才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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心と脳

認知科学入門

安西祐一郎

岩波新書 2011

編集:千葉克彦 協力:金田一真澄・山田まり

認知科学の入門書や解説書は数多く出回っているが、なかなか定番がない。本書も280ページほどの新書なので、認知科学が広範に扱ってきた問題や領域のアイテム・仮説・モデルを順序よくとりあげ、できるだけ柔らかく全貌を概観したもので、深くは突っ込んでいない。けれども類書の入門書と異なってかなり配慮がゆきとどいていて

 認知科学の入門書や解説書は数多く出回っているものの、なかなか定番がない。本書も二八〇ページほどの新書なので、認知科学が広範に扱ってきた問題や領域のアイテム・仮説・モデルを順序よくとりあげ、できるだけ柔らかく全貌を概観したもので、深くは突っ込んでいない。
 けれども類書の入門書とは異なってかなり配慮がゆきとどいていて、この一冊を認知科学のガイダンス(=ステーション)とすれば他の多くの解説書や専門書に入ったり出たりすることもやりやすくなるだろうという、そういう好著になった。こういうことはずっと以前なら北川敏男や渡辺茂が、ついでは戸田正直や佐伯胖が、そのあとはやはり安西祐一郎が引き受けるべき仕事だった。

戸田正直氏(1924-2006)と『感情―人を動かしている適応プログラム (認知科学選書)』東京大学出版会 1992
戸田氏は人間の意思決定において、非合理な意思決定をさせるように見える感情・情動についての理論「アージ理論」を唱えた。

佐伯胖氏(1939-)と『「学び」の構造』東洋館出版社 2000
認知心理学の知見に基づいて「学ぶとは何か」を問ったベストセラー。佐伯氏はコンピュータと子どもの教育の問題についても「学び」の観点から問題提起している。

 安西さんとは北大時代に知り合ってから、ずいぶんがたつ。そのころから認知科学の最前線を走っていた。いつもばったり会ったり、フォーラムで顔を合わせたりで、おまけに慶応の塾長や中教審の会長になってからはお役目ご苦労という印象なので、とくに主題を交わしてはこなかった。時折、ぼくのほうからオンステージをお願いしたりもしてきた。もっとも日本学術振興会の理事長に就任してからのほうが、日本の教育の未来を憂えて互いの相談を交換する機会がふえた。
 安西さんは早くから編集工学の方法に関心を寄せてくれていた。ぼくも今後の「高大接続システム」の実現や「日本にふさわしいリベラルアーツ」の提案や「センター入試」の編集工学的な改良などでは、何かをお返ししたいと思っている。

「高大接続改革」に沿った「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の問題イメージ(2015年12月公開)
高校と大学の教育、その間に横たわる入試の3本柱を抜本的に見直す「高大接続改革」。選択肢がならぶセンター試験の問題とは違い自分で書くことを求めるスタイル。「考える楽しさを伝えたい」と安西氏。

 認知科学(Cognitive Science)は「心のはたらき」を解明するための学問である。認知というのは“cognition”を翻訳した用語だが、日本の哲学や心理学ではコグニションを長らく「認識」と訳していた。
 けれども一九五〇年代後半に向けて勃興してきた“Cognitive Science”は、いわゆる「認識の科学」ではなかった。チューリングのチューリングマシン、ホジキン-ハックスレーの神経細胞モデル、マカロックとピッツのニューラルネットの方程式、ローゼンブラットの神経回路網モデル(パーセプトロン)、さらにはシャノンの情報通信理論やウィーナーのサイバネティクスなどを引き連れた認知工学であり、知識工学に近いものだった。「心のはたらき」をめぐるのだから心理学でもあるはずなのだが、もう少し別の風に乗っていた。それ以前の行動主義的な心理学が、S(刺激)とR(反応)で人間の心と行動の因果関係を説明しようとしていた風潮ともちがっていた。
 ENIACやMARKⅡなどの巨大電子計算機が登場し、判断や行動をコンピュータが代行できる可能性が出てきたことが、生まれたばかりの認知科学をとても新しいものに仕立て上げたのだ。
 脳科学や言語学がめざましく発展し、シェリトンの衣鉢を継いだエクルズによるシナプス結合をあきらかにした理論、レネバーグやチョムスキーの言語生成文法論などが、次々に並びたったことも追い風だった。
 こうした新規の流れを背景に、マカロックやローゼンブラットによる電子的な神経モデル(数学モデル)、ニューウェルとサイモンの「ロジック・セオリスト」(プログラム)などが提唱され、これらをミンスキーのようなすぐれた統合力の持ち主が縫い合わせ、「認識」というより「認知」を前面化していったのだ。それにともなって、認識という日本語は新たに「パターン認識」として理解されるようになったのである。
 かくして「認知科学」の名称が一挙に内外に定着したのだが、この用語もその方針も急ごしらえのわりにはぴったりだったように思う。しかし、その領域はいまなおひとかたならぬ拡充を続けていて、とうてい手短かには説明できないものになっている。

