中井久夫
分裂病と人類
東京大学出版会 1982(新版 2013)
編集:門倉弘・後藤健介
いまは統合失調症という名になった分裂病。
そのルーツは人類の歴史とともに始まっていた。
そういう話を浩瀚な知にもとづいて
瑞々しく書けるのは、中井久夫さんだけである。
だから、いつかぜひ、本書を案内したかった。
よくよく味わってほしい。
その前に『徴候・記憶・外傷』という本と、
PTSD(心的外傷後ストレス障害)について、
少しだけふれておく。
あとはすべて、文明と欧米文化の問題だ。

 いま、精神分裂病は統合失調症などという、平易だが思わせぶりな病名に変わっている。さまざまな精神疾患も「心の病い」というふうに柔らかく表現する。
 とはいえ「心の病い」を治そうとすると、その症状や投薬効果によっていくつもの病いが分かれる。その病名区分はよくもわるくも、ほとんどアメリカ精神医学会(APA)が権威をもって発表するDSM(精神疾患の診断と統計のマニュアル)に従っている場合が多い。それをごくごく大きく振り分ければ、「人格の病い」が統合失調症などを含み、「感情の病い」がうつ病や双極性感情障害(躁鬱病)を含み、「不安の病い」がいろんな神経症を含む(1522夜)。
 病名が病気をつくるというけれど、これほど「心」にたくさんの病名をつけざるをえない時代がやってきているというのは、情けない。まさに「情け」がかけにくい。

 昨秋、しばらくほったらかしにしたままだった『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)を読んだ。
 それまで長らく使われてきた「精神分裂病」という名称が、新たに「スキゾフレニア」「クレペリン・ブロイラー症候群」「統合失調症」のどれに決まるかまだわからなかった時期の、中井久夫独特の含蓄のある文章が集成されている。
 その前に読んだ1998年の『最終講義』(みすず書房)では「分裂病私見」という副題がついていた。20世紀まではずっと分裂病の時代だったのである。その次に、症例分析の文献をまとめた『統合失調症』の2冊組(みすず書房)が上梓されたのだったと憶う。
 『徴候・記憶・外傷』はこれらのあいだのちょうどトランジットな思考帯域になっていて、sign、trauma、memory に関する幅広い精神疾患をめぐる思考がよく辿れる。中井の本はどれも知的な刺戟に富むのだが、やはりたいへん興味深かった。

本書を刊行した当時の中井久夫(1982年頃)

 この本には次のようなケネディ時代からレーガン時代までのアメリカの事情が書いてあって、そうか、そういうことだったのかと合点するところがあったので、忘れないうちにそのことをちょっと書いておく。
 精神医療が大きな転換を見せるのは1960年代の半ばだったそうだ。そのころアメリカは力動精神医学を中心にしていたのだが、ケネディは精神病院の病床を50万床から15万床にへらす計画をたった3年間で実行してしまった。精神病院をへらす代わりに各地にメンタルヘルスセンター(精神保健施設)を設立するという計画だ。しかし、新施設にはあまり患者が来なかった。案の定、カーター夫人が世界精神保健連盟(WFMH)の総会で、あれは失敗だったというスピーチをした。患者たちは多くがホームレスとなり、ギャングに上前をはねられる生活保護費に頼るようになった。
 結局、メンタルヘルスセンターはレーガン時代に廃止された。といって精神病院の数が復活したわけでもなかった。アメリカの市立精神病院には有名どころではチェスナット・ロッジなどがあるのだが、この時期にはその病床数も数百床から50床に減った。ロッジのあとの建物は廃墟同然となり、患者が勝手に住みついて、薬だけを病棟に貰いにいくようになったのだという。

