才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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肥満と飢餓

世界フード・ビジネスの不幸のシステム

ラジ・パテル

作品社 2010

Raj Patel
Stuffed and Starved 2007
[訳]佐久間智子
編集:内田眞人
装幀:伊勢功治

世界は10億人が飢餓に喘ぎ、10億人が肥満に悩んでいる。「肥満はもはやアメリカの流行病だね」と言ったのは、煙草大手のフィリップモリスの副社長ジェイ・プールだった。
 けれどもそういうふうにしたのは、ゼネラルフーズとクラフトを80年代後半に買収した当のフィリップモリスなのである。まことにおかしな言い分だ

 世界で10億人が飢餓に喘ぎ、10億人が肥満に悩んでいる。「肥満はもはやアメリカの流行病だ」と言ったのはタバコ大手のフィリップ・モリスの副社長ジェイ・プールだった。そういうふうにしたのは、ゼネラル・フーズとクラフトを80年代後半に買収した当のフィリップ・モリスだ。おかしな言い分だ。
 クラフトはゼリーブランド「JELL−O」から子供用のパック食品「ランチャブルズ」までを売りまくって、つねにナビスコやゼネラルミルズやハーシーと争ってきた大手フードメーカーである。菓子大手のキャドバリーを買収してからやたら強気になっている。
 アメリカの主要都市で「エブリデー・ロープライス」(毎日、低価格)を謳うスーパーマーケット(つまりウォルマート)には、この10年というもの、ゴールデンデリシャス、ふじ、ブレーバーン、グラニースミスのリンゴしか置いていない。あとは別の店を探すか、リンゴ園からのお取り寄せである。西部開拓とともにリンゴを北米に殖やしたジョニー・アップルシードの伝説の国にして、まことにおかしな商品揃えだ。
 コーネル大学のデヴィッド・ピメンテルの報告によれば、アメリカでは毎年一人あたりの食料供給に、原油換算で2000リットルに相当する化石燃料を費っている。ということは、べらぼうな化石燃料を、農業生産のための化学肥料、農地灌漑のためのポンプの燃料、食糧輸送のための運輸燃料などが食っているというわけだ。
 これを補うという名目でトウモロコシから大量のエタノール燃料を精製することが、ジョージ・ブッシュ政権から始まった。そのためトウモロコシの大半が遺伝子組み換えに変わった。いまやアメリカの八九パーセントのトウモロコシがGM作物になった。これまた、ずいぶんおかしな因果関係だ。

 本書の著者のラジ・パテルは父親がケニア出身、母親はフィジー人で、いまはアメリカで骨太い活動をしているエコノミストである。1972年にロンドンに生まれ、オックスフォード、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスをへて、アメリカに入ってコーネル大学で博士号をとるとWTOと世界銀行の事務にかかわった。しかし、しだいにラジはその仕事のやりかたに疑問をもった。根本的な疑問だ。そのため退職してエコノミストへ、ジャーナリストへ転身した。
 そのラジに衝撃が走ったのは2003年9月10日のことだった。その日、メキシコの最高級リゾート地のカンクンではWTOの閣僚会議が開かれていた。韓国の農民団体とその活動を代表して駆けつけていたイ・キョンヘは、会場をとりまくフェンスによじのぼると、ポケットからジャックナイフを出して「WTOは農民を殺す!」と叫び、自分の胸を突いて自害した。
 イ・キョンヘは1987年に韓国進歩的農業連合の創設を主導して、自身は全羅北道に農場「ソウル・ファーム」をつくり、そこを研修所として次代の農業者の育成に向かっていった人物だ。その活動には国連から農村指導者賞を贈られるほどだった。けれどもその後、韓国政府がオーストラリアからの牛肉の輸入制限を撤廃してから、事態は一変した。ラジはこの事件に心を動かされ、緻密な調査のうえ本書を書いた。