(左)E.H.レネバーグ『言語の生物学的基礎』大修館書店 1974
(右)ハーバートA・サイモン『意思決定の科学』産業能率大学出版部 1979

 誰もが実感しているように、「心のはたらき」はそうとう多岐にわたる。そこには「脳のしくみ」が絡んでいるし、「言葉づかい」や「体の調子」も影響する。状況や社会や家族や仕事との関係も反映する。かなり多くの視点や視角を投入していかないと、「認知」の全貌は見えてはこない。たとえば「心」と「意識」と「記憶」はかなり関係しあっているにちがいないけれど、それぞれの役割と相互関係をちゃんと説明しようとすると、これがけっこう難しい。
 心と意識は似たもののように感じるものの、意識にのぼらない心の動きもあるだろうし、心の実感を伴わない意識の持続もありうる。
 たとえば仏教では八識を数えて、意識とは別の第七識にマナ識、第八識にアーラヤ識をおいた。夢の中身がなぜあのような変なものになっているかなどということも、ほとんどわかっていない。『解明される意識』(青土社)のダニエル・デネットは、夢を見る当事者の、それまでの日々の体験や活動や思考でシナリオ化しきれなかったドラフト群のようなものが、夢の中で未編集状態のまま乱れて散乱しているのだろうと言うのだが、はたしてどうか。

ダニエル・デネット『解明される意識』青土社 1998、『思考の技法―直観ポンプと77の思考術』青土社 2015

 記憶のことも正確には説明しにくい。いったいわれわれは、人の顔や町の様子や会話の内容を脳の中のどこに収容して、どのように取り出しているのか。なぜ似顔絵や電話の声で相手が誰だかパッとわかるのか。
 脳の中にフェイスブックがあるのではない(笑)。そこには記憶の「再生」(recall)と「再認」(recognition)の相違、長期記憶と短期記憶とエピソード記憶と手続き記憶の相違、顕在するもの(explicit)と潜在するもの(implicit)との相違など、いろいろ微妙な記憶のメカニズムがはたらいている。
 それでも、記憶はきっと記憶情報のアイテムや特徴の違いのようなものによって別々の仕切りに収容しているのだろうと見当をつけたくなるのだが、曖昧きわまりないわれわれ自身の記憶情報の体たらくからしても、どうも小分けされた昆虫標本や鉱物標本のようにきちんと分類されているとは思えない。たとえば「赤」「恐山」「ニューヨーク」「おやじ」と言われて思い出したり思い付くことは、試してみればすぐわかるようにまことに種々雑多だし、また「風」「十七歳の自分」「ジャニス・ジョップリン」というアイテムから想起したり連想できることも、そうとうに自由なものなのだ。

 心は「自己」や「私」のイメージとも重なっている。自己意識とかアイデンティティ(自己同一感)とか、自己満足・自己欺瞞・自己犠牲などという言い方もする。ところがこの「自己」や「私」や「自我」が掴まえにくい。フロイト以来の心理学だけでは納得がいかないところもある。
 自己は、あきらかに「自分の体や目や耳」といった自分自身の皮膚や感覚器官と結び付いているのだから、自己意識は脳科学者アントニオ・ダマシオが主張したようにソマティック(身体的)であるはずなのである。それなら自分の心の状態の特色を自分の体にソマティック・マーキングできているかといえば、これはほとんど実感できない。

アントニオ・R・ダマシオ『無意識の脳・自己意識の脳』講談社 2003、『感じる脳―情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』ダイヤモンド社 2005