1963年、精神保健施設設立を決議し、地域精神衛生法に署名するケネディ大統領

米国メリーランド州ロックヴィルにあったチェスナット・ロッジ

 アメリカでは70年代に、システム療法から家庭療法まで、マラソン療法から絶叫療法までといった、多様な精神療法時代がやってきていた。ぼくもそのうちのひとつ、システム療法と家族療法にアプローチしていたリン・ホフマンの、タイトルだけは立派な『システムと進化』(朝日出版社)などを読んだことがあったが、何を狙っているのか了解しきれなかった。
 治療法がそのように乱打されたのは、二つの大きな問題が新たに広がっていたからである。
 ひとつはベトナム帰還兵問題だった。帰還兵は残忍な殺傷に興じたとアメリカ国内で何度も報道されて、しかもアメリカ史上初の敗戦であると批判され、歓迎されなかった。帰還兵は空港でツバまで吐かれたのだが、兵士たちには癒し難いトラウマ(trauma 心的外傷)がのこっていた。このあたりの事情は吉田秋生のマンガ『バナナ・フィッシュ』もみごとに描いている。
 もうひとつはフェミニズムが深化していった。ベティ・フリーダンやリュス・イリガライ(1127夜)からダナ・ハラウェイ(1140夜)までの、さまざまなラディカル・フェミニズムが派生した。ここに、性差別やレイプや家庭内暴力による深刻なトラウマ問題が浮上した。
 ベトナム帰還兵と性差別などをめぐるトラウマ問題は、当時の精神医学をリードしていたアメリカに転換をもたらしたのである。これが多様な治療法が乱打された理由だった。
 そして1980年代になると、PTSD(心的外傷後ストレス障害)をどう捉えるかという議論と療法が、とくに注目されるようになった。念のため、PTSDは“Post-Traumatic Stress Disorder”の略である。

ベトナム帰還兵を題材にした映画
左『ダーティハリー』(1971)
右『タクシードライバー』(1976)

PTSDを起こした代表的事例(ドクタートラストの調査より)

 ぼくはPTSDについてはよく知らなかった。テレビの司会者が堺正章の奥さんに「はあ、そうするとドメスティック・バイオレンスによるPTSDなんですか」と言っていたのを見たとき、なんのことかわからなかった。
 PTSDの名は1980年のDSMⅢに初めて登場した。その後のDSMもずっと病名分類をしつづけている。
 それらによると、PTSDには、精神的不安定が不安・不眠などの過覚醒症状をおこす場合、トラウマの原因にあたる障害に関連する現象や事物を回避するようになってしまう場合、事故の体験や犯罪の目撃に関するフラッシュバックがおこる場合など、さまざまな症状がある。
 「いじめ」がPTSDにつながることも多く、重大な出来事の記憶に悩んだり、事後的に記憶が再構成されていったり、実際にはおこっていない出来事があたかもあったかのような出来事の記憶になったりすることも、あるらしい。 
 しかしふりかえってみると、そういうPTSDをめぐる研究にはそれなりの前史があったと中井は言っている。

 第1段階は、19世紀後半からのヒステリー研究だ。とくにフランスの神経学者ジャン=マルタン・シャルコーは連続的な暴力やレイプに苛まれていた若い女性たちの症例を研究して、ヒステリーは神経症であると推理した。それとともに当時の鉄道事故後の“鉄道脳”も治療の対象となった。そこにPTSDの前史が立ち上がっていた。
 第2段階は、フロイト(895夜)とピエール・ジャネが対抗しながら研究アプローチした段階で、患者との「対話」を通して変成意識やヒステリー症状が注目された。二人とも幼児期の外傷と性的な外傷を重視したが、ジャネはそうした症状を「解離」と呼び、ヨーゼフ・ブロイアーは「二重意識」と呼んだ。
 解離は、いま英語では“dissociation”になっているが、ジャネは“désagrégation psychologique”と呼んでいた。
 第3段階になると、第一次世界大戦がふりまいた戦争外傷が患者のみならず、軍隊上部層と治療者たちを追いつめ、PTSDが世界規模の症例問題であることが少し認識されるようになった。けれども戦争が終わると研究の熱はさめた。それが復活するのはエイブラハム・カーディナーの有名なモノグラフ『戦争の外傷神経症』が1941年に発表されてからだった。
 しかし、アメリカ軍としてはこれを認めるわけにはいかない。「正しい戦争」が疑われるからだ。ノーマン・メイラーの『裸者と死者』のように、国の犯罪に食ってかかる著述や研究はあらわれなかった。こうして第二次大戦後もPTSD研究が進むということはなく、むしろ伏せられていったのだ。
 そのアメリカの精神医学界が本腰を入れざるをえなくなったのが、やっとベトナム帰還兵問題からなのである。朝鮮戦争において一般人を虐殺していたことによる外傷が俎上にのぼったのは、さらに1999年まで持ち越された。ようするに、PTSDに似たことはずっとおこっていたのである。それをいつ社会や医療が“認知”したかというだけなのだ。
 いまでは、このような問題はずっと広範になっている。文化大革命~アフガン戦争~自爆テロ~9・11というふうに転じてきた現代史の闇のすべてが、なんらかの意味での人類史的なPTSDをもたらしているからだ。
 中井はこのような流れを前にして、ここには古層の種族的記憶が損なわれるような現象もおこっているのではないか、とも書いていた。