 ぼくがラジ・パテルの本を摘読したのは2011年の2月のことだったが、その直後の東日本大震災と福島原発メルトダウンで、本書のことはほったらかしになった。
 その後、近代科学のイデオロギーを批判した環境活動家のヴァンダナ・シヴァの『食糧テロリズム』(明石書店)と『生きる歓び』(築地書館)などを知って、そのシヴァが『バイオパイラシー』(緑風出版)や『生物多様性の保護か、生命の収奪か』(明石書店)といった本をとっくに書いていることに気づかされ、ハッとした。シヴァは西洋知と対決できるコンティンジェントな知性に富んでいた。
 そのころは、折からのTPP交渉議論をめぐって中野剛志君の『TPP 黒い条約』(集英社新書)や『反・自由貿易論』(新潮新書)なども読んでいた(その後、中野君とは出会って話をしたが、なかなか痛快な考え方の持ち主だった)。そのうちやっぱり「ニッポンの米」のことが気になって、急に食糧問題の本を渉猟するようになった。とくにクリスティン・ドウキンズの『遺伝子戦争』(新評論)を読んで、ふたたびラジ・パテルに戻ってきた。

 イ・キョンヘはなぜカンクンで自殺したのか。
 先に述べたように、韓国政府はオーストラリアの牛肉を導入することで、国内の牛肉価格が下がることを見越し、畜産農家に対して「規模拡大・低価格」を実現させるため、借金をして仔牛を育てれば十分な値段で買い上げると奨励していた。
 イ・キョンヘもこの政府の奨励と助言に従ったのだが、牛肉価格は下がったまま上がらず、農家は借金の利息を払うために牛を手放さなければならなくなった。キョンヘは毎月数頭ずつの牛を手放して生活を維持していたものの、ついに耐えられず農場を失った。背後で世銀とWTOが動いていた。
 韓国がOECD(経済協力開発機構)に加盟したのは一九九六年だ。マーシャルプランをヨーロッパが受け入れる機関としてOEECが成立し、そこにアメリカとカナダが加わり1961年にOEEDになってから35年がたっていた。しかし、いったん加盟したら事態は大きく変わる。GATTに加わり、WTOに加わることになる(TPPもそうなるに決まっている)。
 韓国の農民たちは政府の農業政策によって一挙手一投足をコントロールされるようになった。それまで農民たちは伝統的な村落で慣行されていた「契」などによって、相互に借入れをしあうような“融通”をしていたのだが、そうした“知恵”も通用しなくなった(日本の村落でもかつての「頼母子講」や「結」が失われている)。なぜ、こうなったのか。イ・キョンヘはなぜWTOの殺人性を訴えたのか。WTOが誕生してきたグローバル・キャピタリズムの事情を見る必要がある。

 話はレーガン、父ブッシュ、クリントン、子ブッシュが新自由主義的なグローバル・キャピタリズムにもとづいて、世界中に「貿易自由化」(資本の自由化)を仕掛けていったあたりの状況まで、いったん戻る。ここから「自由貿易協定」なるものが驀進していったからだ。
 国家が国際間の交易に輸出入の制限を加えず、保護も奨励もせず、関税賦課もしないことを「自由貿易」というのだが、アメリカがこれを推進すればアメリカ産業に集中しているコングロマリット(多国籍複合企業)の有利を促進するのはあきらかだった。
 アメリカは自由貿易を世界中に説得するにあたって、あの手この手で甘言を弄した。これによって各国にトリックル・ダウンがおこるのだから、みんなにとってもいいはずだと主張しつづけた。「滴がたれる」という意味のトリックル・ダウンとは、世界の経済成長のパイが大きくなればなるほど、その恩恵が貧しい国や領域にも波及するという、実に厭味な開発経済学用語のことをさす。
 こうして登場してきたのが、1992年にアメリカ・カナダ・メキシコが共同署名したNAFTA(北米自由貿易協定)である。メキシコはNAFTAの取り決めに従ってトウモロコシ関税を撤廃した。これでアメリカの食糧コングロマリットからの輸入が増大し、国内生産に大きなブレーキがかかった。日本人に「ごはん」が必要なように、メキシコでは「トルティーヤ」(トウモロコシの生地による料理)の値段がちょっと変化するだけで、国がおかしくなる(日本なら牛丼の値段にあたる)。
 案の定、280万人の職が失われた。国家が介入しないなどと言っておきながら、アメリカはアメリカ経済界の有利を謀ったのである。

