じだが、その初菊姫を屋敷に導く子供は清水観音の化身になっている。継母のおすわが「とどめの呪い釘」を打ち付けようとするときも、清水観音が大蛇に変じて俊徳丸を助ける。
 俊徳丸と初菊姫が合邦ガ辻から清水に向かう途中に男山で日が暮れ、初菊姫が神前通夜をしているときは石清水八幡神があらわれて呪いを解く方法を教え、鳩の羽根をさずける。《しんとく丸》ではしんとく丸自身が清水の化身になるのだが、肥後に流れた話はこの段を変化させた。鳥箒をさずけるのは鳥の羽根が呪いを解くからだ。
 ぼくの仕事場はこのところ、故あってハンセン病の歴史と現在を追っているのだが(日本財団の依頼で太田香保と長津孝輔がウェブサイトもつくっている)、俊徳丸が盲目のハンセン病者であることをいまさらに痛く感じてしまうので、このミニDVDは長きにわたった日本の「業」の観念を蘇らせていて、心底、傷かった。山鹿良之の芸能は、俊徳丸を呪い殺そうとした継母が、その呪いが解けるのと入れ替わるようにして盲目の病者となったと語るのである。琵琶の打ち方も強い。

兵藤裕己『琵琶法師-〈異界〉を語る人びと』(岩波新書)
最後の琵琶法師・山鹿良之による演唱を収録した8mmDVDが付いている。

Leprosy.jp ハンセン病制圧活動サイト
世界のハンセン病制圧事業に取り組んでいる日本財団(笹川陽平会長)からの委託で、国内外のハンセン病の歴史と現在を伝えるWEBサイトを松岡が総合監修している。随時更新中。

 本書は著者の兵藤裕己が琵琶法師の背負ったものをいろいろ読みうるように書いているので、たくさんのヒントが埋まっている。
 琵琶法師というすこぶる特異な社会芸能的存在の歴史や実態を知るにもいいし、平家語りとは何かという起源と変遷を理解するのにもよく、著者が新たに発掘強調している「地神経」(地心経・土用経)と盲僧や座頭と御霊信仰との関係に思いを致すのにもいい。兵藤は『王権と物語』(岩波現代文庫)や『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社学術文庫)このかた、歴史と物語の「よみ」の多元性や深度を重視する。かつて川田順造がその「よみ」に狂喜していたものだ。
 ぼくは六年ほど前に本書にめぐりあった。3・11のあと何度となく『奥の細道』の記述をふりかえっていたのだが、そのとき、芭蕉が塩竈で奥浄瑠璃を聞いていたという記事に目がとまった。塩竈のどこかの小屋に琵琶法師めいた芸能者がいて、奥浄瑠璃を語っていたというのだ。元禄2年(1689)の5月の記事である。
 「その夜、盲目法師の琵琶をならして奥浄瑠璃といふ物を語る。平家にもあらず、舞にもあらず、鄙びたる調子うちあげて、枕近うかしがましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる」とある。
 こんなことが気になったのは、5月に被災後の鹽竈神社に寄って芭蕉を思い出していたからだった。ただ彼の地に、かつて奥浄瑠璃という芸能があったということはどういうことなのかよくわからず、また「平家にもあらず」というところが気になった。東北では平家は人気がないのだろうか。
 これは兵藤裕己をもう一度読みなおさなければと思って(兵藤の平家論はかつてのどの論考よりも新鮮なので)、久々に『平家物語の歴史と芸能』(吉川弘文館)や『平家物語―〈語り〉のテクスト』(ちくま新書)などをひっくりかえすとともに、当時最新刊の本書を読んだのだ。それが今夜の1冊との出会いである。コンパクトな新書ながら平家読みの当代第一人者の鋭い案内だけに、さすがに考えさせられた。

兵藤裕己
愛知県生まれ。1975年京都大学文学部国文科卒、2001年学習院大学文学部教授。1996年『太平記の可能性』でサントリー学芸賞、2001年「平家物語の歴史と芸能」で東大文学博士。『平家物語』の語り物としての性格から研究を始め、近代文学まで射程を延ばして、文芸における声の役割について論じる。

