才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ビッグの終焉

ニコ・メレ

東洋経済新報社 2014

Nicco Mele
The End of Big ― How the Internet Makes David the New Goliath 2013
[訳]遠藤真美
編集:佐藤敬
装幀:佐藤亜沙美

「大きいもの」の時代は終わった。
これからは「小さいもの」がつながっていく。
本書はそれがデジタルインタラクションと
メッシュネットワークによる
「ラディカル・コネクティビティ」によって
いよいよ成立しつつあると言う。
これはたんに「小よく大を制す」ということなのか。
それとも、グローバル時代の新たな価値観は
「小さきもの」から生まれてくるということなのか。
半分以上は当たっているが、よく見極めたい。
SNS状況はすでにフィルターバブル期に入っている。
だからこそ本気の「小」が醸成されるべきなのだ。

 「大きいもの」の時代は終わった。これからは「小さいもの」がつながっていく。それがデジタル・インタラクションとメッシュ・ネットワークによる「ラディカル・コネクティビティ」で成立しつつある。本書は、こう主張する。
 たんに「小よく大を制す」ということなのか。それとも、グローバル時代の新たな価値観は「小さきもの」から生まれてくるということなのか。そこははっきりしないが、本書はSNS状況がすでにフィルター・バブル期に入っている時期だからこそ、本気の「小」が醸成されるべきだと言う。「大」から「小」への転換を進言する。それには「大」をぶち壊す必要もあると言う。
 ビジネス界では「大きいもの」や「大きいこと」がいまだ罷り通っている。とくに大企業は生き延びるためにはM&Aをしつづけて、巨体を虚体にしながらも「ビッグ」を維持しようとする。よせばいいのに、それを4半期ごとにチェックする。
 日本人は昔から清少納言が宣言していたように「小さきもの」をいとおしんで、それを扇からお通しまで、小庭から盆栽までの工夫にしてきたのだが、またその技能感覚が時計からトランジスタまで、ハーモニカから小型車まで充実させてきたのだが、どうも「規模の経済組織」については、いっこうに「小ささ」を選択できないでいる。
 本書はアメリカの事例だけで世界規模の話をしているもので、必ずしも上品な本ではないけれど、ときにはソーシャルメディア時代の「小ささ」をアメリカに学んでもいいかもしれないと思えたので、今夜の千夜千冊にした。

(左上)平安時代には貴族の身分をあらわす象徴だった扇
(右上)臨済宗大本山 建仁寺塔頭 両足院の小庭
(左下)1979年に発売された世界初のポータブル音楽プレーヤー
    Sony Walkman「TPS-L2」
(右下)鈴木自動車(現スズキ)が初めて一般に販売した
    軽四輪自動車「スズライト」(1955年〜)

 著者のニコ・メレは、最近20人の陣容になったらしいネットコンサルティング「エコーディット」の設立者である。ハーバード大学のケネディスクールでは「ネットと政治」に関する教鞭をとりつつ、既存の二大政党型の政治形態や活動スタイルを変えたいと思っている。
 メレがそう思ったについては、いきさつが書いてある。ニコ・メレは当時のバーモント州知事だったハワード・ディーンの大統領選の選挙資金改革にとりくんだとき、ムーブオン(MoveOn)に与してネットワーク活動をし、IT選挙の夜明けの渦中のキーパーソンになっていた。それ以来、政治とデジタル・インタラクションとをコネクティブバインドすることに関心をもった。
 実際にもディーンの選挙活動のあと、全米では選挙支援にかぎらず、いくつもの資金調達サイトが立ち上がっていった。アクトブルー(Act Blue)はその代表的なひとつで、誰でもオンラインで資金調達するインフラを手にすることができるようになった。
 そこにミートアップ(Meetup)の手法が加わった。ミートアップは多種多様の集会で、二大政党のパーティ戦略に対抗して生まれた。読書ミートアップ、ドイツ出身者ミートアップ、子犬ミートアップ、スペイン語を学ぼうミートアップ、新米おやじミートアップなど、なんでもある。ニコ・メレはこの動きをキャッチして政治参加ミートアップを立ち上げ、アクトブルーにつなげてみせたのである。
 そういうことをしているうちに、新しい時代社会の到来の手ごたえを得た。それがいまさらながらの「ビッグによる支配はもう終わった!」というものだ。本書はアンチ・ビッグに関するメッセージの臆面もない発露集になっている。

