才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

本は死なない

Amazonキンドル開発者が語る「読書の未来」

ジェイソン・マーコスキー

講談社 2014

Jason Merkoski
Burning the Page: The eBook Revolution and the Future of Reading
[訳]浅川佳秀
装幀:戸倉巌・小酒保子

アマゾンのキンドルを手掛けた男は、
本書を読むかぎりは、かなりの本好きだった。
ぼくは今後も電子リーダーで本を読む気はないが、
キンドルやNookの開発者に続く者たちが、
読書編集力に富んだエンジン開発と
インターフェースを思いつくことには期待をかけたい。
それというのもこの20年、リアル本を手掛ける
出版業界や読書施設に、見るべきイノベーションが
いっこうにおこっていないからだ。
実験的商用書店モデルだった松丸本舗を潰され、
千夜千冊をひたすら続けている者にとって、
これは残念至極なことなのである。

 MITで数学を専攻し、モトローラに入ったときは長期休暇をとって100万ワードのインターネット小説の先駆けのようなものを書いていた1972年生まれのジェイソン・マーコスキー君が、キンドルの開発の一部始終にかかわったのは、次のような事情だったらしい。
 2005年頃、アマゾンとグーグルが書籍のデジタル化に取り組みはじめたという噂を聞いた。そこで両社の求人に応じることにした。どちらの会社も、次々に入ってくる面接官一人ひとりと1時間ずつ話し、それがおわるとまた呼び出されて、ホワイトボードにプログラム・コードを書かされ、自分が理想としたいアーキテクチャの作図をやらされた。汗びっしょりだ。面接はまる1日かかる。しかもかなり厳しい。きっとキツイことを言われただろう応募者が、がっくりしてガードマンに両肩を抱えられるようにして退出していくのも見た。
 アメリカのIT企業の多くはバーレイザー(Bar Raiser)を面接官に交ぜている。意図的にハードな質問を投げて、応募者をどんどこ落とす役である。アマゾンやグーグルがほしいのはどんな苦境にも強いITサムライだけなのだから、やにこい連中を振り落とすのは当然だった。
 マーコスキー君は無事に両社とも合格した。アマゾンを選んだ。グーグルは「すべて」だったが、アマゾンには「そいつ」の狙いがある。極秘裡に進めている「そいつ」の開発プロジェクトをしてみたかった。
 通知を受けると、2週間後にはアマゾン本社のあるシアトルに引っ越さなければならなかった。すぐに社員研修に突入させられ、イニシエーションとしてCEOのジェフ・ベゾスのスピーチ映像をアタマに叩き込む。ジェフのメッセージは一言に集約すれば「君たちは仕事を楽しみ、歴史に残れ」というものだ。ジェフなら言いそうなことだ。これは肝に銘ずることにした。
 配属は希望通り極秘プロジェクトの担当になった。キンドル開発だ。それからは来る日も来る日も世界の書籍の電子化のためのあらゆる工夫を考え、試み、実践するチームのミドルリーダーになった。技術開発も戦略シナリオ作りも対外営業もしなければならない。それができなければたんなる分担員でおわる。
 ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、フランクフルト、日本、インド、イスラエルに飛び、たくさんの出版社を訪れ、各種メディアに電子書籍の有効性を語ることが日課になった。ついでは、電子書籍の変換工程を確立していくこと、その作業を管理することが任された。