 で、その奥浄瑠璃であるが、芭蕉の見聞からほぼ100年後の天明6年(1786)に、菅江真澄が平泉で琵琶法師の語りを聞いたという記録がのこっていた。さすが菅江だ。万端、見のがさない。この見聞記では、琵琶法師が琵琶ではなくて三線をつかって、《曾我》《八島》《尼公物語》《湯殿山の本地》などを弾き唄ったと書いている。
 奥浄瑠璃は、芭蕉から真澄に時代が移るなか微妙に変質していったらしい。兵藤によると、文政年間の喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「仙台浄瑠璃」のことが書かれたあたりを最後にしだいに衰え、その後は細々と伝えられてきたようだが、その流れは1973年に没した北峰一之進を最後についに廃れたらしい。
 ということは北に向かった琵琶法師は三味線となじみ、近代以降まで盲僧琵琶による琵琶法師の伝統を維持していたのは西や南のほうだったということになる。では、南に行った琵琶法師はどうなったかといえば、それがDVDの山鹿良之の《俊徳丸》3段目にまで及んだのである。

山鹿良之『羅生門』
山鹿良之氏は4歳で左目を失明。22歳で天草の座頭・江崎初太郎に手ほどきを受け、琵琶を習得。以来、琵琶師の多くが戦争を機に職を変えた中で、琵琶だけを本業とする最後の琵琶法師となった。5時間以上の語り物を500曲以上演じた。「小栗判官」も通しで弾き語れた。青池憲司監督により記録映画「最後の琵琶法師・山鹿良之」が撮影されている。

 どんな琵琶法師たちも、そもそもは南北朝・室町期の当道(当道座)に属する盲目の法師たちが琵琶を奏でて平曲を語った流れのなかにいる。
 当道座は仁明天皇の子の人康親王の由来に仮託されている。人康親王は若くして失明したため出家して山科に隠棲し、そこに盲人たちを集めて琵琶・管弦・詩歌を教えたという異例の皇族である。親王の死後、そばに仕えた盲人たちに検校と勾当の二官が与えられ、そこから当道組織のプロトタイプが生まれていった。
 やがてこの流れのなかに平曲を語る盲僧があらわれ、伝承では生仏が、記録上では如一とその弟子の明石覚一が平家琵琶の流派をおこした。これは一方流という。覚一がまとめた平家語りのテキストは「覚一本」として定本になり、こうしてさまざまな平家語りが流行する。
 そのうち城玄による八坂流が興隆すると琵琶法師が各地に流れて(放浪芸能民として)、九州北部には玄清法流が、九州南部には常楽院流が定着していった。これらの地では筑前琵琶や薩摩琵琶が考案された。

琵琶の各部分

筑前琵琶と薩摩琵琶
薩摩琵琶は四弦四柱で、柱と柱とのあいだを強く押し込んで調音し、その幅はオクターブにも及ぶ。ひらきが大きい。一方、筑前琵琶は比較的すらりとした形をしており、全長も3尺(90.9cm)にみたない。左手指は柱と柱とのあいだを押えて調音するが、薩摩琵琶のように強く押し込むことは少ない。

 日本人はもっと平曲を聴いたほうがいい。江戸の浄瑠璃や豊後節に始まる三味線音楽はむろんのこと、昭和の歌謡曲や最近のJポップやラップにも平曲が生きている。
 平曲は『平家物語』をテキストにした曲目だが、琵琶法師が平曲を演じることは「語る」と言った。「歌う」とは言わない。これがいわゆる平家語りだ。以降、日本の歌謡には「語る」と「歌う」が併存してきた。説経節、浄瑠璃、義太夫、豊後節、常磐津、清元などは「語りもの」で、催馬楽、謡曲、地歌、長唄、小唄などは「歌いもの」だ。
 ただし、初期の平家語りの節回しやメロディやボーカリゼーションがどういうものだったかは、わかっていない。もちろん譜面もない。おそらくは鎌倉時代すでに天台宗で民衆教化の声明などによる唱導芸能が先行していたので、これに琵琶法師の平家語りの節回しがかぶさっていったとみなされている。声明の中の語りパートである講式が平家語りの独特の節回しにふくらんだのである。

