近藤信義
枕詞論
桜楓社 1990
ISBN:427302408X
編集:坂倉良一・佐々木香 装幀:桜楓社編集部
巷間、百人一首が少しずつ復活しているらしい。子供のころから親しんできた者の一人としてちょっと悦ばしい。ピアノも算数も外国語も何だってそうだけれど、とくに百人一首には子供のうちに親しんだほうがいい。「おととい」の日本と「あさって」の日本を意外な糸でつなぐ可能性がある。

 巷間、百人一首が少しずつ復活しているらしい。子供のころから親しんできた者の一人としてちょっと悦ばしい。ピアノも算数も外国語も何だってそうだけれど、とくに百人一首には子供のうちに親しんだほうがいい。「おととい」の日本と「あさって」の日本を意外な糸でつなぐ可能性がある。
 子供のころに少しでも遊んでおけば、白洲正子さん(893夜)のように、壮年になっても仏像や和歌に打ち込める。白洲さんは「四十の手習い」とは歳をとってから慌てて新しい趣味に手を染めてみるということではなく、かつていろいろ中途半端だったことをやりなおすことなのだと言っていた。
 ぼくも、そうだった。百人一首については、いまでも母の澄んだ読み声と、読み札を読みおわってぼくたちが目を泳がせているのをニコニコと見守っている姿が耳や目にのこっている。こういう記憶は小さな方舟の櫂になる。母は京都の府一(現在の鴨沂高校)時代に全首を諳じてカルタ大会に出たほどで、尋ねればほとんど歌の意味を話してくれたし、早くから一字決まりの「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」なども教えてくれた。もっともそんなことで、何かぼくに百人一首の大事なところが身についたわけではない。

白洲正子

産経EX連載・松岡正剛 「BOOKWARE」
2016年第1回目の「BOOKWARE」は白洲正子がテーマだった。

 だいたい子供のころに好きになったのは取りやすい札か、何だか変な感じがするものだった。
 記憶があやふやだが、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らずも逢坂の関」(蝉丸)とか「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」(源融)といった言い回しの律動がおもしろいもの、「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(家持)とか「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ」(清原深養父)といったイメージの残像を感じさせるものが子供ごころに口ずさめたのだと憶う。
 だんだんオトナになってみると、当然好みも見方も変じていった。30代のころは、「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(敦忠)や「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもすゑに逢はんとぞ思ふ」(崇徳院)などの時のあとさきがワンダリングする歌や、「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」(藤原公経)というような我が身を襲う寂寥も理解するようになって、やっと「四十の手習い」も始まるわけだった。
 それが50代になると(1990年代の半ば前後)、何度でも「そこ」に戻れる歌をちょこちょこと手元の短冊に書くようになった。能因法師の「嵐吹く三室の山のもみじ葉は竜田の川の錦なりけり」や、良選法師の「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮」のような歌だ。
 そういうふうになったのは、『インタースコア』(春秋社)にも綴っておいたことだけれど、ぼくは「失われた10年」(ロスト・ディケード)にはけっこう充実した試みを連打していたのだが、そのぶん、茶陶や和歌や書画に“寡黙な余裕”のようなものを感じたくなっていたからだったろう。

「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らずも逢坂の関」
蝉丸
(紙本着色・江戸時代・財団法人小倉百人一首文化財団所蔵)

「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」
源融
(紙本着色・江戸時代・財団法人小倉百人一首文化財団所蔵)

「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもすゑに逢はんとぞ思ふ」
崇徳院
(紙本着色・江戸時代・財団法人小倉百人一首文化財団所蔵)


「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮」

良選法師
(紙本着色・江戸時代・財団法人小倉百人一首文化財団所蔵)

 歌の好みとはちがって、百人一首というしくみに関心をもつようになったのは、別の興味からだった。
 この100首のセットを藤原定家(17夜)が生み出したのはなぜだったのかということ、その100首がどうしてここまで日本人を虜にしたのかということ、そのぶんここにはひょっとして何かが抜け落ちていったのではないかということ、そもそも「和歌を選ぶ」という作業はアワセ・カサネ・キソイ・ソロエの日本の社会文化の何にあたっていたのかということなどが気になったのである。

光琳かるた

光琳かるた
江戸時代の画家尾形光琳作。読み札には歌の作者を描き、取り札には歌意を表す花鳥風月を描いている。

 そういうことが気になったのは定家の『明月記』を読んだのちのことで、それを促してくれたのは堀田善衛(17夜)の含蓄がすさまじい『定家明月記私抄』のせいだった。目から鱗がずいぶん落ちた。
 そこへ尼ケ崎彬(1089夜)の『花鳥の使』などが入ってきて、しだいに宣長(992夜)の言説に目が届くようになると、「ただの詞」に対する「あやの詞」が担ってきた意義がほっとけなくなった。日本という方法はほとんど「あやの詞」のほうに、その本質が隠されていたのである。
 あとはけっこうぞくぞくするばかり、宗祇や良基の試みも、談林派たちの遊び方も見えてきた。こういうことは百人一首の一首ずつの歌についての関心からではなく、たいていは日本の文芸史や遊芸史の奥に見え隠れする淵に誘いこまれるからである。