19世紀末、パリのサルペトリエール病院でヒステリー患者の治療にあたったフロイト(左)とジャネ(右)

 そのほか、『徴候・記憶・外傷』には多くの指摘と示唆が盛りこまれていて、これを読むぼくの自己像がまたひとつ脱皮させられていくような共鳴をおぼえたものだ。
 このような共鳴は中井さんの本を読むたびにぞくぞく感じてきたことで、そこからは多くの文明的な視点がそのつどもたらされていた。中井さんの著作には、たいていその力があった。このような文明的な俯瞰力は、残念ながらというか、遺憾ながらというか、ミシェル・フーコー(545夜)か中井さんからしかもらえないものなのである。
 今夜の千夜千冊に選んだ『分裂病と人類』も、まさにそういう一冊だった。

 さて、想いおこしてみると、ぼくが中井本を読んだのはずいぶん前にさかのぼる。
 最初は「遊」を編集しているころの70年代前半に「風景構成法」がちらちら話題になっていたので、それを詳しく知りたかったのだがうまく出会えず、代わりに書店で目に入った飯田真との共著の『天才の精神病理』(中央公論社の自然選書)を読んだのではないかと憶う。
 ふうん、ユニークな視野で綴られているなと思い、当時しばしば会っていた慈恵医大の岩井寛(1325夜)先生に中井さんのことを訊いたところ、「うん、とても独創的な発想の持ち主で、ラテン語もギリシア語もオランダ語もできるらしい」と教えてくれた。
 とくに「中井さんは若い頃にポール・ヴァレリー(12夜)の研究者になるか、それとも医者になるのか、かなり迷ったらしい」と言ったことが心に残り、その後に『分裂病と人類』を読んだときは、ずいぶん変わった記述の仕方だったように見えたにもかかわらず、あっというまに埋没できたのは、なるほどヴァレリーに耽った人の文章だったのかと合点できたからだった。
 この点については、ずっとのちに『私の日本語雑記』(岩波書店)を読んでみて(これもおもしろい)、中井がどのようにヴァレリーに惚れたのかよくわかった。

2010年に発行された『私の日本語雑記』(岩波書店)

ポール・ヴァレリー(左)と岩井寛(右)

 風景構成法(Landscape Montage Technique)については、とくに分け入ることはできなかったのだが、日本で独自に開発された心理療法であること、ロールシャッハ・テストのような侵襲性がほとんどないこと、クライエントの進行中の心理現況を編集的に推察できること、中井がそこからさらに「相互限界吟味法」を独自に考案し、それが児童精神科医の山中康裕によってドナルド・ウィニコットのスクイグル法などと結びついて、独特のMSSM(Mutual Scribble Story Making)に発展していることなどを知った。
 MSSMは子供用に「交互ぐるぐる描き投影・物語統合法」なども開発されていて、いまはかなり研究が深まったナラティブ・アプローチの先駆的手法としても注目されている。

 では、ここからが本書『分裂病と人類』の話になるのだが、かなりの重戦車がアタマの中を驀進していったような読後感だったことを、いまでもありありと思い出せる。
 良書を提供していた東大出版のUP選書の一冊で、ぼくの早稲田の親しい先輩である門倉弘さんが編集していたことも思い出深い(現在は新版になっている)。
 当時のぼくは工作舎を離れて、高橋秀元・木村久美子・澁谷恭子・吉川正之、およびまりの・るうにいと、松岡正剛事務所をごくごく小さく再出発させたころだった。そういうときはきっとこんな感想をもつ者が多いのだろうと思うけれど、あえて小さな仕事環境にコンデンスしたということが、かえって大きな世界環境の変移期を自分で観察できるような気になるものなのだ。小よく大を見る、わけだ。
 実際にも、まもなくこの6人は、とても大きな世界環境の変化史ともいうべき『情報の歴史』(NTT出版)の編集制作に一斉にとりくんだものだった。そんな時期、『分裂病と人類』を読んだのである。