 驚くべきことに、また忌まわしいことに、電子書籍が作られる工程はソーセージの製造工程にほぼ近い。製造マシンの片側から入れた魚肉や豚肉が機械的にミンチにされたのち、反対側から1本ずつのソーセージになって出てくるように、電子書籍は原材料となる本がいったん細かく切り分けられて、それが再構成されてデジタルソーセージに生まれ変わるのだ。
 そのような電子書籍はPDFのような「固定型」ではなく、つまり媒体への印刷を前提としたメディアスタイルではなく、端末機の画面や文字の大きさに合わせてレイアウトが調整できる「リフロー型」になっている。この方式だと、文字の拡大縮小に合わせてページ数も自動的に調整されるので、画面をスクロールする必要がない。
 PDFファイルをリフロー型にするために、アマゾンをはじめとするたいていの電子版元は、インド、中国、シエラレオネ、マダガスカル、フィリピンなどに「本の電子ソーセージをつくる変換工場」をもっている。肘がぶつかりあうような工場の中の作業机で、多くの安価な労働力がパソコン画面に並んだ文字をしらみつぶしにチェックして、ページ番号や欄外の注を削除していくのだ。PDFになっていない書籍なら、まさに本を解体して一ページずつをスキャンしながら、マイクロコンテンツを再構成していく。むろん膨大なリアル本たちがずたずたのゴミとなって捨てられる。
 さすがに心優しきマーコスキー君はこの手の工場を飛び回っていて、心が痛んだそうだ。なにしろ倉庫一つぶんほどの巨大な木材粉砕機のような機械が、数秒で本の背表紙を切り取っていくのだ。けれども、彼に絶対機密保持の開発現場への出番がやってくると、だからこそ「すばらしい電子読書」のために全力を尽くそうと念じたそうだ。
 当時、キンドル開発のことは本社の特別チームと、カリフォルニア州クパチーノ(シリコンバレー)にあるLab126という技術集団にしか知らされていなかった。友人はむろん、家族にも秘密だった。
 アマゾンにはもともと「AtoZ」という開発精神がある。AからZまで揃えて、フルメタルジャケットで戦うという方針だ。126というのも、Aという一番目の文字にその後のアルファベット26文字がついていくという意味になっているらしい。そんななかマーコスキー君は晴れてプログラム・マネージャーとなり、アマゾン本社とLab126をつなぐ唯一のキーパーソンになったようだ。よほど優秀だったのである。毎週一度、飛行機でシアトルとクパチーノを行き来する仕事は2年間続いた。

Amazonのロゴ
AからZへ矢印で結ばれている

Lab126のホームページ(Kindle登場当時)

 電子書籍リーダー(電子ブックリーダーともいう)に風穴を開けたのは、実はアマゾンではない。ソニーである。
 すでにEインク(電気泳動インク)はゼロックスによって70年代に開発されていて、その後いったん凍結された技術も20年のちにはEインク社が改良を加えていた。
 だから2003年頃には商用化ができたはずだったのだが、みんな漠然としていた。それに着手したのはソニーの技術者だった。2004年4月にはリブリエが発売された。
 ただソニーはこれを潤沢な資金で保護しなかった(日本の経済技術界もマスメディアも注目しなかった)。そのため高額な電子ブックリーダーとなり、収益をもたらさずに頓挫した。リブリエはのちにソニー・リーダーとして生まれ変わったが、いささか時機を逸した。ソニーの逡巡を突いてアマゾンがキンドルで出し抜いたからだ。

2004年に発売された電子書籍「LIBRIe(リブリエ) EBR-1000EP」
Eインク方式電子ペーパーを採用し、表示色の白黒はコントラストが非常に優れていると評されていた。

 電子書籍リーダー(電子ブックリーダーともいう)に風穴を開けたのは、実はアマゾンではない。ソニーである。
 すでにEインク(電気泳動インク)はゼロックスによって70年代に開発されていて、その後いったん凍結された技術も20年のちにはEインク社が改良を加えていた。だから2003年頃には商用化ができたはずだったのだが、みんな漠然としていた。それに着手したのはソニーの技術者だった。2004年4月にはリブリエが発売された。
 ただソニーはこれを潤沢な資金で保護しなかった(日本の経済技術界もマスメディアも注目しなかった)。そのため高額な電子ブックリーダーとなり、収益をもたらさずに頓挫した。リブリエはのちにソニー・リーダーとして生まれ変わったが、いささか時機を逸した。ソニーの逡巡を突いてアマゾンがキンドルで出し抜いたからだ。

