安西祐一郎
心と脳
認知科学入門
岩波新書 2011
ISBN:4004313317
編集:千葉克彦 協力:金田一真澄・山田まり
認知科学の入門書や解説書は数多く出回っているが、なかなか定番がない。本書も280ページほどの新書なので、認知科学が広範に扱ってきた問題や領域のアイテム・仮説・モデルを順序よくとりあげ、できるだけ柔らかく全貌を概観したもので、深くは突っ込んでいない。けれども類書の入門書と異なってかなり配慮がゆきとどいていて

 認知科学の入門書や解説書は数多く出回っているが、なかなか定番がない。本書も280ページほどの新書なので、認知科学が広範に扱ってきた問題や領域のアイテム・仮説・モデルを順序よくとりあげ、できるだけ柔らかく全貌を概観したもので、深くは突っ込んでいない。
 けれども類書の入門書と異なってかなり配慮がゆきとどいていて、この1冊を認知科学のガイダンス(=ステーション)とすれば他の多くの解説書や専門書に入ったり出たりすることもやりやすくなるだろうという、そういう好著になっている。
 こういう本はずっと以前なら北川敏男や渡辺茂が、ついでは戸田正直や佐伯眸が、そのあとはやはり安西祐一郎が引き受けるべき仕事だった。

戸田正直氏(1924-2006)と『感情―人を動かしている適応プログラム (認知科学選書)』東京大学出版会 1992
戸田氏は人間の意思決定において、非合理な意思決定をさせるように見える感情・情動についての理論「アージ理論」を唱えた。

佐伯胖氏(1939-)と『「学び」の構造』東洋館出版社 2000
認知心理学の知見に基づいて「学ぶとは何か」を問ったベストセラー。佐伯氏はコンピュータと子どもの教育の問題についても「学び」の観点から問題提起している。

 安西さんとは北大時代に知り合ってから、ずいぶんがたつ。そのころから認知科学の最前線を走っていた。
 いつもばったり会ったり、フォーラムで顔を合わせたりで、おまけに慶応の塾長や中教審の会長になってからはお役目ご苦労という印象なので、とくに主題を交わしてはこなかった。時折、ぼくのほうからオンステージをお願いしてばかりだ。もっとも日本学術振興会の理事長に就任してからのほうが、日本の教育の未来を憂いて互いの相談を交換する機会がふえた。
 安西さんは早くから編集工学の方法に関心を寄せてくれていた。ぼくも今後の「高大接続システム」の実現や「日本にふさわしいリベラルアーツ」の提案や「センター入試」の編集工学的な改良などでは、何かをお返ししたいと思っている。

「高大接続改革」に沿った「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の問題イメージ(2015年12月公開)
高校と大学の教育、その間に横たわる入試の3本柱を抜本的に見直す「高大接続改革」。選択肢がならぶセンター試験の問題とは違い自分で書くことを求めるスタイル。「考える楽しさを伝えたい」と安西氏。

 認知科学(Cognitive Science)は「心のはたらき」を解明するための学問である。認知というのは“cognition”を翻訳した用語だが、日本の哲学や心理学ではコグニションを長らく「認識」と訳していた。
 けれども1950年代後半に向けて、チューリングのチューリングマシン、ホジキン-ハックスレーの神経細胞モデル、マカロックとピッツのニューラルネットの方程式、ローゼンブラットの神経回路網モデル(パーセプトロン)、さらにはシャノンの情報通信理論やウィーナーのサイバネティクスなどともに一挙に勃興した“Cognitive Science”は、日本語でいう「認識の科学」というより、もっと新しい風に乗っていた。
 それ以前の行動主義的な心理学が、S(刺激)とR(反応)で人間の心と行動の因果関係を説明しようとしていた風潮とも違っていた。ENIACやMARKⅡなどの巨大電気計算機が登場し、判断や行動をコンピュータが代行できる可能性が出てきたことも新しい風に勢いをつけた。
 脳科学や言語学がめざましく発展し、シェリトンの衣鉢を継いだエックルズ(1059夜)によるシナプス結合をあきらかにした理論、レネバーグやチョムスキー(738夜)の言語生成文法論などが、次々に並びたったことも追い風だった。
 こうした新規の流れを背景にニューウェルとサイモン(854夜)のロジック・セオリストなどが提唱され、これらをマーヴィン・ミンスキー(452夜)のようなすぐれた統合力の持ち主が縫い合わせ、「認識」というより「認知」を前面化していったのだ。それにともなって、認識という日本語は新たに「パターン認識」として理解されるようになったのである。
 かくして「認知科学」の名称が内外に定着したのだが、この用語はいまから思うとぴったりだったように思う。しかし、その領域はいまなお拡充を続けていてひとかたならず、とうてい手短かには説明できないものになっている。

巨大電気計算機ENIAC(1946年発表)
アメリカ陸軍の弾道研究室での砲撃射表の計算向けに設計された。当時の一般的な電気計算機に比べて1000倍の計算速度だった。