中井久夫が考案した風景構成法。木、山、川、道、家などを指示された順に描き、一枚の風景を完成させる。

 本書には、二つのごっつい問題が提示されている。
 ひとつは、ヨーロッパの精神病とそれに対処する精神医学がいったいどのような背景によって突き動かされてきたのかということだ。もうひとつは、中井さんが持ち前の執着気質の読みをもって日本の近世の「直し」という言動に迫ってみたというものだ。
 後者のほうには「治し」ではなく、世直しの「直し」という言葉が強調されていた。二宮尊徳や赤穂浪士を通して日本人の“勤勉の精神医学”が言及されていた。こういう観点は日本史学的にも初めての試みであったのではないかと思う。
 が、今夜は前者の記述の中身について、すなわちヨーロッパにおける精神医学背景史を俯瞰する中井さんの“読み”について、ぼくなりの“編集読み”をもって、ごくごくはしょったメルクマール案内をしておくことにする。それでも存分に人類と分裂病の蜜月関係の歴史が見えてくるはずだ。

『二宮尊徳翁』(幸田露伴)の口絵より
尊徳が薪を担ぎながら読んでいるテキストは「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」の八条目など、朱子学のエッセンスを書いた『大学』である。

 最初に強調しておかなければならないのは、そもそも分裂病は人類が誕生してほどなく、われわれの心身にくっついていた症状だろうということだ。
 中井はこの仮説にのっとって「人類は分裂病的親和性が強い動物なのではないか」ということを暗示する。
 なぜなら狩猟民の精神は貯蓄型ではなく、おそらく複雑な祭儀もなかっただろうから、あまり分裂気質をもたないですんだのではないか。そうだとすると、「収穫と刈取りと蓄え」を重視する農耕民の社会のなかで、強迫的な神経症の前兆が始まったにちがいない。そう、指摘する。
 ここには農耕の予祝をつかさどるシャーマンなどがいて、当然にトランス状態の感染もあったはずである。おそらく当初からアルコール依存も発症していて、心身のバランスに無視できない影響を及ぼしてもいただろう。
 つまりは、総じて人類は農耕社会の発展とともにこうしたさまざまの本質的倒錯をへて、文明的な人間になったはずなのだ。

 これだけでも、かなり示唆に富む指摘だが、ではこのような見方を多くの精神医学者たちがもってきたかというと、必ずしもそうはなっていない。精神医学は近代人の「心の病い」の分析から入ってしまったのである。大きな「人類の病い」「文明の病い」という観点は、長らく看過されてきたのだ。
 精神医学という学問はきわめて新しい。それにくらべると、古代このかた続いてきた「治療文化」の歴史のほうがずっと長く、大きかった。そうであるなら、その「治療文化」のなかにこそ精神医学の前兆を読みとらなければならないはずなのだ。
 そこで中井はヨーロッパの歴史を大胆に抉(えぐ)っていく。その出発点は古代オリエント社会の呪術的世界観と、そこから脱するかに見える古代ギリシアのホメロス的世界観である。

 ホメロス的世界観には「人格」についての明瞭な観念が欠けていた。
 そもそも古代においては、神を知る者、いいかえれば“自己処分能力がある者”は、それだけで他のモノやコトについても知っているとみなされた。知はつねに万能とみなされたのだ。
 そこでどうなるかといえば、「知っている」という状態と「知らない」という状態が対置され、君主や哲人や宗教人はそれを判断する専門家だともくされたのである。
 やむなくこの専門家たちは何を「知るべきなのか」を考えた。老子も孔子も、ブッダもプラトンも、それを考えた。治国や生活にぴったりしたことを考えようとしたのだ。一方、逆に、よけいなことを知っている者は、きっと「無法なことを知っている者」とされたわけである。案の定、かれらは“乱暴者”“邪魔者”として扱われた。日本神話でいえば、アマテラスに対するスサノオにあたる。

 ところが、おおかたの「精神」の多様性というものは、その後の作家やアーティストやクリエイターの歴史を見れば想像がつくように、「よけい」や「無法」のほうに育まれていることが多い。創造力は「よけい」で多義的なのだ。
 ただし多様で多義な態度は、これまた今日におよぶアーティストがそうであるように、「知るべきこと」を絞らない。ふわふわ、ふらふらしているように見える。そのため「よけい」「無法」な者たちは特別視された。専門家たちは古代すでにして、これらアウトサイダーの知を特殊扱いしていたのだった。