 キンドルの特徴は目の負担が少ないEインクでできている電子ペーパーと、書籍データを保存する低コストのハードドライブにある。とくに目立った技術があるわけではない。電子ペーパーは量子力学的な波形を工夫したもので、酸化チタン粒子が帯電して黒いインクの中に浮かび上がるようになっている。マーコスキー君にもその技術の奥はわからないと言う。
 ハードドライブは昔でいえば粘土板にあたる。テキストの格納装置だ。製造原価が落ちてかなり低価格にはなったが、まだ新たな技術革新には至っていない。ただこのハードドライブを次々にどんどこ集めればデータセンターができ、そこをクラウド化することができる。そうなればクラウド・リーディング時代の到来だ。まだ、そこまでは行っていないけれど、必ずそうなる。だからいまのところ電子書籍システムといっても、たいしたものじゃない。ただ、アマゾンには電子ペーパーとハードドライブでは語れない別のリソースがあった。
 既存技術をすべて点検してアソシエートしていく集中力、10年にわたってあらゆる本を電子化してきた強引な知力、それらをユーザーとオンラインでつないだネットワーク力、数100万冊の本をたちまち配送できる提供力、などなどだ。そしてタフで真摯なスタッフが揃っている。キンドルはこの上に乗ったのだ。
 こうしてお目見えしたキンドルは、かつてのケータイ電話網を下敷きにした高速通信Whispernetを利用することで、パソコンと同期化する必要はなく、端末から直接オンラインストアにアクセスして本を探せた。ソニーと違ってすぐに収益を上げる必要もなかった。だからジェフ・ベゾスは自身で、画面に何行の文字を入れるかをいつまでも大いに考え込めたのだ。

 本書はこれまでの書物の歴史と文化にそれなりの敬意を払いつつも、明瞭にアマゾン流の「Reading2.0」を提唱している。グーテンベルクが「Reading1.0」で、とうていそんなふうには見えないが、キンドルが「Reading2.0」だ。
 むろんキンドルが自慢したいことは、それなりにある。読書履歴が自動的に残る。好きなだけメモを書き足せる。気になった箇所にアンダーラインが引ける。ソーシャル機能によって他人とつながる。とくにクラウド・リーディングが発達すれば、MP3が音楽を収納搬送できるように、どんな本も無尽蔵に収納もでき、搬送もできる。
 しかし現状のキンドルにはさまざまな限界がある。紙に印刷された本の再現性は50パーセント程度だし(ハイファイではなくローファイだし)、カラーリングは初期の4色から16色にふえたが、ディザー処理による中間色の出力はまだお粗末である。バーンズ・アンド・ノーブルのNookのようなデュアルスクリーン(2画面方式)も採用されていない。索引もないし、ハイパーリンクが設定されていないものが多い。
 しかも、まだ150万タイトルだ。そのうちの5万タイトルくらいがボリュームゾーンをつくっているにすぎない。アクセスもやっぱりアダルトものが多い。色数を上げ、精確な画像を要求しているのはエッチなアダルトユーザーばかりなのである。なによりつまらないのは、レイアウトが一様で、部品が本によって特色をあらわしていないということだ。当然、電子書籍には文庫も新書もムックもないということになる。のっぺりだ。これでは十徳ナイフのようなiPadにすら及ばない。
 そのiPadにも足りないのが、読書は身体的で三次元認知に依っているということを、いまだフォローできていないということだ。流し読みができないし、本の背のタイトルやサブタイトルの並びから読感推理をはたらかせることは、できない。

