才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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水族館の歴史

海が室内にやってきた

ベアント・ブルンナー

白水社 2013

Bernd Brunner
The Ocean at Home 2011
[訳]山川純子
編集:金子ちひろ
装幀:細野綾子

フィリップ・ゴスのアクアリウム。
世界最初の「ガラスの海の劇場」だ。
最も小さな「部屋に入ったノアの箱舟」だった。
海はミニチュアになったのである。
そして池も「室内水性劇場」になったのである。
水族館は、われわれの出所してきた原郷を示している。
その多様な環境がいかに壊れやすいかも示す。
インナーアクア・オデッセイはまだ執筆半ばだ。

 葛西臨海水族園の巨大水槽で、クロマグロやスマやハガツオが大量に死んだ。脾臓で悪さをしたウィルスのせいだろうと言われているが、まだ原因は判明していない。水槽内での異常遊泳が認められ、次々にマグロたちが沈んでいき、そしてアガサ・クリスティのミステリーのようにみんな消えていった。空っぽに近くなった水槽の前で親子連れが立ち止まっているニュース映像は、なんとも淋しいものだった。
 水族館は妙なところだ。暗いのに生き生きしているし、生態系の一部が切り取られているのに、空気が妖しい。秘密めいているのに、なんだか公平だ。
 ぼくが最初に水族館に行ったのは両親と妹とで訪れた鳥羽水族館だった。ここは昭和30年(1955)に開館した私営の水族館で、暗い部屋や通路によく目を凝らさないと見えてこない魚やタコや貝やサンゴたちが箱詰めにされている光景は、正直いって少々不気味だった。そのころ夢中になっていたジュール・ヴェルヌ(389夜)の海底旅行の数場面を想わせもしたけれど“そこ”が古いものなのか、未来の何かに属しているのか、わからなかった。すでにペンギンやアシカたちもいて、その曲芸リフレインな高速遊泳の姿は、ぬるぬるの軟体ノーチラス号のようだった。

 それでも、水族館、けっこう好きになった。場末の観光地の汚れた水族館も、サンフランシスコやモントレーの巨大水族館も、印象は同じだった。ところがある時期から、ぼくは奇妙奇天烈な「謎掛け」にはまってしまってもいた。ひとえに末広恭雄センセイのせいだ。
 このセンセイは昭和天皇の皇太子時代に生物や魚類の御進講をしたセンセイで、昭和を代表するサカナ博士である。山田耕筰の弟子で、いろいろ作曲もする。東大の農学部水産学科を退官してからは京急グループの「油壷マリンパーク」という水族館の館長となり、その大胆な演出ぶりで「サーカス水族館長」の異名をとった。
 そこまではいいのだが、センセイはたいへん著書が多く、その本を読むたびに確実に末広センセイの魔法にかかってしまうのだった。
 だいたいセンセイの著書のタイトルがおかしい。『魚くさくない魚の話』『尾鰭をつけない魚の話』『魚学:人と較べてみた魚』『目から鱗の落ちる話』というふうに、人を食ったような凝りようで、それだけでも変な魔法にかかりそうなのに、そのエッセイひとつずつのヘッドラインがもっと「謎掛け」めいたものになっている。
 たとえば『とっておきの魚の話』(新潮社)なら、「魚の目に涙」「音と魚のノイローゼ」「魚はなぜ群れるか」「魚に電話をかける」「イワシの右きき」「カレイの寄り目」「魚が木にのぼる」というふうで、これでは気になって仕方がない。『目から鱗の落ちる話』(柏書房)なら、「タイにあやかりたい魚」「そうめんを食べるコイ」「ウナギは泥より生ず」「サバを読む」「胃潰瘍のタラ」「カツオのデスマスク」「すべての魚は近視である」「絶対音感をもつ魚」「トビウオは羽ばたかない」というぐあいだ。
 こんな謎を掛けられていれば水族館に行くたびに、イワシの右ききが気になるし、コイにそうめんを食べさせたくなるし、魚の絶対音感を試したくなる。「サバを読む」なんて、ほとんど書いてあることを暗記したほどだった。