 知覚される自己の輪郭も突きとめにくいけれど、これをゲノムや細胞や内臓のレベルで見ると、また進化や分化のプロセスで見ると、さらにややこしい。ミトコンドリアの陥入、寄生と宿主、雌雄の発生、サーカディアン・リズム(生理的日内変動)などをどう見るかということもあるし、免疫学では「自己」と「非自己」の出入りを重視するように、生物学的自己ははなはだ相補的であり、相対的なのだ。
 ことほどさように、心と体の関係は謎だらけなのである。身近なところでいっても、なぜストレスが抜け毛や胃潰瘍に関係あるのか、いまだに解明されていない。そのストレスも体寄りなのか脳寄りなのか、見当がついていない。ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』(角川文庫)やガザニガの『〈わたし〉はどこにあるのか』(紀伊國屋書店)などを読むと、いっそう不安になってくる。すべては複合的で、相互作用的だという解釈になりつつあるというだけなのである。

(左)V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』角川文庫 2011(サンドラ・ブレイクスリーとの共著)
(右)マイケル・S. ガザニガ『〈わたし〉はどこにあるのか―「ガザニガ脳科学講義』紀伊國屋書店 2014

 このように「心」もはっきりしないが、その心をつくりだしているだろう「脳」も「神経ネットワーク」もまだまだはっきりしない。一三〇〇グラムの灰色の臓器にすぎない脳には五〇〇億以上のニューロンが張りめぐらされていて、そこでは電気的とも化学的とも計算的ともいえる出来事が一瞬ごとにおこっている。
 脳科学はめざましい発展をとげてはいるものの、その研究成果からAという「脳のしくみ」がBという「心のはたらき」に当たっている脳機能だというような、鍵を鍵穴にさしこむような決定打は、いまのところはまだカバーしきれていないのだ。そもそも鍵と鍵穴のような組み立てではないのだろうとも言わざるをえない。それだけでなく「心」と「脳」と「身」の関係もいろいろ観察結果や研究成果がありすぎて、その連動性を説明しにくい。
 こうした議論はあまりに複合的で入りくんだ難問なので、哲学や心理学では長らく「心身問題」(Mind-Body Problem)とか「心脳問題」(Mind-Brain Problem)と言って、厄介扱いされてきた。そこでシャンジューとリクールの『脳と心』(みすず書房)、チャーマーズの『意識する心』(白揚社)などが果敢な問題整理に乗りだしたのだが、事態はまだまだ収まってはいない。ケアンズ・スミスの『〈心〉はなぜ進化するのか』(青土社)や、マイケル・ロックウッドの『心身問題と量子力学』(産業図書)などを読むと、かえって難問解説に迷いこまされるということもある。
 だからこの手の問題にうっかり入ると深くなりすぎるので、今夜は安西さんのナビゲートに添うにとどめたい。「心身問題」や「心脳問題」に深入りするとどうなるのかについては、山本貴光君と吉川浩満君が巧みにガイドした『脳がわかれば 心がわかるか』(太田出版)などを読まれるといい。

(左)A.G. ケアンズ‐スミス『<心>はなぜ進化するのか―心・脳・意識の起源』青土社 2000
(右)マイケル・ロックウッド『身体問題と量子力学』産業図書 1992

(左)ヒラリー・パトナム『心・身体・世界―三つ撚りの綱/自然な実在論』法政大学出版局 2005
(右)ティム・クレイン『心は機械で作れるか』勁草書房 2001

日本認知科学会編『認知科学辞典』共立出版 2002

『認知科学辞典』より
認知科学に関わる項目が五十音順に網羅されている。

Robert A.Wilson・Frank C.Keil編 中島秀之監訳
『MIT認知科学大事典』共立出版 2012

中島秀之が10年以上かかって翻訳した。「認知科学」の全分野にわたって、それぞれの方法論および理論が網羅されている。

ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピューター』ランダムハウス講談社 2005
米Palm Computing社の創業者として数々のPDA(携帯情報端末)や携帯電話を世に送り出してきたホーキンスが、事業の傍らで情熱を注いでいた人工知能の研究について述べる。

中島秀之氏と『知能の物語』公立はこだて未来大学出版会 2015
『知能の物語』で中島氏は、SF物語に刺激を受けつつ物語と知能の関係を探った。将棋の羽生善治名人が「この本には知能の夢が壮大に描かれています」と推薦文を寄せている。

