才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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不思議の国のアリス
鏡の国のアリス

ルイス・キャロル

角川文庫 1999

Lewis Carroll : Alice's Adventures in Wonderland 1865 : Through the Looking Glass, and What Alice Found There 1871
[訳]河合祥一郎
装幀:都甲玲子 挿絵:ジョン・テニエル

明けましてアリスです。ついにアリスです。さっそくながら、三月ウサギが「自分の意味するとおりのことを言うべきだよ」と言うと、アリスがぷんぷんして「言ってるわよ、わたし」とちょっと反発して、ついついもう一言、「わたし、言ったとおりのことを意味しているわ。つまり、どっちも同じことじゃなくって?」と踏みこんだ場面がありますね。

 明けましてアリスです。ついにアリスです。さっそくながら、三月ウサギが「自分の意味するとおりのことを言うべきだよ」と言うと、アリスがぷんぷんして「言ってるわよ、わたし」とちょっと反発して、ついついもう一言、「わたし、言ったとおりのことを意味しているわ。つまり、どっちも同じことじゃなくって?」と踏みこんだ場面がありますね。
 そうすると帽子屋が「同じことだなんてとんでもない!」と窘めて、なかなかの見解を投げかける。どう投げかけたのかというと、帽子屋は「そんなことを言ったらな、『わたしは食べるものを見る』というのと『わたしは見るものを食べる』というのも同じだってことになる」と言うのです。
 ぼくはアリスにもキャロルにもずっと脱帽してきたので、この「どっちも同じことじゃなくって?」をめぐって、長らく編集という仕事をしてきたようなものでした。だからこの帽子屋の言い分はそこそこよくわかる。ところが、アリスの問いはけっこう難問なのです。正確にいえば、キャロルがそう見せかけているのです。
 この場面は『不思議の国のアリス』7章の有名な帽子屋と三月ウサギとヤマネ(眠りネズミ)の「おかしな茶会」(註=「狂ったパーティ」「気違いパーティ」とも訳されてきた)のやりとりですが、このあとの会話で、さらにもつれていく。負けず嫌いのアリスも何だか自信がなくなっていくのです。
 三月ウサギが「手に入れたものが好き」と「好きなものを手に入れる」は同じなのかと言ったり、ヤマネが「眠るとき息をする」と「息するときは眠る」を同じにしてしまうようなもんだといちゃもんをつけたからです。アリスとしては、これをどう判断するか。案外な難問に突入していきます。
 そもそも「お茶のためのドーナツ」と「ドーナツのためのお茶」、「森の人」と「人の森」、「国家の幻想」と「幻想の国家」は同じではありません。ただ、いったいどこから同じでなくなっていくかががわからない。世の中はまさにこの手の、どこが曖昧か、どこまで一緒かをめぐっているようなものです。アリスがそうだったように、ぼくの仕事はそこに付き合うことだったのです。

「おかしな茶会」
『Alice’s Adventure in Wonderland(1866)』より

 もう一度、明けましてアリスです。『鏡の国のアリス』には「名なしの森」に入る場面があります。
 アリスはその森に入って、ああとっても気持ちいいわと思う。それで「あんなに暑いところから、こんなにすずしい◎◎に‥」と言おうとして、この絶句した「◎◎‥」はええっと何だっけと言葉につまってしまいます。「何か」の言葉か「何か」についての言葉かが浮かばない。アリスは森に入ってきたのに、「ええっと、わたしが“ここ”に入ってきた“ここ”は、ええっと、“ここ”は何だっけ」と思って、「あら、これって名前がないんだわ!」と愕然とする。そういう場面です。
 そうするとそこへ子ジカがやってきて、柔らかくてとろけるような声で(そうキャロルは書いている)、アリスに「君は何ていう名前なの?」と聞く。アリスは「それがわかったらいいんだけど、いまのところないの」と答えるしかない。次に思いあまったアリスが「あなたの名前を教えてもらえない? ちょっとヒントになるかもしれないから」と言う。でも、子ジカは「もう少し先まで来てくれたら教えてあげる。“ここ”では思い出せないから」と言うのですね。「ここ」では思い出せないというところが、いい。
 この「名なしの森」はかなり驚くべき森です。なにしろ名前が付いてない。森の大きな名も、木々や草花の小さな名もなくなっている。ハチやアブはぶんぶんして、水たまりはぽちゃぽちゃしているだけ。けれども名前が引っ込んでしまっている。それなのに、その場所は何かを喚起している。トポスがあるのにトピックが「名」として出てこないのですね。これはびっくりです。
 実はぼくの10代から50代も、さしずめ半分だけ名前が見えていて、半分はそこがその名前を考える森(場)でいいのかどうかが判然としない状態、いわば「半名半森」(はんめいはんしん)にいたようなものでした。ぼくの仕事はそのあやしい「半名半森」から発信しつづけてきたようなものなのです。

「名無しの森」
『Through the Looking Glass, and What Alice Found There』より

 ♣その1。ナンセンスはコモンセンスがないと成り立たないけれど、ナンセンスのないコモンセンスほど退屈なものはありません。♣その2。言葉が名前をもったのか、名前が言葉をもったのかはわからない。モノに名前があるのではなく、名前とモノをつなげる帽子屋と三月ウサギとアリスと、そしてちょっとぼうっとしたヤマネがいたのです。

 話が急に変わりますが、ティム・バートンの『アリス・イン・ワンダーランド』(2010)にはがっかりしました。バートンのことはジョニー・デップとのコンビともどもずっと応援してきたのですが、ここ数作はアリスを含めていただけない。
 1951年のディズニー映画『不思議の国のアリス』の設定を踏まえた後日談という恰好をとったCG駆使の映画だったのですが、それも気にいらない。ぼくはもともとのディズニー・アリスが子供のころから乗れなかったのです。
 ディズニー・アニメの『シンデレラ』や『ダンボ』に乗れなかったのではなく、『アリス』がまったくお呼びじゃなかった。ここから言えることは二つです。ひとつ、どうもアメリカはアリスを勘違いしているとしか思えない。もうひとつは、アリスは映像になりにくい何かをもっている。これです。それはあのシュヴァンクマイエルの人形アニメの『アリス』(1988)すら、いただけないからです。