 というわけで、ぼくは末広マジックにかかった半掛け状態のまま暗闇できらきらしている棲息者たちの謎を確かめるため水族館に行くことが多かったのだが、そんなマジックがやっと薄れていたころ、今度は佐藤魚水さんの本と付き合い、またまた似たような「謎掛け」の追い打ちをくらっていた。
 この人は本名が高橋哲夫、30年近く水産試験場で研究をして、千葉県の栽培漁業センターの所長を最後に執筆活動に入った。やはりのことに「謎掛け」が好きで、最新の本のタイトルも『ヒラメは、なぜ立って泳がないか』(晶文社)というのだ。そう言われても答えに詰まる。
 それで読んでみると、ヒラメは孵化して25日くらいは左右に目があって立って泳いでいるのだが、それから少しずつ少しずつ右の目が動いて左の方に移っていって、30日くらいすると泳ぎも平らになり、そのまま表と裏をもった平面魚になるという。なぜこんなことがおこるかというと、甲状腺ホルモンのサイロキシンがはたらき、ヒラメを海底泳ぎが得意になれるようにしているらしい。
 ま、これはこれでよしとして他のページを読むと「エビでタイは釣れるのか」「キンメダイの目はなぜ金色か」「川のサケの味はなぜ落ちるのか」と、困るようなことばかりが書いてある。うるさいほどなので、ぼくはついに謎を忘れて水族館に行くようになったのである。

(上)ヒラメの孵化15日目頃の仔魚
   右側に右目にあるが、後に左側(向こう側)へ移る。
(下)口を開けたヒラメ
   口を開けると立って泳いでいた時の面影がある。

 枕の話が長くなった。ベアント・ブルンナーの本を紹介する。本書は『水族館の歴史』となっているが、ドイツ語の原題が“Wie das Meer nach Haus kam”で、英訳題も“The Ocean at Home”とあるように、海の生物たちはどのようにして“室内で”見られるようになったのかという歴史をめぐった。
 水族館の変遷史というより、アクアリウム(aquarium)がどのようにつくられてきたかという本だ。カラーとモノクロの図版も瀟洒にけっこう載っていて、手元に置いておきたくなる一冊になっている。中身はそのアクアリウムについて誰がどんな工夫をしたのかということと、それを誰が書物の中で紹介してきたのか、この歴史がなかったら水族館の歴史もなかっただろうというふうになっている。

 古代中世の王侯貴族が城郭や大邸宅の一隅に設えたものをべつにすると、動物園の原型はフランス革命後のメナジェリーにあった。檻に入れた動物をそのまま展示した。
 その後、1828年にロンドン動物園が建てられ、各地にズーロジカル・ガーデンが普及した。それが檻に閉じ込めるメナジェリーではなく、動物たちを野生っぽく見せるようになったのは、ドイツのサーカス王カール・ハーゲンベックがハンブルクにつくった動物園が最初だった。
 これにくらべると水族館は内気な魚を相手にするぶん、だいぶん扱いが違っている。ふつうの魚なら港町に行けば漁師が水揚げしているので珍しくもなく、それなのに魚介類を特別に展示したくなったのは深海の生物が続々発見され、そのことがニュースになってからのことだった。
 1841年にエドワード・フォーブスが英国海軍の調査船ビーコン号で420メートルの深海に潜った。ついで1866年に潜水艦技師ヴィルヘルム・バウアーが浮き袋の原理を活用したプロペラ型潜水基地で深海の生物に陽の目を当てた。この2つのニュースをもって嚆矢とする。
 かくていまや伝説となっていることだが、チャールズ・ワイヴィル・トムソン卿が英国海軍の帆船チャレンジャー号に乗り込んで、世界363カ所の海域の調査をして、その成果を実に38巻におよぶ大部の本にしたことが、世界に水族館が生まれるトリガーとなったのだった。
 トムソン卿のチャレンジャー号は本にも影響を与えた。ヨハネス・ヴァルターの『海洋学概説』、レオン・ソンレルの『海の底』、ジュール・ミシュレ(78夜)の『海』、ヴィクトル・ユゴー(962夜)の『海に働く人びと』、ジュール・ヴェルヌの『海底2万里』が、ここから生まれた。

