才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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維摩経

ヴィマラキールティの教え

長尾雅人訳注

中公文庫 1983

今夜は大晦日。この去年今年の機に乗じて
かねて憧れ続けていた維摩の超哲学を
少しく案内して締めくくりたい。
不可思議解脱法門。不二法門。
この独特は、維摩居士にして初めて可能な
菩薩道をめぐる破天荒な方法である。
ここには瀬戸際という「瀬」と「際」がある。
そこを維摩は誰彼かまわず突っ込んでいくものだから、
仏門の訳知りな連中はことごとく翻弄された。
翻弄、歓ぶべし。本楼、賑わうべし。
あとはひたすら維摩の一黙が響きわたるのみ。
では諸君、よいお年を存分にお迎えください。

 本年、平成25年もあと数時間に押し詰まりました。大晦日というもの、時が切り替わるだけなのに、善悪硬軟いろいろ押し詰まる。でも明ければ元朝。「いかのぼりきのふの空のありどころ」(蕪村)。妙なものです。
 かの一葉(638夜)が「勝手は北向きに師走の空の空っ風ひゅうひゅうと吹き抜きの寒さ、おお堪えがたきと竈(かまど)の前に火なぶり一分と一時」とみごとに描いた大つもごり、虚子がずばり「去年今年貫く棒の如きもの」と詠んだ去年今年(こぞことし)です。

 あと1カ月ほどするとぼくも70歳になります。そのわりには、あいかわらず大小さまざまな仕事に追われたままにある。義理にも義務にも、カネにもスネにもコネにも縛られている。困ったものですが、むろん仕方ありません。この渦中で古稀を迎えるしかなく、またこの渦中でぼくがめざすことを実現していくしかないのです。

 この歳になりますと、やっと見えてくること、やはり違っていたんだと思うこと、もう少し整えたいこと、とっておきの方面に向かいたいこと、いろいろ混じります。これは「際の多様性」が実感できるからです。
 自分がどの程度の荷物を持って、どんなカーブを曲ってきたのか、気力が体力を超えるところがどこそこで、何をしたときに濡れ手が粟となり、どうすれば深く納得できるのか、諦めはどこでつくのか。かなり幾つものこうした“際”が見えるようになってくるからです。
 世間の躱(かわ)し方、思想の出来ぐあい、仲間との折り合い、ぶっちぎりの仕方、アートの切れ味、黙って事態を見送ること、闘いの転じ方、こういう場合のどこかにひそむ“際”がちょっとしたメタセンサーだけで測定できる歳なのです。
 しかしメタセンサーが効くということは、さまざまな仕事や兆候やアイディアにそれなりの価値がありうると、いちいちその“出来”が感じられるということでもあるので、へたをするとこれは「みんな我が子」のように目を細めることになりかねず、これは便利のようでいて、必ずしも深い判断になっているわけではありません。もっと深いところで何事にも同様の対応をしたくなる。
 ぼくも10年ほど前から、そろそろそういうふうに淡々ディープに生きようか、それじゃ隠逸の日々を半分ほどおくることになるけれど、それでいいかななどとも思っていたのです。

2013年も千夜千冊を綴った愛用の「書院」

 人間は数々の矛盾をかかえています。これは物心がついたときから誰にも付きまとっているものです。しかし長じるにつれ、矛盾は環境や個性や運に応じてさらに膨らんだり、かたまりにもなっていく。それを歴史や社会のせいにするか、脳と心と体の食い違いのせいにするか、境遇や報酬や才能のせいにするか、ここが問題です。
 自分がうっかり言わずもがなの新矛盾やムダ矛盾をふやしてきたのか、それとも頑固なものにしてきたのか、あるいはぐちゃぐちゃにしてきたのか、そこを見極める必要があるわけです。ふつうは、物心ついてからの矛盾の継承物となんとはなしの折り合いをつけていることが多いのですが、それではいかんと思うようになるのです。

 歳をとってくると、こういうことを不覚な日々を迎える前に結像させておきたくなります。そういうとき、またぞろ自分を覗くのではなく、むしろ別のモデルを覗きたくなります。もう自分のことはめんどうくさい。
 では、別のモデルはどこにいるのか。それはアナザーセルフやアルターエゴというものではありません。いまさら人格は変えられない。そうではなくて、かつてから自分の中に寄り添いながら出入りしていたコンティンジェントなものが見えていたはずなので、そのモデルと昵懇になりたくなるのです。コンティンジェントというのは「別様の可能性」ということです。
 ぼくには、こういうこともあろうかと、実はずっと前からいささか憧憬をもって付きあってきたコンティンジェント・モデルがありました。古代の老人です。仏門の野人です。
 というわけで、今夜の大晦日をちょっとした区切りのセレンディピティにして、ぼくのとっておきのモデルの話をしたいと思います。それは維摩居士(ゆいまこじ)の話です。
 一見すると傍若無人なのに、やたらに深く、みんなのことを考えているのに論争を怖れないそうとう変な男です。今夜は諸君も、この男と付き合っていただきたい。