 ルイス・キャロル(1832~1898)には、むろん何か格別に天才じみたところがあったにちがいありませんが、この人は全体としてはもともと変な子であり、長じても変な大人だったと思います。まずは、そう思ったほうがいいでしょう。
 本名はチャールズ・ラトヴィッジ・ドジソン。長男ですが、上に2人の姉がいて下に8人の弟や妹がいた。吃音でした。吃音はドジソンがキャロルになるにあたっての重大なエンジンだったでしょう。
 11歳のときに教区牧師の父親がヨークシャーのクロフトに転任し、一家が広々とした教区館に引っ越すと、その後の25年間をゆったりと暮らします。何の不満も不足もない。これでは想像力はあらぬ方位に向かっていく。そこでドジソンは数学者であるとも、写真家とも、詩人とも幼児嗜好症とも、暗号フェチともいえる者になっていったのです。
 これはやっぱりそうとうに変です。案の定、へんてこ世界のアリスを誕生させた。晩年は晩年で、書斎にエゾテリズム(ヨーロッパ密教)の本棚をつくって御満悦でした。

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン
愛用のカメラとともに。

 ♣その3。モートン・コーエンの分厚い『ルイス・キャロル伝』(河出書房新社)は、①『アリス』を書いた作家キャロル、②当代一級の数学者のキャロル、③聖職者にして開明的な写真家のキャロル、④ヴィクトリア朝の紳士としてのキャロル、⑤少女愛好者のキャロルというふうに、キャロルをきっかり5分の1ずつ書いています。大いに結構。♣その4。キャロル伝にはスタウト・コリングウッドとデレク・ハドソンの定番があります。ハドソンのものは高山宏の訳で読めます。ハドソンの評伝の影響を受けてこれを発展させたのがジャン・ガッテニョの『ルイス・キャロル』(法政大学出版局)。ぼくが最初に読んだのはこちらでした。♣その5。とはいえ、ぼくにはシャーロキアンになる趣味がないように、キャロリアンになる趣味はまったくありません。ぼくの関心はあくまで「おかしな茶会」と「名なしの森」なのです。

『ルイス・キャロル伝(上下)』
『ルイス・キャロルの生涯』
『ルイス・キャロル』

 よく知られていることですが、ルイス・キャロルの筆名は2段アナグラムになっています。“Chales Lutwide”(チャールズ・ラトヴィッジ)をラテン語ふうに綴って“Caros Ludovicus”とし、これを英語ふうにスペルを入れ替えて“Lewis Carroll”にした。
 ドジソンはキャロルになってすっかり何でも見せる気になったのですが、アリスのほうはみなさん知っての通り、実在の少女の名前です。本名はアリス・リデル。オックスフォード大学の学寮クライストチャーチの学寮長の一家の3姉妹の真ん中の女の子で、ドジソンと会ったころは10歳前後でした。
 ドジソンはこの3姉妹の家に上がりこんだり、テムズ川をボートでのぼるピクニックをしたり、そうとうに親しかったようです。なかでもアリスがとてもお気にいりで(きっとアリスもドジソンが気にいって)、座らせたり寝そべらしたり、コスチュームを着せたり(つまりコスプレさせたり)、ときに裸にしたりして頻りにシャッターを切ったと思われます。それでも当時は幼児セクハラにはならなかったようです。

10歳前後のアリス・リデル

リデル家の三姉妹
前から、イーディス、アリス、ロリーナ。

 ♣その6。ドジソンは無類の話好きだったのだろうと思います。3姉妹を相手に即興のおもしろい話をしたし、ピクニック・ボートの中でもちっとも話がとまらない。なかで「アリス」を主人公にしたへんてこ話が大ウケになった。一方、アリスは話をせがむのも大人を操るのも得意な少女で、或る日、ドジソンに「私のためにお話を書いておいてね」とねだったのです。誰だったかが評論していましたが、アリスは可憐な「悪女」だったのでしょう。♣その7。アリスにねだられたドジソンはさっそく物語の完成に向けて執筆に取り組み、手書きの『地下の国のアリス』を仕上げた。1863年2月10日に出来上がったのですが、それから挿絵を描き、装幀などをほどこして、翌年11月26日にアリスにプレゼントしたのです。夢中だったんですね。

『地下の国のアリス(Alice’s Adventure under Ground)』
ボートの上で話した即席のお話を本にしてほしいというアリスの望みに応じて、キャロルが作った自筆手製の本。表紙の文字もデザインもすべてキャロル自身のもの。

ルイス・キャロルによる絵文字入り手紙

 今夜は2016年の正月です。毎年この時期には、さあて、どんな本を採り上げようかと年末から思案してきたのですが、いつも迷います(昨年は年末がバルザックの『セラフィタ』で、年始が『源氏物語』だった)。今年は懸案のアリスでいくことにしました。
 でも、どのアリス本にするか。千夜千冊は一応、本を特定しなければなりません。日本人の本なら版元を特定しなければならない。翻訳だって各種があるので、これも選びます。
 アリスの翻訳は昔からいろいろあって、戦後だけでも高杉一郎・福島正実・多田幸蔵・大戸喜一郎から、高橋康也・脇明子・矢川澄子(591夜)・柳瀬尚紀・山形浩生まで、さまざまな試みが続いてきています。それぞれ工夫をしている。最近はついに『アリス狩り』の御大・高山宏(442夜)が掟破りをはたしました(亜紀書房)。
 しかし採り上げるならやっぱり『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の両方一緒だと思ってきたので、両方をほぼ同時期に訳していて文庫にもなっているものということで、今回は、気鋭の英文学者の河合祥一郎訳でいくことにした。理に適ったうまい訳です。

アリスの類書
高杉一郎・福島正実・多田幸蔵・大戸喜一郎から、高橋康也・脇明子・矢川澄子・柳瀬尚紀・山形浩生まで、さまざまな翻訳が並ぶ

 ♣その8。日本語訳の『アリス』は明治41年の須磨子こと永代静雄が「少女の友」の連載で初めて試みたのが最初です。その後、アリスを「美(みい)ちゃん」(長谷川天渓)、「愛ちゃん」(丸山薄夜)、「綾子さん」(丹羽五郎)、「あやちゃん」(西条八十)、「すず子ちゃん」(鈴木三重吉)などと涙ぐましい和風を試みたものが続いた。注目したいのは昭和2年に文芸春秋社から芥川龍之介(931夜)と菊池寛(1287夜)の共訳で『アリス物語』を刊行したことでしょう。芥川が翻訳の途中で自殺したので菊地が続きを訳した。挿絵と装幀は平澤文吉で、たいへん洒落ています。♣その9。「注釈訳」とでもいうものもいろいろ出回っていて、最も有名なのが異能数学編集者のマーティン・ガードナー(83夜)のものです。石川澄子が訳し、さらに『新注・不思議の国のアリス』(東京図書)として高山宏が訳した。