ドイツの潜水艦技師ヴィルヘルム・バウアーが1866年に考案した
灯台つき潜水基地

 こうしたパビリオン型の水族館の発端に対して、アクアリウムのほうはもっと以前から試されてきた。魚を水槽に入れて愉しむミニアクアリウムの先蹤は10世紀に始まっていた。そのきっかけは中国の金魚飼育だったろう。
 ヨーロッパでは、かの「ヴンダーカンマー」(驚異の部屋)の延長にアクアリウムが組み込まれていった。最初はルネサンスの部屋に乾燥したサンゴやヒトデが飾られ、珍妙なタツノオトシゴが陳列台の脇から出現し、ロココな貴婦人たちの卓上の小箱に美しい貝殻がキラキラした顔を覗かせたのである。レヴィヌス・ヴィンセントの『自然の驚異劇場』(1706)が紹介している。
 だが、これはまだ博物学趣味でもあって、生きた魚や貝を鑑賞したいというものではなかった。レオンハルト・バルトナーの『鳥・魚・動物の本』(1666)に描かれていたものたちは、とうてい身近で見られるものではなかった。それでも、1720年代にはオランダの貝殻収集家6人が月に一度の自慢会「ネプチューンのキャビネット」を催した。のちの貝殻学協会だ。こうした貝殻収集熱をコンチリオマニー(conchyliomanie)という。
 そこへ中国の金魚とその情報が届いてきた。かなりの刺激になった。1770年代にはイタリアや南フランスで金魚の養殖が成功し、金魚鉢を室内に飾る者がふえてきた。ついでスコットランドの生物学者ジョン・ディエルがついに海の魚を飼いはじめると、ヨハン・マテウス・ベヒシュタインの記念的大著『室内で飼われる動物の自然史』(1797)がドイツのゴータで刊行された。貝殻と金魚とベヒシュタインの魚がアクアリウムの端緒を開いたのだ。

レヴィヌス・ヴィンセントのサンゴ棚

蒐集への情熱(トランプのデザイン)
左から右に、貝類学、昆虫学、魚類学、鳥類学と書かれている。

(左)「金魚鉢を持つ女」(1839年頃)
   1800年代端絵の浮世絵には、粋な花魁がまるい小瓶に入れた金
   魚に見入っている様子が描かれている。
   渓斎英泉(1790-1848)の浮世絵
(右)フランスのルイ15世の公妾であったポンパドォール夫人に
   贈られたものと同種の金魚
   1691年、イギリスに初めて持ち込まれた。1750年まで時代が下
   がってもなお、フランス東インド会社からポンパドォール夫人の
   もとに贈られた金魚がたいへんな興奮を巻き起こした。

ヨハン・マテウス・ベヒシュタイン著『室内で飼われる動物の自然史』
(1797年)の扉ページ

 19世紀はアクアリウムの工夫と魚類趣味が一挙に拡大していった。起爆剤になったのはディエルの大著だが、とくにフランスのジャネット・ポウェルがその影響のもと、1830年頃にシチリア島メッシーナで貴重な海洋生物を収集して持ち帰ったことが大きかった。
 のちにポウェル式ケージと呼ばれる魚介類を生きたまま運ぶ装置も、このとき彼女が考案した。大英博物館の館長になったリチャード・オーウェンは「アクアリウムの発明者はポウェルだ」と言った。
 アクアリウムが普及するにはまだまだ数々の工夫が必要だったようだ。イギリスの外科医のナサニエル・ウォードは、シダのような繊細な植物をガラス容器で繁らせるには気密性と有害物質を除去するための装置が必要なことを説いて、いわゆるミニチュアガーデンの可能性を示した。フランスの動物学者のフェリクス・デュジャルダンは海水を入れたアクアリウムの活性力をあれこれ試し、海洋生物学のアンナ・シンはイングランド南海岸からロンドンの自宅までイシサンゴを持ち運ぶのに粘土製の容器に海水を入れて成功した。
 こうしたことが次々に組み合わさって、レベッカ・ストットのいわゆる「ガラス張りの海水劇場」がじょじょに実現されていったのだった。