津田一郎氏と『心はすべて数学である』文藝春秋 2015
津田一郎氏は北海道大学で教鞭をとる数理学者。「科学する精神」と「近代を超えること」を実践するための場として脳の解明を選んだ。本書では「心」とは何かという問いに対して数学者としての思索を綴っている。

 というわけで、認知科学の扱う領域はたいへん広範なのである。ヴィジョン、モデル、仮説、実験成果、論争、修正、新説がたえず林立してきた。よほど徹底して入ってみるか、すぐれた案内に従ってみないかぎり、なかなかその醍醐味が伝わってこないかもしれない。インチキ解説で勘違いしてしまうこともある。
 本書での安西さんは「心のはたらき」とはどういうものかを問うために、まずは誰もが実感できそうな人間像を想定して、その五つの大きな特徴を案内するというアプローチから入るように組み立てた。「コミュニケーションする」「感動する」「思考する」「熟達する」「創造する」という人間像だ。
 このような五つの人間像から入るというのはわかりやすく、認知科学をヒューマンにする。認知科学をできるだけヒューマンに扱うというのは、安西さんが三九歳のときに書いた『問題解決の心理学』(中公新書)以来のスタンスだった。あの本では「問題を見つけること」と「問題をたてること」と「問題を解くこと」を、それぞれ丁寧に説明したうえで、われわれが問題に向かっているときには、六つの知的な特色が動いていることを説明していた。
 ①記憶を生かしてはたらかせる、②手段と目標の関係で問題を理解する、③問題そのものを適切に表現する、④知識を動かして使う、⑤そういうことをしている自分を見つめ、⑥問題を扱っているときの感情をコントロールする。
 この六つによるアプローチだ。ゆきとどいた点検だった。ぼくは編集力のヒントに使わせてもらった。

安西祐一郎『問題解決の心理学』中公新書 1985

 さて、本書で安西さんがあげた五つの認知的人間像に通底するのは、広い意味での「共感」である。さまざまな共感だ。喜怒哀楽をともなう共感。感覚器官や意識状態によって変化する共感。感動や愛着だけではなく、フェティッシュ、媚び、傲慢、嫉妬もバージョンになる共感。一人ぽっちの共感と大勢の共感。逆に同意や賛意がなくともおこる共感。失望や期待はずれや方針転換と裏腹の共感……。
 認知科学はつきつめれば、この共感の実態を「心」と「脳」と「身」の関係のなかであきらかにしていくことを目標にする。ただし目標にはするのだが、実際には心・脳・身の三つの「あいだ」をいろいろなものが繋いでいたり遮断したりする。ときにはわかりにくくさせたり、ごっちゃにしたりもする。
 そもそも認知には、感知、感情、意識、記憶、注意、イメージ、言葉、意味、意思、概念、行動、状況、察知、社会性などなどが、どんな場面でも「あいだ」に介入し立ちはだかってくるものなのだ。ということは、認知科学はそうした「あいだ」にこそ謎を解くヒントを求めて、裾野を広げ、てっぺんをめざしていってよかったのである。
 こうして認知科学は「心のはたらき」を鮮明にしていくために、いったんすべての「あいだ」の問題を「情報処理モデルのひとつ」と捉え、そのそれぞれのモデルを提案したり検討したりするという方法を採ることになってきた。心・脳・身の「あいだ」におこる大半の出来事を「情報」のふるまいとして、理解しようとしたのである。

 認知科学はさまざまな見方や手法を試みてきた。心の正体に向かうには、あるときは構造から、あるときは機能から、あるときは進化の視点から、あるときは言語処理プロセスとして、あるときはコンピュータに人工知能を詰めていくために、あるときは工事現場に作業ロボットを持ち込むために、あるときは認知症や離人症や失語症を治療するために、幾つもの見方や手法を使う必要があったのだ。
 これは「モデル化」が先行してきたということで、それらをモジュール別やシステム別に、またレイヤー別やつながり別の問題に分けてアプローチするという方針が必要だったということでもあった。
 念のためにいうのだが、複数の現象・出来事・機能が互いに影響を及ぼしあうことを「相互作用」という。相互作用が組み合わさって自立している系が「システム」である。システムには、そのシステムの各時点の表現として「内部状態」ないしは「変化の状態」が時々刻々生まれている。この状態や変化をつくっている要素や傾向はいろいろあるけれど、それらをまとめていえば「情報」である。