西条八十の『鏡國めぐり』
鏡の国の翻訳だが、アリスの名前は「あやちゃん」になっている。

菊池寛・芥川龍之介共訳の『アリス物語』
1927年に文藝春秋社から刊行され、挿絵は平澤文吉が担当した。

 アリスの話を知らない者なんていないでしょうが、それでもアリスがどんなふうに“変事”に連続遭遇したかということと、キャロルがアリスに体験させたい“変事”のために何を仕掛けたかということは一蓮托生、やっさもっさで表裏一体、ドグラでマグラな、つまりは一心同体のことなので、やっぱり筋と場面を追って愉しんでもらうためにも、ざっとダイジェストをしておくことにします。
 ごくごく簡単に『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』のあらあらの筋書きを追いつつ、適宜適当、でも不適切かもしれない注釈を挟み、ときにインタースコア編集を交ぜっ返すことにします。
 このインタースコア編集がこれまで一番うまかったのは、桑原茂夫です。桑原さんは『ユリイカ』(青土社)などの編集者だったのですが、さすがのエディティング・オーケストレーションでした。『図説 不思議の国のアリス』(河出書房新社)もある。
 以下、当然のこと、ジョン・テニエルの超有名な挿絵はゼツヒツなので、ふんだんに掲げていくことにします。ぼくはアリスの映像化はテニエルの画像イメージから脱出を試みるためのものであったろうとは同情するけれど、けれどもアリスはなんといってもテニエルなのです。実際、キャロルもテニエルにかなり細かい指図をしたようで、たとえば一番重大なアリスの風姿は黒髪おかっぱのアリス・リデルに似せないで、キャロルの提案によって「おでこを出した金髪少女」にすることになりました。

ジョン・テニエル
ルイス・キャロルの児童文学『不思議の国のアリス』および『鏡の国のアリス』の挿絵を手がけたことで知られ、19世紀半ばから約50年間にわたり風刺漫画誌『パンチ』で数多くの風刺漫画を手がけた。

 ♣その10。キャロルに出版を勧めたのはジョージ・マクドナルドとその仲のよい夫人です。夫妻はキャロルに対して、あまりに凝ったジョークを取って、もっと筋書きをおもしろくするように助言した。このとき「チェシャ猫」や「おかしな茶会」のエピソードが加わった。すこぶる適確な助言でした。われわれもこういう何でも相談ができるワインと暖炉(コタツも可)が似合う夫妻を人生のなかでもつべきです。♣その11。『パンチ』の編集者トム・テイラーがテニエルを起用します。出版社はいまでは大きな老舗となったマクミラン社。すでにチャールズ・キングズリーの『水の子』が当たっていて、『アリス』はその路線に乗せたものでした。♣その12。新刊『不思議の国のアリス』は『水の子』と同じ18センチ×13センチの判型で、1865年7月に2000部を刷った。ところがテニエルがその出来や印刷に不満があり、マクミラン社は初版すべてを回収、キャロルとテニエルが文字組からやりなおしました。費用はキャロルが負担した。ぼくはこの話が大好きです。♣その13。テニエル以外では、アリスの挿絵で巧かったのはアーサー・ラッカムとわが金子國義ですが、それでもそれらは独自の絵であって、アリスから生まれた挿絵ではありません。

【不思議の国のアリス】

 ★話A。ある日、アリスが川辺の土手で本を読んでいたお姉さんのそばで退屈していたら、そこに服を着た白ウサギが通りかかります。これが冒頭シーン。ウサギはぺちゃくちゃ言葉をしゃべりながら急ぎ足で向こうへ行ってしまいます。びっくりしたアリスはウサギを追いかけて穴に落ちてしまい、どんどんトンネルをボブスレー並みに滑りながら底のほうへ落ちていく。

 ★話B。落ちたところは広間になっていて、そこには金の鍵と小さな扉があります。何でもやたらに興味津々になる目少女・耳少女のアリスは、そのそばに不思議な小瓶があって“Drink Me”と書いてあるので、これはとうていがまんできませんから飲んでみると、みるみる体が小さくなるのですね。“Eat Me”と書いてある不思議なケーキもあったので、これもがまんできないので食べてみると、今度はやたらに大きくなってしまう。こうなると困ったうえに悲しくなります。アリスがわんわん泣くと、溢れ出た涙であたり一面がお池になった。さいわいウサギが落としていった扇子で体は元通りになるのですが、足をすべらせて自分がつくった池にはまりこんでしまいます。そこへネズミや鳥やけものたちが泳いで集まってきた。

 物語はお姉さんが本を読んでいるところから始まっているのですね。ということは、これはあくまで本の中の世界であり、キャロルによる読書案内なのです。しかしアリス・リデルはもっとおもしろい本に出会いたい。
 お姉さんの本よりずっとおもしろくなるためには、何か格別のナビゲーションが必要です。そこでキャロルはアリスにお姉さんの本よりもっとわくわくする本を案内するために、饒舌な白ウサギを登場させた。ナビ・ウサギです。ただしとても理屈っぽいアリスを退屈させないためには、ウサギはうんとせっかちでなくてはならなかったのです。

 もうひとつ、キャロルが工夫したのは、のっけから主人公のアリスをトンネルに落っことしたこと、ついでアリスの体が大きくなったり小さくなったりさせたことです。これがこの物語を永遠の作品にさせた大きな成功因でした。
 トンネルは史上最も不思議な入口と出口をもっている仕掛けです。いまでもどんな冒険ものにも、ファンタジーものにも、アクション映画や「24」のようなTVドラマにもトンネルは欠かせない。そこで時間と空間が入れ替われるのですからね(時間と空間が入れ替われるもうひとつの仕掛けは「鏡」です。それでキャロルは二作目に鏡を仕込みます)。
 体が大きくなったり小さくなったりするのは、フィクションとしてはずるくて便利な仕掛けです。これでマクロとミクロがつながったり、ひっくり返ったりするだけでなく、読んでいる者の知的サイズを一定にさせません。読者はこれでまんまと「読みの目のアフォーダンス」の中に入り込む。
 さらにもうひとつ、『アリス』では「何かを発見する」ということと「自業自得になる」ということが、必ずかわりばんこになっていて、これが抜群にすばらしい。この「かわりばんこ」と「自業自得」こそはぼくの編集的インタースコアの大いなる参考になっているものです。

 ★話C。アリスと鳥やけものたちが自分池を脱して岸辺に上がると、ドードーが提案してみんなでコーカス・レースというぐるぐるダンスをして体を乾かしています(註=メンバーが要職を得るためにレースをしているという政治用語だった「コーカス・レース」をキャロルは少しからかっている)。ネズミはなぜ犬や猫を怖がるかという話をするのですが、アリスがうっかり自分の飼い猫のダイナの自慢をすると、みんな逃げていってしまいます。『アリス』には話の筋の随所に禁句や禁じ手が入れこまれているのです。

