才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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勝手に選別される世界

マイケル・ファーティック+デビッド・トンプソン

ダイヤモンド社 2015

Michael Ferik & David C. Thkmpson
The Reputation Economy 2015
編集:廣畑達也
装幀:松昭教(bookwall)

2004年、2人のグーグル・エンジニアのジェフリー・ディーンとサンジェイ・ゲマワットが「大規模計算の自動並列化と分散化を可能にするシンプルでパワフルなインターフェース、およびその実装によって一般PCのラージクラスター上での高性能を発揮する方法について」という、長ったらしいタイトルの論文を書いた。これが「マップリデュース」(MapReduce)の誕生を告げた。

 2004年、2人のグーグル・エンジニアのジェフリー・ディーンとサンジェイ・ゲマワットが「大規模計算の自動並列化と分散化を可能にするシンプルでパワフルなインターフェース、およびその実装によって一般PCのラージクラスター上での高性能を発揮する方法について」という、長ったらしいタイトルの論文を書いた。これが「マップリデュース」(MapReduce)の誕生を告げた。
 長らくデータ分析には大型コンピュータが使われてきた。しかしながら世の中にH&Mやユニクロもどきのリアルクローズが溢れ、ネットに厖大な“虫の惑星”めいた選択サイトがひしめきあっていくなか、大型コンピュータがフル稼働して多岐選択問題を処理するのはとっくに限界がきていた。それは1人で必死に100題の試験問題にとりくむようなものだ。
 ディーンとゲマワットは、試験問題を分割して100人の解答者に配り、問題が解けたあとに解答を集めて集計用紙にするという方法を思いついたのである。問題を分割して答えを出すプロセスを「マップ」(Map)とし、答えをまとめて一つにするプロセスを「リデュース」(Reduce)とした。これで数時間かかるデータセットが僅か数秒で片付くことになった。

 一方、ダグ・カッティングとマイク・カファレラはグーグルの検索エンジンに対抗したくて、グーグルのようなクローズド・ソースではなく、無料かつオープンソースの検索エンジンをつくると意気込んで、これを「ナッチ」(Nutch)と名付けていた。
 「ナッチ」はインターネットのすべてのページにインデックスを付けるというような気が遠くなる仕事をやってのけるためのエンジン構想だったが、そのコーディングはやっぱり気が遠くなりそうだった。そこに「マップリデュース」の論文が出た。二人はこのイノベーティブな構想に乗って「ナッチ」を完成させるべきだと決断した。
 こうして「ハドゥープ」(Hadoop)が誕生した。この変ちくりんな名はダグの息子が愛玩していた象のぬいぐるみの名前らしい。

象をモチーフにしたハドゥープのロゴ
グーグルのマップリデュース論文に触発されて生み出された。ハドゥープはアプリケーションが数千のノードおよびペタバイト級のデータを処理することを可能とする。

 ハドゥープはたちまちテラバイト級データの分析手段を多くのユーザーに開放していった。
 よく出来ていた。ハドゥープにはマップ機能、リデュース機能のほか、何万台もの個別コンピュータの処理状況を把握して、その仕事をまとめて一貫した全体像を見せるオーバーヘッド機能も自動化されていたのだ。これらによって、仕事の準備、その分散、結果の収集、管理、冗長コピーの保管、アト処理、全体の仕事の順調度の検証などが一挙にできるようになった。
 2007年、フェイスブックは「ハドゥープ」の導入に踏み切り、翌年には2500台のコンピュータ並行処理を実現できるようにした。アマゾンは何百万件もの購入記録の中からパターンを探し出す仕事に、リンクトインは「もしかして知り合い?」の呈示のために、ヤフーはスパムのフィルタリングや広告トレンドの分析のために、イーベイは人気の売り手と商品分析のベストマッチングに、それぞれ「ハドゥープ」を使い始めた。
 こうして「マップリデュース」と「ハドゥープ」がビッグデータ時代の弾頭となっていったのである。そして、そこには夥しいスコアの航跡が残っていくことになった。残っていっただけではない。「そのスコアをどう使うか」というレピュテーション・ビジネスが雨後の筍のように頻出していった。