催馬楽(さいばら)「更衣」(2011・雅音会)
催馬楽は平安時代初期、民謡や風俗歌の歌詞に外来楽器の伴奏を加えて生まれた「歌いもの」の一つ。遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われた。

天台声明
京都東山 将軍塚青龍殿にて行われた、天台宗百人の僧侶による声明(しょうみょう)公演。

「平家物語 祇園精舎」(薩摩琵琶 鶴田流・岩佐鶴丈)

義太夫節
義太夫節の名人、豊竹山城少掾(1878~1967)の文楽座引退興行。「二月堂」の良弁を語る。

 しかし声明は琵琶をつかわない。盲僧によるわけでもない。楽器としての琵琶はもともと中国経由の雅楽からきたものだから、そうなるとまずは雅楽と仏教音楽が重なり、そこに盲僧の独自の平家語りが加わったのだろうということになる。
 かつて日本音楽史研究の田辺尚雄は、雅楽のリーダーであった行長(信濃前司行長)、声明の蓮界坊浄心の高弟だった慈鎮(慈円)、叡山の盲僧であった生仏の三人がどこかで出会って平曲をつくったのではないかという仮説をたてたものだったが、この説はいまだに確定にはいたっていない。
 琵琶については本書にも多少触れられているが、ぼくも、数奇な人生を歩んだ天才的な琵琶師の鶴田錦史と新たな音楽のために琵琶を使いたいと思っていた武満徹との出会いを描いた『さわり』を紹介した千夜千冊に、ある程度のことを案内しておいたので参照してほしい。名曲《ノヴェンバー・ステップス》誕生の背景も見えると思う。

鶴田錦史『壇の浦』(音声のみ)

武満 徹『ノヴェンバー・ステップス』(1967)
琵琶を鶴田錦史が演奏した。指揮は小澤征爾。

 琵琶法師は平家語りばかりしていたのではなかった。ときに散楽を弾いたり、ときに民間歌謡を聞かせたり、ときに経文を読んでみせたりもした。兵藤が注目したのは『地神経』(地心経)を読誦していたことだ。
 地神経は偽経である。たとえば釈迦が荼毘に付されたのは、正規の仏典では倶尸那城外とされているのに、須弥山の北だとしているし、その荼毘にあたってはなんと釈迦が棺から立ち上がって舎利弗に地神経を説いたなどとなっている。そのため、正規の仏僧たちはこんなものは読経できないとみなしていた。清水寺の別当定深が編集した『東山往来』には、世の中に怪異が続くときは「地の祟り」と「霊の強き」を謳う地神経を読誦するといいと占人が勧めるけれど、あんなものは読めないという文言が出てくる。
 ところが、この地神経こそは九州に興った玄清法流と常楽院流の琵琶テキストになっていた。釈迦入滅にまつわる地神祭祀の由来を説いていた。ぼくは、そうか、そういうことかと驚いた。