 あらためてふりかえると、国際関税協定そのものはGATTに始まっていた。第二次世界大戦で国際関係の秩序が大きく狂った戦後経済の立て直しのために、1947年に初期23カ国がジュネーブに集まって調印成立した「関税と貿易に関する一般協定」のことをGATTという。
 GATTは時代情勢と参加国の情勢に応じて協定内容を変えてきた。その議論をする場をラウンドというのだが、1948年以来、7回のラウンドを経過してきた。1ラウンドに数年ずつがかかった。日本がGATTに加盟したのはサンフランシスコ講和条約後(つまり日米安保条約締結後)の1955年である。
 当然のことながら、国際経済のダイナミックスは次々に変化し、GATTは体質変化を迫られた。当初は米ソの冷戦によって自由資本主義と社会主義経済が対立していて、その緊張がしだいに高まっていた。アメリカはベトナム戦争で大失敗をやらかしていた。そこへ「中東のめざめ」によるオイルショックがやってきて、ニクソンはドルを切り下げ、世界経済は変動相場制に転進することになった。1986年、ウルグアイでGATT閣僚会議が開かれて(=ウルグアイ・ラウンド)、今後はもっと新しい多角的世界貿易の強力なしくみが必要だろうという窮余の展望が確認され、マラケシュ協定が交わされた。
 マラケシュ協定が提案したしくみは、アメリカ主導のプレゼンテーションによってGATTを発展解消させる世界貿易機関の設立につながり、かくして1995年のWTO(World Trade Organization)発足となった。GATTはWTOに移行し、10年後(2005)には149カ国が加盟した。

 WTOには貿易・関税・知的所有権に関する28協定が含まれている。加盟するにはこのすべてに同意しなければならず、加盟国間の紛争があれば、経済制裁を含む強権を発動できる。
 このようなWTOの機構の用意周到には目を見張る。世界を牛耳るには、アレクサンダーやヒトラーではなく、WTOが必要なのである。紛争解決機関、貿易政策検討会議、物品の貿易に関する理事会、農業に関する委員会、衛生植物の権益措置に関する委員会、繊維と繊維製品の監視機関、貿易の技術的障害に関する委員会、さらには投資措置に関する委員会、ダンピング防止措置に関する委員会、関税評価に関する委員会、知的所有権の防止関連の側面に関する委員会などが設置されている。
 これらは加盟国の平等をはかるというより、「強国の有利」を巧みに誘導できるようになっている。GATTの時代は当事国間の柔軟な交渉ができていた。WTOはそうした国の交渉力ではなく、自立した立法権や司法権をもった。その下準備を工作するのは各国の企業ロビーイストたちである。アメリカン・ロビーが圧倒的に強い。アメリカは「やれること」を「やる」ようにするためには、理念から細目まで、みごとなほどに総力を挙げてくる。とくに相手との複合ネゴシエーション(多重交渉)をためらわない。ニクソン時代に懲りたのだ。
 たとえば、EUが人工成長ホルモンを使用したアメリカの牛肉の輸入を禁止したり、チキータ社やドール社のバナナではないカリブ海諸国のバナナを輸入しようとしたときは、WTOはこれを不法な貿易障害だと断じた。これをEUが避けるには、アメリカのロックフォールチーズ・高級財布・オートバイなどの輸出品価格を倍加する100パーセント関税を受け入れるしかなかった。
 アメリカはこうした多重交渉を有利にするため、国内のスーパー301条などにぴったり対応する「ウォッチリスト」(経済制裁対象リスト)をたえず用意した。とりわけ農業・食品・医薬・化学製品・電気製品・自動車・発動機械に関する知的所有権(知的財産)をめぐる委員会は、早々と悪名高いTRIPS協定を発動させて、遺伝子操作が可能な種子や植物や食品を特許の対象にした。
 そうなったのは、ブリストル・マイヤーズ、デュポン、ゼネラル・エレクトリック、ゼネラルモーターズ、ヒューレット・パッカード、IBM、ジョンソン&ジョンソン、メルク、モンサント、フィリップモリス、ファイザー、ロックウェル、タイムワーナーなどのアメリカ大手企業の思惑にもとづいて強力な多重交渉が進められたからだ。