 いったい、これから本はどうなるのか。その可能性と危険性はリアルと電子の両方が背中合わせで問われている。
 リアル(リアル本とリアルリーディングとリアルショッピング)のほうは、出版社、書店、図書館、学校読書が新たな展望をもちえないまま、深刻な苦境を乗り切らなければならなくなっている。その苦境が日本では10年以上も続いてきた。「失われた10年」と言われるが、実際には20年以上続いた。今後はもっともっとヤバくなるのはわかりきっている。
 業界に展望がなさすぎるのだ。制度や機構、流通や経営に問題があるし、編集者の才能、書店員のスキルアップ、司書や教職員の本や読書に対する包容力や戦闘性の欠如などにも問題がありすぎる。
 一方の電子のほう、すなわち電子書籍とデジタルリーディングのほう、まとめていえば「電子読書システム」業界のほうは、アマゾンやグーグルによるリアル本のデジタル化と、ソニーの電子読書端末やそれに続いたキンドルの登場、そしてアップルのiPadで、一挙に新たな競争に突入した。
 まずは電子書籍リーダー(電子読書端末)の開発合戦が一気におこって、ついではネットワーク・リーディング全般の各ゲートで技術開発と切り出しをどうしていくか、すべてが戦闘状態に入っている。そこにスマホの過当競争が加わった。読書業界的にはいまはまだ揺籃期であるが、そのうち力をもつだろうし、サービスも向上するだろう。

独自開発のOSを搭載し、7インチの液晶ディスプレイを備える最新のKindle Fire

 いったい、これから本はどうなるのか。その可能性と危険性はリアルと電子の両方が背中合わせで問われている。
 リアル(リアル本とリアルリーディングとリアルショッピング)のほうは、出版社、書店、図書館、学校読書が新たな展望をもちえないまま、深刻な苦境を乗り切らなければならなくなっている。その苦境が日本では10年以上も続いてきた。「失われた10年」と言われるが、実際には20年以上続いた。今後はもっともっとヤバくなるのはわかりきっている。業界に展望がなさすぎるのだ。制度や機構、流通や経営に問題があるし、編集者の才能、書店員のスキルアップ、司書や教職員の本や読書に対する包容力や戦闘性の欠如などにも問題がありすぎる。
 一方の電子のほう、すなわち電子書籍とデジタルリーディングのほう、まとめていえば電子読書システム業界のほうは、アマゾンやグーグルによるリアル本のデジタル化と、ソニーの電子読書端末やそれに続いたキンドルの登場、そしてアップルのiPadで、一挙に新たな競争に突入した。
 まずは電子書籍リーダー(電子読書端末)の開発合戦が一気におこって、ついではネットワーク・リーディング全般の各ゲートで技術開発と切り出しをどうしていくか、すべてが戦闘状態に入っている。そこにスマホの過当競争が加わった。読書業界的にはいまはまだ揺籃期であるが、そのうち力をもつだろうし、サービスも向上するだろう。

 そんな状況を前にして、リアル本を扱う出版書籍業界の無惨な低迷は、けっこう前から始まっていた。
 すでに80年代後半からPCネットワークや電子ゲームの波及にともなって読書力の低下が目立っていたのだが、そこに本のデジタル化が始まり、電子ブックリーダーが登場して、いよいよおかしくなってきた。町の本屋さんがバタバタと倒れていった。この現象に、千年以上にわたる神聖な書物の殿堂が汚されたと感じた業界人も少なくない。ぼくはボヤキまくっている書店関係者や大学関係者にしょっちょう出会ってきた。けれども、それよりずっと前から出版社・書店・取次、図書館・学校は、読書市場をめぐっての独自のイノベーションをおこそうとはしなかったのである。無策だった。ボヤいている連中ほど、何もしてこなかった。
 日本の場合、80年代に入ってから各自治体が図書館建設やメディアセンターの開設を一斉に進め、各地に大型書店もふえ、見た目には書店も図書館もそこそこきれいにはなったのだが、それは大半が店舗デザイン優先で、なんら「本の力」を高めるものではなかったし、「読書編集力」を育むものではなかった。だいたい本棚設計にろくな工夫がない。これは建築設計者やインテリアデザイナーたちの問題だ。
 そもそも本にかかわるスペシャリストやプロが養成されなかったのである。カリスマ書店員はごく僅かだったし、愉快な本屋、痛烈な本屋、おいしい本屋がほとんど試みられてこなかった。本の価値を作り出しているエディターシップを、アスリートやアーティストのように知らせるべきだったのに、そういうことをいっさいしなかった。