堀田善衛
『定家明月記私抄』では定家の日記である『明月記』を読み解き、定家の生きた時代の風貌を浮き彫りにした。

千夜千冊 0017夜『定家明月記私抄』 堀田善衛

千夜千冊 0992夜『本居宣長』 小林秀雄

 百人一首はいろいろある。なかで、定家が京都嵯峨野小倉山の山荘で撰首揮毫したと言われる山荘色紙の百首が「小倉百人一首」として知られるようになった。ただ、そういうふうになったのは宗祇(そうぎ)のせいだった。
 何事にも「折紙付き」が生まれることが好きだった宗祇は、小倉色紙を評価して「極め付き」とみなし、連歌師とそれにつらなる茶の湯の宗匠たちがこれを後生大事に広めていった。そこに加えて、侘茶の心は「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」という定家の歌に代表されているという価値観が確立していって、そこから書としての「定家様」の流行まで広がっていった。
 連歌と茶の湯は、利休以前の武野紹鴎(たけの・じょうおう)が連歌師だったことにも象徴されているように、ほぼつながった遊芸だったのだ。百人一首はその派生力として仕掛けられたのだ。
 実際には、定家には山荘で百首の選歌以前すでに『百人秀歌』があって、そこから一条院皇后宮などの歌を取って、代わりに後鳥羽院(203夜)と順徳院の“怨み節”ともいうべき2首を入れたものが定番になったわけで、この入れ替えはかなりドラスティックで大胆な思わせぶりだった。
 そう思うのだが、なぜそうなったのかについての本格的な研究はない。そのためさまざまな憶測が生まれ、これはこれで古典ミステリーの有力な素材になってきた。ぼくは後世の手が入ったのだろうと見ている。

山荘色紙の百首
京都小倉山の山荘の屛風に絵を書いてほしいと頼まれた定家は、天智天皇から順徳天皇までの570年間に詠まれた和歌を選び、色紙にした。

百人一首色紙
(左より)天智天皇・在原業平朝臣・安倍仲麿・周防内侍・小野小町

宗祇(そうぎ)
室町時代の連歌師。相国寺に入ったのち30歳のころ連歌に志し、宗砌、専順、心敬に連歌を学んだ。東常縁(とうのつねより)に「古今伝授」を授けられ、「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)」をめざした。

武野紹鴎
堺出身の連歌詞から茶匠に転じた。村田珠光の創始した茶道を深化させ、もともとは歌道由来の概念である「侘び」を茶道の思想に持ち込んだ。

 百人一首から学べることは少なくないが、問題意識は絞ったほうがいいだろう。
 ぼくはとくに「類想」「類景」「類物」の歌が多いことに「日本という方法」の一端を感じてきた。絞るべきところは、ここにある。たんに類推や連想の歌などの類歌が多いというのではなく、一言でいえば日本の表現文化や選好文化における「類」(たぐい)とはいったい何だったのだろうかということを、百人一首も告げているのだ。
 この「類」(たぐい)は何かというと、社会学や数理統計学や認知学でいうような、グループ(グルーピングする)、クラス(クラシファイする)、インスタンス(例示する)というものではない。日本人が好きな「類」は「分類してナンボ」なのではない。そうではなくて、まさに「類によって類を見る」ために「類想・類景・類物」に長じようとした。区別や差別をするために「類」を分けるのではなく、何かと何かを「つなげる」ために類を見た。本気で「類似による景色」を求めたのだ。
 これを俗っぽくいえば「類は類を呼ぶ」が好きだったということになるのだが、どの類が何の類を呼ぶのかということに傾注する必要があった。それには「類としての見立て」に深みや広がりがなければならない。われわれの文化が「見立て」や「本歌どり」に熱心だったのはそのせいだ。それを作庭から屏風絵まで、茶の湯から浮世絵まで、俳諧から歌舞伎まで、陶芸から漆芸まで広げ、それらが職人の仕事のあらわすところを含めて類から類を呼ぶようにした。分類ではなく分出をやってのけたのである。
 そこに用意されたのが花鳥風月や雪月花のリプレゼンテーション・システムであり、「座」や「興」の会合(えごう)のしくみであり、「真行草」のインターフェースであり、そして枕詞や歌枕や縁語というものだった。