 ようするにWTOはとうてい公平ではなかったのだ。国連貿易開発会議(UNCTAD)の最高幹部ルーベンス・リクペロは「こういうことは、よく知られた秘密なんだ」と言って、ニヤリと笑ったらしい。
 植物や食品の品種改良もWTOとアメリカの共謀が確立してしまったのである。それはシンジェンタ社(サンド+チバガイギ→ノヴァルティス+ゼネカ)やモンサント社やアヴェンティス社などによる新たな「農業化学市場」の世界市場での席巻を意味した。モンサントがラウンドアップ除草剤と遺伝子組み換えトウモロコシによって世界を牛耳ったことは、マイケル・ポーランの痛快な一冊『欲望の植物誌』(八坂書房)を千夜千冊したときにも述べておいた。
 本書は、そうしたWTO関連の例として、ユナイテッド・フルーツ社(チキータ・ブランド。バナナの専有)やモンサント社のバイオ特許戦略とともに、アルトリア社が世界の穀物市場をどのように支配してきたのか、その実態を詳しく報告している。いまやアルトリアは、煙草のフィリップモリスのホールディング・カンパニーであるとともに、オレオ(クッキー)、スターバックス(コーヒー)、トブラローネ(チョコレート)、オスカーメイヤー(肉加工品)、マールボロ(煙草)などを傘下とする一網打尽の巨大コングロマリットになっている。これらは新たな「銃・病原菌・鉄」なのである。
 イ・キョンヘの自殺は、このような有無を言わさぬアグリビジネスとグローバル・フードシステムの進行を、WTOがあからさまにカムフラージュしていることに対する抗議だった。

アルトリア社
アルトリアグループ(Altria Group)はアメリカを本拠地とする、食品・タバコ産業グループ。食品分野での売上高は世界第1位。

 本書があきらかにしたもうひとつのことは、大豆をめぐるグローバル・フードシステムの虚構のことだった。
 欧米で大豆のことをソヤとかソーヤ(soya)と言っているのは、日本語の「醬油」が訛ったものである。徳川幕府に仕えたエンゲルベルト・ケンペルが1712年の『廻国奇観』で日本の大豆と醬油や味噌や豆腐の関係を記述したのだが、それまで、欧米での大豆の知識はまったくお粗末なものだった。おまけに欧米はケンペルの報告を軽視して、大豆を加工すればすばらしい食品をつくれるという日本的な技法について、ほとんど関心を示さなかった(欧米が豆腐や醬油にめざめたのはヒッピー・ムーブメントのあとである)。
 そのかわり欧米は意外なことを、あるいは恐ろしいことを思いついた。人間の消化器が大豆をうまく消化できないことにくらべて、多くの家畜が大豆をうまく消化していることに目をつけたのだ。すなわち、大量の大豆を家畜飼料に活用することを思いついたのだ。なんとも、ものすごい。いまでは世界の大豆の80パーセントが畜産業によって消費されている。