(左)ムーブオン活動を支援していた頃のニコ・メレ
(右)支援者と交流するハワード・ディーン知事(当時)

 本書が「終焉の烙印」を捺したいビッグは、次の七つである。ビッグガバメント(国家・政府)、ビッグアーミー(軍組織・兵器システム)、ビッグカンパニー(大企業)、ビッグニュース(マスメディア)、ビッグパーティ(政党・利益集団)、ビッグファン(お抱え顧客主義・ポップアイドル主義)、ビッグマインド(ポピュリズム・大学組織・特定倫理)。
 七つのビッグは本書の章立てのタイトルにもなっていて、ニコ・メレはこれらすべてが怪しくなっているか、その使命が終わっていると裁断する。すでに「大きいもの」は偏向しているか、自己の荷重に喘いでいるか、衰弱しつつあると見る。たしかにビッグガバメントやビッグニュースやビッグパーティは青息吐息だ(だが、ほかはどうなのか)。もしもこうした「ビッグ」たちが自身のヤバイ宿命を感じていないのなら、序章では勇んでこう書いている、「それなら、みんな焼き払え!」。
 むろん焼き払う前に手を打っておかなくてはならない。「大きいもの」がしだいに終焉を迎えていくだろううちに、「小さいもの」の可能性が新たな時代社会の結節力を着々とつくっていく必要がある。
 短くまとめれば、本書の主張は以上に尽きる。まことに明快だが、これだけでは疑問も出てこよう。いったい「大きいもの」に代わる「小さなもの」とは何なのか。

 80年代、「大きい政府」に代わって「小さい政府」がレーガノミクスやサッチャリズムという恰好で登場したときは、結局は新自由主義やマッドマネー資本主義ばかりがはびこった。
 次々に小さなNPOが生まれていったときも期待が寄せられたのだが、それらはだんだん太り始め、利益や権益を牛耳るようになった。一方、小さなネットサイトは雨後のタケノコどころか、洪水のように溢れていったけれど、結局はグーグルやアマゾンのような“巨人”が大きな利益を占めた。
 21世紀のこれからの社会で、またまたそういう「あやしい小」を選択したいのかといえば、そうではない。本書が新たな「小」の主役としたがっているのは「ラディカル・コネクティビティ」である。電子ネットワークの「根っこ」(radical)で互いにつながっていく相互連接力(connectivity)だ。本書はこれを「新しい小」だと主張する。
 この「小」には、すでにして分散型ネットワーク、ナード(おたく)、オープンソースプログラミング、ハッキングテクノロジー、ユーチューブ、スマートフォン、集合知、フリーウェア、クラウドソーシング、地域通貨、ウィキペディア、メッシュネットワーク……などなどの、コネクティブ・ソフトテクノロジーが組み合わさっている。だからいたずらに「大」をめざす必要がないのではないか。本書はそこを強調した。

会談するサッチャー英首相とレーガン米大統領(1982年6月)

 たしかに「大きいもの」はずいぶん動きが鈍くなってきた。いまだ巨体を自慢するかのようにのさばっている政府も企業もマスメディアも大学も利益団体もあるけれど、たいていは総身に知恵がめぐりにくくなっている。
 そこに新たな「小」が入りこむ。そういう余地もあるし、そういう隙間もいっぱいあいているはずである。本書は次のような例をあげる。