 地神は各地で土地の神や田畑の神や家の神になっている。屋敷神としての地神は藁宮に祀り、春秋の社日に地神講をする。堅牢地神という文字を彫った石神もある。農神も田の神も作神様も地神のことである。
 ぼくが知るかぎり、天神地祇の地祇とは地神のことだ。ということは、日本神話の神武天皇以前の五代は地神(地祇)五代のルーツだということになる。五代はアマテラス、アマノオシホミミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズである。また堅牢地神のほうは『金光明最勝王経』にも説かれている大地の神で、地母というふうに漢訳されて仏教にもとりいれられている。大地に豊饒をもたらす地神は、他方、祭祀を怠ればたちまち祟りをもたらすものでもある。そのため民衆からは荒神さまとも三宝荒神とも恐れられもした。地震、噴火、鉄砲水、津波をはじめ、日本列島の土地はつねに大暴れしてきたのである。
 そういう地神をめぐる地神経を琵琶法師が誦み聴かせていたのだ。地神経にはこんなことが書いてある。
 釈迦が入滅したとき、須弥山の北の墓所で阿難や舎利弗らの仏弟子たちが釈迦を荼毘に付そうとした。けれども火がつかない。五竜王、堅牢地神らがそむいて信伏しないせいだった。
 仏弟子たちが五竜王が信伏しないわけを釈迦に尋ねたく思ったところ、涅槃に入っていた釈迦がにわかに棺から立って、「この大地は五竜王や堅牢地神によって守られている。それゆえ田畑を耕し、舎宅を立て、井戸や池をつくり、竈を塗りなおすなどして大地を侵すときは、5色の幣帛と5色の幡をかかげて五竜王を祀って、地神経を唱えなければならない」と言って、五竜王の神呪真言、二十八宿・三十六禽の呪文を教え、釈迦はふたたび棺に入ってみずから火を発して荼毘に付された……云々。
 なんとも動顛するような釈迦最後の説教だ。大地をおろそかにしたことを釈尊が叱ったというのも、地神経を誦み、五竜王の神呪を唱えなさいと諭したというのも仏教史としては聞いたことがない。むろん偽経だからなんとでも書けるのだが、なぜこのことを西国の琵琶法師たちが熱心に語ってきたのかということが気になる。

 ここに出てくる五竜王というのは中国の磐古神話のヴァージョンとしても流布したもので、日本では五郎王子の説話や伝承として伝えられていることが多い。
 磐古大王の12人の王子のうちの7人がインドや中国の八山九海を治める王となり、残り5人が日本の地神王となって、それぞれ太郎(青竜王)、次郎(赤竜王)、三郎(白竜王)、四郎(黒竜王)として東西南北に君臨したのだが、ひとり所領がもらえなかった五郎は4人の兄と争い、変じて黄竜となったため国土が荒廃した。そこで文選博士が仲裁に入って五郎王子に四季の土用と中央の大地を与えた。五郎王子とは、こういう故事にもとづいた王子のことである。
 五郎王子のことは、折口信夫が注目した奥三河の花祭の神楽の奉詞にも、小松和彦の調査研究で有名な高知県物部村のいざなぎ流の祭文にも出てくる。それだけでなく各地の御霊神社の若宮伝説の縁起譚にも語られている。石見神楽の五郎王子の立ち回りは、いまなおかなり雄壮だ。
 それにしても、なぜこんな偽経と平家語りがつながっていったのか。本書はそこを解いてスリリングなのである。

 盲僧らによって平家語りが始まったのは、平家が滅亡したことを大きな暗示としてうけとめたからである。そこには平家が滅亡するに至った理由が示されていなければならなかった。
 平家一門が壇ノ浦に散ったのは元暦2年(1185)の3月24日のことである。それから3ヵ月もたたない7月9日、都を大地震が襲った。鴨長明は『方丈記』に「そのさま世のつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出て、巌割れて谷にまろび入る」と綴った。平家語りでは、この地震で法勝寺の九重塔や三十三間堂が倒壊したと語る。琵琶湖北岸を震源とするマグニチュード7.4の大地震だったことが、地震史学のほうで確認されている。
 当然のことに、平家滅亡と大地震が結び付けられ、都大路は竜王の祟りであろうとの噂でもちきりになった。慈円も『愚管抄』に「竜王動くとぞ申し、平相国、竜になりて降りたると世には申しき」と書いた。平相国すなわち清盛が竜王になったのではないかというのだ。
 平家語りは盲僧たち自身の心情を語った芸能ではない。それも少しは含まれていたとしても、そこには平家の祟りに象徴される日本の負を根本から語らざるをえなかった「語り手」が想定されていたはずなのである。誰が平家語りの語り手だったのか。柳田国男や筑土鈴寛は語り手としての有王に託されたものに注目した。