 ぼくが丸善のオギさんとダケヤマさんから、丸善丸の内本店の四階に小さなブックショップ・イン・ショップを任されたのは2009年2月のことである。僅か65坪だった。ぎゅうぎゅう詰めでも6万冊しか入らない。けれども要望に応えて10月には「松丸本舗」を鳴りもの入りでオープンさせた。「本のセレクトショップ」「ブックウェアの誕生」を謳った。
 3年間で新たなモデルとチームを作りたいと言って、和泉佳奈子を中心にかなりの実験を試みた。螺旋状の迷宮的構造を現出させ、棚がヨコにつながるように工夫した。キーブックを選定し、BSE(ブックショップエディター)という本のコンパニオンを導入し、作家や有名人の蔵書棚を造作し、開店当初から「本の相場」を見せる落書きができるようにした。丸善側は反対したが、本の前置きも横積みもした。「男本・女本・間本」といったシーズン特集もしつらえた。美輪明宏がよろこんで見にきた。詳しいことは『松丸本舗主義』(青幻舎)を読んでいただきたい。
 しかし、1ヵ月もたたないうちにダケヤマさんが外され、半年目からは松丸担当の仕入れ係が次々に配転し、オギさんが丸善社長をやめさせられた。そのうち丸善そのものが書店部門とその他部門に分かれ、ジュンク堂のクドーさんがトップに坐った。2年半がたつとその書店部門のクドーさんが松丸を了えたいと言ってきた。これでは何をか言わんやだ。ソニーと同じだ。

『松丸本舗主義』(青幻舎)

2009年10月から2012年9月までの3年間、丸善丸の内本店4階に展開した松丸本舗

松丸本舗シーズン2のテーマは「男本・女本・間本」だった。

 21世紀は「方法の世紀」である。20世紀までは「主題」の時代だった。それなら本というものも、主題にこだわらずに方法に転じていかなければならなかった。これが出版社にも編集者にも、書店にも図書館にも問われる。
 そもそも書物や全集や雑誌は消費財なのである。コモディティなのだ。だったら作りっぱなしでいいわけがない。出版社はコンテンツメーカーではあるけれど、同時にマヨネーズとタコ焼きソースの違いをつくっている欲望産出者なのだ。だったら、あんなわかりにくい書籍広告ばかり打っていて、いいわけがない。
 書店だって、ブティックや薬屋やスニーカーショップと同様の小売業なのである。本がどのようなコモディティであるのか、店舗でどんなショッピングスタイルを用意するのか、サービスは何を試すのか、当然問われるべきだった。書店員の給与も安すぎるし、バイト代はひどすぎる。
 図書館だって、いつまでも旧態依然たる十進分類に依拠していていいはずがない。動物園や水族館がなんとか見せ方を工夫しているのに、そういう涙ぐましい努力をしない。棚分類もおかしいが、せっかく版元が工夫して作ったカバーを外して、鼠色の本の背を押し黙らせたまま並べておいていいはずがない。とくに並製(ソフトカバー)の本はカバーをはがしたら貧弱きわまりない。ぼくは書店で文庫を買うのが大好きなのだが、図書館でカバーを外した文庫が並んでいると、1箱500円の古本屋に来たのかと思ってしまう。
 図書館でもっと問題なのは、司書たちがほとんど本を読まないという実情だ。大学も同断だ。教員たちも研究室にこれ見よがしの専門書を並べるだけで、図書館を利用しない。お笑い草だ。図書館はかつては「神の知」の、ついではリベラルアーツの、いまでは「知のエンタテインメント」の空間なのである。司書や教員たちはアライグマやアシカや深海魚の飼育係を見習ったほうがいい。