リンクトイン(Linked-in)の「もしかして知り合い?」サービス
ビジネス用ソーシャルネットワーク。日本では約100万人とユーザーは少ないが、世界では約4億人が利用し、現在も着実に増えている。会員数はフェイスブック、ツイッターに続きSNS3位にある。アメリカの大学では就職活動の際に登録するようアドバイスするほどで、実際に仕事のコネクションを見つけるのにも活用されている。

 本書はとても困った本である。その理由はこのあとすぐ書くが、その前にぼくの今日の情報社会と経済社会についての注文を表明しておく。一言であらわせる。
 そろそろ「評判の社会」から「評価の社会」になりなさいね。この一言だ。

 むろん評判がいいのは悪いことじゃない。視聴率がいいのもベストセラーが出るのも結構だ。けれども21世紀の現在社会はついつい「評判の社会」になりすぎてきた。芸能界を筆頭に、評判で人気とりをするポピュリズムは政治家たちを含めてずっと以前からあったけれど、アクセス数に溺れまくるネット社会になって、その傾向が極端に増大した。増大しただけではなく、それが止まらなくなった。
 いまや何だって、何かにつけて、ワイドショーからマーケティングまで、大学進学率からAKBじゃんけんまで、SNSからブレイクダンスまで、噂と評判とランキングと推挙(リコメンデーション)ばかりで埋め尽くされている。そのうち評判数こそが評価だと勘違いされてしまった。
 これはどう見ても、評判(reputation)でしか社会価値がつくれないという過剰適応現象だ。これではいけない。

レピュテーション・ランキング①
2015年にツイッター上で話題になったワード(ジャンル別)

右のニュース欄にはQuran、ISIS、PrayForParisなどパリ同時多発テロ関連(2015年11月13日)のものが多い。9位に日本語で「地震」が入っているのにも注目。

 われわれが望むべきは評判ではない。今後の社会に示されていくべきは評判のランキングではない。ましてその集計結果ではない。「評価」(evaluation)の内実であるべきである。「いいね」のヒット数などではなく、「いい」をめぐる対話を交わすことなのだ。
 だから「評判の社会」から「評価の社会」へであり、「レピュテーション」から「エヴァリュエーションへ」なのだ。「レピュ」から「エヴァ」へ。これがぼくの注文なのだ。

フェイスブックは「Dislike」ボタンをつくらない
長年ユーザーからもっとも要望の多かった「Dislike」ボタン。しかしマーク・ザッカーバーグは2015年9月の公開Q&Aで、フェイスブックがつくろうとしているのは「共感」を届ける機能であり、「Dislike」ではないとはっきりと述べた。

フェイスブックが拡大したリアクション・ボタン
2016年2月24日、フェイスブックは世界のユーザー向けにリアクションボタンの拡大を実施した。左から「いいね」(Like)・「超いいね」(Love)・「うけるね」(Haha)・「すごいね」(Wow)・「悲しいね」(Sad)・「ひどいね」(Angry)。

 ところが、本書は徹底して「評判」だけを論じた本なのだ。そもそも原著のタイトルからして「レピュテーション・エコノミー」で、おまけに二人の共著者は揃って「レピュテーション・ドットコム」という企業の創業CEOと法律顧問なのである。
 何をか言わんやだ。実に困った本なのだ。
 だったらこんな本を採り上げなければいいのだが、それがそうもいかなかった。この本がレポートしていることはスコアのことばかりで、ちっとも深いことは書いていないのに、今日の社会や経済の「あからさまな動向」を端的に伝えるものになっているからだ。その中身たるや自社宣伝というより(そういう巧妙な面も多々あるけれど)、そんじょそこらの社会学者や評論家たちが綴っているものより、うんとアクチュアルで適確なのである。
 なぜアクチュアルなのか。スコアになりにくいものがスコアリングされ、それらが複合化されているからだ。
 最近ぼくは「インタースコア」こそが編集力の武器になると声を嗄らしている。『インタースコア』(春秋社)という厚い本をイシス編集学校の諸君と上梓したばかりでもある。ところがこの本ときたら、別の意味での「スコアリング・マニフェスト」にもなっていて、それで困った、困ったなのだった。