MARKⅡ(1948年頃発表)
アメリカ海軍が資金提供し、ハワード・エイケンが考案、IBMが制作した。

(左)E.H.レネバーグ『言語の生物学的基礎』大修館書店 1974
(右)ハーバートA・サイモン『意思決定の科学』産業能率大学出版部 1979

 なにしろ「心のはたらき」はそうとう多岐にわたる。そこには「脳のしくみ」が絡んでいるし、「言葉づかい」や「体の調子」も影響する。状況や社会や家族や仕事との関係も反映する。かなり多くの視点や視角を投入していかないと、「認知」の全貌なんて見えてはこない。
 たとえば「心」と「意識」と「記憶」はかなり関係しあっているにちがいないけれど、それぞれの役割と相互関係をちゃんと説明しようとすると、これがけっこう難しい。

 心と意識は似たもののように感じるものの、意識にのぼらない心の動きもあるだろうし、心の実感を伴わない意識の持続もありうる。仏教では八識を数えて第七識にマナ識、第八識にアラーヤ識をおいた。
 夢の中身がなぜあのような変なものになっているかとなどということも、ほとんどわかっていない。『解明される意識』(青土社)のダニエル・デネット(969夜)は、夢を見る当事者の、それまでの日々の体験や活動や思考でシナリオ化しきれなかったドラフト群のようなものが、夢の中で未編集状態のまま乱れて散乱しているのだろうと言うのだが、はたしてどうか。

八識(仏教の意識作用の8種)
4世紀のインドに興ったヴィジュニャーナヴァーダ派によって成立。天台宗では阿摩羅識を加えて九識とする。

ダニエル・デネット『解明される意識』青土社 1998、『思考の技法―直観ポンプと77の思考術』青土社 2015

 記憶のことも正確には説明しにくい。いったいわれわれは、人の顔や町の様子や会話の内容を脳の中のどこに収容して、どのように取り出しているのか。なぜ似顔絵や電話の声で相手が誰だかパッとわかるのか。
 脳の中にフェイスブックがあるのではない(笑)。そこには記憶の「再生」(recall)と「再認」(recognition)の違い、長期記憶と短期記憶とエピソード記憶と手続き記憶の違い、顕在するもの(explicit)と潜在するもの(implicit)との違いなど、いろいろな記憶のメカニズムがはたらいている。
 それでも、記憶はきっと記憶情報のアイテムや特徴の違いのようなものによって別々の仕切りに収容しているのだろうと見当をつけたくなるのだが、曖昧きわまりない自分の記憶情報の体たらくからしても、どうも小分けされた昆虫標本や鉱物標本のようにきちんと分類されているとは思えない。
 たとえば「赤」「恐山」「ニューヨーク」「おやじ」と言われて思い出したり思い付くことは、試してみればすぐわかるようにまことに種々雑多だし、また「風」「17歳の自分」「ジャニス・ジョップリン」というアイテムから想起したり連想できることも、そうとうに自由なものなのだ。

 心は「自己」のイメージとも重なっている。自己意識とかアイデンティティ(自己同一感)とか、自己満足・自己欺瞞・自己犠牲などという言い方もする。ところがこの「自己」や「私」や「自我」が掴まえにくい。フロイト(895夜)以来の心理学だけでは納得がいかないところもある。
 自己は、あきらかに「自分の体や目や耳」といった自分自身の皮膚や感覚器官と結び付いているのだから、自己意識は脳科学者アントニオ・ダマシオ(1305夜)が主張したようにソマティック(身体的)であるはずだ。それなら自分の心の状態の特色を自分の体にソマティック・マーキングできているかといえば、そんなことはほとんど実感できるものではない。

アントニオ・R・ダマシオ『無意識の脳・自己意識の脳』講談社 2003、『感じる脳―情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』ダイヤモンド社 2005

 知覚される自己の正体も突き止めにくいけれど、これをゲノムや細胞や内臓のレベルで見ると、また進化や分化のプロセスで見ると、さらにややこしい。
 ミトコンドリアの陥入、寄生と宿主、雌雄の発生、サーカディアン・リズムなどをどう見るかということもあるし、免疫学では「自己」と「非自己」の相互関係を重視するように、生物学的自己ははなはだ相補的であり、相対的なのだ。
 心と体の関係は謎だらけなのである。身近なところでいっても、なぜストレスが抜け毛や胃潰瘍に関係あるのか、いまだに解明されていない。そのストレスも体寄りなのか脳寄りなのか、見当がついていない。ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』(角川文庫)やガザニガの『〈わたし〉はどこにあるか』(紀伊國屋書店)などを読むと、いっそう不安になってくる。
 すべては複合的で、相互作用的だという解釈になりつつあるというだけなのである。

(左)V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』角川文庫 2011(サンドラ・ブレイクスリーとの共著)
(右)マイケル・S. ガザニガ『〈わたし〉はどこにあるのか―「ガザニガ脳科学講義』紀伊國屋書店 2014