 ★1997年から2005年までで、アメリカの大企業では約1100万人が解雇された。代わって同じ時期のあいだ、小さな企業に4800万人が就業し、そのうち起業家が3100万人に達していた。ビッグカンパニーであり続けるのは、かなりの時代逆行になっている。
 ★2012年にデューイ&ルバフが破綻した。デューイ&ルバフは1909年創業の、最盛期に1400人の弁護士をかかえていたビッグカンパニーの法律事務所だった。しかしぺしゃんこになった。わずか数ヵ月で18名のパートナーが辞めていったのだ。
 ★だったらビッグな弁護士に何かを相談する前に、あらかじめローピボット(Law Pivot)にアクセスすればいい。体の具合がおかしいならペイシェンツライクミー(Patients Like Me)の、薬のことが気になるのならメディガード(Medi Guard)の、専門知識に目配りしたいのならクオラ(Quora)のURLを、叩いてみればいい。
 ★マスメディアによって提供されるビッグニュースはたいへん穴だらけで、テレビでは3日たっても同じ画像と解説しか流していない。そのため40代以下の世代の多くは大新聞やテレビ局が流す情報などは片目でちらちら見るだけで、あとはツイッターやフェイスブックといったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で趨勢を眺めるようになってきた。テレビは同じニュースを流すのも解説するのも、やめちまえ。
 ★ナップスターとユーチューブによって、巨大レコード会社と巨大放送局の顔色が一変したのは、もうかなり前のことだった。いまではユーチューブの1日の動画視聴は30億回をこえていて、1分間に72時間分の動画がアップロードされている(2013年時点)。これに24時間テレビがいくら対抗しようとしたって、勝負は見えている。それならむしろリトルマガジンが活躍したほうがいい。
 ★アメリカは9・11以降の10年間で、テロとの戦いに3兆3000億ドルを費やした。そこには相手国の核開発阻止のために開発したコンピュータウィルス代も含まれる。スタックスネットやフレームだ。つまりは「大」の拡張のために「小」をも使わざるをえなくなったのだ。
 ★米中やロシアとEUの軍事緊張は、すでにビッグアーミー時代が限界にきていることを露呈した。9・11以降、当事者国家の戦争相手はほとんど「非国家主体」になっている。いまや、すべての戦いは非対称なのだ。そんなときに軍事協定で互いの戦力を対称的に規制しあったところで、アルカイダたちはなんら痛痒を感じない。かれらはテロ集団である前に、電子ネットワークでつながった過激情報ゲリラなのだ。

2億4500万ドル(当時約195億円)の負債を抱え2012年に倒産したデューイ&ルバフ

「ParientsLikeMe」(左)と「Quora」(右)のスマホアプリ画面

 ざっとこういう話が次々に俎上(訴状?)にのせられていく。そしてそのつど、ラディカル・コネクティビティがどんな分野にもその網目と結び目を少しずつのばしていることを報告する。
 なぜ、「大」たちはこんなふうになったのか。もはや「大きいもの」が信用できるとはかぎらなくなったのだ。大軍事、大原発、大農業、大銀行、大証券、大企業、大コンサル、大流通、大団体、大新聞、大代理店……。代わっておこりつつあるのは、たとえばエイミー・サンがやっているようなことだ。MITファブラボのエイミー・サンは、自分で開発したメッシュネットワーク構築のためのオープンソースシステムFabFiを、2008年にアフガニスタンのジャラーラバードに持ち込むと、小人数で短時間かつローコストな通信インフラをつくりあげた。これは政府の監視を受けないインフラになって、軍事と生活の境い目をつないでいる。
 また、日本ではSTAP細胞をめぐって論文の不備や不始末が指摘されているけれど、これは研究者たちの不正防止の徹底がなされず、査読が杜撰だったのだ。
 こういうときはクラウドソース型のオープンノートブックを活用する手がある。すでにアメリカでは化学化合物研究のユースフルケミ、自然科学論文専門のアーカイブ(arXiv)、科学者SNSのリサーチゲートなどが、共同研究者の“共読”のフィールドになっている。「ネイチャー」に論文を載せるばかりが能ではないはずである。
 ソーシャルメディアはかなりの便利を提供しているけれど、そこに流れるニュースをユーザー自身が「枠」や「筋」として把握するのはけっこう難しい。でもそれを補うソフトやサイトもあらわれている。ストリファイ(Storify)はそういう情報の流れから「物語化」を試みる。