 これで何がおこったかというと、古代ギリシア人の最大の道徳の表明が、社会的評判を顧慮するための「アイドース=羞恥」になったのだ。
 これが「レリギオ」(religio)である。のちのちには「合理」となった。そのうちいつのまにか社会的な「情動の基準」をつくっていった。
 しかしこのとき、かれらは人間社会にとって最も重大だったはずの「不安」というものの正体を、おおかた隠してしまったのである。それはアーテー(ãtê 狂気)とみなされた。

 続くアルカイック時代ではドーリア人の侵入が悲惨と貧窮をもたらしたため、ポリスが形成されるのだが、すぐに人口過剰となったので植民・交易・戦争にその解決を求めた。
 社会の流動性にさらされた古代ギリシアは、なるほどソロンの立法などによってこれを調停しようとはしたが、結局は人間の無能が痛感されたのであったろう。
 それでも市民たちのコロス(koros 成功がつくる自己満足)は、すぐさまヒュブリス(hybris 奢り)を生み、ヒュブリスはネメシス(nemesis 怒り・妬み)を呼んだ。それでどうなったのか。ここで罰せられるのがレリギオに合わない「狂気」というものだったのだ。
 この「狂気」は今日に言うようなものとはかぎらない。当時、狂気とされるのは、社会のバランスを取り戻すために巧みに導入されたものだったろうと、中井は言う。さもありなん、だ。
 哲人プラトン(799夜)は、そのように導入される“巧みなバランサーのような役割”としての狂気のはたらきを、すかさず分類してみせた。「予言的狂気」(アポロン)、「密儀的狂気」(ディオニソス)、「詩的狂気」(ムーサ=ミューズ)、「エロス的狂気」(アフロディティ、エロス)である。
 これは、狂気を「神のはたらきによって習慣となった社会のしきたりを逸脱するもの」とプラトンふうに定義したせいだった。

左からアポロン(ベルニーニ作、像左)・ディオニソス(カラヴァッジオ作)・アフロディティ(ローマ時代の像)

 もちろんこのような狂気の定義は、今日の精神医学が裁定する狂気ではない。プラトンの狂気の規定は、ギリシア神話的であり、古代社会なりの治療法そのものだった。
 こうしてオルフェウスもピタゴラスもエンペドクレスも、この、仮りに導入された「狂気の解説」こそを治癒とするような哲学を説くことになる。このことはソクラテスがすすんで「精神の産婆」を任じようとしたことにもあらわれている。
 ということは一言でいうのなら、古代ローマにいたるまで、「狂気」はいわゆる病気ではなかったのだ。未知の力を解説するための対抗力だったのだ。

 古代ギリシアはやがてシリア・レバノンふうの東方思想ともスキタイ系のシベリアシャーマン文化とも接触して、ここに医神アスクレピオスやフェニキアの医神エシュムンのような、地下から湧いて出たかの治癒力にめぐりあう。
 医術はしだいに世俗化されていった。夢判断をするグループやヒポクラテス学団のような医療的職業倫理をもつグループもあらわれた。
 これらの知識はヘレニズム期にいったんマケドニアに集約され、医学の中心もアレクサンドリアに移った。そこではポリス的な人為的人間像から逸脱したものが神々の治療の対象とされ、そのための大図書館がつくられた(959夜282夜などを参照)。
 古代ローマは以上の治療法を「コンペンディウム」(必携するもの)として継承する。そうなると、病気は一方ではいまだ神々の瑕疵ではあるが、他方ではカタログなのである。4世紀のガレノスのような大治療家はこのカタログ化に抵抗した。
 そこへ怒涛のごとくなだれこんできたのが、北東ユーラシアのフン族などに押されたゲルマン諸族だった。この“蛮族たち”はすでにローマ世界に広がりつつあったキリスト教を便利な「心の道具」としつつ、さまざまな異国の信仰や価値観をもちこんだ。いきおい、病気と狂気のカタログは膨らむことになる。

 ヨーロッパ中世を通じて重視されたのは、今度は「森を通過する不安」をこらえるための騎士道精神というものだった。
 9世紀から10世紀にかけてのヨーロッパの荒廃は目にあまる。多くがカシなどの二次森林におおわれ、村落を中心とするわずかな耕作地にもオオカミがあらわれ、人を襲った。グリム童話が描いた社会そのものだったのである。騎士として尊敬されるためには、この恐ろしい森を駆け抜ける勇気が要求された。
 そのため中世の狂気は、騎士たちのロマンにもとづく不安として語られるようになり、その集合的な記録が束ねられてアーサー王伝説やロビン・フッドやニーベルンゲン説話などの、いくつもの騎士道物語や恋愛詩になった。
 これらの物語や詩は、やがて騎士たちの人格に棲む愛に対する希求と不安の心情を新たに説明可能なものにしていった。