 「心」もはっきりしないが、その心を宿しているだろう「脳」も「神経ネットワーク」もまだまだはっきりしない。1300グラムの灰色の臓器にすぎない脳には500億以上のニューロンが張りめぐらされていて、そこでは電気的とも化学的とも計算的ともいえる出来事が一瞬ごとにおこっている。
 脳科学はめざましい発展をとげてはいるものの、その研究成果からAという「脳のしくみ」がBという「心のはたらき」に当たっている脳機能だというような、鍵を鍵穴にさしこむような決定打は、いまのところはまだカバーしきれていないのだ。そもそも鍵と鍵穴のような組み立てではないのだろう。
 それだけでなく「心」と「脳」と「身」の関係もいろいろ観察結果や研究成果がありすぎて、その連動性を説明しにくい。
 こうした議論はあまりに複合的で入りくんだ難問なので、哲学や心理学では長らく「心身問題」(Mind-Body Problem)とか「心脳問題」(Mind-Brain Problem)と言って、厄介扱いされてきた。ケアンズ・スミスの『心はなぜ進化するのか』(青土社)や、マイケル・ロックウッドの『心身問題と量子力学』(産業図書)などという難問解説に迷いこまされるということもある。
 だからこの手の問題にうっかり入ると深くなりすぎるので、今夜は安西さんのナビゲートに添うにとどめたい(♯「心身問題」については、ヒラリー・パトナムかティム・クレインか、あるいは誰の本かは決めていないが、そのうち適当な一冊を選んで千夜千冊する)。

(左)A.G. ケアンズ‐スミス『<心>はなぜ進化するのか―心・脳・意識の起源』青土社 2000
(右)マイケル・ロックウッド『身体問題と量子力学』産業図書 1992

(左)ヒラリー・パトナム『心・身体・世界―三つ撚りの綱/自然な実在論』法政大学出版局 2005
(右)ティム・クレイン『心は機械で作れるか』勁草書房 2001

 というわけで、あらかじめ認知科学が扱っている領域がどれほど広いものなのか、手元の二つの大事典の主要項目でアタリをつけておくと、日本認知科学会が2002年にまとめた『認知科学辞典』(共立出版)には、次のような大項目が並んでいる。
 思考、知識、記憶、学習、発達、人工知能、機械学習、推論、問題解決、ロボティクス、パターン認識、言語、自然言語処理、読み書き、神経生理、運動、感情、視覚、聴覚・音声、その他の感覚知覚、遂行、相互作用、人間とコンピュータのインターフェース、認知工学、支援システム、自己と性格、臨床心理、精神医学、臨床生理、音楽、複雑系、哲学、社会科学、コミュニケーションとネットワーク、社会心理、意思決定、文化人類学、注意、動物認知、ニューラルネット、研究法・統計。
 まあ、何でも入っているという印象だろう。波多野誼余夫が発願して松原仁が出版委員長を仰せつかり、足掛け7年がかかったようだ。当時の見方や考え方が日本を代表する400人の執筆者によって約4000項目が網羅されている。いまはデジタル版も容易に入手できる。

日本認知科学会編『認知科学辞典』共立出版 2002

『認知科学辞典』より
認知科学に関わる項目が五十音順に網羅されている。

 もう一冊は『MIT認知科学大事典』(共立出版)で、ミンスキー、チョムスキー、レトビン、ロドニー・ブルックス、レイ・カーツワイルらを陸続と輩出してきたMITが大解説集成をして1999年に仕上げた。
 概論に「哲学」「心理学」「神経科学」「計算論的知能」「言語学と言語」「文化・認知・進化」という6つの大きなステージが設けられ、このパースペクティブにもとづいて進化から学習まで、コネクショニズムからゲーデルの定理まで、メンタルモデルから内観まで、計470項目が解説されている。日本の認知事典にくらべて引きにくく、我田引水も多いのだが、これがMIT流なのだ。
 MIT事典はいまは「はこだて未来大学」の学長をしている中島秀之さんが日本語版を監修したのだが、翻訳に10年以上がかかった。以前は電総研(電子技術総合研究所)にいた中島さんとは、日本が第5世代コンピュータにとりくんでいたころに会ったが、その大器に包まれる気分がたいへん好ましい。

Robert A.Wilson・Frank C.Keil編 中島秀之監訳
『MIT認知科学大事典』共立出版 2012

中島秀之が10年以上かかって翻訳した。「認知科学」の全分野にわたって、それぞれの方法論および理論が網羅されている。

 ちなみに中島さんは、ごく最近に『知能の物語』というユニークな本をまとめた。
 当初は人工知能の教科書をつくるつもりだったらしいのだが、さまざまな実験やモデルや仮説が次々に届いたり見えたりしてくるので20年ほど書き足しているうちにまとまらなくなって(そりゃそういうふうになるに決まっている)、そこで打ち止めにして全体を「知能の物語」というふうにしたようだ。中島さんが焚いた風呂に入れてもらったような感じの本で、そのお湯から出て着替えたくなくなってしまう本だ。
 そんなふうに物語仕立てにするきっかけになったのが、北大の津田一郎(107夜)と話しこんできたことや、ジェフ・ホーキンスの『考える脳 考えるコンピュータ』(ランダムハウス講談社)を読んだ影響だったということも、よく合点できた。ホーキンスの本はぼくもターニングポイントを実感したものだ(♯これも近いうちに千夜千冊したい)。
 ついでながら津田君は、最近『心はすべて数学である』(文芸春秋)という確信に満ちた本を上梓した。とてもとても考えさせる本だった。

ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピューター』ランダムハウス講談社 2005
米Palm Computing社の創業者として数々のPDA(携帯情報端末)や携帯電話を世に送り出してきたホーキンスが、事業の傍らで情熱を注いでいた人工知能の研究について述べる。

中島秀之氏と『知能の物語』公立はこだて未来大学出版会 2015
『知能の物語』で中島氏は、SF物語に刺激を受けつつ物語と知能の関係を探った。将棋の羽生善治名人が「この本には知能の夢が壮大に描かれています」と推薦文を寄せている。

津田一郎氏と『心はすべて数学である』文藝春秋 2015
津田一郎氏は北海道大学で教鞭をとる数理学者。「科学する精神」と「近代を超えること」を実践するための場として脳の解明を選んだ。本書では「心」とは何かという問いに対して数学者としての思索を綴っている。

 いずれにしてもこのように、認知科学の扱う領域はたいへん広範だ。ヴィジョン、モデル、仮説、実験成果、論争、修正、新説が林立してきた。よほど徹底して入ってみるか、すぐれた案内に従ってみないかぎり、なかなかその醍醐味が伝わってこないかもしれない。インチキ解説で勘違いしてしまうこともある。
 そこで本書に戻ると、安西さんは「心のはたらき」とはどういうものかを問うために、まずは誰もが実感できそうな人間像を想定して、その5つの大きな特徴を案内するというアプローチから入るように組み立てた。「コミュニケーションする」「感動する」「思考する」「熟達する」「創造する」という人間像だ。
 なるほど、このような5つの人間像から入るというのはわかりやすく、真の意味で認知科学をヒューマンにする。
 認知科学をできるだけヒューマンに扱うというのは、安西さんが39歳のときに書いた『問題解決の心理学』(中公新書)以来のスタンスだ。
 あの本では問題を見つけることと問題をたてることと問題を解くことを、それぞれ丁寧に説明したうえで、われわれが問題に向かっているときには、6つの知的な特色が動いていることを説明していた。
 ①記憶を生かしてはたらかせる、②手段と目標の関係で問題を理解する、③問題そのものを適切に表現する、④知識を動かして使う、⑤そういうことをしている自分を見つめ、⑥問題を扱っているときの感情をコントロールする。
 この6つだった。たいへんゆきとどいた研究者の態度だ。ぼくは編集力のヒントに使わせてもらった。

安西祐一郎『問題解決の心理学』中公新書 1985

 さて、本書で安西さんが挙げた5つの認知的人間像に通底するのは、広い意味での「共感」である。さまざまな共感だ。
 喜怒哀楽をともなう共感。感覚器官や意識状態によって変化する共感。感動や愛着だけではなく、フェティッシュ、媚び、傲慢、嫉妬もバージョンになる共感。一人ぽっちの共感と大勢の共感。逆に同意や賛意がなくともおこる共感。失望や期待はずれや方針転換と裏腹の共感‥‥。
 認知科学はつきつめれば、この共感の実態を「心」と「脳」と「身」の関係のなかであきらかにしていくことを目標にするとみなしていいだろう。
 ただし目標にはするのだが、実際には心・脳・身の3つの「あいだ」をいろいろなものが繋いでいたり遮断する。ときにはわかりにくくさせたり、ごっちゃにしたりもする。

猫に読み聞かせをする子どもたち
米国ペンシルベニア州バークス・カウンティの動物保護施設Animal Rescue Leagueでは「Book Buddies」と名付けられたプログラムが話題となった。子どもたちが施設に立ち寄り、そこで保護されているホームレスのネコたちを相手に本の読み聞かせをするというもの。子どもたちはネコを相手にすることで本を読むスキルを向上させると同時に、動物との触れ合によって心のなぐさめを得る。一方のネコたちも、本を読む子どもたちのリズミカルな声によって気持を落ち着かせることができる。

 そもそも認知には、感知、感情、意識、記憶、注意、イメージ、言葉、意味、意思、概念、行動、状況、察知、社会性などなどが、どんな場面でも「あいだ」に介入したり立ちはだかってくるものなのだ。
 ということは、認知科学はそうした「あいだ」にこそ謎を解くヒントを求めて、裾野を広げ、てっぺんをめざしていってよかったのである。
 こうして認知科学は「心のはたらき」を鮮明にしていくために、いったんすべての「あいだ」の問題を「情報処理モデルのひとつ」と捉え、そのそれぞれのモデルを提案したり検討したりするという方法を採ることになってきた。心・脳・身の「あいだ」におこる大半の出来事を「情報」のふるまいとして、理解しようとしたのである。