(右)
いろいろな動物が一同に会して泳ぎ、アリスとともに岸に流れ着く。
(左)
「コーカス・レース」のあと、怪鳥ドードーからごほうびを受け取るアリス。

 ★話D。一人になったアリスのところへいそいそと白ウサギが戻ってきて、アリスをメイドと間違えて(註=アキハバラのメイドは客からアリスと間違えられますね)、自分の家にお使いさせるのですが、その家で発見した小瓶の液体を飲むと、アリスは体が大きくなって体が部屋いっぱいに詰まってしまう大少女になってしまいます。そこで白ウサギはトカゲのビルを使って大きなアリスをなんとか家から追い出そうとするけれど、これは失敗。しょうがないので小石を家に投げ込んでみると、これがケーキに変じてアリスがそれを口にして、やっと小さな子に戻ります。

 「失敗すること」。これはルイス・キャロルが大事にしたとてもヒューリスティックな出来事のひとつです。何に成功したかというアメリカンな話より、どうして失敗したかということのほうが、ずっと痛快なのは当然です。
 いま、世の中はサクセス・ストーリーばかり。けれどもアリスの物語に出てくるような、おかしな失敗の連続こそ、伝えたほうがいいに決まっている。そういう意味ではグリム童話(1174夜)やカフカ(64夜)やミラン・クンデラ(360夜)のような物語が、いまこそ巷間に必要なのだと思います。みんな「失敗」を大切にした話です。

 ★話E。アリスが森に入っていくと、キノコの上のイモムシがぞんざいな口ぶりであれこれ尋ねてきます。それでもキノコのいっぽうを齧ると大きく、反対のほうを齧ると小さくなれると教えてくれたので、アリスは少しずつ両方の端っこを齧って元の大きさに戻ります(註=このように失敗に対してはときどき「ソリューション」を用意しておくことも大事です)。しばらく行くと小さな家があって、サカナとカエルの従僕が招待状のやりとりをしている。さっそく小さくなるほうのキノコを齧って中に入ってみると、そこは公爵夫人の家です。

(左)ルイス・キャロルによる自筆
(右)キノコの齧り方を誤り、首だけが長くなってしまったアリス

 ★話F。公爵夫人は赤ん坊を抱いているのにずいぶん無愛想で、ほかに、ひどい話ですが、やたらにコショウを使う料理人が料理のあいまに赤ん坊にものを投げている。それからそこには有名なチェシャ猫がいた。夫人はアリスに赤ん坊を預けるのですが、家の外に出るとそいつはあっというまにブタになって、とんとこ森に逃げていってしまいます。仕方なく森を進むと樹の上にさっきのチェシャ猫がニヤニヤして坐っている。この猫は三月ウサギと帽子屋の家に行く道順を教えて、「笑わない猫」ならぬ「猫のない笑い」をその場に残して消えてしまいます(註=「猫のなす笑い」は“a grin without a cat”の訳)。

 いちいち説明をするのは野暮なほど、アリスにはともかくふんだんに編集機密術があちこちちりばめられています。よく言われるように「言葉遊びが勝っている」からではありません。
 そうではなくて、ぼくが思うには「とんちんかん」「えらそう」「威張っている」「理不尽」「知らんぷり」「むちゃぶり」「しゃちこばる」などが平気で投入されていて、それがみんなが着飾ったり儀式ばっている渦中(場面)で、平気に「野蛮」や「乱暴」や「失礼・無礼」とともに提示されているところが、すばらしいのですよ。それでいて、ちっとも気品が壊れない。こういうところ、ぼくの好みです。

 ◆その14。アリスはメイドと間違えられました。「間違えること」これは「失敗すること」ともに、キャロルが全力をつかって世間での表現力を「救済」している問題です。それから、赤ん坊がブタになりますが、「変じること」もキャロルがとても重視したことで、それが言い間違いやスペル違いを工夫させてきたのです。◆その15。チェシャ猫(cheshire cat)については、これまでべらぼうな賛辞と理屈と解釈が投げかけられてきたので多くは言いませんが、チェシャはイギリスのチェシャー州のことだからペルシャ猫とかシャム猫という名前と同じです。それがニヤニヤ笑いをしているのはなぜかというと、当時の慣用句のひとつ“grin like a Cheshire cat”を、キャロルが猫動詞として取り出したからで、この勝手なインタースコアがたまらないのです。諸君も今年はひとつ「原宿笑い」とか「ナンバさかる」とか「中洲こまる」とかと言い出してみるとよろしい。

ジョン・テニエル(上)、アーサー・ラッカム(下)によるチェシャ猫

チェシャ猫の顔が組み込まれたトランプ
瀧口修造が1973年に開かれた「アリス展」のため創作したコラージュ

 ★話G。家の前では、三月ウサギと帽子屋とヤマネ(眠りネズミ)がテーブルを囲んで、終わりのないお茶会「マッド・パーティ」を開いています。帽子屋は「答えのない謎々」をふっかけたり、女王から死刑宣告を申し渡されてからずっと時間が止まってしまったという話をするのですが、勝手な話ばかりなのでアリスはぷんぷんして席を立ってしまいます。すると近くに「ドアが付いた樹」が見つかったので、さっそく入ってみるとそこは最初のあの広間です。アリスはキノコ齧りで背丈を調整して、やっと小さな扉をくぐり抜けました。

マッド・ティーパーティの出席者たち
左から、ちょっと怖い表情をしたアリス、麦わら帽子を頭に挿したままの三月ウサギ、半分ぼうっとしているネムリネズミ、売り物らしい帽子をかぶった帽子屋。

 ★話J。通り抜けた先は美しい庭で、手足がはえたトランプたちがせっせと庭木の手入れをしている。そこへハートの王様と女王が兵隊や賓客を従えてずんちゃかやってきた。癇癪持ちの女王は庭師たちに死刑宣告をしたのち、アリスにクロッケー(クリケット)大会に参加するように促した。けれどもこのクロッケー大会というのが、槌の代わりがフラミンゴで、ボールの代わりがハリネズミ、ゲートの代わりが生きたトランプという代物(しろもの)なので、たちまち大混乱になってしまいます。するとチェシャ猫が空間から顔だけあらわして、女王たちを翻弄する。女王が飼い主の公爵夫人を呼び出すと、チェシャ猫は消えていました。

 ◆その16。三日月ウサギは“mad as a march hare”の、帽子屋は”mad as a hatter”という当時の常套句からキャロルが作ったキャラ。◆その17。有名な「マッド・パーティ」はこれまで「おかしなお茶会」「狂った茶会」「気違いパーティ」などと訳されてきたもので、2015年3月の「ユリイカ」臨時特別号の大特集「150年目の『不思議のアリス』」では、高山宏は「気がふれ茶った会」と訳しました。この臨時特別号の高山宏と巽孝之の対談は必見。ロザリー・コリーの『パラドクシア・エピメデミカ』(河出書房新社)が読みたくなるはずです。