 枕詞(まくらことば)とはいまさらながら実に意味深長な言い分だ。『枕草子』(419夜)や『草枕』(583夜)をはじめ、日本人にとって「枕」はなんとも不思議なメタファーになっている。歌枕、旅枕、鉄路の枕木、「夢枕に立つ」、抱き枕、落語の枕、「枕を高くする」、枕絵の異名をもつ春画、枕がえし、枕芸者、膝枕‥‥。
 そもそも寝具としての枕にして、安眠のためだけのものではない。寝返りのためであり、悶々とした心のお相手であり、夢の温床であって、旅寝の手枕でもある。
 枕は何かの入口であって、また何かの拠りどころなのだ。歌枕は名所の手がかりであり、落語の枕は本題のための導入部なのである。日本人にとって「枕」はイメージング・エフェクトをおこしてくれるものであったのだ。だから枕がないと何もかもがすっぴんになりすぎるのだ。地歌などで枕といえば手事(てごと)に移るときの曲調をいう。

夏目漱石『草枕』(岩波書店)・清少納言『枕草子』(筑摩書房)

 かつて折口信夫(143夜)は枕詞のことを「らいふ・いんできす」と言った。枕詞はライフ・インデックスだというのだ。ずばり「呪詞の生命標」だとも書いている。
 こういう名人芸のようなことを言えるのが折口の魅力だが、そこから枕詞が無文字社会から万葉仮名で記される定型歌謡に向けてどのように定着していったかを推理しようとなると、いささか途方に暮れる。
 それというのも、枕詞は万葉から古今に移るにつれてしだいにその効能を薄めていったからで、早い話が百人一首では枕詞を明確につかった歌は次のような歌くらいなのである。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも
  寝む
  あまのはら振りさけみれば春日なるみかさの山にいでし月か
  も
  ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
  ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
  わたのはら漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白
  波
  春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
  田子の浦にうち出でてみれば白妙の富土の高嶺に雪は降りつ
  つ
  侘びぬればいまはた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ
  思ふ
  ももしきやふるき軒端のしのぶにもなおあまりある昔なりけ
  り
  たちわかれ因幡の山の峯におふる松としきかば今かへりこむ
  長からん心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ
  ありあけのつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きもの
  はなし

「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」
柿本人麻呂
(紙本着色・江戸時代・財団法人小倉百人一首文化財団所蔵)

「ももしきやふるき軒端のしのぶにもなおあまりある昔なりけり」
順徳院
(紙本着色・江戸時代・財団法人小倉百人一首文化財団所蔵)

「ありあけのつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし」
壬生忠岑
(紙本着色・江戸時代・財団法人小倉百人一首文化財団所蔵)

 意外に少ない。このことは、百人一首に万葉の歌が少なく(天智・持統・人麻呂・赤人・家持)、古今から新古今への流れの和歌が圧倒的だったということを物語る。
 いちいち説明するまでもないだろうけれど、これらの歌では「あしひきの」が「山・峰」の、「ちはやぶる」が「神・わが大君・社・宇治・氏」の、「ひさかたの」が「天・雨・月・光・都」の、「しろたへの」が「衣・袖・紐・袂・雪・雲・富士」の、「くろかみの」が「乱れる」の、「なには(難波)なる」が「み(身・実)」の、それぞれ枕詞になっている。
 なぜ「足引の」が山を呼び、「千早ふる」が神を呼ぶかということは、百人一首を見ているだけではわからない。そこにひそむ由縁や暗合のリクツは、記紀万葉までさかのぼる。記紀万葉の古語(ふること)そのものが枕詞とともに成立していったようなものなのだ。

 古代の枕詞はおびただしい。研究者によって数え方が異なれど、阿部萬蔵・阿部猛の『枕詞辞典』(同成社)では1000以上の、一般向けにガイドされた内藤弘作の『枕詞便覧』(早稲田出版)でも678例が紹介解説されている。
 そこには百人一首の選歌では浮上しなかった枕詞がいくつも動いていた。「あかねさす」といえば「照る・日・昼・紫・君」の枕詞、「からころも」は「着る・袖・裾・裁つ」の、「くさまくら」は「旅・結ぶ・結う」の、「たまのをの」は「長き・乱る・絶える・継ぐ」の、「ぬばたまの」は「風・夜・ゆうべ・月・夢」の、「たまきはる」は「命・世・昔」の枕詞だった。定家は、こうした古語っぽい枕詞がつく歌をあまり選ばなかったのだ。

『枕詞辞典』(同成社)

『枕詞便覧』(早稲田出版)

 そもそも枕詞を「まくらことば」というふうに捉えたのは、中世の半ばからのことだった。
 万葉研究の先達となった仙覚が『仙覚抄』(1269)で、「古語の諷詞」(ふることのよそへ)として枕詞を抽出して議論したのが先駆的な研究だった。ついで北畠親房(815夜)が『古今集序註』(1324)に、「久堅(ひかた)のあめとは、惣じて天を久堅といふ。久しく堅き義なり。かやうの詞(ことば)は、古語の残れるを、今の世に枕詞と名付けぬ」と示したあたりで、やっと枕詞という言い方が定着した。
 それまでは「発語」(おこしことば)とか「諷詞」(よそへことば)とか、ときに「次詞」とか「冠辞」とかと言っていた。枕詞という言い方は百人一首よりずっとあとで自覚されたのだ。ということは、枕詞のことはやはり記紀万葉に戻して、しかもその後の日本中世の方法意識を縫い取って議論しなければ話にならないということである。