 認知科学では「心」を「情報が相互作用するシステムのふるまい」だろうとみなしてきた。この見方によると、「心のはたらき」とはつねになんらかの情報処理をしているシステムの刻々の動向だということになる。そして、このような変化するシステムを“見える”ようにするには、情報が出たり入ったりするモデルが、さまざまなプロセスに立ち上がってくる必要があったわけである。“見える”ようにするというのは、注意をするということだ。
 そこで一言。相互作用する情報がどのように処理されているかを解明するのが認知科学だとすると、ぼくがとりくんできた編集工学もこの方針をほぼ共有するものだということになる。注意とは「意を注ぐ」と書くけれど、この注意のカーソルがどのように「意」や「識」をつくっていくのか、それを再構成するのが編集工学でいうエディティング(editing)なのである。その再構成のプロセスをアナロジー・アブダクション・アフォーダンスの3Aで追いかける。これが編集工学の入口なのだ。以下、「情報処理」というところを「情報編集」と、読みかえていただけるとありがたい。

「インタースコアマップ」
松岡が校長をつとめる「イシス編集学校」で培われる「インタースコア編集力」を松岡自身がドローイングしたダイアグラム。左下に「3A」が説明されている。(松岡正剛&イシス編集学校『インタースコア』春秋社 2015 より)

 認知科学がシステム化とモデル化を重視してきたのは、ときどき誤解がおこっているようだが、コンピュータを駆使してきたからではない。脳もまた、ニューロン(神経細胞)・グリア細胞・血管などによってつくられた多様性に富んだ複合システムであるからだ。そのシステムの各部において情報処理(情報編集)がなされている。
 ニューロンはネットワーク状に構成され、夥しい数の接点ではシナプス結合をおこしている。シナプス結合ではニューロンの活動電位を上げる興奮性の結合と活動電位を下げる抑制性の結合とがあって、シナプス前細胞からは活動電位を“解釈”してさまざまな神経伝達物質が放出される。
 他方、脳を構造的にみると脳幹(間脳・中脳・橋・延髄)・小脳・大脳に分かれ、大脳はさらに大脳皮質・白質・神経線維・大脳基底核などで構成されている。そのうちの大脳皮質は進化的に新しい大脳新皮質と古い形成部分だった大脳辺縁系をもつ。大脳辺縁系では海馬や視床などが「記憶」にかかわっているとみなされ、注目されている。
 このような心と脳という複雑なシステムの探究には、従来から「構造」(しくみ)を分解的に調べていく構造主義的なアプローチと、「機能」(はたらき)に注目してその特徴を調べていく機能主義的なアプローチとがあったのだが、脳科学のシェリントンやサイバネティクスのウィーナーは構造と機能を結び付け、そこにフィードバックの作用(回帰や再帰)がおこっていることをあきらかにした。
 構造と機能をくっつけて見るとはいえ、そのさまざまなしくみを、どの説明レベルで解明するかによって、その実験や仮説の意味は変わってくる。
 たとえば、ネコが目の前を歩いているのを見ているとして、このとき脳に何がおこっているのか説明しようとすると、いくつかのレベルにまたがる。①脳の視覚神経系がネコの形・色・運動・その他の視覚情報を処理している(神経細胞や神経伝達物質がどのように活動したかという説明のレベル)、②ネコを見ている視覚情報を表現するために何が機能したかを説明するレベル、③視覚系が全体として何をどのように計算しているのかを説明するレベル、などが想定できる。どの説明レベルにおいても、それなりの徹底した実験や研究は必要だが、しかし、これらをまたぐ説明仮説はそれ以上に肝要である。
 ぼくがこれは天才だなと思った数理神経学のデヴィッド・マーは、説明を、①物理的実装のレベル、②アルゴリズムと表現のレベル、③計算論のレベルに分けつつも、これらを統合する最適化問題を提起した。ネコの動きのパターンを見いだすという計算問題を視覚系が解いているとみなしたのだ。