英雄ジークフリート(左)の悲劇的な死と、妻クリームヒルト(右)の復讐劇を描いたニーベルンゲン説話。

 中世の地中海はイスラム勢力の制圧圏である。そのため東方世界との通用ルートは、ノルマン人による黒海を経由するものだけに狭められた。
 そのなかでラテン文化がしだいに凋落していったのだが、ブリタニアでの出来事やベネディクト派の修道院はこれらの難をまぬかれた。ベネディクト修道院ではカッシオドルスらが活躍し、医療文献を解読したり翻訳したりした。しかし、その治療は当然ながらキリスト教の価値観にもとづいていた。
 12世紀以降、ヨーロッパに農業革命がおこると、重い鋤による深耕農耕と牧畜とが統合して三圃農業が普及する。それとともに森林(二次森林)が急速に伐採され、そこへアラビア人による医療文化が流れこんだ。さらにそこに東方における南北経路がタタール人によって支配される事情が重なると、北方産業圏は中央の毛織物産業との新たな連絡路をもっぱらライン川などに求めるようになった。いっときラインが“僧院河谷”と称されたのは、このような事情が医療に結びついたためである。
 かくて13世紀を過ぎて、イタリア、南仏、ライン河畔、パリに次々に大学が成立し、サレルノ、ナポリではついに医学校が誕生した。

サレルノ医学校の「外科」を描いた絵
ギリシャ、ラテン、イスラムをへてサレルノに設立され、ボローニャ、ナポリ、モンペリエの大学での発達に影響を与えた。

 大航海時代が始まっていくと、「森の不安」の克服は「海の不安」を克服する船長や乗組員のものになった。
 それとともに投資、造船、港からの船出、航海、難破、獲得、帰港、加工、販売という一連のプロセスが、新たな富や破産をもたらすものだという認識を広め、遠洋航海に対する投資をめぐる一喜一憂が社会に「会計の不安」をばらまいた。『港の世界史』(1529夜)に少し書いておいたことである。
 こうして森から海への転換は、社会における「貸方と借方」という正負の価値観を生み落としていったのだ。それだけではない。中井は、この変化のなかには「船長」(captain)という絶対的リーダーシップをめぐる価値観と、このあと勃興するプロテスタンティズムとの結び付きも生まれていったのではないかとも見ている。これは炯眼だ。

 このように見てくると、ヨーロッパの医療技術や医学思想が、あたかも健全に近代医学に向かって進み始めたように見えるかもしれないが、むろんそんなふうではなかった。
 まずペスト(黒死病)の猛威には、誰もがなすすべをもっていなかった。ハメルーンの笛吹きのような者たちが懸命にネズミを村外に誘導しようとしたが、とても対策にはならない。各地の衛生面もひどいままで、ペストだけではなく天然痘や赤痢や疫痢も猛威をふるった。
 しかしそれでも、これらは病原菌による厄災だったのである。いわば自然の猛威だった。問題は人の狂気の扱いのほうだった。「心のペスト」のほうだった。
 そこに登場したのがヨーロッパ中に広まった魔女狩りや魔女裁判や異端審問である。これらはきわめて人為的に狂気治療を歪曲していった。

14世紀のフランスで描かれた黒死病の絵

『ハメルーンの笛吹男(Pied Piper)』の現存する最古の水彩画
(13世紀の中世ドイツ)

 魔女狩りや異端審問の背景には、中世からルネサンスにかけて、錬金術、占星術、魔術、カバラ主義、集団ヒステリー、タランチュラリズム(毒グモ恐怖症)、サバト主義などが動めき、ときにネオプラトニズムやヘルメス主義の名を借りつつも、貴族や知識人や僧侶のあいだに流行しつづけたという事情がある。
 これらはいずれも怪しげな妖術めく傾向を共通してもっていたのだが、それを正当化するために、あえてもっと怪しげで恐ろしげな魔女を次々に仕立てていった。魔女狩りこそを正しい治療だとする必要があったのである。
 他方、民衆も魔女狩りを支持した。飢饉や乳牛の大量死や害虫の発生などを魔女のせいにする必要があったからだった。魔女たちは群衆の歓呼に迎えられ、焼かれていったのだ。