「FabLab」の創設者エイミー・サン

メッシュネットワーク「FabFi」の構築作業現場

 こんな例はいくらもあるようだ。とくに資金がない「小」こそがラディカル・コネクティビティに敏感だ。
 日本の出版界にはキンドル上陸を前に電子書籍アレルギーが蔓延したが、その事情を逆手にとって単行本を出す連中もいる。ウェブコミックのリッチ・バーリューは自信作の『スティック騎士団』をキックスターター(Kickstarter)を利用して単行本にし、わずか数ヵ月で11万部を売り上げ、125万ドルを得た。キックスターターはいまでは数あるクラウドファンディングのサイトの一つにすぎない。独立系の映画をつくりたかったらインディゴーゴー(Indiegogo)に、音楽活動の資金を得たかったらプレッジミュージック(Pledge Music)などを訪ねるといい。
 日本でもカーシェアリングは進んでいるが、たいていはオリックスや三井のリパーク(careco)などの大企業のサービスになっている。リレーライズ(Relay Rides)なら同じ地域にある空き自動車をネットで申し込んでおけば借りられる。もっとラディカルなのはジムライド(Zimride)、スプライド(Spride)、ゲットアラウンド(Getaround)などだ。これらは、クルマを一台も保有しないプラットフォームである。

カーシェアリングサービス「Zimride」を2007年に共同創業した Logan Green(左)とJohn Zimme(右)

 こういうことがラディカル・コネクティビティをもった「小」の立ち上がりで次々におこっていけば、グランズウェル(大きなうねり)になるかもしれない。大軍事や大政治や大企業や大代理店がいまなお「大きなもの」にしがみつく理由はただひとつ、「右肩上がりの成長」は力の政治と規模の経済がもたらすものだと信じこんでいるからだ。
 合併しか思いつけない大企業は、本書だけではなく、シャーリーン・リーとジョシュ・バーノフが10年前の2004年に共著していた『グランズウェル―ソーシャルテクノロジーによる企業戦略』(翔泳社)なども読むといいのではないか。小さなソーシャルテクノロジーこそが新たなグランズウェルをつくっている現象にちょっとは驚くだろう。それでも信用できないというのなら、アパレル卸サイトのアリババ(Alibaba)をクリックするといい。

中国最大の電子商取引運営会社阿里巴巴集団(アリババ・グループ)の本社オフィス

 他方、ラディカル・コネクティビティには正義漢か悪漢かは見分けがつきにくいところがある。けっこう海賊的なこともやっている。ウィキリークスやアノニマスが最も有名だ。
 93歳のハイマン・ストラックマンはロングアイランドにいて、約10年ほど前からハリウッドの人気映画をコピーしたDVDをイラクやアフガニスタンに駐留するアメリカ軍兵士に送り続けている。この爺さんはどんな当局からの許可も同意も得ないで、海賊版を送り続けている“インター頑固な爺さん”だ。
 圧政や不正をチェックするためのサイトも各国で立ち上がっている。インドのアイペイド・アブライブ(IPaid ABribe)は、誰かが出生証明書や税金還付を得ようとしたとき賄賂を要求されたような場合、このサイトでその旨を書けば事態を解決してくれるか、交渉をしてくれる仕組みが発動する。なぜなら、そのニュースがたちどころにインド全土に広がるからだ。インド有数のカルナータカ州の政府高官バスカー・ラオは「いまや私の非公式報道官はアイペイド・アブライブになっている」と語った。
 似たような「審判型」あるいは「しっぺ返し型」のラディカル・コネクティビティは、チリにもロシアにもあるらしい。アレクセイ・ナバーリヌイが立ち上げた反汚職サイトのロスピル(Rospil)はいまや「プーチンが最も恐れるサイト」になっている。