青信号は青か緑か
国際的な信号の基準は「緑、黄色、赤」で統一されているものの、日本では「青信号」と呼ぶ。日本には「青リンゴ」や「青菜」など、緑色と青を言語上でははっきり区別しない例が多い。

顔に見える?
人は他人や動物に出会った場合、敵味方を判断したり、相手の行動、感情などを予測したりする目的で本能的にまず相手の目を見る習性がある。人や動物の目と口は逆三角形に配置されていることから、点や線などが三角形に配置されたものを見ると、脳は顔と判断する。この働きをシュミラクラ現象という。

 まさに認知科学は、実にさまざまな見方や手法を試みてきた。その多岐にわたる領域またぎについては、日本認知学会とMITの事典が存分にその“欲ばり”を告げている。
 領分荒らしをしているのではない(笑)。心の正体に向かうには、あるときは構造から、あるときは機能から、あるときは進化の視点から、あるときは言語処理プロセスとして、あるときはコンピュータに人工知能を詰めていくために、あるときは工事現場に作業ロボットを持ち込むために、あるときは認知症や離人症や失語症を治療するために、幾つもの見方や手法を使う必要があったのだ。
 これは「モデル化」が先行してきたということで、それらをモジュール別やシステム別に、またレイヤー別やつながり別の問題に分けてアプローチするという方針が必要だったということでもあった。

 念のためにいうのだが、複数の現象・出来事・機能が互いに影響を及ぼしあうことを「相互作用」という。相互作用が組み合わさって自立している系が「システム」である。
 システムには、そのシステムの各時点の表現として「内部状態」ないしは「変化の状態」が時々刻々生まれている。この状態や変化をつくっている要素や傾向はいろいろあるけれど、それらをまとめていえば「情報」である。
 認知科学では「心」をこのように「情報が相互作用するシステムのふるまい」だろうとみなしてきた。つまり「心のはたらき」とはつねになんらかの情報処理をしているシステムの刻々の動向だということになる。このような変化するシステムを“見える”ようにするには、情報が出たり入ったりするモデルが、さまざまなプロセスに立ち上がってくる必要があったわけである。
 そこで一言。相互作用する情報がどのように処理されているかを解明するのが認知科学だとすると、ぼくがとりくんできた編集工学もこの方針をほぼ共有するものだということになる。
 注意とは「意を注ぐ」と書くけれど、この注意のカーソルがどのように「意」や「識」をつくっていくのか、それを再構成するのが編集工学でいうエディティング(editing)なのである。その再構成のプロセスをアナロジー・アブダクション・アフォーダンスの3Aで追いかける。これが編集工学の入口なのだ。
 以下、「情報処理」というところを「情報編集」と、読みかえていただけるとありがたい。

「インタースコアマップ」
松岡が校長をつとめる「イシス編集学校」で培われる「インタースコア編集力」を松岡自身がドローイングしたダイアグラム。左下に「3A」が説明されている。(松岡正剛&イシス編集学校『インタースコア』春秋社 2015 より)

 認知科学がシステム化とモデル化を重視してきたのは、コンピュータを駆使してきたからではない。脳もまた、ニューロン(神経細胞)・グリア細胞・血管などによってつくられた多様性に富んだ複合システムなのだ。そのシステムの各部において情報処理(情報編集)がなされている。
 ニューロンはネットワーク状に構成され、夥しい接点ではシナプス結合をおこしている。シナプス結合ではニューロンの活動電位を上げる興奮性の結合と活動電位を下げる抑制性の結合とがあって、シナプス前細胞からは活動電位を“解釈”してさまざまな神経伝達物質が放出される。
 他方、脳を構造的にみると脳幹(中脳・橋・延髄)・小脳・大脳に分かれ、大脳はさらに大脳皮質・白質・神経線維・大脳基底核などで構成されている。そのうちの大脳皮質は進化的に新しい大脳新皮質と古い形成部分だった大脳辺縁系をもつ。大脳辺縁系では海馬や視床などが「記憶」にかかわっているとみなされ、注目されている。

脳が「記憶」するプロセス
記憶をつかさどる脳内の部位としては、海馬傍回、海馬、脳弓、視床、視床下部などが重要だと考えられる。海馬―脳弓・乳頭体―視床―帯状回-海馬を結ぶ回路を「パペッツの回路」と呼び、知識や文字の学習、出来事などの「陳述的記憶」に深く関連する。

ニューロンの構造と仕組み
複雑なネットワークを構成する脳の神経細胞を「ニューロン」と呼ぶ。神経細胞はひとつにつき平均数万個のシナプスをもち、他の神経細胞に信号を伝えている。