レピュテーション・ランキング②
ソーシャルネットワーク上で影響力のあるアメリカの飲食店ランキング

フェイスブック、ツイッター、YouTubeなどでの評判の数を集計。スターバックスのウェブ広報の強さが目立つ。

 本書にはさまざまなレピュテーション・スコアと、そのスコアを巧みにいかしたサービス事例がいろいろ出てくる。ふーん、そこまでやるのか、それがニュービジネスになっているのかというほどだ。
 たとえば、クラウト社の「クラウト・スコア」(Klout)は、ツイッターやフェイスブックでのやりとりの因子分析をして、人々の影響力をレピュテーション・スコアにしてみせる。「スキピオ・ドットコム」は人口学的情報に富裕スコアを重ねて告示する。「アンジーズ・リスト」(Angie’s List)は不動産についての評判を開示し、「エアビーアンドビー」(Airbnb)は空き部屋の評判を知らせる。オンラインゲームの「ネクソン」(Nexon)はフェイスブックやリンクトインのアカウントを調べて“当人妥当性”を告げる。
 最近の日本では政治家も芸能人も経歴詐称が多いようで、ショーンKがかわいそうな失脚をしたけれど、アメリカではとっくに「エストゥーヴェリファイ」(S2Verify)のように履歴のスクリーニングに特化して履歴書の適不適を通知するレピュテーション・サービスが大流行しているらしい。ビジネスレビュー・サイトのひとつ「イェルプ」はビジネスマンが使用したレストランや借りスペースの評判度を調べ、投稿者の信頼性によって重みづけしたスコアを表示するビジネスになっている。

エアビーアンドビー Airbnb
空き部屋を貸し出したい人(ホスト)と、安い宿を探している旅行者(ゲスト)のマッチングをするサイト。食べログのようにユーザーが店に対して一方的にレビューを書くのではなく、ホストがゲストに、ゲストがホストに対してレビューをつけることができる相互の仕組みになっているのが特徴。ゲスト側にも点数がつく時代だ。

 まだまだ、ある。ファーストアドバンテージ社は「エスティーム」(尊敬)という名前データベースを販売しているのだが、これをブラックリストの発見に使いたい企業群のためにレピュテーション・エンジンをかました。逆に、企業の従業員たちが自分の会社についての評判を立てる「グラスドア」(Glassdoor)もある。告げ口だってスコアなのだ。
 文書や文面もほっとけない。「タイガーテクスト」(TigerText)はメッセージング・サービス屋だが、メッセージの安全度と評判度を掛け合わせた。もっと安全にしたいのなら「テレグラム」(Telegram)というアプリでミリタリーレコードの暗号を入れこんで、インタースコアできるようにもなっている。
 不動産スコア、資産スコア、友情スコア、慈善スコア、富裕スコア、債務不履行スコア、相性スコア、病歴スコア、占星スコア、フルーツ完熟度スコア、お便り内容判定スコア‥‥。まあ、何でもありだ。すべてがランク付けされ、すべてが点数化され、そして、すべてが脱文脈化されていっている。
 しかもそれらがことごとく「信用スコア」や「信頼スコア」だと思わされるようになったのだ。ここがヤバい。

タイガーテキスト(左)とテレグラム(右)
どちらも送信したメッセージが一定の時期を超過すると自動的に消滅する。最近少し問題になっている「ライン」よりセキュリティがかなり強化されたチャットアプリ。