2013年7月に5年の禁固刑が下されたアレクセイ・ナバーリヌイ

 「小さなもの」がこれまで威張りきってきた「大きなもの」をしだいに脅かしつつある例は、しばしば痛快や快挙をもたらしてくれる。けれども、この「小よく大を制す」はいつも胸をスカッとさせるだけではない。社会性や経済性においては意外な効果をもつものも、必ずしも「質」を保証しているわけではないからだ。そこも重々考えておくべきだ。
 ユーチューブのオリジナルコンテンツはハリウッドやフランス映画と肩を並べるところまではとうてい至っていないし、インターネット選挙で勝った政治家が、どぶ板選挙でのしあがった政治家よりも良質な政策を実践しているという例は、まだまだ少ない。

本書への赤字

 「小さいもの」が山椒のようにピリリと効くには、そもそも「大」との葛藤や闘争とは別なところで価値をつくりだすことに、あえて勤しむべきだ。

 電子ネットワークの商品市場では「フィルター・バブル」がおきている。いまや世の中、あまりにも協調フィルタリングの結果情報で占められている。フェイスブックのニュースフィードでさえ、ユーザーがクリックする可能性が高いコンテンツをアルゴリズムで抽出して表示する。これではユーザーは「デジタル・ナルシズム」(デジタル自己中)に陥るばかりになっていく。イーライ・パリサーが『閉じこもるインターネット』(早川書房)で文句をつけたくなったのも、よくわかる。
 小さいからといって楽観は禁物だ。ネット・コミュニケーションには中毒性がある。たえず秘密漏洩のリスクがともなっている。プロバイダーやメーカーにはユーザーの動向を操作する欲望が募りすぎる。こういうことは今後も止まらないだろう。
 公共政策学を専門とするジャーナリストでブロガーのレベッカ・マッキノンが『ネットユーザーの同意』(未訳)で書いていることだが、大手のデジタルプラットフォーム企業では、中国並みの検閲を常時やっていて、はなはだしい職権の乱用がおこなわれているという。みんな、相互監視の囚人なのだ。こういうことも、だんだんふえていく。
 と、まあ、こういう問題も数々あるのだが、いまはまだラディカル・コネクティビティに目くじらを立てるときではないだろう。むしろ「ビッグ」たちの内部崩壊がもたらす腐臭をこそ取り除くときなのだ。

書籍カバーの裏地

書籍カバーの表地

 

 

⊕ ビッグの終焉: ラディカル・コネクティビティがもたらす未来社会 ⊕

∃ 著者:ニコ・メレ
∃ 訳者:遠藤真美
∃ 発行者:山縣裕一郎
∃ 発行所:東洋経済新報社
∃ ブックデザイン:佐藤亜沙美
∃ 印刷・製本:図書印刷
∃ 編集:佐藤敬
⊂ 2014年2月13日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 日本語版への序文 
∈ 第1章 すべて焼き払え 
∈ 第2章 ビッグ・ニュース
∈ 第3章 ビッグ・パーティー
∈ 第4章 ビッグ・ファン
∈ 第5章 ビッグ・ガバメント
∈ 第6章 ビッグ・アーミー
∈ 第7章 ビッグ・マインド
∈ 第8章 ビッグ・カンパニー
∈ 第9章 ビッグ・チャンスをつかめ
∈ 謝辞 
∈ 解説 佐々木俊尚
∈ 原注

⊗ 著者略歴 ⊗

ニコ・メレ NICCO MELE
西アフリカ生まれ。幼少時をアジアやアフリカで過ごす。ウィリアム・アンド・メアリー大学卒。ハーバード大学ケネディスクール講師、エコーディット社未来研究員。ソーシャルメディアやWeb 2.0を、政治やビジネスに活用した先駆者である。2004年の大統領選挙において民主党ハワード・ディーン候補の陣営で、ITを駆使して選挙資金集めなどを行い、アメリカの政治界に革命的な変化をもたらした。インターネットのコンサルティング会社エコーディットを設立し、さまざまなNPOやフォーチュン500社に選ばれた企業などにコンサルティング活動を続けている。その他、スタートアップ企業の数社の創設・経営に参画している