2015年3月の「ユリイカ」臨時特別号の大特集「150年目の『不思議のアリス』」

 またまた大事なことが出てきたのですが、「答えのない謎々」を出したところが、さすがです。世の中には正解がない問題がありうるということです。
 一方、すでに冒頭にふれたように、「おかしな茶会」で帽子屋と三月ウサギとアリスが交わす「食べるものが見える」と「見えるものを食べる」はどこが同じで、どこから違うのかという問題もまた、大問題です。
 この問題に正月早々から深入りするのは避けますが、これは「同一とは何か」「混同とは何か」「相似とは何か」という問題を孕んでいます。これって、人間がつくってきた基本概念はいくつあればいいかという問題で、かつまた、なぜ文章は主語と述語と目的語と補語などでできあがってしまったのかという問題でもあって、さらにいえばヘルマン・ワイル(670夜)が『数学と自然科学の哲学』で根本的に話題にした問題です。これらのすべてが絡んできますから、まあ、本気でとりくむのは別な日がいいでしょう。せめて松の内が明けてから。
 ルイス・キャロルが数学者でもあったということは、アリスにとってもとても大事な知的背景です。1855年、数学教師になったキャロルは「数学をどう教えるか」ということに異様なほどの情熱をたぎらせ、「代数幾何の初歩を系統的に教える計画」に着手していいます。この挑戦は「たぶんこれまで試みた者はいないはずだ」と日記に書いています。
 著書もいろいろあった。行列式について執筆したのち、55歳の1888年には『クリオーサ・マテマティカ』の第1部を、5年後の1893年にはその第2部を出版しました。立派な数学書です。では、いったいキャロルの数学感覚がどういうものか、ぼくもいっとき気になって覗いてみたことがあるのですが、数学そのものについてはしごく正統で、とくにひらめきがあるというものではありません。それよりも、キャロルは二つのことに関心をもっていた。
 ひとつは、数学の使い方に独特の見方をもっていることです。それは数学的感覚を「もつれ目」にこそ出入りさせようというものでした。もうひとつは“論理ゲーム”を広めたいという意図が強かったということ。とくにパラドックス(逆説)に夢中になっていたということで、こちらこそがアリスに投入されてきた数学的感覚です。ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(白楊社)か、モーリス・クラインの『不確実性の数学』(1592夜)を見てください。

 ◆その18。キャロルの数学まがい書は次の3冊で読めます。『もつれっ話』柳瀬尚紀訳(ちくま文庫)、『枕頭問題集』柳瀬尚紀訳(朝日出版社)、『不思議の国の論理学』柳瀬尚紀編訳(ちくま学芸文庫)。◆その19。キャロルの数学感覚は「明瞭化」というものだったと思います。そのへんのことを知るはやはりマーティン・ガードナーに頼るのがよいでしょう。

ルイス・キャロルの数学本
『もつれっ話』
『枕頭問題集』
『不思議ノ国の論理学』

 ★話H。なんだか公爵夫人はやたらに上機嫌です。アリスが何かを言うたびに教訓を見つけだしている。女王はそんな夫人を立ち去らせ、クロッケー大会を続けようとするのですが、一方でやたらに死刑宣告をしまくるので、参加者がだんだんいなくなってしまいます。
 ★話I。ついで女王はアリスに代用ウミガメの話を聞いてくるように命令し、グリフォンに案内させます。アリスは命令に従い、代用ウミガメの身の上話や、自分が本物のウミガメだったころに通っていた学校の教練について熱心に説くことを、半ば呆れて聞きます。この教練はキャロル得意の言葉遊びになっていて、でたらめな内容になっています。たとえば「読み方」(reading)は「這い方」(reeling)に、絵の「描き方」(drawing)は「だらけ方」(drawling)というふうに。

グリフォンとウミガメモドキに身の上話を聞かされるアリス

 ★話K。それから代用ウミガメとグリフォンは、アリスになぜか「ロブスターのカドリール」のやり方を説明し、節をつけて実演をしてみせる。そのうち裁判の開始を告げる呼び声が聞こえてきたので、グリフォンは歌をうたっている代用ウミガメをほったらかしにして、アリスを裁判の場へ連れていくのでした。

 話はトランプたちの登場と女王の傍若無人な「首はね命令」の連発で、一見、しっちゃかめっちゃかなまま、しかし確実に裁判に向かっていくというふうになります。
 ところで、ぼくが最初に母に買ってもらったアリスの絵本を見たときは、このトランプの傍若無人がさっぱり理解できなかったものでした。もっと言うと、登場人物の全員がみんな意地悪そうで、なんだか面倒くさかったのです。ところが妹はそうでもない。「えっ、お兄ちゃん、ここおもしろいよ」と言うのです。
 これはのちのち山口小夜子ちゃんと話したときにも感じたのですが、アリスが感じる「混乱」や「でたらめ」や「無謀」は、どうやら女の子にとっては平気なんですね。それというのも、ゲームとか議論とか裁判というのは男がつくった制度であって、それが軋んだり変になっていくのは男子社会にとっては、何であれ気掛かりになるのですが、女子にはそんなふうになるのは当たり前なんでしょう。もともとあんたたち男が作ったのだから自業自得だわというのです。
 と、ここまではそうかもしれないという話ですが、キャロルはここに「女王の横暴」を持ち出した。男社会の理不尽を女社会がなぞっているようにしてみせたのです。やがて大人になるアリスのために、キャロルが「冗談の中の真剣」を拵(こしら)えたのだと思います。それというのも、アリスは次の『鏡の国』ではポーンから女王になることになるのですから。

進行役のウサギ
突然始まる裁判のシーンではウサギが登場し、廷吏としてラッパを吹く。

 ★話L。玉座の前でおこなわれている裁判は、ハートのジャックが女王のタルトを盗んだ疑いで起訴されたものです。布告役の白ウサギが裁判官の王たちの前で、罪状を読み上げています。アリスは陪審員の動物たちにまじって見物するのですが、なんだか自分の体が勝手に大きくなっていくのを感じます。証人に帽子屋、公爵夫人の両隣人が呼ばれたと思ったら、なんと3番目にアリスが呼ばれます。むろん、アリスは「わたしは何も知らないわ」と証言する。
 ★話M。王たちの裁判ぶりは勝手なもので、新たな証拠として提出された詩を検証して(検証したかのようにかこつけて)、それでジャックを有罪にしようとしているのです。アリスはついにがまんができなくなって、「あんたたちなんか、ただのトランプのくせに!」と叫んでしまいます。これが待ちに待ったアリスの一閃です。
 ★話N。すると、トランプたちは一斉に舞い上がってアリスに飛びかかる。アリスが驚いて悲鳴を上げると、次の瞬間です、アリスは自分がお姉さんの膝を枕にして土手の上に寝て居たことに気が付くのです。ああ、自分は夢を見ていたんだと知ったアリスは、お姉さんにこれまでの冒険を話して、そのままどこかへ走り去ってしまいます。残ったお姉さんはアリスの将来に思いを馳せたとさ‥‥。