 だいたい著者と編集者と書店と図書館員と大学教員がつながっていないのが問題なのである。これでは「国の知」「町の知」「人の知」が切れていく。
 著者や学者や作家たちにも問題がある。「センセイ」と呼ばれてごく僅かなスターライターが書店サイン会に出てくるだけだ。それもベストセラー相手か有名どころの著者ばかりで、難しい本のサイン会なんて、一度も催されたことがない。「難解書籍100人サイン会!」をやるべきだったのだ。売れっ子作家か芸能人ばかりでは、心ある読者層が書店に行くはずがない。
 書評も問題だ。書評をするのはセンセイばかり。ほんとうは、書評はどんな「読者モデル」がその本にありうるのかという、本のコミュニティや本のファッションショーや本の読者モデルの提示であるべきなのに、そういう書評欄はめったに組まれない。その書評センセイの著書にして、書店でも図書館でもまったくガイドされることはない。これでは多くのユーザーのレビューやコメントやリコメンデーションで押し上げられていく電子ネットワークの読書環境のほうが、リアルな書物文化に代わって浮上していくのは当然だったのである。

 あらためて言明しておくが、ぼくは現行の電子書籍リーダーなどで本を読みたいとは一度も思ってこなかった。断然格段の「リアル本」派なのだ。これは50年間、まったく変わらない。松岡正剛は紙フェチ、見開きフェチ、文字フェチなのである。視覚的フォーマットや触感のリズムこそが「知の快楽」をダイナミックにしていくものだと信じてきた。だから表紙のデザインにも目次にも注目するし、組み方も中見出しも索引も、オートバイ部品のように偏愛する。帯だってりっぱな本なのだ。
 ところが電子書籍では表紙のメッセージはなくなっているし、レイアウトや索引は捨てられている。帯もなくなっている。部品はアマゾンやグーグルが用意した画一的なものだけだ。

 もともと本を読むという行為は、さまざまなアフォーダンスを出入りさせる身体的な行為として発達してきた。目も手も使うし、体の姿勢も関係ある。車中の読書や寝転び読書は、まさに体ごとのエクササイズなのだ。
 実は口や耳も使っている。音読が口と耳の動員にあたるけれど、それだけでなく黙読時ですら読んでいる最中には内語的な擬似発音がおこっていて、これに耳が呼応している。体も深くかかわっている。食べすぎれば本など読めたものじゃない。読書は背中や腹とともにあるものなのである。
 読書は身体的になればなるほど、ずっとおもしろくなる。読書はプラトンや空海の時代から「知の格闘技」であり、そもそもが「全身アスリート」の体験世界なのである。実際にもプラトンはレスラー出身だったし、空海は山岳修行をしながら重要なフレーズを声に出していた。
 ぼくも同じだ。親指と人差指でページを次々にめくる感覚値も、アイスキャニング・スピードの加減の仕方もスキップ・リーディングの仕方も、読みながらマーキングをしていくスキルも、ほとんど小型機のパイロットやサッカー選手や板前さんたちのように習得した。これらはすっかりぼくの体になっている。いまさら画面だけを指こすりしてスクロールしたくない。

小口、スピン、のどなど、本がもつ様々な表情

本書へのセイゴオ・マーキング

 ちなみにぼくは1984年からワープロやPCで文章を打ってきた。もちろんネットサーフィンもする。あまり参考にはしないがウィキペディアも見る。そもそも「千夜千冊」をウェブ・ネットワーク上で公開してきたわけである。だから大いに電子の恩恵に浴してきたわけだ。スタッフたちがPCを操っているのは嫌いではないし、ウェブがもたらすソーシャル・イノベーションにも最初から関心をもってきた。
 ただし紙フェチだから、そうやってキーボードで打った文章は必ずプリントアウトして、赤字はその紙のほうに書きこんできた。その推敲もたいてい3、4度にわたる。「千夜千冊」もずっとそうしている。ぼくの推敲には空間認知が必要なのだ。文章を手元ではなく上から文脈を見て、言葉をバーズアイしながら編集するのだ。だから電子化がよくないなどとはゆめゆめ思っていないのだが、もっともっと工夫したほうがいいと言いたい。現状の電子端末で本を読む気はしないぜよ、と言っているだけだ。