法華寺の維摩居士像

 維摩居士は『維摩経』(ゆいまきょう)の主人公です。『維摩経』は仏典ですが、あとで説明するように、大乗仏典のなかでもかなり初期に編集されたきわめてユニークなお経です。
 そもそも主人公の維摩居士が仏僧ではない。出家したプロの僧侶ではありません。在家なのです。古代インドの大商人で、しかも富豪です。
 富豪なんですが、惜しみなく喜捨をする。誰彼かまわず援助する。なんとも羨ましいことですが、富の贈与と知の互酬性に徹することが身上なのです。それも、仏道の根本に従ったまでだという達観でやっているらしい。そういう男です。
 維摩居士がぼくのとっておきのモデルなのは、気っ風がよくて気前がいいからだけではありません。仕事をしたまま仏道をいとなみ、それなのにそんじょそこいらの出家者をいつも手玉にとるほどに、訳知りたちを翻弄した。その生き方や世間との付き合い方がめっぽうおもしろい。
 この男にはさしものブッダの名うての弟子筋たちも、並みいる菩薩たちも、きりきり舞いさせられた。そういう維摩居士の噂は当時から四方に知れわたっていたようです。

比叡山延暦寺の維摩居士坐像

 ともかく変わっている。変わっているのに、ある意味ではどんな菩薩道を踏んだ高僧や高潔たちより高く深く、かつざっくばらんです。意外性に富んでいるのに、なんだかやたらに説得力がある。大胆思考の仏者なのです。
 プロではないのだからアマなのですが、たんなるアマちゃんでもない。商人なのに仏者なのです。そういう維摩居士を「仕事をする仏教者」とか「マーチャント・ブディスト」とか、もっと今風にいえば「仏教する仕事人」と言っていいかもしれません。
 このような維摩居士を主人公にした経典が『維摩経』です。
 経典ではあるけれど、ほとんどドラマ仕立てになっているレーゼドラマです。主人公がそうとう変わっていて、経典が読みやすいドラマ仕立てになっているのだから、このドラマはおもしろくないわけがない。半沢直樹なんてものじゃない。活殺自在なプロットとエピソードがいっぱい詰まっている。つまらない100冊の小説を読むなら、『維摩経』をゆっくり3度くらい読んだほうがずっと興奮するでしょう。

白隠による維摩居士

 どんな話になっているのか、あらかじめ『維摩経』の筋立ての眼目をバラしておきます。
 商人でありながら高徳の士であって、きっと高額の布施や喜捨を躊うことなくふるまってきたであろうに、決して出家しようとしない維摩居士が、このところ病気で臥せっているらしいというのです。
 そこでブッダが気になって、弟子たちに「私の代わりに居士のお見舞いに行ってほしい」と言う。むろん大師匠の言うことだから弟子は受けざるをえません。次々に見舞いの候補者がたてられます。
 ところが、最初の代役立候補になった舎利弗(しゃりほつ:シャーリプトラ)は、これを辞退した。苦手なことはしたくないと言うのです。苦手なこと? どうも意味がわからない。そこで次に大目連(だいもくれん:マハーモッガラーナ)に命じると、私もあの人を見舞うのはごめん蒙りたいと言う。それだけではなく次の摩訶迦葉(まかかしょう:マハーカッサバ)も須菩提(しゅぼだい:スブーティ)も、釈迦十大弟子のことごとくが苦りきって辞退するのです。
 いったいどういうことかとブッダが訝ると、みんなどこかで維摩居士にやっつけられた経験があるからだと言う。全員が痛い目にあっている。
 『維摩経』の前半4分の1くらいは、こうした弟子たちや菩薩たちが維摩居士に「やっつけられる過去の場面」を次々に紹介するのです。
 こうして、最後の最後に指名を受けた文殊菩薩(文殊師利:マンジュシュリー)が見舞いを引き受けます。天下第一の智慧を代表する文殊が行くならというので、これまで尻込みしていた連中も様子を見たくってついていく。そんな連中をぞろぞろ引き連れた文殊が維摩の家に行ってみると、居士の家はなんと“もぬけの殻”だった。
 どうも本人が病気だなんて、ウソだったようなのです。呆れる文殊に、ここでいよいよ登場してきた維摩がとんでもない弁才縦横の説法をしてみせる。そのやりとりが思いもかけないほどに、大胆でおもしろい‥‥。ざっとはこういうふうに話が展開していくのです。