ケンペル『廻国奇観』
オランダ商館医ケンペルが1712年に出版した『廻国奇観』の大豆の解説。大豆を植物学上の裏付けをもって初めてヨーロッパに紹介した。

 アメリカの大豆ビジネスは1930年代のADM社による大豆油の大量生産から始まった。あっというまに大きなビジネスになったのだが、すぐさま余剰大豆問題に直面した。そこで1960年のGATTのディロン・ラウンドで、アメリカ政府は余剰大豆をヨーロッパ市場に売り付ける約束を巧みに取り付けた。ケネディ・ラウンドでもこの政策が踏襲された。
 かくて70年代初頭まで、アメリカは小麦の次に大豆の生産量で世界のトップを走ったのだが、ここで幾つかの変化がおこった。ひとつは、ソ連が国内需要を満たすべき原油の増産に踏み切り、世界各国がその原油をドルで購入した。ソ連はこのドルでアメリカから小麦を買い、ついで大豆を大量に買い込んだ。もうひとつは、1972年から翌年にかけて大規模なエルニーニョ現象がおこり、広範囲な干ばつをおこし、北米全域の大豆に被害が出た。
 これらが原因でアメリカの大豆価格が前代未聞の価格となり、ニクソンが慌てて大豆輸出を禁止した。そこへドル・ショックとオイル・ショックが重なった。当時のアメリカは愚かなほどに右往左往したのだが、一方で、この変化はブラジルに大豆生産のまたとないチャンスをもたらした。たちまちブラジルの大豆生産量は1979年には世界全体の18パーセントを占めるようになり、大豆王ブライロ・マギーを君臨させた。
 マギーはマットグロッソ州の知事となり、巨大な大豆プランテーションのために森林破壊を進めた。それを支援したのは、アメリカのカーギル社などの食糧コングロマリットだった。マギーはアメリカ製のギニョールかと噂された。
 そうしたコングロマリットは生産ではブラジルに追いつけなくなったぶん、大豆粉末の家畜飼料への大量転換をめざしたのだが、それで手を打ち終わったわけではない。その家畜が食肉産業を支え、その食肉産業にハンバーガーのマクドナルドその他の加工食肉企業が群がった。こうした事態を巧妙に保護していったのがWTOだったのである。
 これで話がだいたい一巡できるのだが、イ・キョンヘの悲劇の背景が深かったこと、そのWTO絡みのフードシステム共謀がその後もさらに進行していることを調べ上げるため、ラジはまだ追及の手を緩めない。

 大豆ビジネスに続いてラジが問題にするのは、どのようにスーパーマーケットが仕組まれていったかということと、その作戦にまんまとはまっていった消費者の安直なフード感覚と、それがもたらした肥満の拡大のことである。
 アメリカ社会の底辺には年収一万ドル未満の所帯がひしめいていて、その層の黒人の32パーセント、ヒスパニックの26パーセント、白人の19パーセントが肥満になっている。けれども年収が5万ドルになると肥満率が少しずつ落ちていく。
 これはいったい何を示していることなのか。なぜ貧困と肥満が関係があるのか。このことこそ「貧困と肥満、飢餓と肥満の関係式」の謎を解く切り口になりそうだった。ラジもさっそくこの関係式にとりくんだが、すでに「ナショジオ」や「USAトゥディ」の記事を書いていたフリージャーナリストのグレッグ・クライツァーが率先してこの要因を調べていて、『デブの帝国』(Fat Land バジリコ)にまとめていた。

 やっぱり、あのニクソン時代(と次のフォード時代)に最初の原因があった。当時の農務長官のアール・バッツがニクソンの要望に応えて「農場票」を集める役を仰せつかったとき、高果糖コーンシロップを作れるように組み立てたのである。
 この甘味料は遺伝子組み換えのトウモロコシによるコーンスターチ(澱粉)をつかったもので、HFCS(異性化糖)と呼ばれた。甘味を保証するだけでなく、「代謝の短絡」をおこす機能をもっていた。HFCSにはたちまち大手食品メーカーが乗ってくることが予想されたので、農場主たちはこのHFCS用のトウモロコシの生産に傾いた。
 こうしてしばらくするとコカ・コーラが、そしてペプシが、混入甘味料のすべてをHFCS(コーンシロップ)に切り替えることに踏み切った。あとは推して知るべし、多くの食品メーカーが右へ倣えした。ほどなくスーパーマーケットに並ぶ甘みのある食品や冷凍食品が一気に手に入りやすくなった。けれどもHFCSにひそんでいた「代謝の短絡」の回路こそは肥満につながっていたのである。