 というわけで、ぼくにはキンドル(アマゾン)もヌーク(バーンズ・アンド・ノーブル)も、リーダー(ソニー)もガラパゴス(シャープ)もシグマブックやワーズギア(松下)もコボ(楽天)もお呼びでないのだが、しかし、ところが、なのである。
 本音を言うが、「本」や「読書の文化」をなんとかしようとしている気概と工夫と投資については、リアル本を作ったり売ったりしている連中たちよりも、いまやマーコスキー君のような「電子の一族」たちのほうがずっと冒険的であり、真剣であり、勇気に富んでいるとも感じるのだ。これはアップルの仕事を外から見ていた頃からしだいに感じていたことで、そのうちキンドル4のヴァージョンアップ版をさわってみて、うーん、リアル派たちは負けているぞと実感した。そんな実感から今夜はキンドルの開発と宣教にかかわったマーコスキー君の本を、軽く千夜千冊することにしたわけだ。けっこうよく書けていた。
 それにくらべてあえて苦言を呈するが、本書はひどい。講談社が翻訳出版したのだが、なんと、どこにも原題と原本の発行元や発行年を明示していないし、訳者などによる「あとがき」もない。翻訳はちゃんとしていたが、本作りとしては実にお粗末な日本語版だった。なんということか。

原書の英語タイトルは「Burning the Page」
2013年8月にはソースブックス社よりKindle版が販売開始。

 未来の読書がどのようになっていくのか、電子の一族たちはさまざまな憶測をしている。クラウド化することはまちがいないだろうが、それでどうなるかというと、まだまだヴィジョンが見えていない。
 映画やビデオゲームと接合していくという見方もあれば、読書クラブを内包していくだろうという見方もある(ぼくはそう予想している)。一冊ごとに小部屋ができるとか、読者ユーザーの質問に答えられるようになると言う者もいる。マイクロコンテンツ化も進むだろう。著者と読者が相談のうえデジタル本をつくるだろうとか、注釈チャットがふえるコンテンツに人気が集まるだろうという予想もある。
 ソースブックス社(シカゴ)がリアル本とCDやDVDを次々にカップリングしたように、これからは電子書籍がリアル本を引きずりこむという説もある。そのときは音楽配信や著者のボイスメッセージも付くことになるだろう。オンデマンド本もだんだんふえていくだろう。とはいえ、それで将来がおもしろくなるかというと、そうでもない。
 なるほどアマゾンにはEncore(アンコール)という部門があって、カスタマーレビューの情報をもとにあまり注目されていない作品や作家を発掘強調して、電子のおすすめ品にしようという動きもあるが、これをカスタマーに頼っていてはダメだろう。そこには独自の編集力が生まれなければならない。一番期待がもてそうなのは、各種の読書アプリが開発され、競って発売されるだろうというものだが、そのアプリの内容や機能がいっこうに見えてこない。
 既存の書籍業界では、たとえば黒田官兵衛についての一冊の本があれば、そこには秀吉から安土桃山のすべての問題に関する本、図解本や年表本、中国や日本の参謀をめぐる本といった単行本がずらりと踵を接するのである。また、そういう本やムックを編集制作するエディターシップがずらりと控えている。いくらアマゾンが電子本化を進めても、そういったコンテンツはアマゾン自身からは生まれてはこない。
 かれらは「狩人」なのだ。いくらオール電子化を叫んでも、結局は既存出版社の本を待って、それを狩り取って、電子化するしかないはずなのだ。これはグーグルだって同じことだ。ともかくもぼくが見るに、この程度の発想では結局はSNSと同様に、電子ブックリーダーのサイト内にはおっつけ大量の広告が溢れてきて、とても読書している気にならなくなるだろう。
 電子書籍の未来を論ずるには、これまでの本の文化の特色をあらためて列挙して、ライプニッツ以来の検索システムを総ざらいし、カラザースの『記憶術と書物』(工作舎)を読み、その特異な機能を総点検したほうがいい。とりわけ連想検索の可能性を追求したほうがいい。高野明彦の連想検索システムがもっと参考にされるべきである。
 必要なのは、マーコスキー君たちにもその用意はあったようだが、そもそも本を読むとはどんな文化力や社会力が必要なのかということを考えることなのだ。そういうことを詰めていけば、実はリアル本であろうと電子本であろうとオンデマンド本であろうと、待望されるのは、それらをどのように「知のマザープログラム」が包めるかということだと気がつくはずである。
 問題はその「知のマザープログラム」が図書分類や大学の学科に代わって、まだこの世に提示されていないということにある。松丸本舗は挫折させられたが、その方法の冒険が技能化され、ソーシャライズされるのは、これからだ。