 近代以降、そうした枕詞について、幾つかの仮説が試みられてきた。西郷信綱(1154夜)は『万葉私記』で、古代歌謡のオラル・コミュニケーションにひそむ反文法的性格に注目しないかぎりは枕詞は解けないとのべ、ボーカリゼーションとしての枕詞を浮上させた。
 土橋寛(1215夜)の『古代歌謡論』は古代社会がもとうとした「根ざす」という願望に言及して、枕詞が神名や地名の再生を永遠にしようとしていたことに注目し、中西進(522夜)は一連の万葉集研究で枕詞を上下一体ととらえる連合表現仮説を提出した。
 吉本隆明(89夜)は「喩」を全面に持ち出し、当時の社会にひそむ共同幻想が同格同義の「畳みかさね」を希求したのではないかと主張した。『初期歌謡論』の仕事だが、吉本を有名にした『共同幻想論』が下敷きになっている。
 一方、古橋信孝は『古代和歌の発生』で、枕詞には共同体がもつなんらかの「始源の様式」があったはずで、それを「装う」ことこそが日本人の歴史性そのものではなかったのかと言った。神謡(かみうた)は枕詞がなければ支えられなかったろうというのだ。

仙覚抄
仙覚が文永6年(1269)に完成させた。万葉集の本格的な注釈書としては最初のものである。

北畠親房(きたばたけ ちかふさ)

西郷信綱

西郷信綱『古代人と夢』 (平凡社ライブラリー) 『日本の古代語を探る』(集英社新書)

吉本隆明

吉本隆明『共同幻想論』(河出書房新社)・『日本的なものとはなにか』(筑摩書房)

 折口や西郷以来の議論をまとめれば、枕詞はボーカリゼーションのプロセスの中にあった特別な言葉で、したがってすこぶる反文法的なもので、特有の名辞を喚起再生させる力をもっている。それとともに古代的共同体の始源の幻想を同格同義にするためのメタファー性に富んでいたので、どんな枕詞も総じてライフ・インデックスになっていたのだろうということだ。
 が、このように解義したところで、判然としないこともずいぶんのこる。始源的なるものを議論するのは、一筋縄ではない。これこそ「類」をめぐる「日本という方法」の秘密にかかわっているところが、もっともっとありそうなのである。

 というわけで、正月の千夜千冊第2弾では、枕詞をめぐった本書をとりあげることにした。
 著者は国学院出身で、のちに立正大学で長らく枕詞一筋の研究をしつづけた。研究者としてはたいへん丹念に枕詞の用例に分け入っている。ぼくは25年ほど前に読んで「あかねさす」や「ぬばたまの」や「ももつたふ」にどっぷり浸ることができた。とくに近藤信義が「葛類の枕詞」と名付けた「さなかつら」「まくずはふ」「たまかづら」といった、蔦がからまる枕詞についての論考は、のちのちまで唐草文様好きの日本人がいったんは考えてみたい「類」なので、興味深く読んだ。
 けれども、本書を読んだから「枕詞という方法日本」が解けたというふうではなかった。近藤の研究は微細なところに入りすぎて全貌の構図を失っているようにも思われた。それでもぼくには一つの峠を越える大きなきっかけになったので、本書は大きな足場のひとつなのである。

 話を戻して、折口がライフ・インデックスだと言ったのは、日々の生活(ライフ)のディクショナリーとして枕詞がつくられてきたというのではない。古代人の生命力と観念力の根幹にふれるトリガーとして、枕詞は「妣(はは)が国」のインデックスになりうると言ったのである。
 「妣が国」は折口が想定した古代執念技術王国のようなもので、古代ふうにいえば「常世」(とこよ)であり、一般的にいえば「心の内なる母国」のようなものをいう。しかし、その妣(はは)なる母国はマレビトなどの出入りによって古語(ふること)で占められている。分け入っていくには何らかのインデックスが必要なのである。
 こうして枕詞はまさにわれらがマザーカントリーの秘密を解くためのコトワザ(言・技)であって、かつコトワリ(言・割)としての役割をもったのである。古来のコト(言=事)を誘い、それをコトワリとして残すために、枕詞という神授の約束が言葉づかいにあらわれたのだ。

折口信夫と著書『古代研究』(中央公論新社)