 有王は俊寛が法勝寺の執行だったときの侍童である。安元3年(1177)、俊寛が鹿ヶ谷の陰謀に連座して鬼界ヶ島に流されると、師を慕う有王は居ても立ってもいられなくなって絶海の孤島を訪ねる。
 なかなか島中を探しても見つからず、やっと変わり果てた師の姿に出会う。痩せ細り、声もたえだえである。胸かきむしられる思いで娘から手渡された手紙を見せると、俊寛はこれを読んで死を覚悟する。決然と食を断ち、弥陀の名号を唱えて23日目、俊覚は絶命した。享年わずか37歳だった。
 泣き続けた有王は師の白骨を首から下げて商船を頼って都に帰り、姫君に父上の境涯と臨終を告げると、高野山奥の院に遺骨を納め、蓮華谷で法師となった。その後の有王はひたすら諸国行脚の旅に出ていたという。高野聖になったのである。
 平家物語は、この有王の諸国回向の段のあと、都に恐ろしい辻風が立ったことを記している。祟りがおこったのだ。柳田は有王が高野山の別所である蓮華谷に入ったこと、そこが明遍によってひらかれた高野聖のルーツであったこと、有王が聖として諸国を回って俊寛の話を伝えていただろうことなどをもって、平家語りの語り手は有王のような者によってこそ伝唱されたのだと見た。
 有王だけではなく、平家物語に登場する滝口入道、佐々木高綱、熊谷直実も高野聖になっている。かれらこそ蓮華谷などで平家物語の語りを編集していった者たちだろうというのだ。柳田は有王という名には「ミアレ」(御生れ)のアレがからんでいただろうとも推理した。
 この「有王=語り部」説は、その後も筑土鈴寛、冨倉徳次郎、角川源義、五来重、水原一、福田晃、そして兵藤裕己などによっても研究されてきた。
 平家編集が蓮華谷や肥前や京都東山の八坂などで醸成されていったことも、さまざまに仮説された。鹿ヶ谷事件で俊寛とともに鬼界ヶ島に配流された成経と康頼は途中で赦免されたのだが、その2人が帰路に1年近く逗留した肥前の嘉瀬はその後の琵琶法師の拠点となったところだし、康頼(性照)が帰洛後に住した八坂は八坂流の琵琶語りの拠点ともなったからだ。

 日本の芸能者はなんらかの物語の刻印を継承するところに始まっている。技能はあとからついてきた。それというのも物語の語り手になるということは、いくつもの人格や霊格を引き受けるということだったからである。
 そのように人格や霊格を帯びた物語の語り手を引き受けることになるのは、語り部が見聞した出来事にスティグマを受けた者がいたか、自身が非人やハンセン病者のスティグマを背負ったということが大きくはたらいた。そのため物語を語る者はしだいに「複数の傷をもったものたちの物語」を語れるようになっていく。
 能のシテに「残念の者」が選ばれたのも、説経節にハンセン病者が語られるのも、平家語りが一族全滅という途方もない「負」を語ろうとしたのも、物語そのものが複数の傷によって織られうるものであったからだった。
 そもそも古代中世の物語は一人でつくられるはずはなく、一人で読むものでもない。そのことはいまなお継続していると、ぼくは思っている。そう言うと、反論があるかもしれない。そんなことは昔の語り部時代の物語のことで、近代以降はそんなはずがないというふうに。しかし、これはまちがっている。
 現代の小説家たちは一人で物語を書いているじゃないかと思うかもしれないが、そんなことができる作家はよっぽどで、たいていの作家は自分一人の想像力で書いているはずがない。それまでの多くの出来事や語りをヒントにし、おまけに世の中の資料からもいろいろ恩恵を頂戴して書いているわけなのである。