 今日の社会でデジタルストレージが最も精度の高いレベルにさしかかっていることは、まちがいがない。それも1テラバイトのディスクドライブがあるだけで、平均的な学術図書館の蔵書量をラクに超えるストレージができる。
 おまけに値段は1万円を切る。自分でデータマイニングするのも自在になっている。
 処理速度もチョー速い。「瞬間」とは瞼が1回またたく時間のことを言うのだが、これは古代インドの「刹那」では75分の1秒だったが、今日の計測では平均0・4秒にあたる。この0・4秒のあいだに、世のノートパソコンは約10億回の計算をやってのけるのだ。信じがたい刹那主義の世の中なのだ。
 それでどうなるかというと、すべてのアクセス行為やクリック行為がデジタルスコアとなり、デジタルフットプリント(電子の足跡)ともなって、ストレージされていく。やがてそれらの集積が次々にゴミの山のように溜まっていく。よくまあゴミが溜まったままで平気でいられると思うけれど、ところがいまやデータを削除するよりも、まるごと保存しておくほうがコストパフォーマンスがよくなってしまったのだ。

レピュテーション・ランキング③
マイトップファン for フェイスブック

フェイスブックで自分のページに誰が多く訪れているかをランキングしてくれるアプリ。いわばミクシィのフットスコア機能の進化版。加金すれば独身女性、独身男性などを項目別に見ることもできる。

 すべてがオンラインになっていて、その出し入れのすべてがデータ化されているということは、すべてはどこかでスコアとして記録され、点数化され、ランキングされうるということだ。これはまあ、何事もことごとく監視されているようなものだ。
 それだけではない。それらのデジタルスコアやフットスコアは、それらにちょっと工夫を凝らして束ねさえすれば、何だって「評判化」しうるということになる。ということは「評判」こそが「流通力」となり、ということは「通貨」にもなるということだ。
 コリイ・ドクトロウのSFに『マジック・キングダムで落ちぶれて』(ハヤカワ文庫)があった。そこに評判通貨ウッフィーが出てくる。ウッフィーはこれを集めれば、おカネなんてなくとも十分に社会の信用も信頼も得られるという通貨として描かれている。まさにレピュテーション経済を先取りした作品だった。

コリイ・ドクトロウと『マジック・キングダムで落ちぶれて』の原著
1971年、カナダ生まれ。著作権関係の活動を活発におこなう作家・ジャーナリスト。2007年発表のSF短編『Scroogled』では「もしもグーグルが世界のあらゆるところの進出したらどうなるか」という戦慄の物語を描いた。タイトルは、「google」と「screwed(人生を狂わされる)」の合成語。

 ぼくは「人とスコアが付着する」という現象やそういう固着状態が一番嫌いなのだが(だから中学校以来、通信簿はちらっと見て2度と見直すことをしなかったのだが)、レピュテーション経済社会の事例はほとんどが「人」を「評判」で束ね、「噂」で縛り上げていく。
 ティンダー、マッチ・ドットコム、オーケーキューピッドなどの「出会い系サイト」(ミート・マーケット)でレピュテーション・スコアそのものがビジネスになっているのは、ユーザーがそれだけを(より自分に有利な出会いを)望んでいるのだからまだわかりやすいが、自分がなんとなく捜したいと思っているものが、そこに辿りついてみたら「評判点」付きになっているのは、どうにもいやらしい。
 気になるお寺に行ってみたら、「当寺の評判は68点と判定されました」という立札が目に入ってくるようなものだ。

レピュテーション・ランキング④
トリップアドバイザーの旅行者が選ぶ世界の都市ランキング

世界最大のトラベルサイトが2014年に発表した5万4000のレビューから項目別にランク付けをした都市のランキング。Helpful local(住民の親切度)、Best taxi services(タクシーサービス)、Cleanist street(道のキレイさ)などで東京は1位をとり総合トップに。

 しかし、この「評判」によって社会と「人」をがんじがらめにしていくという傾向は、収まりそうはない。収まりそうもないどころか、ますます過飽和になって、ほんとうの「評価」や「価値」が何であるのかを、次々に忘れさせている。
 さすがに、このままでいいはずはない。そこでマーケッター出身のウィリアム・ダビドウはこの異様な状態を「過剰結合社会」(overconnected)と名付けて、『つながりすぎた世界』(ダイヤモンド社)という本を書いた。まさに世の中、とことんオーバーコネクテッドなのである。
 けれども評判ビジネスの業界は、オーバーコネクテッドだからといってへこたれない。それどころか、その情報の余剰から新たな指標を発見して、それを計算式にしてそこにレピュテーションを加えていけば、リアルな実感社会とは異なる評判社会のほうが大きくなる、そういう市場さえ確立していくというのが、レピュテーション経済の発想なのである。
 近ごろはこれを「シェアリング・エコノミー」と呼ぶ者さえ出てきた。