当時描かれた魔女の絵

1571年にアムステルダムで行われた魔女狩りを描いた版画

 魔女狩りの流行は狂気の本質をそうとうに見失わせた。ひとつには「狂気はクレンジングしなければならない」という社会慣習を助長させた。もうひとつには魔女裁判にかけるほどの者でなくとも、つねに異常者やその候補者を「隔離しなければならない」という見方を助長した。
 すでにハンセン病(癩病)の病者は古代このかた隔離されてきた。その惨状は目にあまるものではあるのだが、中世ヨーロッパではそこへペストの流行が重なり、虚弱なハンセン病者が大量に没していった。
 このため狂者こそが収容される対象となり、狂気はしだいに隔離の対象になっていった。ミシェル・フーコー(545夜)が『狂気の歴史』や『監獄の誕生』で述べたのはこの歴史的実情である。

ハンセン病を根絶した国として知られるマルタ島に開設された検疫所「ラザレット」(16世紀)

 精神病者は隔離施設に入れられるばかりではない。河川や運河で運搬にかかわる船員にまじえて病者を港から港へたらい回しにする、いわゆる“阿呆船”もあった。セバスチャン・ブラントの『阿呆船』やヒエロニムス・ボッシュの絵に有名だ。世界の港町に“ならず者“や“酔いどれ”がふえたのは阿呆船の寄港のせいだという説もある。
 ちなみに、むろん魔女狩りや狂気の収容に反対する一部の知識人もいた。エラスムス、イエズス会士、プロテスタント、モンテーニュ(886夜)、セルバンテス(1181夜)、啓蒙思想家などだった。

 魔女狩りの終焉は近代医学の萌芽につらなっている。中井はそのことをオランダを例に説明した。オランダでは魔女狩りが早く終息したのである。
 オランダを中心とする低地諸国はノルマンの却掠がおわったあとは、最も密集した自治都市群となり、北方ルネサンスの文化センターとなり、ハプスブルク王家との関係をもつスペイン先進文化の出店となって、かつ、スペインの異端審問から逃れるユダヤ人マラーノの集積地になった。
 そのうえで、オランダはブルクンド王国の宮廷文化から自己脱皮をはかったカルヴィニズムの一大拠点となったわけである。オランダではイギリスのピューリタン革命よりずっと早く、カルヴィン派が移民・中農層に支持されて、都市文化を自立させていたのだ。そこにはさまざまな問題を「範例」によって解決する範例主義(パラディグマティズム)が確立した。

 以上の動向がイギリスの市民革命、フランスの大革命とともに、ヨーロッパにおける市民社会の最初のモデルとなり、近代精神医学の橋梁となったのである。
 たとえばライデン大学が臨床所見を網羅する病歴の整理を始めたことは、これらの先駆例だった。エディンバラ大学が近代臨床医学の拠点となりえたのも、オランダ留学の帰国者たちのせいだった。
 今日、近代精神医学の先蹤者ともくされるトマス・シドナム、ウィリアム・カレン、フィリップ・ピネル、ヴィルヘルム・グリージンガーらは、いずれもこれらのオランダ・モデルの恩恵をいかした内科医であり精神科医だった。
 なかでフランス王立植物園で植物分類に従事していたピネルが、植物学者のソヴァージュやカバニスの協力をえて精神疾患の分類にとりくんだ。リンネの影響だ。大きな前進ではあろうが、ぼくはこの話を知って「心の病い」も植物の分類から始まったのかという、なんとも奇妙な感慨をえた。ピネルを継承したのはジャン・エチエンヌ・エスキロールだった。

エスキロール(左)は、フランスの精神病患者処遇や教育に尽力し10個所に保護院を創設した。右は「白痴の監禁」を描いた図版(1983年)

 オランダ・モデルは当然のことに、イギリスをへて新大陸アメリカのピューリタン植民地にも流れた。
 そして当然のことに、ヨーロッパから見れば時節おくれの「セイレムの魔女狩り」などをアメリカにもたらしもした。それこそ、ナサニエル・ホーソーン(1474夜)の『緋文字』が描いたヘスター・プリンの悲劇である。
 これらのことから中井は、もしウェーバーがプロテスタンティズムが資本主義に与えた影響があると言うなら、プロテスタンティズムが精神医学にもたらした影響も3期に分けて辿れるとみなした。