『デブの帝国』の原書

 ニクソンがウォーターゲート事件で失脚すると、大統領をバトンタッチしたフォードも、バッツ農務長官に「価格統制によらない食品価格の低下」を実現するように指示した。ここに登場してきたのが今度はパーム油だった。アブラヤシから採る植物油だ。
 バッツはパーム油をアメリカの消費者を納得させる手段に使うことにした。パーム油はマレーシアやタイやインドネシアの「国の産業」である。バッツはさっそくマレーシアのムサ・ビン・ヒタムと草案を練ると、その移転コストを計算し尽くした。かくてアメリカにパーム油が出回り、TVディナーやマカロニチーズがパーム油製になった(ぼくは岡崎の美術館の開館記念「天使と天女」展のためニューヨークで天使美術を調査していたとき、キュレーターから初めてTVディナーを勧められた。なんとも味気ないものだった)。
 まもなくパーム油はファストフードの大半、マーガリン、ポテトチップス、ドーナツ、パン、アイスクリーム、チョコレートに使用されることになった。いまでは植物油の生産量ではパーム油が世界一を占める(日本ではカップ麵にも使われている)。

TVディナー
テレビを見ながら作れるディナーという意味で生まれた。区分けした容器に、肉、ポテト、野菜などが入れられている冷凍食品。オーブンや電子レンジで容器ごと温めて食べる。

 パーム油の過剰摂取は肥満をもたらすだけでなく、その酸化しやすさや独自の臭みを防ぐためにBHA(ブチルヒドロキシアニソール)やBHT(ジブチルヒドロキシトルエン)が食品添加物として使われる。これが発ガン性をもつとも言われる。パームはココナツオイル同様の熱帯植物なので、その土地に住む者には体を冷やす効果があるのだが、採り過ぎれば欧米人の体も冷やしてしまう危険もあるらしい。
 もっとも、こうした危惧をめぐる声が大きくなってきたのは、80年代に入って過剰摂取がいよいよ“商品化”されてからのことである。その突端を開いたのはマクドナルドのデイヴィッド・ウォーラスタインだった。マクドナルドは映画館のポップコーンをビッグサイズにし、ハンバーガーをビッグマックにし、フライドポテトも大盛りにするという、いわゆる「バリューセット」を展開していった。1988年、まったく同じことをバーガーキング、ウェンディーズ、ピザハット、ドミノが始めた。
 もはや何もかもが止まらなくなった。もはや誰もかもが食べ続けるようになった。ラジは書いている。ファストフードで食品メーカーが肥大していくとともに、黒人と貧困層と子供が太っていった、と。

ドキュメンタリー映画『スーパーサイズ・ミー』
主演・監督を務めるモーガン・スパーロック自身が1日に3回、30日間、マクドナルドのファストフードだけを食べ続けたらどうなるかを記録した映画。30日後、体重は11キロ増え、体脂肪率は11%から18%になり、躁うつ、性欲減退、深刻な肝臓の炎症を起こした。

 本書はWTOと世界銀行で仕事をしていたラジ・パテルの懴悔の一冊である。ここに紹介した内容だけではなく、獰猛なアグリビジネスや狡猾なWTOに対する反抗運動についても、幾つもの報告や記述がある。またスローライフやダイエットについての楽観できない問題点にも言及する。
 こうした本書の翻訳に佐久間智子はうってつけだった。市民フォーラム2001の事務局長、明治学院大学国際平和研究所研究員、アジア太平洋資料センターの理事などを歴任するとともに、自身で2010年に『穀物をめぐる大きな矛盾』(筑摩書房)を著し、『ウォーター・ビジネス』(作品社)、『世界の〈水〉が支配される!』(作品社)、『フード・ウォーズ』(コモンズ)などを訳出してきた。
 WTOについては、すでにさまざまな報告書や解説書や告発書が刊行されている。『なぜ世界の半分が飢えるのか』のスーザン・ジョージによる『WTO徹底批判』(作品社)、ラルフ・ネーダーが創設したパブリック・シティズンがまとめた『誰のためのWTOか?』(緑風出版)が基本になるだろうが、わかりやすくは前述したドウキンズの『遺伝子戦争』(新評論)や鈴木宣弘の『食の戦争』(文春新書)などがいい。