 記紀や風土記を見ると、多くの枕詞は神託のときに発せられた神名や地名の由来に関する言葉と結びついている。そこにはさまざまな配慮の事情が生きている。
 たとえば「やまと」にかかる枕詞には「あきづしま」「あしひきの」「しきしまの」「ひのもとの」などがある。
 その一方で、『日本書紀』神武31年の条に、ニギハヤヒ(饒速日命)が「そらみつやまとの国」という言葉を発したという記事がある(ニギハヤヒについては1209夜『物部氏の正体』などを参照)。こんなふうだ。
 ‥‥昔、イザナギのミコト、此の国を目(なづ)けて曰はく、「日本(やまと)は浦安の国、細才(くわしほこ)の千足(ちだ)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくに)」とのたまひき。またオオナムチの大神、目(なづ)けて曰はく、「玉垣の内つ国」と宣(のたま)ひき。ニギハヤヒのミコト、天磐船(あまのいはふね)に乗りて、大虚(おおぞら)を翔(めぐ)り行きて降(あまぐだ)りたまふに乃至(いた)りて、故(かれ)、因(よ)りて目(なづ)けて、「虚空見つ日本(やまと)の国」と曰ふ。

ニギハヤヒ(ニギハヤヒノミコト)
別名、櫛玉命(くしたまのみこと)。物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神と伝わる。

ニギハヤヒの系図

 この記事は「やまとの国」というマザーカントリーについての讃詞を蒐集している当時の編集過程を示した箇所なのだろうが、その後、このうちの「そらみつ」が「やまと」にかかる枕詞になった。
 神武一族の天孫降臨とは別に物部氏の遠祖であるニギハヤヒが天孫降臨をしたという伝承は、天皇家すなわち大和朝廷のレジティマシーからすればあきらかに異伝である。異伝ではあるのだが、「やまと」にかかった枕詞のひとつとしてニギハヤヒが発したとされる「そらみつ」を残しておいたほうがいいと判断する理由があったのである。むろん物部氏に対する配慮だった。枕詞には、しばしばこうした異種異類を慮るものがまじっている。
 こうしてソラミツとかソラミツルが「国」を引き出すパスワードに昇格した。いったんそうなると、古語(ふること)が忘れ去られた後代においても、「そらみつ」が「やまと」を引き出すだけではなく、「やまと」が「そらみつ」をブラウジングし、歌詠み人たちの観念と想像力の中に「大和の空」を植え付けていったのだ。
 同様に「かむかぜの」(神風の)は「伊勢」の、「やくもたつ」(八雲立つ)は「出雲」の導因になるパスワードとなった。それさえあれば、いつでも、どこからでも伊勢にも出雲にも行けるようになったのだ。「ももしきの」と言えば、たちまち「大宮」すなわち宮都に飛んでいけたのである。
 こうした特有の地に所以をもつ呪詞めいた機能を見ると、枕詞はすぐれてトポグラフィックで、アブダクティブで、かつユビキタスな機能をもったというふうに言える。ずいぶん痛快なものを創り出したものである。

伊勢神宮(左)・出雲大社(右)

 江戸時代、国学者たちによって枕詞についての注目すべき見方がいくつか提言された。
 下河辺長流は『万葉集管見』や『枕詞燭明抄』で、「歌に枕詞あるは人に氏姓あるに同じ」と言った。「氏を置きて呼ぶ名の長きがごとく、古き歌のたけ高く聞こゆるは枕詞を置き、多くは序より続けるが故なり」ということで、氏と姓との結び付きのようなものだというのだ。
 賀茂真淵の『冠辞考』は「枕は夜のもの、冠は日のもの」として、「ものを上におくことを冠らす」ように、言葉を上においたのだとみなし、「言のたらはぬときは、上にうるはしきことを冠らしめて調をなんなせりける」と説明した。この影響で富士谷御杖(ふじたに・みつえ)は『歌袋』で、上田秋成(447夜)は『冠辞考続紹』で、枕詞は「かうふり」や「よそおひ」ではないかと見た。幕末の香川景樹が『歌学提要』に「枕詞は調べをととのふる為の具なり」としたのも、この見方の継承だった。
 しかし、枕詞を「調べ」に寄せるのは、ぼくにはやや肯んじがたいものがある。その点、宣長が「枕と言ってもかしらに置くから枕」というのではなく、「すべて物のうきて、間のあきたる所を支ゆる物を、何にまくらと云へば、名所を歌枕と云ふも、一句言葉のたらであきたる所に置く由の名と聞ゆれば、枕詞と云ふも、そのでうにてび云ひそめけむかし」と見たことのほうが、おもしろかった。
 宣長には「空席」を見抜く力があったのである。「不足による編集」が枕詞を発達させてきたという見方だった。

賀茂真淵

『冠辞考』
宝暦7年(1757)、賀茂真淵によって発刊された。

香川景樹
(『国文学名家肖像集』より)