 これが『不思議の国のアリス』の話です。ずいぶんはしょってしまったけれど、以上のことくらいでも見えていれば、原作はもっともっと愉しめると思います。とくにアリスが裁判に臨んで、これを一撃で壊してしまうという締め方が重要です。

 さて、明けましてアリスのお次は『鏡の国のアリス』です。物語の中では『不思議の国』の半年後という設定になっているので、アリス自身は7歳半になる。『鏡の国のアリス』の原題は“there”が入っているところがツボで、“Through the Looking Glass, and What Alice Found There”なのですね。日本でこれを『鏡の国』としたのは傑作でした。では、どうぞ。

【鏡の国のアリス】

 ♥話イ。ガイ・フォークスの日の前日、暖炉の前で糸を繰っていたアリスは、子猫のキティが毛糸玉を解いてしまったのを叱っているうちに、キティを相手に空想ごっこを始めます。そのうち鏡の中の世界をあれこれ空想していると、アリスは実際に鏡を通り抜けてその中に入ってしまいます。

 ♥話ロ。鏡の中の暖炉の前では、チェスの駒がまるで意志をもって動きまわっているようです。でも駒たちからはアリスが見えなかったので、アリスは王様の駒をひょいと持ち上げたりして、チェスの人物たちを驚かせます。それから本を開いてみると、なにもかも同じに見える。よく見ると鏡文字です。そこには逆向きの文字による「ジャバウォックの詩」が印刷されていたので、アリスは鏡に映して読んでみます。ああ、これなら大丈夫とアリスは戸外に出ていきます。そこは「鏡の国」でした。

 ♠その20。ガイ・フォークスというのは、大きな松明(たいまつ)を焚いて、巨大なハリボテ人形を燃やして祝う11月5日の祭りのこと。♠その21。鏡文字になっている「ジャバウォックの詩」(Jabberwocky)はキャロルが二つのアリス物語の中で提示した詩のなかでもとくに有名なもので、これまで多くの解釈がなされています。ぼくは高橋康也さんのアクロバティックな日本語によるものが気にいっています。冒頭の一節はこんなふうです。「そはゆうとろどき ぬらやかなるトーヴたち まんまにてぐるてんしつつ ぎりねんす げにも よわれなるボロームのむれ うなくさめくは えをなれたるラースか」。

鏡文字の詩「ジャバウォックの詩」

 子猫を相手の空想ごっこから話が始まるところが、この物語の狙いです。正確には「つもりごっこ」というもので、何かになるつもり、何かになったつもり、だからこうしたつもり、でもこういう変更をしたつもり、というふうに進む遊びです。
 そもそも、文明というものはこの「つもり」で進んできたのですが、文化というものはそれを「ごっこ」にしてきたのです。ぼくはそこに世界共通の子供遊びがあると見て、それを「ごっこ遊び」「しりとり」「宝さがし」というふうに分けました。『知の編集工学』(朝日文庫)に説明してあります。

 ♥話ハ。アリスは丘に上がりたいのに、道のほうが何度もアリスを家の前に戻してしまいます。そのうち花壇に喋る花が植えられているので、オニユリやバラやスミレなどと言葉を交わします。そこへアリスくらいの背丈になった赤の女王が通りかかったので、アリスは逆の方向に進んで女王に追いついた。
 やっと丘に着いたら、そこは小川と垣根でチェス盤のように区切られた景色になっています。そうか、この世界はチェスのゲームのようになっているんだわ。赤の女王の助言でアリスも駒になってゲームに参加することにします。

 ♥話ニ。白のポーン(歩)になったアリスは、最初の1手で2枡を進むのだけど、そのため自分でも知らないうちに列車に乗りこんでいます。紙の紳士、ヤギ、カブトムシ、それにひっきりなしにダジャレを言う声たちとの相席です。ダジャレの声は巨きな蚊でした。
 いつのまにか列車を降りていたアリスは巨大蚊と二人きりになって、いろいろな鏡の国の昆虫を紹介されます。そのあと一人になって、「名なしの森」に入っていった。ここは名前がわからなくなる森です。子ジカと道連れになったものの、アリスが人間だということを思い出したため、子ジカは逃げていってしまいます。

(左)知らないうちにアリスは列車に乗り込んでしまう
(右)「名なしの森」

 ♠その22。アリスが言葉を交わす花の中のバラ(ローズ)とスミレ(ヴァイオレット)はアリス・リデルの下の妹のローダとヴィオレッタの名前の暗号のようです。♠その23。赤の女王はリデル姉妹の家庭教師ブリケットをモデルにしたと言われていますが、だとしたらハイジの家庭教師ロッテンマイヤーみたいだったのでしょう。♠その24。キャロルのみならず、当時のイギリス人はチェスが大好きです。8×8の枡目の盤上で、キング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーンが駒を取り合います。

 およそ見当がつくように、『鏡の国のアリス』でのアリスの行動はチェスのルールの上にあります。キャロルもそのことを説明するために棋譜(スコア)を掲載した。それによるとアリスは白のポーンで、初期位置は白側から見て左から4列目、下から2列目のところで赤の女王と出会っていることになります。次の手でルールにしたがって2桝ぶん進むのですが、これをキャロルは列車に乗るというふうにアレンジした。
 そこからいろいろなキャラクターに出会いながら、1手ずつ話が進み、8枡目に至っていよいよクイーン(女王)にプロモート(昇進)して、11手目で赤の女王を知って勝つというふうになるといのうが、大きな流れです。
 初期の本ではこの棋譜と駒の位置とキャラクターの一覧表が掲載されていたのですが、かえって読者が混乱するという配慮で、1896年の版からは削除されました。そのかわりにキャロルの序文が掲載されたのですが、そこでキャロルが弁明しているように、話のほうは厳密なチェスのルールには即していません。勝手にインタースコアするようにしてしまうのです。守られているのは白と赤の駒が必ず一対になるということで、これが「鏡の世界」の反映になっているわけです。
 丘に上がりたいのに道のほうがアリスを元に元に戻してしまうというのも卓抜です。まさにOSが問題になっているのです。