1610夜の関連本棚 松岡正剛の書斎にて

 肥満についてはあまり読んでいない。本音をいうと、実は関心がない。ぼくは小学生の頃から身長や体重を記入することすら嫌いだったのである。べつだん体にコンプレックスがあったわけではなく、そういうふうに「数値が私になる」のがイヤだったのだ。のみならず太っちょも好き、痩っぽちとも仲がよく、そんなことを気にしない連中が好きなのだ。
 とはいえ、いまや肥満が食品害や貧困状況と結びついているとなると、その動向が何を示唆するのかは、文明思想や社会思想の領域に入ってくることになる。少しは読むことにした。上に紹介した『デブの帝国』はほどよく書けていたが、そのほか岡田正彦『人はなぜ太るのか』(岩波新書)、ディードリ・バレット『加速する肥満』(NTT出版)、白澤卓二『肥満遺伝子』(祥伝社新書)、フランク・フーの『肥満の疫学』(名古屋大学出版会)、ニュートン別冊の『肥満のサイエンス』(ニュートンプレス)あたりを散読したまでだ。
 当初は千夜千冊してみたいと思っていたマイケル・モスの『フードトラップ』(日経BP社)にも、けっこう感心した。“SALT,SUGER,FAT”が原題で、なかなかの読みごたえだったことを付け加えておく。21世紀は「飢餓と肥満の文明」で、「バイオ・キャピタルの文明」なのである。

⊕ 『肥満と飢餓―世界フード・ビジネスの不幸のシステム』 ⊕

 ∈ 著者:ラジ・パテル
 ∈ 訳者:佐久間智子
 ∈ 編集:内田眞人
 ∈ 装丁:伊勢功治
 ∈ 発行所:作品社
 ∈ 発行者:高木 有
 ∈ 印刷・製本:シナノ印刷
 ⊂ 2010年09月20日 第一刷発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈ 序文 なぜ世界で、10億人が飢えにあえぎ、
      10億人が肥満に苦しむのか?
 ∈ 序章 「肥満」と「飢餓」を生み出す世界フードシステム
 ∈ 第1章 崩壊する農村、自殺する農民
 ∈ 第2章 あなたが、メキシコ人になったら…
 ∈ 第3章 世界フードシステムの知られざる歴史
 ∈ 第4章 フードビジネスは、市場を支配し政府を動かす
 ∈ 第5章 化学は、いかに農業・食料を変化させたのか?
 ∈ 第6章 大豆、世界フードシステムの隠れた主役
 ∈ 第7章 スーパーマーケットは、消費と生産を支配する
 ∈ 第8章 消費者は、いかに食生活が操作されているのか?
 ∈ 第9章 フードシステムの変革は可能か?

⊗ 著者略歴 ⊗

ラジ・パテル
米国在住のエコノミスト、ジャーナリスト。1972年、ロンドン生まれ。英オックスフォード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)を卒業後、米コーネル大学で博士号を取得。世界貿易機構(WTO)、世界銀行に、エコノミストとして勤務した。その一方で、アクティビストとしても活躍しており、1999年のWTO閣僚会議(米シアトル)の際の、数万人が参加し世界の注目を集めた抗議行動のオルガナイザーの一人である。世界銀行やWTO、G8やG20などの国際会議の際には、「会場の内外」で的確な批評を展開する論客として多いに注目を集めた。

⊗ 訳者略歴 ⊗

佐久間智子
アジア太平洋資料センター理事。1996年~2001年、「市民フォーラム2001」事務局長。2002年~2008年、「環境・持続社会」研究センター理事。現在、女子栄養大学非常勤講師、明治学院大学国際平和研究所研究員などを務めており、経済のグローバル化の社会・開発影響に関する調査・研究および発言を行なっている。