(左)ジャネット・ポウェルが考案したポウェル式ケージ
   ポウェル式ケージにおもりをつけ、海に沈めた。特別なしかけを
   使い、これらの箱やガラス容器を水から引き挙げて、観察しやす
   くした。
(右)植物用ウォード式ケース

 近代アクアリウムを決定付けたのは、なんといってもフィリップ・ヘンリー・ゴス(Philip Henry Gosse)である。ゴスはアクアリウムの神様だ。『博物学者によるデヴォンシャー海岸そぞろ歩き』(1853)、『アクアリウム:明らかになった深海の神秘』(1854)が群を抜いている。
 ゴスはイングランド海岸のウスターの流浪画家の息子として生まれ、青年期にニューファンドランドに渡ってアザラシやタラの群に出会って目覚め、その後は顕微鏡に凝って昆虫採集にのめりこみ、捕まえた昆虫のすべての記録をモーラするというような人物だ。
 教師をしているときに『動物学入門』という本の執筆を依頼されると、これをきっかけにさまざまな本を書くようになった。とくに太平洋と北極海をくまなく探検したジェームズ・クラーク・ロス卿を知ってからは『海』(1844)の執筆に傾注し、名を馳せた。この噂を聞きこんだ資産家のコンチリオマニーが、貝を集めてくることを条件に旅費を負担し、ジャマイカに行くことになった。このときに書いた3冊はその後のジャマイカ案内の決定版になったようである。
 こうしてすばらしい一冊『アクアリウム』が上梓された。本書に幾つもの図版が載っている。ぼくは大英博物館の裏の古本屋街でこの古書を発見したが、とても手が出るような値段ではなかった。残念ながら、ゴスが書いた本は『海賊の世界史』2冊組(中公文庫に入っている)しか読んでいない。

フィリップ・ヘンリー・ゴス
イギリスの自然学者、科学作家。聖書の天地創造説と地質学の斉一説を融合させようと試みた。ガラスの水槽で海の生物と水生植物を観察する装置を自覚的にアクアリウム(aquarium)と呼んだ最初の人物。

(上右)ヒダベリイソギンチャク
   ゴス『アクアリウム』(1854年)より
(上左)甘エビの仲間イソップ・シュリンプ
   ゴス『アクアリウム』(1854年)より
(下)ベラの絵
   ゴス『アクアリウム』扉ページより

 ゴスが作ったアクアリウムは四角いガラスの水槽で、縦61センチ、横30センチだった。カバ材の玉縁にくっつけたパテによってガラスを固定した。底板は石板になっていて、そこに粘土・砂利・砂を何層にも敷きつめ、海藻などの水性植物を植え、岩を組み入れた。76リットルの海水を入れた。
 最初にこの「ノアの最小箱舟」に入居したのは、トゲウオ1匹、ボラ7匹、ハゼ1匹、シッタカ3匹、それにナミマガシワ(平らな貝)1、セルガイ2、ホヤ2、ヤドカリ2、スナエビ4、クルマエビ1、ハナギンチャク3、イソギンチャク2などだった。まことにすばらしい。水槽の上に吊るしたお手製容器から毎日12リットルの海水が滴下するように工夫もしたようだが、この案配がそれなりの生物環境を満たすようになるには、かなり苦労もしたようだ。
 『アクアリウム』には美しい細密版画とともに、この「ボス・アクアリウム」の作り方や「ミニチュアの海」を作るための指南がいろいろ書いてある。とくに水槽内に酸素を供給するためにどのように植物を選んで入れておくか、かなり克明な指南をした。それとともにボスは自然とかかわるにはそうとうの畏敬をもつべきだとも書いた。
 畏敬を強調したのはアクアリウムも自然の恵みをもらっているんだということでもあるが、ゴスが父親の影響をうけた「オムファロス」(omphalos)の提唱者でもあったからだった。