デヴィッド・マー『ヴィジョン』
著 乾敏郎・安藤広志訳 産業図書 1987

視覚に関する脳の情報処理を理解する上で、計算理論の必要性を明確に打ち出した。デヴィッド・マーは小脳の研究をした後、視覚の研究を行ない、この分野で多くの優れた業績を残した。本書は、白血病で余命いくばくもないことを知った彼が書き残した遺稿である(享年35歳)。本書はその2年後にMITにおける彼の同僚たちの努力で刊行された。

 われわれは何かを目で見たまま、いろいろな活動ができる。向こうからやってくる人物を見ながら横断歩道を渡ることもできるし、テレビドラマを見ながら柿ピーをあられとピーナッツに食べ分けもする。里芋の煮えぐあいを見ながら大根を切ったり、ガスの火加減を調節したりする。単純な視覚行動のようだが、そこにはいろいろの調整(編集)がおこっている。
 こうしたことは感情や心理にダイレクトにかかわってはいないようでいて、知能を成立させている基本的な活動のひとつになっている。こういうことを脳はどのように情報処理しているのか。その突破口を開いたのが夭折の天才マーだった。マーはこうした小脳の運動学習をパーセプトロンのモデルで説明した。
 小脳にはプルキンエ細胞という大きな神経細胞があって、平行線維と神経線維をシナプス結合させている。そこには登上線維もつながっている。マーは小脳ではプルキンエ細胞と平行線維のシナプス結合で生じた情報伝達が、登上線維からプルキンエ細胞に入力される情報によって増強されると仮説して、視覚系は「制約付きの最適化問題」を解いているとみなしたのである。
 マーの一九六九年の仮説は大きな反響を呼び、その後は増強だけでなく抑制作用もおこっていることなどがわかってきて、ここに計算論的神経科学による情報処理モデルが次々に提案されるようになった。脳こそは「心のはたらき」に直結する「生きた複合システム」だったのである。

 しかし認知科学はここにとどまってはいなかった。コンピュータ科学によって、さらに新たな三つの説明レベルがありうることを提起した。
 わかりやすくいうと、①プロセッサやメモリとその関係によってシステムの挙動を説明する物理レベル、②プログラムやデータの構造のしくみによってシステムの挙動を説明する記号レベル、そして、③知識と行為と目標とその関係が定義された要素間の情報エージェントの相互作用によってシステムの挙動を説明する知識レベル、という三つにとりくんだのだ。
 情報はいろいろのフォームやスタイルをとり、メディアを媒介にして表現になっていく。文字、音声、音、絵画性、図表性、写真、映像、数式などになるし、身振りやダンスにも、音楽や影絵文芸や演劇にも、笑いやコントにもなる。日常行為の大半、会話の大半が情報のあらわれだ。
 これらをまとめて「表象」(representation)と言うとすると、そもそも「知識」(knowledge)というものはこの表象の形成のために、情報をなんらかの組み合わせによって格納してきたものとみなすことができる。こうした“出番”を待って貯められてきた知識が示しているもの、あるいは含んでいるもの、それが「意味」(meaning)である。われわれの認知とは、まわりまわって「意味」のしくみを表象してきたものでもあった。

影絵のバリエーション(十返舎一九作、喜多川月麿画『和蘭影絵 於都里伎』より)
江戸時代には手影絵によって影絵芝居を演じる影絵一座が存在していた。

 知識がどういうものかについては、プラトンやアリストテレスこのかた、また孔子や荘子以来、さまざまな議論をへてその実態があきらかにされようとしてきた。
 フランシス・ベーコン以降は、あらゆる学問、あらゆる思想が「知識のあらわれ」である。ただ、このようなディヴィジョンに向かった知識は分類しやすい。それゆえ知識を系統樹にしたり、鉱物標本や昆虫標本のように区分けしたり、学科や図書分類のようにすることはそんなに難しいことではない。
 しかしながら、知覚や想起や行為という動的な認知活動にとって知識や知識群がどういうふうにかかわっているのかということを説明しようとすると、分類知では補えない新たな掴まえ方がどうしても必要になる。たとえば、知識における概念の役割、知識をしまっておく席や場所の問題、比喩やレトリックの関与、不完全な知識をどう補填するかということ、知識と言語の基本的な関係とイレギュラーな関係、知識はどのように学習されるのかということ、こういうことがきわめて重要になる。知識は動いてナンボのものなのだ。
 こうした知識の認知科学化にあっては、バートレット、ストープル、マッカーシー、サイモン、シャンク、ミンスキー、パパートらが先行してとりくんできた。