♥話ホ。アリスはトゥイードルダムとトゥイードルディーに出会います。これは『マザーグース』に出てくる双子の登場キャラです。かれらはアリスに眠りこけている赤の王様を見せて、「いま王様はアリスの夢を見ているが、もし王様が夢からさめたらアリスは消えてしまうよ」というようなことを言うのですが、アリスはそれは王様の夢の中の人物にすぎないのだと反論する。でも、アリスは私が本物だと証明できていないような気もして泣いてしまう。そこに『マザーグース』の歌の通りに壊れたガラガラをめぐって突然に決闘の準備が始まります。そうすると歌の通りに、飛んできた大きなカラスに怖がって逃げていったのです。

トゥイードルダムが怒り出す場面

 ♠その25。ところで、宮沢賢治(900夜)の『注文の多い料理店』の広告ビラは次のようになっています。「イーハトブは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考ヘられる。実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもって実在した、ドリームランドとしての日本岩手県である」。ここにアリスの鏡の国が出てきます。宮沢賢治の研究者であった天沢退二郎は、『銀河鉄道の夜』でジョバンニが汽車で乗り合わせた光景も、おそらく『鏡の国』の影響を受けていたろうと推測しています。ジョバンニは彷徨するアリスの少年版だというのです。♠その26。トゥイードルダムとトゥイードルディーはテニエルの挿絵でわかるように、そっくりさん。キャロルはこの二人のそっくりさんの一方を入口に、他方を出口にしたかったのです。

 すでに述べたように、ぼくは「名なしの森」にはたいへん感心してしまいました。なるほど、これがルイス・キャロルの真骨頂だと膝を打った。
 いったいネーミングとは何か。名指しとは何か。これはとんでもなく重大な問題です。ぼくは『わたしが情報について語るなら』(ポプラ社)という本で、小学生のために「情報と名前の関係」についての説明を試みたことがありますが、これはなかなかのものでした。
 ヨーロッパの哲学の歴史には唯名論(ノミナリズム)論争というものがあって、「バラ」や「ネコ」はそのままあるのだという実在論と、「バラ」や「ネコ」は名辞にすぎないという唯名論が対立してきたのです。とくに唯名論では「オッカムの剃刀」が君臨していて、むだな概念や余計な名前を剃刀で減らそうとしました。しかし、これがなかなかうまくいかないのですね。アリスは「鏡の国」でこのネーミングについての難問たちを体験するのですから、たいしたものです。
 トゥイードルダムとトゥイードルディーに投げかけられた「王様がアリスの夢を見ている」問題も、けっこうな難問です。すでに荘子(726夜)が「胡蝶の夢」の譬え話をもって、「私が蝶の夢を見ているのか、蝶が私の夢を見ているのか」と問うていましたが、いまなおこの関係にひそむ本来の命題を指摘できている“お題”は提起されていません。

 ♥話ヘ。大きなカラスが羽ばたいたので、女王のショールが飛んできます。アリスが白の女王の身だしなみを整えてあげると、女王は「自分は時間を逆向きに生きてきたから未来のことを記憶しているのだ」と言います。けれども二人で一緒に小川を越えると、女王は不意にヒツジに姿を変え、それを合図にあたりは突然に雑貨店の店内になってしまったのです。そのお店ではアリスが棚にあるものを見ようとすると、決まってそこだけカラッポになってしまうのです。
 ♥話ト。アリスが気が付くと、いつのまにかヒツジをボートに乗せていました。ヒツジに言われるままにボートを漕いだり、花を摘んだりしていたはずなのですが、気がつくと、アリスはまたまた知らないうちに変な雑貨店に戻ってきています。それならアリスは卵を買おうと思います。

 ♠その27。ハンプティ・ダンプティ(Humpty Dumpty)も『マザーグース』に登場するキャラです。ハンプティ・ダンプティが塀から落ちて元に戻らなくなるという歌で、謎掛け歌になっている。♠その28。アントナン・アルトーはアンリ・バリゾーに勧められて第6章「ハンプティ・ダンプティ」を訳したのですが、「ジャバウォックの詩」についてはあまりにも表層的だと酷評しました。ジル・ドゥルーズ(1082夜)はこのアルトーの訳は「深層のナンセンス」に属する精神分裂病患者の言葉になっていると指摘して、「表層のナンセンス」との差異を論じたものです。

 雑貨店の話にも脱帽です。棚の上の何かの品物を見ようとすると、それが「カラッポ」になるというのは大変なアイデイアです。視野欠損や認知症のことなんかじゃない。われわれがもっている根本の認知問題です。
 たしかに、われわれは何かを知覚しようとすると、その知覚を支えている根底の乗り物や椅子を見はずしてしまうことがあるのです。なにものにも「席」や「場」があるのに、それを見ないのですね。しかしこれは逆の問題として考えることもできる。われわれの認知や思考というものは、そのように「空欄」を想定することによって前に進むのだとも言えるのです。
 ぼくはこの見方を活用してイシス編集学校における「伏せて、あける」という編集方法を、伏せたほうが開いていくという編集術として導いたものでした。『インタースコア』(春秋社)を読んでみてください。

 ハンプティ・ダンプティはやたらに人気のあるキャラクターですが、日本語でいえば「ずんぐりむっくり君」というところ。ぐるっと体にまわっている模様がベルトだかネクタイだかわからない妙ちきりんな輩です。
 しかもこのハンプティ・ダンプティは生意気なことを言う。「ある言葉を使うときは、自分が選んだことだけを意味しているのであって、それ以上でもそれ以外でもない」。これはソシュールが言語学原理で言ったことにいちゃもんをつけているようなところがあって、そのため言語学者たちはしばしばハンプティ・ダンプティを持ち出すのですが、ぼくが読んできたかぎり、ろくな議論にはなっていません。
 ハンプティ・ダンプティから学ぶべきことは、そういうふうに自慢したとたん、こいつは塀からどすんと落っこちるということです。

『インタースコア』松岡正剛&イシス編集学校著

 ♥話リ。何かが落ちる音がしたとたん、森の奥から白の王様の大軍団があらわれました。アリスと白の王は、使者のヘイヤからの知らせを受けて、もう一人の使者ハッタが待つという町に向かいます。そこではライオンとユニコーンが王冠をめぐって争っている。ライオンとユニコーンはこれまた『マザーグース』の歌どおりに、町中を追いかけまわったあとプラムケーキを注文して、アリスがその切る役を仰せつかると、大きな太鼓の音が鳴ります。アリスは音から逃れるように次の枡目に進みます。