 オムファロスとは何か。そのころゴスは、当時議論されつつあった『創世記』の実年代をめぐる論争を悲しんでいた。ダーウィンの『種の起源』が「生物は神がつくっていない」というセンセーションを広めつつあったとき、ジェームズ・アッシャー司教が紀元前4004年の天地創造の7日間を想定したことをめぐる論争だ。
 地質学にも詳しかったゴスは、この議論に決着をつけるべく『オムファロス:地質学の結びを解く試み』(1857)を書き、神の恵みと自然界の営みとのあいだに生ずる矛盾を解決しようとしたのである。
 オムファロスとはギリシア語の「臍」を意味する。当時は「アダムとイヴには臍があったのか」といった滑稽かつ深刻な揶揄をもって、神が造化した人間は完全なのか進化的なのかといった論争になっていたのだが、ゴスは神がわれわれを造化されたからといって、胃腸や排泄器官をもたない人間をつくられたわけではないとする立場をとり、その理由として自然と地球そのものが完全な状態ではなくて、すでに「古びた状態」になっていたのだという仮説を導入したのだった。
 この仮説は聖書派からも無神派からも注目されなかったのだが、19世紀末になってバートランド・ラッセルが「最も合理的な神の考古学になっている」と激賞し、いまはあらためてその思考法が注目されている。
 こういうオムファロスな事情があったため、ゴスはアクアリウムの扱いは自然と神との交流をあらわすミニチュアだと考え、アクアリウムの扱いを説いたのだった。

 ゴスのアクアリウムはあっというまに広まっていった。シャーリー・ヒバートは『海水アクアリウムへの手引き』(1855)を、ヘンリー・バトラーは『家族のアクアリウム』(1861)を書き、ヴィクトリア朝の家庭がもはやシダや貝殻では満足できなくなったと綴った。
 ここにオープンしたのがロンドンのウィリアム・ロイドの店だった。リージェントパーク近くに50もの大型水槽ともっといっぱいの小型水槽をずらりと並べると、一挙に15000種類の水性の生きものたちを展観させた。1858年に頒布されたカタログも125ページにのぼるもので、これを見る者の目をまるくさせた。巨大なブランデーグラスの中を泳ぎまわっている「浮かぶ海」の銅版画など、まことにファンタジックだ。

ウィリアム・オルフォード・ロイドのアクアリウム倉庫

「浮かぶ海」型アクアリウム(1859年)

 一方、ゴスの海水アクアリウムを淡水化する試みはドイツで始まった。
 軟体動物研究者のエミール・ロスメスラーはアレクサンダー・フンボルトとも交流のある本格的な動物派で、「ディー・ガルテンラウベ」(暖炉の前で過ごす長い冬の夜のための雑誌)の求めに応じ、ついに淡水アクアリウムを提案した。今度は「ガラスの中の湖」が登場したのだ。ロスメスラーは『淡水アクアリウム:その作り方と維持管理法』を刊行する。
 ここから海水アクアリウム派と淡水アクアリウム派が分かれていった。ラインホルト・ホフマンは海水派で、水槽は海であるべきだという説を主張した。淡水なんてそのへんでも見られるのではないか。それよりも、今後は「海のミニチュア」は間仕切りをつけた何個もの連なりになるべきではないかと主張した。これは今日の水族館の構造を予告した。

エーミール・アドルフ・ロスメスラー
ドイツの軟体動物研究者。幼少時から自然への関心を持ち、後に自然科学研究者として世界各国を講演して歩く。19世紀に大きく発展した自然科学の知識を人々に広めることに貢献した科学者のひとり。

初めて掲載された淡水アクアリウムの絵
19世紀ドイツでよく読まれた雑誌「ディー・ガルテンラウベ」より。ロスメスラーの記事「ガラスの中の湖」とともに掲載された。

fig.1 陳列棚型アクアリウム
fig.2 鳥かごとアクアリウムの組み合わせ
fig.3 噴水のついたサロン型アクアリウム
fig.4 壁掛け型アクアリウム
fig.5 窓型アクアリウム