 もうひとつ重要なことは、中世や近世の物語の多くが「境界」というトポスにおいて編集されてきたということだ。境界とは「境い目」のことである。
 物語はアジェンダではない。プログラムでもない。中央の権威や機関が示すアジェンダやプログラムがさまざまな歪みをおこし崩れていくなかに、「もの」(心・霊・物)が異様に見えてくるとき、「もの・かたり」が語られる。物語とはそういう宿命や宿世を孕んでいる。だからこそ語られる場は、雑多だが痛ましいスティグマが残響しているようなところが選ばれた。そこはたいてい、どこにも属せないような「境い目」なのである。その「境い目」をまたいで、日本の芸能が育った。
 ぼくは日本中世の芸能の多くが別所や散所や坂下や観音浄土の片隅に集う者たちによって語られ、そのトポスがもつ「負の力」によって独自に構成されていったと思っている。『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)にも書いたことだ。柳田もそのことを『物語と語り物』にとりあげ、有王に注目したのである。

 本書は最後の第5章を「消えゆく琵琶法師」としてまとめている。中世がすすむにつれ、琵琶法師は消えていったのだ。
 盲僧の平家語りは、その時代その時代の当道の座としての組織力がどのように変遷してきたかということにかかわってきた。当道の組織力は、神社仏閣の庇護がどのようなものであったかということとも関係する。たとえば、室町中期の都の当道座は応仁の乱などの戦火からのがれるために、比叡のふもとの東坂本や南都(奈良)の一隅で座務をおこなっていた。日吉社や興福寺が庇護してくれたのだ。
 このことは徳川社会に入っても同様で、寛永11年(1634)に惣検校の小池凡一が幕府に提出した『当道式目』では、当道盲人の祀るべき祭神として賀茂・稲荷・祇園・日吉をあげ、なかでも賀茂を「当道衆中の鎮守」と位置付けていた。
 けれども時代の波は寺社の庇護では追いつかなくなっていく。幕府の宗門改めも始まっていく。身分社会の変化や楽器の変化によってもその形態の縮小を余儀なくされ、組織の分散を余儀なくされた。差別もおこった。第5章には弾左衛門による管轄がもたらされたことも記される。
 楽器の変遷では三味線の登場が大きかった。検校も琵琶ではなく三味線の名人たちが次々に牽引していった。当道も三味線弾きたちによって再構成された。それでも盲目が多かった。なかで執拗に琵琶法師の伝承を守る者たちが北九州に流れ、東北に奥浄瑠璃が流れていったのである。琵琶法師はシンガーソングライターではなかった。どちらかといえばフォークシンガーだ。だが、この盲目のフォークシンガーは、時代と社会の境い目に出自した亀裂者でもあったのである。

⊕『琵琶法師―“異界”を語る人びと』⊕
 ∈ 著者:兵藤裕己
 ∈ 出版社:岩波書店
 ∈ 発行者:山口昭男
 ∈ 印刷:精興社
 ∈ カバー:半七印刷
 ∈ 製本:中永製本
 ⊂ 2009年4月21日 初版発行

⊕ 目次情報 ⊕
 ∈ 序章 二人の琵琶法師
 ∈ 第1章 琵琶法師はどこから来たか―平安期の記録から
 ∈ 第2章 平家物語のはじまり―怨霊と動乱の時代
 ∈ 第3章 語り手とはだれか―琵琶法師という存在
 ∈ 第4章 権力のなかの芸能民―鎌倉から室町期へ
 ∈ 第5章 消えゆく琵琶法師―近世以降のすがた
 ∈∈ 「俊徳丸」DVDについて
 ∈∈ 「俊徳丸」全七段・梗概
 ∈∈ あとがき

⊗ 執筆者略歴 ⊕
兵藤裕己(ひょうどう・ひろみ)
日本中世文学、芸能研究者、学習院大学教授。愛知県生まれ。1975年京都大学文学部国文科卒、1984年東京大学国文科大学院単位取得満期退学、埼玉大学専任講師、86年助教授、93年教授、96年成城大学文芸学部教授、2001年学習院大学文学部教授。1996年『太平記の可能性』でサントリー学芸賞、2001年「平家物語の歴史と芸能」で東大文学博士。2002年『の国民国家・日本』でやまなし文学賞受賞。『平家物語』の語り物としての性格から研究を始め、近代文学まで射程を延ばして、文芸における声の役割について論じる。批評家風の大胆な仮説を特徴とする。