(左)F.C.バートレット『想起の心理学―実験的社会的心理学における一研究』誠信書房 1983
(右)ハーバート・A・サイモン『システムの科学』パーソナルメディア 1999

シーモア・パパートと『マインドストーム』未来社 1995
プログラミング言語の「LOGO」を開発したパパートによる「LOGO」言語の世界が描かれている。

 知識を分類表に収めるのではなく、変化していくものとして動的に扱うにはどうするか。安西さんは一方では知識の構造化可能性や知識の領域固有性を検討することが必要だが、他方では知識の「収納と想起の関係」や「曖昧性と制約の問題」も相手にする必要があったことを強調する。これらをあきらかにするうえで、コンピュータ科学が強い味方(=見方)になったのだった。
 今日のデジタルコンピュータにあっては、情報はいくらでもデータとして収納しておける。しかし、その情報を知識として適確に取り出したり、そのことによって目標を完遂するのに役立たせようとすると(ロボットがまさにその役割をもつのだが)、知識のシステム化にはさまざまな「知識をのせるお盆」が欠かせない。
 これらをバートレットやミンスキーは「スキーマ」というお盆、そのスキーマを載せる「フレーム」というお盆、それらをつないだり見守ったりする「エージェント」というふうに、動的に“載せ替え”可能なもので組み立てた。まことにうまい分け持たせ方だった。しかもこの分担は、それぞれ数理モデルとして動いてくれる。
 ここから先は一潟千里だ。認知科学とデザインを結び付けたドナルド・ノーマンは「メンタルモデル」を、安西さんや横山透はそのメンタルモデルの変化のモデルを、言語学のジル・フォコニエとターナーは「メンタルスペース」や「概念融合モデル」を、ジョージ・レイコフやマーク・ジョンソンはぼくがいっときはまっていたのだが、比喩やレトリックの作用を加味した「意味生成のモデル」を、認知対象との環境の限定力を重視したジェームズ・ギブソンは「アフォーダンス」の作用モデルを、それぞれ提出した。本書はこれらの話題にふれながら、認知科学の特色をまんべんなく炙り出した。

ドナルド・ノーマンと『エモーショナル・デザイン』新曜社 2004
認知心理学者であるノーマンが、「人間の認知と情動を科学的に理解することが製品のデザインにどのような影響を与えるか」というテーマを捉えた一冊。本能、行動、内省の3つの観点から、人間の脳が魅力的に感じるデザインとは何かを追求している。

(左)ジル・フォコニエ『メンタル・スペース―自然言語理解の認知インターフェイス』白水社 1996
(右)P.N.ジョンソン・レアードジョンソン・レアード『メンタルモデル―言語・推論・意識の認知科学』産業図書 1988

ジェームズ・ギブソンと『生態学的視覚論』サイエンス社 1986
アメリカの心理学者であるジェームズ・ギブソンは、知覚研究を専門とし、認知心理学とは一線を画した直接知覚説を展開。アフォーダンスの概念を提唱した。

 今夜はチューリング・マシンのこと、コネクショニズムのこと、エキスパート・システムや包摂アーキテクチャのこと、認知言語学のこと、クオリアのこと、また認知バイアスを扱ったトゥヴェルスキー&カーネマンのプロスペクト理論のことなどを案内しなかったけれど、本書ではこれらもまことに適材適所で扱っている。とくに「文脈」や「状況」が認知に強くかかわっていることが、随所で強調されている。

茂木健一郎『脳とクオリア』日本経済新聞出版社 1997
茂木健一郎『クオリア入門』筑摩書房 2006

クオリアとは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。簡単にいうと「りんごの丸い感じ」「古本の茶色い感じ」といったような主観的体験の質のことである。