 淡水派も「川と池のミニチュア」に向かい、「湿地のアクアリウム」ともいうべきパルダリアム(paludarium)を発明した。これはアクアリウムとテラリウム(陸生生物を飼う装置)が合体した水槽で、トカゲやカメとの共生をもたらした。
 カナリアと魚を組み合わせたり、室内噴水と組み合わせるというものも出回った。淡水派は室内をガーデニングする役割も担ったのだ。とはいえ淡水生物はうっかりすると「近所の残骸」になりかねず、いっときは「アルコホラリウム」(alcoholarium)と揶揄されないようなものまで傾斜した。だが、一方では淡水派の機知こそがジオラマ時代に向けて「河川の展示」のムーブメントの機動力にもなっていったのである。

沼の植物を入れた淡水アクアリウム(1890年頃)

イギリス発祥の形式であるチャッツワースのくぼ池型アクアリウム
(1849年)

 本書は近代アメリカでのブーム状況に1章ぶんをあてている。1852年にリヴィング・エイジ誌に「応接間のアクアリウム」という記事が載リ、その2年後にゴスの『アクアリウム』が英訳出版されたのを嚆矢として、アメリカも一気にアクアリウム・ブームに突入したのである。
 露払い役は、ヘンリー・バトラーの『家庭用アクアリウムあるいはアクア・ヴィヴァリウム』とアーサー・エドワーズの『水中の生物あるいはアメリカのアクアリウム』が務めた。
 アメリカは新しいものはつねにそうなっているけれど、アクアリウムもまずは金持ちたちが所有し、ついでは新しいもの好きの西海岸で火がついた。それをアクア・ヴィヴァリウムと呼ぶのもアメリカらしい。アラン・ケイが最初のパソコンをヴィヴァリウムと名付けたことを想わせる。
 その後、ブームを本格的に仕向けていったのはスミソニアン協会の理事だったウィリアム・スティムソン、ティファニーの信用調査部監督のエリザベス・デイモン、ドイツ第2次移民のヒューゴ・マラートのシンシナティでの養魚の大々的展開などによる。とくにマラートは『金魚とその文化』(1883)を著して、アメリカに金魚センセーションをもたらした。あっというまに、アメリカでの1年の金魚出荷が200万匹に達した。
 アンドレアス・ダウムは「ダフネと半神たち、イシスやネプチューン、プロテウスやトリトンといった面々が、花の愛好家、養魚家、青虫収集家らと楽しく交わっていると」と評した。

ヒューゴ・マラート
ドイツのライプツィヒ出身であり、1869年頃にドイツ移民の第二波とともにアメリカへ渡り、シンシナティに移住。アクアリスト及び植物学者として名を馳せる。

(上左)魚を入れて運ぶシンプルな亜鉛の壺型容器(1901年)
(上右)船の揺れの影響を緩和するため、
    吊り下げて使う箱型容器(1901年)
(下左)特注された木製の容器
(下右)空気入れのついた金属製の魚容器

 以降、アクアリウムはしだいに水族館へと、大衆展示システムへと転じていく。その大転換をはかったのは、一人はアメリカの伝説的興行師で、サーカス興行の天才フィニアス・テイラー・バーナム(1810~1891)だ。さすがというしかない。
 もうひとつは人ではない。その後の日本各地の動物園や水族館を見ればわかるように、都市や町村の公共機関によるものだった。町おこしに活用されたのだ。こうしてベルリン、ロンドン、パリ、ボストンに続々と複合施設(ポリラマ)としての水族館が登場していった。ベルリンのものはグロッタ(岩窟)をあしらい、ハンブルクのものは近代建築を装った。
 けれども、その後の水族館がつねにイノベーティブであったかといえば、そんなことはない。ぼくは各地を訪れるとついつい動物園や水族館を覗くクセをもってきたけれど、ずいぶんがっかりもしてきた。小さくたっていいし、サンショウウオだけだっていいのだが、キャプションが均一的すぎた。「海にいる」「池に入る」ということの説明ができていないのだ。われわれは水族館においては、自分自身が海や池に入っていくべきなのに、その水性環境的編集にとって何が必要なのか、展示者たちは長らく見当がつかなかったようなのだ。