 ところで最近になって、ぼくのところへ大学からの相談が次々にくるようになった。
 図書館をおもしろくしてほしい、図書館に代わる施設やネットを使った読書力向上の仕組みがほしい、学生に編集力をつけさせるためのプログラムがほしい、大学イメージのブランディングを頼みたいといったものなのだが、そういう相談に少しずつ乗っていると、いろいろ大学経営の難しさが聞こえてくるようになってきた。
 日本の大学の多くは、いまかなり大変なのである。むろん少子化現象が大きな要因になっているのだが、暗記型の受験勉強を数十年にわたって押し付けてきたツケもある。「学生さん、いらっしゃい」のために、余計な学部や学科や余計な施設をつくりすぎてきたこともある。そんなこんなで、何をすれば学生の獲得と雇用者の評判を上げられるのか、そこがぐらぐらしてきたのだ。
 しかしこれがアメリカや中国になると、凄まじいほどの競争と最適化を勝ち抜く大学が次々に登場して、いままさに「レピュテーション・ユニヴァシティ」をめぐる過剰な様相を呈するようになっている。
 イエール大学はシンガポールにキャンパスをつくって、同国初のリベラルアーツ・カレッジに仕上げた。ニューヨーク大学はブエノスアイレス・シドニー・アブダビなどにグローバル・アカデミック・センターをつくった。中国では13年前の大学生よりも3倍近い2800万人が大学の門に吸い込まれていっている。これらの大学では学費は年に8パーセント上がっていて、この上昇率はヘルスケア部門を除くとどんな分野のインフレ率よりも高い。
 こうした評判合戦を背景に、「レート・マイ・プロフェッサーズ」のような、学生が授業の難易度や好感度を測って送るサイトも何種類もできた。エンプロイ・インサイト社のように企業と大学のニーズとシーズの歪みを調整するために、求職者がオンラインで受けるテストをつくり、これを企業と大学の両方にリリースしているところもある。
 オラクルがタレオを買収したのは、多すぎる求職者を効率よくふるい落とすためのフィルターを、人事担当に提供するためだった。

レート・マイ・プロフェッサーズ(Rate My Professors)
米国の学生が履修時に用いる大学教授のレビューサイト。実際にその教授の授業を受講した生徒が各評価項目(Helpfulness, Clarity, Easiness)を5点満点で数値化し、平均した数値が教授の評価になる。しかし「単位のとりやすさ」などの項目があり、生徒に対する評価が甘い先生が上位になるなど問題もはらんでいる。

 こんなことをして学生の質がよくなっていくとはかぎらない。ハーヴァード大学の学長を20年以上務めたデレック・ボックが書いているように、「大学の経済力が上がれば上がるほど、学生の能力は低下している。雇用者を満足させるだけの筆力を獲得できないで卒業していく学生がどんどん多くなっている」。
 そんな学生たちばかりでも、大学としては自校の学生たちの「評判」を上げていかなければならない。そうしないかぎりはブランド力があっというまに落ちていく。企業も採用してくれない。ちなみにデレック・ボックには『幸福の研究』(東洋経済新報社)という「幸福の評判」を批判した本がある。

レピュテーション・ランキング⑤
教育レベルの高い世界の大学(左・タイムズ誌より)と、金持ち大学ランキング(右)

13もの項目から算出された高等教育ランキングでは、カリフォルニア工科大学が1位、2位はイギリスのオックスフォード(日本は東京大学43位、京都大学88位)。金持ちランキング1位はハーバード、6位には2009年創立サウジアラビアのキング・アブドゥッラーサイエンス&テクノロジー大学(日本は大阪大学38位、京都大学42位)。