ダニエル・カーネマン『ファスト&スローあなたの意思はどのように決まるか?(上・下)』早川書房 2014

 十章仕立ての本書は、第九章に「心と脳のつながり」が、第十章で医療・教育・芸術・創造性にかかわる認知科学が「未来へ」として扱われる。九〇年代以降、二一世紀の認知科学を展望した章だ。まとめると、次のようになろう。
 今日の認知科学では、(1)まずはfMRI、EEG、MEG、TMS、PETといった脳活動を計測する技術が進展して、神経系の動向がかなり精密に可視化できるようになっている。(2)神経系の相互作用自体を解析するコネクティビティ分解がおこなわれるようになった。(3)これらにともなって感情・不安・ストレス・うつ・離人症などの解明も心・脳・身の「あいだ」をつなぐ認知科学の領域に入ってきている。
 (4)一方では「意識」(自己意識)にふたたび光が当たり、自己想起意識や自己連想が注目されるようになった。(5)他方では、イメージや創造性や想像力の意義についても認知科学があきらかにしようとしている。(6)ディープラーニングによる機械学習が高速に工夫されて人工知能(AI)が多くのICT領域で応用されている。(7)学習理論や教育問題にどのように認知科学が寄与するかを包括的なアジェンダにしようとしている。(8)SNSやスマホの普及によってネットワーク社会がどのように「認知」に影響を及ぼすかを議論している……。
 すこぶるヒューマンな展望だ。安西さんが(8)について、次のような視点を整理していることも参考になる。最後に掲げておきたい。
①ネット社会では、コミュニケーションの中で知覚される情報の質と量がそれぞれ異なるため、その情報をもとにした「心のはたらき」も異なってくるだろう。
②リアル・コミュニケーションには身体からの入力が直接におこるが、ネットでは電子表示に減退されたシグナルばかりが横溢するため、意識下のはたらきが異なってくるだろう。
③リアルとネットでは相手と情報を共有するための判断が、限られた範囲での推測に偏っていくだろう。それゆえかえって限定された感情移入やエピソード記憶の強度の共有が進行するかもしれない。
④ネットでコミュニケーションを交わす共同体の特質に、リアル・コミュニティとは異なる大きな変化が生じていくだろう。そこでは従来型の社会性を維持するという目標は希薄になるかもしれない。
⑤記憶や思考の方略に変化がおこっていくだろう。メールアドレス、ファイル管理の方策、画像の公衆提示などは、ひょっとすると記憶と記録の文化に新たなステージをつくっていくかもしれない。

 認知科学はまだまだ過渡期のままにあると、ぼくは思っている。とくに「意識」「記憶」「自己」「夢」などの正体の見当がつかないままだし(いくつもの説に割れている)、最高度のディープラーニングをした人工知能が「自己めいたもの」を持つかどうかということも、まったく見当がついていない。このままでは「心の正体」の説明はつかない。
 とはいえ、それでも認知科学が試みようとしている目標や方法や科学的態度には、これまでの何かの限界を超えるものが萌芽したのだと思う。今夜はそのことについては言及しなかったけれど、認知科学は広義のコミュニケーションの能力(つまりは編集能力)の本質をなんとか説明しようとしているという点で、やはり先駆的なのである。今後ともウォッチングしていきたい。 
 ちなみに安西さんは二一世紀のコミュニケーターにとって必要なのは、一に想像力、二に構想力、三に集中力、四に並行処理力だろうと書いていた。

⊕ 『心と脳――認知科学入門』 ⊕

 ∈ 著者:安西祐一郎
 ∈ 発行所:株式会社岩波書店
 ∈ 発行者:岡本厚
 ∈ 印刷:理想社
 ∈ カバー:半七印刷
 ∈ 製本:中永製本
 ⊂ 2011年9月21日 第一刷発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈∈ はじめに

 ∈ 第一部 人間とは何か
 ∈∈ 第一章 五つの人間像
 ∈∈ 第二章 現象から見た心
 ∈∈ 第三章 心・脳・社会
 ∈∈ 第四章 探究の方法

 ∈ 第二部 認知科学の歩み
 ∈∈ 第五章 誕生
 ∈∈ 第六章 形成
 ∈∈ 第七章 発展
 ∈∈ 第八章 進化

 ∈ 第三部 未来へ
 ∈∈ 第九章 心と脳のつながり
 ∈∈ 第十章 未来へ

 ∈∈∈ おわりに

⊗ 著者略歴 ⊗

安西祐一郎(あんざい・ゆういちろう)
1946年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院工学研究科博士課程修了。カーネギーメロン大学人文社会科学部客員助教授、北海道大学文学部助教授を経て、慶應義塾大学理工学部教授。2001-09年慶應義塾長。専攻は認知科学、情報科学。