 日本の古代において「空席」に充当してくるものといえば、やはり神々か、その名か、そのミコト(御言)だった。
 『日本書紀』神功皇后の条に、次のような一節がある。
 ‥‥三月の壬申の朔に、皇后、吉日を選びて斎宮に入りて、親(みずか)ら神主と為りたまふ。則ち武内宿禰に命(みことのり)して琴撫(みことひ)かしむ。中臣の烏賊津使主(いかつおみ)を喚(め)して、審神者(さには)にす。因りて千繪高繪(ちはたたかはた)を以て、琴頭尾(ことかみことしり)に置きて、請(ねぎもう)して曰さく、「先の日に天皇(すめらもこと)に教へたまひしは誰(いづれ)の神ぞ。願はくば其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮(いた)りて、乃(すなは)ち答へて曰く、「神風(かむかぜ)の伊勢国の、百伝(ももつた)ふ度逢(わたらひ)県の、折五十鈴宮(さくいすずのみや)に所居(ゐます)神、名は撞賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)天疎向津媛命(あまさかるむかつひめのみこと)」と。亦問ひまうさく、「是の神を除(お)きて復(また)神有(いま)すや」と。答へて曰く、「幡萩(はたすすき)穂に出し吾や、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)に所居る神有り」と‥‥。

 皇后は斎宮に入って神主の資格を得ると、琴を弾じ、シャーマン的な審神者を侍らせ、祭料を積んで神懸かりを待った。こうして七日七夜の秘儀がおこなわれたという記述である。
 記紀のなかでこれほど詳しく神託が降りる前後の状況を綴ったところはないのだが、ここに神の名を空席にもってくるという条りがあり、そこにさまざまな枕詞が静かに去来したとおぼしい。「ことかみに」(琴頭)は神の気配の影がやってくるときの「かげ」にかかり、「はたすすき」は「穂」や「みほ」や「うら」にかかる枕詞だ。
 「神風の伊勢国の」「百伝ふ度逢県の」では、よく知られているように「かみかぜの」は伊勢を引っ張ってくるための、「ももつたふ」は出来事や賢きことがいっぱいになることをあらわすパスワードである。「ももつたふ」は万葉に大津皇子の「ももづたふ磐余(いわれ)の池に泣く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」などと使われた。

 これらの用法はごくごく初期のもので、枕詞が微妙と緊張の隙間をめがけて用いられたことが伝わってくる。
 ぼくはそれを「空席」と表現したが、むろん「空隙」でも「隙間」でもよかった。ただそこはたいそう繊細で、かつ緊張の張るところなのである。そうでなければ、五十鈴宮にゐます神の名が撞賢木厳之御魂というふうには、ぴったりとやってきてはくれなかったのだ。
 きっと枕詞や懸詞は、このような神名や居場所に「ぴったり」をおこすための重大な「おこしことば」であり、繋辞(つなぎことば)だったのだろうと思う。
 しかしこうした神がかったものと枕詞の関係は、そんなに長くは続かなかったと思われる。律令制が崩れ、藤原摂関政治が広まり、古今・新古今になっていくにつれ、神を隙間に招くための枕詞の力は、恋の情緒や無常の心理の隙間に去来するようになったのだ。百人一首はそこから派生した。

 枕詞になじんでみることは、作歌術のためというより、「類が類を呼ぶ」という日本の不可思議を感じるための縫い取り作業なのである。
 花鳥風月や雪月花をどのように蒔絵や和菓子やデザイン意匠に織り込むかという作業のためにも、「日本という方法」を縁側伝いのインタースコアにしていくためのヒントとしても、また、日本語というものがどの糊代によってつながっていくかという微妙きわまりないフラジリティの把握のためにも、枕詞や懸詞や縁語を眺めておくことは、欠かせない。
 ぼくはときどき「襲(かさね)の色目を見たり、歳時記の言い回しの微妙に注目したりしてきたのだが、「歌語」になじんでおくことはそれらのすべてに通暁する「かささぎの橋」なのだ。
 では、ぼくが気になっている枕詞をあげておくことにする。以下、アイウエオ順に並べておいた。

 「あづさゆみ」(いそ・いちし・ひく・ゐる・はるか・こころ・たつ・おと・もと・すえ・つる・つま・よる・かへる)。梓弓は神事の弓で、その弦の鳴りから多くの消息を想定させた。「いそのかみ」(ふる・そでふるかは・めづらしげなし・ふるさと)。石上神社にまつわる枕詞で、布留(ふる)という土地の名があるので、時を経た感慨につながった。
 「いはばしる」(あふみ・たぎ・たるみ・かんなびやま・はつせかは)。水が激しく音を立てるさまをあらわしている。万葉の「命をし幸くよけむと石走る垂水の水をむすびて飲みつ」や志貴皇子の「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」が有名だが、新古今の「石ばしる初瀬の川の浪枕はやくも年の暮れにけるかな」もなんだか昭和っぽくていい。
 「浮舟の」は(こがる)に、「うたかたの」は(きえ・うき)の消え方にかかわっていく。「空蝉の」は(よ・ひと・いのち・み・いも・やそ・から・わびし・むなし・かれる・つね・な)にかかる。はかなさを表現するのにもってこいだ。万葉には「空蝉の世は常なしと知るものを秋風寒み偲びつるかも」とある。(から)は空であって殻であり、骸でもある。ウキ・ウタ・ウツは何かが重なって響くことをいう。