 これまでアメリカの学生の「才能」や「力」のあらわし方は、もっぱらGPA(Grade Point Average)に頼っていた。雇用者もそこを見るのが先決だった。各科目の成績から特定の方式によって算出する成績評価の指数のことだ。けれども、この指数に新たな指標を導入することが求められてきた。
 ユーチューブ・チャンネルに数億回の視聴力を誇る「カーン・アカデミー」を作り上げたサルマン・カーンの助言は、大学はもっと「マイクロ・クレデンシャル」(個別証明書)をオンラインでつくっていくべきだというものである。そのほうが「どこそこ大学の何々科の出身です」「GPAはこれこれです」などというおおざっぱな名のりより、レピュテーションのライトサークルがくっきり浮き上がっていくというのだ。
 それはそうだろう。すでにアメリカの大学コンソーシアム(とくにハーヴァード・MIT・カリフォルニア大学バークレーのコンソーシアム)は、個々のオンライン課程にパスするたびにマイクロ・クレデンシャルを発行する「エデックス」(edX)というプログラムを動かしている。
 日本にも北海道から沖縄まで数々の大学コンソーシアムがつくられているが、「エデックス」のようなオンライン・プログラムは動いていない。これではアクティブ・ラーニングやラーニング・コモンズは名ばかりなのである。

全国大学コンソーシアム協議会の加盟正会員
大学コンソーシアムとは大学が大学同士、または地域自治体や産業界と連携し、大学の発展と地域の活性化を実現する取り組み。東京都内の団体であれば「f-Campas」は早稲田・立教・学習院など5大学が単位互換性を取り入れるなどで連携。「学術・文化・産業ネットワーク多摩」は学生向けの多摩のまちづくりコンペを開催するなど自治体とプロジェクトを進めている。

2014年秋からエデックスに参加し、大規模オンライン講座(MOOC)の配信に取り組んでいる東京大学のホームページ
無償で誰でも利用できる高等教育の場として、世界180か国から累計21万人が登録、修了者は1万2千人。コースは戦後の東京の変化を都市計画やメディア論の視点で論じる「Visual PostWar Tokyo」など。週に5、6時間の講義動画を見た後、ディスカッションに参加する。期間は約4〜6週間。

 大学の評判は一様なスコアでは決まらない。雇用者のほうも一様なスコアを一式もらっても、困るだけだ。だから、さまざまな取り組みが始まったのだ。GPAとマイクロ・クレデンシャルを組み合わせるというのは、その対策のひとつだった。
 この手の話は何をあらわしているのだろうか。ようするに、ここに何がおこっているのかといえば、いよいよ「インタースコア」の試みが劇的に始まっているということなのである。本書のような本からこのことを告げられるようでは、まことに困ったことだった。
 しかしとはいえ、これ以上のあやしいレピュテーション経済社会が罷り通っていくとすると、ぼくは検索エンジンと機械算定と人工知能による「評判」の指標分配方式には、いずれはサブプライム・ローンのような亀裂が幾つも入っていくと見る。
 評判づくりのための「まやかし」や「いんちき」もふえるだろうが、それよりなにより、実際の実像が「なるほど、評判どおり」とはいかなくなっていくに決まっていくからだ。いったい何が「評価」の実質なのか、どんどんわからなくなってしまうからだ。

サルマン・カーンによるTEDトークカーンアカデミー(動画)
カー­ン・アカデミーはなぜ、どのようにして作られたのか。従来的な教室のあり方にとらわれず教師が生徒に最も有効に教える方法を提示する。

 それでは、今夜の最後のおまけとして、「評判をくっつけたい価値観」と、「評価をめぐって思考を進める価値観」との違いを示す一例として、バカロレアの試験問題のことをかんたんに紹介しておきたい。