 プロテスタンティズムの影響は、第1期はオランダにおいてカルヴィニズムの倫理と労働治療が近くなった時期で、職業倫理にもとづく医師たちが勤勉に収容所を定期的に訪れることにあらわれる。今日に「回診」という言葉がのこっているのはここにルーツがある。
 第2期は産業革命とともに工場社会に支配と生産と労働が均一化してからのことで、ここには「工場」とともに、アダム・スミス以降の「市場」がかかわってくる。そこにプロテスタンティズムと精神医療感覚が重なった。
 初期の資本主義にはイギリスのコモン・ローやロー・オブ・エクイティの相互補完がおこっているのだが、それは経営層に産業を促進することは社会療法でもあろうという幻想を抱かせた。
 第3期はプロテスタンティズム、産業革命、資本主義に加えて、これらに社会改良主義、産業社会主義、組合主義、民主主義がまぜこぜになることで、21世紀の現代にまでつながっている。こうして精神疾患は「働く現場」の拡張にともなって広がっていったのだ。

 この先、中井は精神病院というものが誕生していった背景、大学に精神医学の領域が確立していった背景、さらにヨーロッパにおける力動精神医学の系譜と正統精神医学の系譜とが分派していった背景、プロザックなどの向精神薬が“猛威”をふるうようになった背景なども独特にスケッチしているのだが、今夜はそれらをカバーするのは遠慮しておく。
 力動精神医学と正統精神医学の流れは、以下の図表を見ていただきたい。
 また、精神病院の歴史についてはフーコーの『狂気の歴史』や『監獄の誕生』(新潮社)を、近代精神医学が「拘束」からしだいに心理療法と薬物療法に変化していった経緯などについては、ジャック・オックマンの『精神医学の歴史』(クセジュ文庫)、エドワード・ショーターの『精神医学の歴史』(青土社)、エルヴェ・ボーシェーヌの『精神病理学の歴史』(星和書店)などを覗いてもらいたい。
 しかし、中井がこの『分裂病と人類』の最後に何を書いていたかということは、ぜひとも強調しておきたいと思う。中井は次のようなことを書いていた。

力動精神医学成立の流れ

正統精神医学成立の流れ

力動精神医学と正統精神医学の比較

 ヨーロッパにおける「神なき時代」の蔓延と精神医学の広がりは、おそらく密接につながっているはずである。ピューリタニズムが「父なる神」を軽視したことと、資本主義がプロテスタンティズムの勤勉を重視したことは、どこかで「心の病い」を増長させたのである。
 これらは何に一番強くあらわれたかといえば、それはオートクリティック(自己批判)に皺寄せをもたらした。
 一方、多くの難病が20世紀になって治療可能になっていったことは、疾患をしだいに「精神」に追いやったことと無縁ではないだろう。たとえば結核はペニシリンによって弱毒化させたのだが、そのぶん結核はメンタルな病いになってもいったのだ。
 ヨーロッパが精神病(分裂病)を発見し、その分類と治療に躍起になったことは、世界史の全体からみればきわめて例外的なことだったのである。アニミズムやシャーマニズムから資本主義社会や会社を守ろうとすれば、社会や会社に「うつ病」がひろがるのは当たり前なのだ。
 これらに対して、大乗仏教などが「自立」と「中観」を一緒に語れるようにしたことは、欧米的なるものとはずいぶん異なる文明や社会における価値観の可能性をもたらせたはずである。ただ、そのことをアジアも日本も、いまなお世界に説得力をもって発信していない。

 

⊕ 分裂病と人類 ⊕

∃ 著者:中井久夫
∃ 発行所:財団法人 東京大学出版会
∃ 印刷所:株式会社 三陽社
∃ 製本所:新栄社製本所
⊂ 1982年2月15日

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 第一章 分裂病と人類     
      ――予感、不安、願望思考
∈ 第二章 執着気質の歴史的背景 
      ――再建の倫理としての勤勉と工夫
∈ 第三章 西欧精神医学背景史 
∈ 注
∈ あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

中井久夫(なかい・ひさお)
1934年奈良県天理市生まれ。精神科医。文化功労者(2013年度)。京都大学医学部卒業後、同大学ウイルス研究所助手をへて医学博士を取得。1967年 には研究生として東京大学医学部附属病院分院精神科に所属し、助手をへて講師となる。その後、名古屋大学、神戸大学、甲南大学で教授を勤め、 2004年からは兵庫県こころのケアセンター所長。『精神科治療の覚書』(1982)『治療文化論』(1990)『記憶の肖像』(1992)ほか著書多数。

 

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