電子書物都市「図書街」
松岡正剛が構想し、編集工学研究所・北海道大学・京都大・慶應義塾大学が共同で立ち上げた「知のプラットフォーム」プロジェクト。本や本棚同士が文脈を形成するバーチャルな街を構築し、松丸本舗の原型となった。

 

⊕ 本は死なない ⊕

∃ 著者:ジェイソン・マーコスキー 
∃ 訳者:浅川 佳秀
∃ 発行者:鈴木 哲
∃ 発行所:株式会社講談社
∃ 印刷所:豊国印刷株式会社
∃ 製本所:株式会社国宝社
∃ 装幀:トサカデザイン(戸倉 巌・小酒 保子)  
⊂ 2014年6月19日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ はじめに
∈∈ 1 本の歴史
∈∈ 2 電子書籍の起源
∈∈ 3 キンドルプロジェクトの始まり
∈∈ 4 キンドル2、さらなる高みへ
∈∈ 5 競争の始まり
∈∈ 6 神経生物学からみた読書
∈∈ 7 読書文化の存在意義
∈∈ 8 つながりを深める本
∈∈ 9 短命なテクノロジー
∈∈ 10 電子書籍の普及学
∈∈ 11 出版業界の革命的変化
∈∈ 12 わが蔵書はクラウドへ
∈∈ 13 グーグルが「読書用フェイスブック」になる日
∈∈ 14 グローバル化
∈∈ 15 変容する言語
∈∈ 16 本と教育
∈∈ 17 図書館の未来
∈∈ 18 電子書籍リーダーの未来
∈∈ 19 作家の未来
∈∈ 20 文字のデジタル化
∈∈ 21 読書は「廃れゆく文化」か
∈ おわりに

⊗ 著者略歴 ⊗

ジェイソン・マーコスキー(Jason Merkoski)
アマゾン社でキンドル開発(第1、第2世代)の極秘プロジェクトに現場責任者の一人として携わる。プロダクト・マネージャー、エンジニアリング・マネージャー、プログラム・マネージャーなどを歴任した後、同社では初となるキンドルのエバンジェリスト(伝道者)も務めている。 1972年ニュージャージー州生まれ。マサチューセッツ工科大学で理論数学とライティングを学んだ後、卒業後は小説執筆に打ち込む。2005年にアマゾンに入社、すぐにキンドル開発チームへ。アマゾンを退社後はグーグルのシニア・プロダクト・マネージャーに転身。2013年には新しいタイプの書籍検索サイト企業BookGenie451を設立、創業者兼CTO(最高技術責任者)として活動中。ITやEコマースの分野での職務経験は20年に及び、今日の電子書籍の発展に大きく貢献。 趣味はハンモックに揺られながらの読書。