 フランスではリセ(高等学校)の最終学年の哲学教育と、バカロレア(大学入学資格試験)の哲学試験が重視されてきた。文系・理系を問わず高校生は哲学が必修で、そこでは構成的自由の力が試される。
 バカロレアの試験を受けるために、リセでは最終学年1年間を哲学の授業にあてる。高校生はこれをじっくり咀嚼して試験に臨むのだが、毎年、むろん問題は変わる。変わるだけでなく、その水準はかなり高度のまま保たれてきた。
 哲学の試験は記述式で、試験時間は4時間である。問題はいつも3題あって、そのうち1題は小論文(ディセルタシオン)、残り2題はテクスト説明になる。そこから一つを選ぶ。テクスト説明では20行ほどの哲学的著作の引用を構造的かつ意味的にあきらかにし、とくに構成要素のあいだの関係を明示することが求められる。2012年の文学系コースのお題は次のようなものだった。
 (1)Que gagne-t-on en travaillant? (働くことによって何
    を得るのか)
 (2)Toute croyance est-elle contarire à la raison?(あらゆ
    る信仰は理性に対立するか)
 (3)スピノザの『神学・政治論』の一節を説明せよ
 とうてい日本の高校生には太刀打ちできないだろう。神に酔った哲人バルーフ・スピノザ(842夜)を知っていたかどうかも気になるが、そこに一喜一憂すべきなのではない。このバカロレアによって、「いったい何を評価するのか」という根本の判断力や価値観と交われるということが大きい。
 実際にも採点基準は、「思考の型」が身についているかどうかということ、および哲学的課題に答えつつ構成的自由をあらわせるかどうかが問われる、というふうになっている。これまた古くて新しいインタースコアであった。

 評価というものは、容易な数の寄せ集めによって人を判断するためのものではない。深さ、高さ、広がり、陰に隠れるもの、大胆なところ、鮮明な表明などが沛然とあらわれていて、その総体によって評価が動くのだ。
 はたしてビッグデータ時代の人工知能の成果は、「評判」よりも「評価」を引っ張ってこられるのか、どうか。さらにしばらく、突っ込んで考えてみたい。

2015年のバカロレア(理系)の問題
理系でも計算問題などではなく、文系と同様に論述形式だ。

⊕ 『勝手に選別される世界―ネットの「評判」がリアルを支配するとき、あなたの人生はどう変わるのか』 ⊕

 ∈ 著者:マイケル・ファーティック (著)
 デビッド・トンプソン (著)
 中里 京子 (翻訳)
 ∈ 編集担当:廣畑達也
 ∈ 校正:鷗来社
 ∈ 発行所:ダイヤモンド社
 ∈ 印刷所:八光印刷(本文)・加藤文明社(カバー)
 ∈ 装幀:松昭教(bookwall)
 ∈ 製本:ブックアート
 ⊂ 2015年12月11日 第一刷発行

⊗目次情報⊗

 ∈ 第1章 レピュテーション経済の到来
 ∈ 第2章 すべてが保管される
 ∈ 第3章 すべてが点数化される
 ∈ 第4章 すべてが機械化される
 ∈ 第5章 すべてがランクづけされる
 ∈ 第6章 すべてが定量化される
 ∈ 第7章 すべてがリアルタイム化される
 ∈ 第8章 すべてが互換性を持つ
 ∈ 第9章 すべてが脱文脈化される ∈ 第10章 すべてが先手必勝になる  ∈∈ まとめ レピュテーション経済で生き残るためのルール

⊗ 著者略歴 ⊗

マイケル・ファーティック
デジタル・レピュテーションと個人情報保護管理の分野で世界をリードするレピュテーション・ドットコム社の創業者かつ最高経営責任者。データ保護と評判の擁護における世界的権威で、世界経済フォーラムのテクノロジー・パイオニア賞を受章。ハーバード大学法科大学院講師。ハーバード大学および同法科大学院卒。

デビッド・トンプソン
レピュテーション・ドットコム社の初代法律顧問かつ個人情報保護管理責任者。イェール大学およびスタンフォード大学法科大学院卒業後、連邦最高裁判所判事アントニン・スカリアの助手を務めた。現在は弁護士および企業重役として活躍。(KADOKAWA/2014)。

中里京子
翻訳家。1955年、東京生まれ。早稲田大学教育学部社会科卒業。20年以上実務翻訳に携わった後、出版翻訳の世界に。訳書に『依存症ビジネス』(ダイアモンド社)、『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋)など。