 このような心と脳という複雑なシステムの探求には、従来から「構造」(しくみ)を分解的に調べていく構造主義的なアプローチと、「機能」(はたらき)に注目してその特徴を調べていく機能主義的なアプローチとがあったのだが、脳科学のシェリントンやサイバネティクスのウィーナー(876夜)は構造と機能を結び付け、そこにフィードバックの作用(回帰や再帰)がおこっていることをあきらかにした。
 構造と機能をくっつけて見るとはいえ、そのさまざまなしくみを、どの説明レベルで解明するかによって、その実験や仮説の意味は変わってくる。
 たとえば、ネコが目の前を歩いているのを見ているとして、このとき脳に何がおこっているのかを説明しようとすると、①脳の視覚神経系がネコの形・色・運動・その他の視覚情報を処理している(神経細胞や神経伝達脱湿がどのように活動したかという説明のレベル)、②ネコが歩いている視覚情報を表現するために何が機能したかを説明するレベル、③視覚系が全体として何をどのように計算しているのかとを説明するレベル、などなどが想定できる。
 どの説明レベルにおいても、それなりの徹底した実験や研究は必要だが、しかし、これらをまたぐ説明仮説はそれ以上に肝要である。
 ぼくがこれは天才だなと思った数理神経学のデヴィッド・マーは、説明を①物理的実装のレベル、②アルゴリズムと表現のレベル、③計算論のレベルに分けつつも、これらを統合する最適化問題を提起した。ネコの動きのパターンを見いだすという計算問題を視覚系が解いているとみなしたのだ。

デヴィッド・マー『ヴィジョン』
著 乾敏郎・安藤広志訳 産業図書 1987

視覚に関する脳の情報処理を理解する上で、計算理論の必要性を明確に打ち出した。デヴィッド・マーは小脳の研究をした後、視覚の研究を行ない、この分野で多くの優れた業績を残した。本書は、白血病で余命いくばくもないことを知った彼が書き残した遺稿である(享年35歳)。本書はその2年後にMITにおける彼の同僚たちの努力で刊行された。

脳の視覚認識
見たものの形、色、運動その他の視覚情報を段階ごとに後頭葉に伝えている。

 われわれは何かを目で見たままいろいろな活動ができる。向こうからやってくる人物を見ながら横断歩道を渡ることもできるし、テレビドラマを見ながら柿ピーを食べ分けもする。里芋の煮えぐあいを見ながらガスの火加減を調節する。単純な視覚行動のようだが、そこにはいろいろの調整(編集)がおこっている。
 こうしたことは感情や心理にダイレクトにかかわってはいないようでいて、知能を成立させている基本的な活動のひとつになっている。では、これを脳はどのように情報処理しているのか。その突破口を開いたのが夭折天才のマーだった。マーはこうした小脳の運動学習をパーセプトロンのモデルで説明した。
 小脳にはプルキンエ細胞という大きな神経細胞があって、平行線維と神経線維をシナプス結合させている。そこには登上線維もつながっている。マーは小脳ではプルキンエ細胞と平行線維のシナプス結合で生じた情報伝達が、登上線維からプルキンエ細胞に入力される情報によって増強されると仮説して、視覚系は「制約付きの最適化問題」を解いているとみなしたのである。

プルキンエ細胞
小脳皮質にあるγ-アミノ酪酸 (GABA) 作動性の抑制性ニューロン。平行線維と登上線維をほぼ同時に組み合わせて刺激すると、一定期間平行線維とプルキンエ細胞間のシナプス伝達効率が低下するという長期抑圧が観察される。

 マーの1969年の仮説は大きな反響を呼び、その後は増強だけでなく抑制作用もおこっていることなどがわかってきて、ここに計算論的神経科学による情報処理モデルが次々に提案されるようになった。脳こそは「心のはたらき」に直結する「生きた複合システム」だったのである。
 しかし認知科学はここにとどまってはいなかった。コンピュータ科学によって、さらに新たな3つの説明レベルがありうることを提起した。
 ①プロセッサやメモリとその関係によってシステムの挙動を説明する物理レベル、②プログラムやデータの構造のしくみによってシステムの挙動を説明する記号レベル、そして、③知識と行為と目標とその関係が定義された要素間の情報エージェントの相互作用によってシステムの挙動を説明する知識レベル、という3つに取り組んだのだ。

 情報はいろいろのフォームやスタイルをとり、メディアを媒介にして表現になっていく。文字、音声、音、絵画性、図表性、写真、映像、数式などになるし、身振りやダンスにも、音楽や影絵文芸や演劇にも、笑いやコントにもなる。日常行為の大半、会話の大半が情報のあらわれだ。
 これらをまとめて「表象」(representation)と言うとすると、そもそも「知識」(knowledge)というものはこの表象のために、情報をなんらかの組み合わせによって格納してきたものとみなすことができる。
 こうした“出番”を待って貯められてきた知識が示しているもの、あるいは含んでいるもの、それが「意味」(meaning)である。認知とは、まわりまわって「意味」のしくみを表象してきたものでもあった。

影絵のバリエーション(十返舎一九作、喜多川月麿画『和蘭影絵 於都里伎』より)
江戸時代には手影絵によって影絵芝居を演じる影絵一座が存在していた。

Broadway Steps “the mambo”
(Seattle, inlaid bronze by Jack Mackie)