アリスがケーキを切る役を仰せつかる

 ♥話ヌ。音がやむと、アリスのもとに赤のナイト(騎士)と白のナイトがやってきて、アリスをめぐって決闘を始めました。勝った白のナイトはアリスを次の枡目まで送り届けると申し出ます。ナイトは自分が発明した上下がさかさまの小箱や円錐の形をした兜といった変な発明を次々に披露しながら、森のはずれまでアリスを送り、そこで長い歌をプレゼントすると、二人は別れました。

 ♠その29。ライオンとユニコーンの喧嘩は、この物語に「伝説の時間」を注入します。この話の中では伝説の空想動物ユニコーンが実際の子供のことを知らないというのが味噌です。それがアリスに出会ったのだから、話が謎掛けで進めるのですね。♠その30。白のナイトがぺちゃくちゃ自慢する発明品は「髪が抜け落ちないようにする棒」「逆さまに箱を置くための蓋」といったくだらないものばかりで、ジョナサン・スウィフト(324夜)の科学技術社会に対する愚弄を思い起こさせますが、ルイス・キャロルとしては科学機械の奥に数学があることを言いたかったかもしれません。

 話はそろそろ終盤です。つまりチェスのゲームがだんだん大詰めに近づいているのです。アリスは枡目を少しずつ進んでいるのです。でも、まだアリスが勝てるかどうかはわからない。
 白のナイトが歌いながら森のはずれまでアリスを送るのは浄瑠璃ふうにいえば「道行」(みちゆき)です。アリスはナイトに向かって別れを惜しむようにハンカチを振るのですが、そこはドライなアリスなので相手の姿が見えなくなると、小川をぴょんと跳び越えた。そのとき頭に何かがのっかっているのを感じた。それは王冠でした。つまりアリスはここで相手の女王の枡目に入るところまで来たということなのです。「道行」とはいえ、まことに乾いたものです。

 ♥話ル。こうして次の枡目に入ったアリスは、自分の頭に王冠がのっていることに気づきます。これはアリスが女王になれたということです。するとアリスの両側に赤の女王と白の女王が坐っていて、二人はアリスに女王の資格があるかどうかを問う。その問いというのが「犬から骨を引くと答えは何か」といったへんてこなものです。

 ♥話ヲ。二人の女王が疲れて眠ってしまうと、突如としてアーチがあらわれて、アリスがそれをくぐるとアリスのためのディナーパーティが始まった。けれども運ばれてきた料理は、どれもこれも説明がすむとそのまま下げられていく。アリスは何も食べられません。それでアリスがスピーチをしようとすると、食器も女王たちも悪夢のように変形していくのです。あたりは大混乱。癇癪をおこしたアリスはテーブルクロスを一気に引っ張って、なにもかもをめちゃくちゃにしてしまい、小さくなった赤の女王を掴まえてしまいます。

 ♥話ワ。小さくなった赤の女王を両手でゆさぶると、その姿はなんと子猫のキティです。アリスはどうやら夢を見ていたらしく、子猫たちにあれこれ聞いてみるのです。さあ、はたしてこの夢は自分の夢だったのかどうか、それとも赤の女王の夢だったのかはわかりません。アリスは自問自答するばかり‥‥。

 これで『鏡の国のアリス』はおしまい。チェックメイトです。アリスは女王になって、鏡の国から脱出したのです。
 総じて、アリスには「へんてこ」と「不条理」に向かう勇気と決断が満ちていました。ぼくが大好きな少女の性向です。不条理だけに文句を言うのではなく、おかしなことが大好きなところが大事です。
 その一方、アリスには「懲罰コンプレックス」とでもいうものもあって、何かに懲らしめられるのが嫌いなんですね。これはいまなお多くの女性諸姉の性向であるようで、キャロルはこのへんもよく見抜いている。女性たちは叱られるのが嫌なんですが、キャロルはそこをちょっぴり窘(たしな)めています。
 だからといって、『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』は少女論でも女性論でもありません。ぼくが思うに、これは「理解のアルゴリズム」と「察知のアルゴリズム」の鮮やかなインタースコアです。理解(「わかったわ」)と察知(「きっとこうなんだわ」)が交互にあらわれているのです。しかも、そのインタースコアになっていくきわどいインターフェースやフィルターを、実に巧みに言葉化し、視覚化しています。
 こういう作品は、めったにありません。あるとすれば古今東西の歌でしょう。ソネットやシャンソン、端唄や小唄やポップスがそうなっている。あるいは俳句です。出来のいい歌は、いろいろ矛盾に富んでいるのです。なぜなら、歌や詩は「説明ができない暗示」でできているからです。だからキャロルは『マザーグース』などを多用したのです。
 年の初めのためしとて、門松ひっくりかえして門ごとに、祝うこの世のめでたさよ‥‥。

⊕ 『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』 ⊕

 ∈ 著者:ルイス・キャロル
 ∈ 訳者:大塚信一
 ∈ 発行者:井上伸一郎
 ∈ 発行所:株式会社角川書店
 ∈ 印刷:旭印刷
 ∈ 挿絵:ジョン・テニエル
 ∈ 装幀:都甲玲子
 ⊂ 1999年2月25日発行

⊗目次情報⊗

 『不思議の国のアリス』
 ∈ 第1章 ウサギの穴に落ちて
 ∈ 第2章 涙の池
 ∈ 第3章 党大会レースと長い尾話
 ∈ 第4章 ウサギのお使い、小さなビル
 ∈ 第5章 青虫が教えてくれたこと
 ∈ 第6章 ブタとコショウ
 ∈ 第7章 おかしなお茶会
 ∈ 第8章 女王陛下のクロッケー場
 ∈ 第9章 海ガメもどきの話
 ∈ 第10章 ロブスターのおどり
 ∈ 第11章 タルトをぬすんだのはだれ?
 ∈ 第12章 アリスの証言
 ∈∈ 訳者あとがき

 『鏡の国のアリス』
 ∈ 第1章 鏡の家
 ∈ 第2章 しゃべる花々のお庭
 ∈ 第3章 鏡の国の虫
 ∈ 第4章 トゥィードルダムとトゥィードルディー
 ∈ 第5章 ウールと水
 ∈ 第6章 ハンプティ・ダンプティ
 ∈ 第7章 ライオンとユニコーン
 ∈ 第8章 「これは、せっしゃの発明でござる」
 ∈ 第9章 女王アリス
 ∈ 第10章 ゆさぶって
 ∈ 第11章 目が覚めて
 ∈ 第12章 夢を見たのはどっち?
 ∈∈ 訳者あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

ルイス・キャロル(Lewis Carroll)
1832‐1898。イングランド北西部チェシャー州出身。本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドッドソン。数学者であり、作家。母校オックスフォード大学で数学講師を務めていた際、学寮長リドルの次女アリスのために書き下ろした物語が、『不思議の国のアリス』(1865年)の原型となる。