ハンブルク水族館の断面図(1865年)

ベルリン水族館の立面図(1869年)

ベルリン水族館の階段のある吹抜け(1869年)

サロン型水族館

 しかしいま、水族館は企画力と編集力を再来させ、新たなブームの中にある。
 日本でも海遊館や鴨川シーワールドや八景島シーパラダイスなど、かなり工夫された壮大なアクアリウムや、「広域の人工海景」ができていて、親子から愛好家までを愉しませているし、その一方では、ぼくもときどきテレビで見ているのだが、水景愛好家たちが鉄道模型さながらに水槽の景色に熱中している。これはたいへん貴重なことだ。そのうち海底水族館や湖底水族館ができていくだろう。

 ひるがえっていえば、アクアリウムの歴史は古代さながらの「未知と珍奇の海」から始まって、しだいに「海洋の神秘のつながり」へ、さらには「1リットルの中の水宇宙」へと向かってきた。いまではそこに水性飼育基礎科学から魚のICU(集中治療室)までがくっついている。
 ぼくは末広センセイの魔法から謎解きに導かれた者であったけれど、その後は実はアイブル=アイベスフェルトの『環礁の王国』(思索社)などを読んで、大いなる衝撃をうけた者でもあった。海底にも動物心理学があったのだ。
 それからというもの、海にかかわる研究者たちにはそうとうの敬意をもつようになった。東海大の海岸学部にもよく通った。いまは西田睦の『海洋の生命史』(東海大学出版会)や日本の海洋生物探検者たちのスピリットを継承する松本亜沙子の『海洋生物学の冒険』(人間と歴史社)などを、こつこつ読んでいる。
 アクアリウムと水族館の奥にひろがる世界はまさに無尽蔵ではある。最初にも書いたように、そこには「とても古いもの」と「未来的なもの」が同居している。だから、ときに不気味であって、ときに人間くさく、ときに模型的であって、ときに想像を絶する”生命海”なのだ。それでも、その根底にあるのはヴィクトル・ユゴー(962夜)が書いたこの一行のファンタジーなのでもあった。ぼくもこの気分、忘れたことがない。「夢は、夜の水族館である」。

⊕ 『水族館の歴史 海が室内にやってきた』 ⊕

 ∈ 著者:ベアント・ブルンナー
 ∈ 訳者:山川 純子
 ∈ 発行者:及川 直志
 ∈ 印刷所:大日本印刷株式会社
 ∈ 発行所:株式会社 白水社
 ⊂ 2013年8月15日発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈ プロローグ ―まずは飛びこんで
 ∈ 最初の種 ―海洋の神秘
 ∈ 第二の種 ―小部屋、陳列棚、ケース
 ∈ 第三の種 ―魚をペットに
 ∈ 「情熱と勤勉」 ―開拓者たち
 ∈ 強くあくなき追求 ―ブームの火つけ役
 ∈ 海水アクアリウムから淡水アクアリウムへ
                 ―ガラスの中の湖
 ∈ アメリカへの上陸 ―アクアリスト協会と博物館
 ∈ 異国の品種とその輸送 ―分かれる考え方
 ∈ 流行の見本市 ―居間用アクアリウムのさまざまな形式
 ∈ 「新種の劇場」 ―大型のアクアリウム
 ∈ アクアリウムからオセアナリウムへ、そしてその先へ
 ∈ 水族館の暗い深層
 ∈∈ エピローグ ―魚たちは、箱のなかで幸せだろうか?
 ∈∈∈ 謝辞
 ∈∈∈ 訳者あとがき
 ∈∈∈ 参考文献
 ∈∈∈ 補遺 ―現在公開されている水族館とオセアナリウム

⊗ 著者略歴 ⊗

ベアント・ブルンナー(Bernd Brunner)
1964年生まれ。ベルリン自由大学、ベルリン経済大学を卒業。現在は客員研究員、フリーランスの文筆家、ノンフィクション作品の編集者。邦訳に、『熊 ─ 人類との「共存」の歴史』、『月 ─ 人との豊かなかかわりの歴史』(以上、白水社)がある。