ブロードウェイの路上に埋め込まれたダンスステップのアート。

 知識がどういうものかについては、プラトン(799夜)やアリストテレス(291夜)このかた、また老子(1278夜)や荘子(726夜)以来、さまざまな議論をへてその実態があきらかにされようとしてきた。
 フランシス・ベーコン以降は、あらゆる学問、あらゆる思想が知識のあらわれであるとさえ言える。
 ただ、このようなディヴィジョンに向かった知識は分類にしやすい。それゆえ知識を系統樹にしたり、鉱物標本や昆虫標本のように区分けしたり、学科や図書分類のようにすることはそんなに難しいことではない。
 しかしながら、知覚や想起や行為という動的な認知活動にとって知識や知識群がどういうふうにかかわっているのかということを説明しようとすると、分類知では補えない新たな掴まえ方が必要になる。
 たとえば、知識における概念の役割、知識をしまっておく席や場所の問題、比喩(メタファー)やレトリックの関与、不完全な知識をどう補填するかということ、知識と言語の基本的な関係とイレギュラーな関係、知識はどのように学習されるのかということ、こういうことがきわめて重要になる。知識は動いてナンボのものなのだ。
 こうした知識の認知科学化にあっては、バートレット、ストープル、マッカーシー、サイモン、シャンク(535夜)、ミンスキー、パパートらが果敢にこの課題に取り組んだ。

(左)F.C.バートレット『想起の心理学―実験的社会的心理学における一研究』誠信書房 1983
(右)ハーバート・A・サイモン『システムの科学』パーソナルメディア 1999

シーモア・パパートと『マインドストーム』未来社 1995
プログラミング言語の「LOGO」を開発したパパートによる「LOGO」言語の世界が描かれている。

 知識を動的に扱うにはどうするか。安西さんは一方では知識の構造化可能性や知識の領域固有性を検討することが必要だが、他方では知識の「収納と想起の関係」や「曖昧性と制約の問題」も相手にする必要があったことを強調する。
 これらをあきらかにするうえで、コンピュータ科学が強い味方(=見方)になったのだった。
 今日のデジタルコンピュータにあっては、情報はいくらでもデータとして収納しておける。しかし、その情報を知識として適確に取り出したり、そのことによって目標を完遂するのに役立たせようとすると(ロボットがまさにその役割をもつのだが)、知識のシステム化にはさまざまな「知識をのせるお盆」が欠かせない。
 これらをバートレットやミンスキーは「スキーマ」というお盆、そのスキーマを乗せる「フレーム」というお盆、それらをつないだり見守ったりする「エージェント」というふうに、“載せ替え”可能なもので組み立てた。まことにうまい分け持たせ方だった。しかもこの分担は、それぞれ数理モデルとして動いてくれる。
 ここから先は一潟千里だった。認知科学とデザインを結び付けたドナルド・ノーマン(1564夜)は「メンタルモデル」を、安西さんや横山透はそのメンタルモデルの変化のモデルを、言語学のジル・フォコニエとターナーは「メンタルスペース」や「概念融合モデル」を、ジョージ・レイコフやマーク・ジョンソンはぼくがいっときはまっていたのだが、比喩やレトリックの作用を加味した「意味生成のモデル」を、認知対象との環境の限定力を重視したジェームズ・ギブソン(1079夜)は「アフォーダンス」の作用モデルを、それぞれ提出した。

ドナルド・ノーマンと『エモーショナル・デザイン』新曜社 2004
認知心理学者であるノーマンが、「人間の認知と情動を科学的に理解することが製品のデザインにどのような影響を与えるか」というテーマを捉えた一冊。本能、行動、内省の3つの観点から、人間の脳が魅力的に感じるデザインとは何かを追求している。

(左)ジル・フォコニエ『メンタル・スペース―自然言語理解の認知インターフェイス』白水社 1996
(右)P.N.ジョンソン・レアードジョンソン・レアード『メンタルモデル―言語・推論・意識の認知科学』産業図書 1988

ジェームズ・ギブソンと『生態学的視覚論』サイエンス社 1986
アメリカの心理学者であるジェームズ・ギブソンは、知覚研究を専門とし、認知心理学とは一線を画した直接知覚説を展開。アフォーダンスの概念を提唱した。

 本書はこれらの話題に触れながら、認知科学の特色をまんべんなく炙り出した。
 今夜はチューリングマシンのこと、コネクショニズムのこと、エキスパートシステムや包摂アーキテクチャ(1603夜)のこと、認知言語学のこと、クオリアのこと(713夜)、また認知バイアスを扱ったトゥヴェルスキー&カーネマンのプロスペクト理論のことなどには触れられなかったけれど、安西さんはこれらもまことに適材適所で扱った。
 とくに「文脈」や「状況」が認知に強くかかわっていることも、随所で強調されている。

茂木健一郎『脳とクオリア』日本経済新聞出版社 1997
茂木健一郎『クオリア入門』筑摩書房 2006

クオリアとは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。簡単にいうと「りんごの丸い感じ」「古本の茶色い感じ」といったような主観的体験の質のことである。