 儚さにもいろいろある。「かぎろひの」なら(はる・たつ・もゆ)であるが、「かげろふの」になると(おの・あるかなきか・ほのか・ほのめく・それかあらぬか・ありやあらずや・はかなき・いはがきふち)というふうに変化する。影向(ようごう)の感覚に近い。拾遺集に「夢よりも儚なきものはかげろふの 髣髴(ほのか)に見えし影にぞありける」とある。
 漱石が好きだった「草枕」は(たび・たびね・かりそめ・かりね・ゆふ)につながる。覚束ないものの枕詞は他にもある。「くれなゐの」(いろ・うつし・あそは・ふりいで・あく・末摘花・やしほ)、「黒髪の」(みだれ・ながし・わかれ)、「さくはなの」(うつろふ)などなどだ。「さざなみの」もいい枕詞だ。(志賀・大津・ひらやま・なみくらやま・ながらやま・くにつ・ふるきみやこ・おほやまもり・よる・あやし)にかかるのだが、近江や淡海にかかるときは「さざなみや」になる。

枕草子絵巻に描かれた黒髪
「黒髪の」は「みだれ・ながし・わかれ」を呼ぶ

 枕は寝具であるが、「しきたへの」といえば昔の寝具が引き出される。万葉の「つのさはふ 石見の海のまちらおと思へるわれも敷きたへの衣の袖は通りて濡れぬ」に始まっている枕詞で、(ころも・そで・いも・まくら・たまくら・いへ・とこ・くろかみ・ちりはらふ・ふさず)などにかかる。「しなかる」は(こし)、すなわち越の国のための枕詞である。「たたなづく」は山並みなどが幾重にも重なっている様子のことで、(あをかき・にきはだ)につながる。
 古代人にとって「たま」は魂であって言霊(ことだま)だった。「たま」にかかわる枕詞や懸詞は少なくない。「たまかぎる」が(ほのか・はろか・ひとめ・ひ・ゆふ・いはかきふち)に、「たまきはる」が(うち・いのち・こころ・いそ・いくよ・わ・むかし)に、「たまくしげ」が(あく・ふた・ふたかみ・み・みむろ・うらみ・はこ・おはふ・かけご・かがみ・かがやく・をく・あさし・ふかし)などにつながっていく。斎藤茂吉(259夜)の「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」は現代短歌に枕詞を折り込んだ一首として心に残る。
 ぼくが好きなのは「たまづさの」(つかひ・ひと・かよふ)、「たまゆらに」(みし)、「たまぎぬの」(さゐさゐ)、「たまくしろ」(てにとりもつ・まく)などで、とくに「たまもなす」が(うかべ・よる・なびく)とともに(かよりかくより)にかかっていくところがたまらない。

玉櫛笥(たまくしげ)
櫛笥(くしげ)というのは櫛を入れる箱の意味で、櫛の他に毛抜き、ハサミなど女性の化粧用具や身の回り品を入れていた。通称「玉手箱」

 そのほか、気になってきた枕詞に、「つるぎたち」(みにそふ・とぐ・ながこころ)、「ときぎぬの」(おもひみだる・さらなる)、「ときつかぜ」(ふけひ)、「とぶたづの」(たづたづし)、「とほつくに」(よみ)、「なぐるさの」(とほざかる)、「にほとりの」(ふたりならびゐ・かづく・葛飾・おきなが)、「はふくずの」(いやとほながく・したよこふ・ゆくへもなく)、「ひきまゆの」(こもる・いと・いとふ)、「ふくかぜの」(みえぬ・たより・あらち)などがある。いずれも興味津々である。
 枕詞というものはそこに立ち会ってみないと、いったいどうしてこんな古語や歌語が連結の隙間に出入りしたのか、にわかにはわからない。しかしながら、いったんそのような連結に分け入った歌語はその後も、まことに奇妙な残響的文脈のなかで生き続けていくのである。
 ぼくはかつて「ますらをの」が「たゆひ」(手結)にかかるもので、それが足結と一対になっていることや、また「もののふの」が(うぢ・いはせ・やそ)にかかるだけでなく、「おほまへつきみ」や「をとこをみな」を呼んでいることなど、まったく知らなかった。けれども越前若狭の多由比神社の「王の舞」を見たとき、いっさいの謎が解けた。
 こういうことは、いくらでもある。たとえば「やへむぐら」は植物名のヤエムグラのことではなく、「さす」とかかって、雑草の茂みを人とのかかわりを意味するのだし、「やまのゐの」は山野辺の入口だから「あさき」なのである。