ダニエル・カーネマン『ファスト&スローあなたの意思はどのように決まるか?(上・下)』早川書房 2014

 10章仕立ての本書は、第9章に「心と脳のつながり」が、第10章で医療・教育・芸術・創造性にかかわる認知科学が「未来へ」として扱われる。90年代以降、21世紀の認知科学を展望した章だ。
 まとめると、次のようになろう。今日の認知科学では、(1)まずはfMRI、EEG、MEG、TMS、PETといった脳活動を計測する技術が進展して、神経系の動向がかなり精密に可視化できるようになっている。(2)神経系の相互作用自体を解析するコネクティビティ分析がおこなわれるようになった。(3)これらにともなって感情・不安・ストレス・うつ・離人症などの解明も心・脳・身の「あいだ」をつなぐ認知科学の領域に入ってきている。
 (4)一方では「意識」(自己意識)にふたたび光が当たり、自己想起意識や自己連想が注目されるようになった。(5)イメージや創造性や想像力の意義を認知科学があきらかにしようとしている。(6)ディープラーニングによる機械学習が高速に工夫されて人工知能が多くのICT領域で応用されている。(7)学習理論や教育問題にどのように認知科学が寄与するかを包括的なアジェンダにしようとしている。(8)SNSやスマホの普及によってネットワーク社会がどのように「認知」に影響を及ぼすかを議論している‥‥。
 いずれもすこぶるヒューマンな展望だ。安西さんが(8)について、次のような視点を整理していることも大いに参考になろう。最後に掲げておきたい。

fMRI計測によって得られる脳の断面画像
MRI(核磁気共鳴脳)をつかって脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化する方法。脳の場所ごとの活動量が色で示される。

EEGの計測
脳から生じる電気活動を、頭皮上、蝶形骨底、鼓膜、脳表、脳深部などに置いた電極で記録する。

 ①ネット社会では、コミュニケーションの中で知覚される情報の質と量が異なるため、その情報をもとにした「心のはたらき」も異なってくるだろう。
 ②リアル・コミュニケーションには身体からの入力が直接におこるが、ネットでは電子表示に減退されたシグナルばかりが横溢するため、意識下のはたらきが異なってくるだろう。
 ③リアルとネットでは相手と情報を共有するための判断が、限られた範囲での推測に偏っていくだろう。それゆえかえって限定された感情移入やエピソード記憶の強度の共有が進行するかもしれない。
 ④ネットでコミュニケーションを交わす共同体の特質に、リアル・コミュニティとは異なる大きな変化が生じていくだろう。そこでは従来型の社会性を維持するという目標は希薄になるかもしれない。
 ⑤記憶や思考の方略に変化がおこっていくだろう。メールアドレス、ファイル管理の方策、画像の公衆提示などは、ひょっとすると記憶と記録の文化に新たなステージをつくっていくかもしれない。

 認知科学はまだ過渡期のままにあると、ぼくは思っている。とくに「意識」「記憶」「自己」「夢」などの正体の見当がつかないままだし(#幾つもの説が割れているのです)、最高度の機械学習をした人工知能が「自己めいたもの」を持つかどうかということも、見当がついていない。
 とはいえ、それでも認知科学が試みようとしている目標や方法や科学的態度には、これまでの何かの限界を超えるものが萌芽したのだと思う。今夜はそのことについて触れられなかったけれど、認知科学は広義のコミュニケーションの能力(つまりは編集能力)の本質をなんとか説明しようとしているという点で、やはり先駆的なのである。今後ともウォッチングしていきたい。
 ちなみに安西さんは21世紀のコミュニケーターにとって必要なのは、一に想像力、二に構想力、三に集中力、四に並行処理力だろうとも書いていた。

⊕ 『心と脳――認知科学入門』 ⊕

 ∈ 著者:安西祐一郎
 ∈ 発行所:株式会社岩波書店
 ∈ 発行者:岡本厚
 ∈ 印刷:理想社
 ∈ カバー:半七印刷
 ∈ 製本:中永製本
 ⊂ 2011年9月21日 第一刷発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈∈ はじめに

 ∈ 第一部 人間とは何か
 ∈∈ 第一章 五つの人間像
 ∈∈ 第二章 現象から見た心
 ∈∈ 第三章 心・脳・社会
 ∈∈ 第四章 探究の方法

 ∈ 第二部 認知科学の歩み
 ∈∈ 第五章 誕生
 ∈∈ 第六章 形成
 ∈∈ 第七章 発展
 ∈∈ 第八章 進化

 ∈ 第三部 未来へ
 ∈∈ 第九章 心と脳のつながり
 ∈∈ 第十章 未来へ

 ∈∈∈ おわりに

⊗ 著者略歴 ⊗

安西祐一郎(あんざい・ゆういちろう)
1946年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院工学研究科博士課程修了。カーネギーメロン大学人文社会科学部客員助教授、北海道大学文学部助教授を経て、慶應義塾大学理工学部教授。2001-09年慶應義塾長。専攻は認知科学、情報科学。

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