「王の舞」奉納
福井県他由比神社などに伝わる舞楽。「ますらをぶり」を象徴する舞人となった未婚の青年は、鳳凰の冠をいただき、鼻高朱面をかぶり、真赤な着物にだてさげという赤前垂れ、白手甲、白足袋はだしで、腰に刀と扇をさす。稲作に先立ち、氏子の安穏と豊作を記念する舞である。
写真はそれぞれ宇波西神社(左上)・美浜彌美神社(右上)・能登神社(左下)・美浜彌美神社(右下)。

 ふりかえって、ぼくがこのような枕詞や懸詞や歌枕にそもそも関心をもったのは、折口信夫の『日本文学の発生序説』の「声楽と文学」の三に、このように書いてあったことに痛く痺れたからだった。最後に引用しておきたい。
 「一度発生した原因は、ある状態の発生した後も、終熄するものではない。発生は、あるものを発生させるを目的にしてゐるのではなく、自ら一つの傾向を保つて、唯進んで行くのだから、ある状態の発生したことが、其力の休止、或は移動といふことにはならぬ訳である。だから、其力は発生させたものを、その発生した形において、更なる発生を促すと共に、ある発生をさせたと同じ方向に、やはり動いても居る。だから、発生の終へた後にも、おなじ原因は存してゐて、既に在る状態をも、相変らず起し、促してゐる訳なのだ。」

 この折口の説明は、ひたすら一つのことを強調している。いったん「そこ」に起こった大事なモノ(霊・物)やコト(言・事)は、そのまま「そこ」の起源の由緒とともに、どんなところにも休止なく転移できたということ、いいかえれば、どんな文脈から「そこ」にさしかかっても、その「発生」にまつわる観念技法力は衰えなかったということだ。
 枕詞はそのような「発生の起源」を象徴的に保持してきた稀なホットワードなのである。だから、そうした枕詞は日本の表現世界を自在にインタースコアしてみせたのだ。たんに何かと何かを連絡させたのではない。その発生の起源のボーカリゼーションとナラティヴィティをそのまま引きずって、インタースコアの旅をまっとうしてきたのであった。

安藤礼二『神々の闘争』・『折口信夫』(ともに講談社)

ハイパーコーポレートユニバーシティ・出雲合宿
2016年1月16日〜17日、松岡正剛塾長率いるハイパーコーポレートユニバーシティの合宿が行われた。安藤礼二氏をゲストに迎え、出雲の地で「折口信夫の方法」論を浴びる2日間を過ごした。

⊕ 『枕詞論』 ⊕

 ∈ 著者:近藤信義
 ∈ 発行者:坂倉良一
 ∈ 発行所:桜楓社
 ∈ 印刷所:共信社印刷所
 ∈ 装幀:桜楓社編集部
 ⊂ 1990年10月10日発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈∈ 枕詞の史―序にかえて

 ∈ 第一章 発生と伝承の諸相
 ∈∈ 第一節 枕詞の発生―名辞と意識
 ∈∈ 第二節 伝承の行方―枕詞の場合
 ∈∈ 第三節 地名起源譚と〈音〉―「訛」「誤」「改」をめぐ
       って
 ∈∈ 第四節 国名の枕詞と伝承的背景

 ∈ 第二章 伝承と様式の諸相
 ∈∈ 第一節 表現としての枕詞
 ∈∈ 第二節 古層の詩語―〈うた〉への課題
 ∈∈ 第三節 枕詞と道行きと
 ∈∈ 第四節 旋頭歌小考―うたうかたち

 ∈ 第三章 枕詞各論
 ∈∈ 第一節 「葛類」考序説
 ∈∈ 第二節 「あをかづら」考―木妨已の訓みから
 ∈∈ 第三節 「ぬばたまの」考
 ∈∈ 第四節 「あかねさす」考
 ∈∈ 第五節 「あしひきの」考

 ∈ 第四章 枕詞の周辺
 ∈∈ 第一節 「葛類」考序説
 ∈∈ 第二節 ももつたふ―大津皇子と辞世歌
 ∈∈ 第三節 たまくしげ・つるぎたち―笠女郎の世界
 ∈∈ 第四節 朝日さす――霊異記の歌謡、下巻第38話を中心と
       して
 ∈∈ 第五節 本草伝来史―万葉集との関係

 ∈∈∈ あとがき
 ∈∈∈ 索引

⊗ 著者略歴 ⊗

近藤信義(こんどう・のぶよし)
1938年東京生まれ。1969年国学院大学大学院日本文学専攻博士課程修了。その後立正大学文学部教授に就任。著書に『音感万葉集』(2010)『音喩論―古代和歌の表現と技法』(1997)『万葉遊宴』(2003)などがある。

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