興福寺の維摩居士像(左)と文殊菩薩坐像(右)

法隆寺五重塔の東面にある維摩居士と文殊菩薩との問答の場面

 維摩居士は漢訳名で、維摩詰(ゆいまきつ)ともいいます。本名(インド名)はヴィマラキールティ。それゆえ『維摩経』は「ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ」(Vimalakirti-nirdesá-Sûtra)という。
 長らくサンスクリット語の原本は紛失したままにあると思われていた経典なのですが、ごく最近の1999年7月、チベットのポタラ宮殿の一隅でサンスクリット原典の忠実な写本が、発見されました。ターラの木の葉(貝多羅葉、略して貝葉)79枚に墨で筆写されていた。
 大正大学総合仏教研究所の学術調査団が発見したものです。さっそくその翻訳にとりくんだ植木雅俊さん(1300夜)は「仏教学史上20世紀最大の快挙」と言っています。
 それまでは長らく鳩摩羅什(1429夜)の漢訳経典が、もっぱら日本人の信仰者や研究者が依拠する経典でした。羅什はサンスクリット語の「ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ」を「維摩詰所説経」と訳し、これが日本にも伝わったのです。聖徳太子に『維摩経義疎』があるのはその最も早い受容例ですし、その直後には斉明天皇が藤原鎌足の病いを平癒させるために、法明尼に『維摩経』問疾品を読誦させたという記録がのこっています。
 そのため鎌足はたちまち回復して、熱心な『維摩経』の信者となり、高僧の福亮を招いて維摩講義をさせた。これが「維摩会」(ゆいまえ)の最初で、以降は興福寺が10月10日からの7日間の維摩会の法会を開いています。
 ひるがえって鳩摩羅什の弟子だった僧肇(そうじょう)が、そもそも漢訳注釈の泰斗でした。『註維摩』を書いた。それから天台や三論や法相の中国仏教各宗派の大成者たちも維摩に浸って注釈しています。
 ぼくはなかでも、南朝の士大夫(したいふ)たちが「竹林の七賢」と維摩詰のイメージをだぶらせたあたりの顛末が興味深く、それが中国絵画史を画期した王維(おうい)をして「王摩詰」と名のらせた経緯となっていったところに、ひとつの維摩居士像の頂点を見ています。

維摩会と勅使『春日権現験記絵』巻第11部分
(陽明文庫蔵)※『興福寺国宝展』図録より

狩野芳崖による「維摩居士図」

 維摩居士という男がはたして実在したのかどうかはわかりません。おそらく近いモデルはいたはずです。リッチャヴィ族の長者の一人だったろうということまでは、歴史学上の見当がついています。
 だいたい『維摩経』は『般若経』よりもあと、『法華経』(1300夜)よりも前に編集著作された初期大乗仏典ですから、おそらく紀元1世紀くらいに原型ができて、そのあと100年ほどで完成形になったとみられます。ということはキリスト教の「新約聖書」の成立期とほぼ相前後していたということですが、大編集者パウロについての研究がだいぶん進んでいるようには、『維摩経』編集集団の詳しいことはさっぱりわかっていない。
 でも、舞台は古代インドのヴァイシャーリー(毘耶離)という町であって、維摩居士ことヴィマラキールティはその町に住むお金持ちの商人だったという設定になっていますから、まあ、紀元前1~2世紀あたりにそういうモデルに当たる人物がいたのだろうと思います。それがずっと噂や話題になって仏教徒のあいだであれこれ伝聞され、あるとき(この「あるとき」というのが重要ですが)、『維摩経』としてまとまった。
 ということは、経典にはブッダの十大弟子が維摩居士を訪ねたというふうに書いてあるものの、ブッダ没後のだいぶんあとの話だったわけです。このあたりは適宜、場所・時代・人物・因果関係を入れ替えて編集したのでしょう。なにしろ仏典の古代編集力は、その実態はまだわかっていませんが、できあがった経典群から見て、アジア随一のものなんです。

BC100〜AD299までの『情報の歴史』(NTT出版)
般若経から華厳経までの世界中の歴史の流れを一望できる。

 維摩居士が住んでいたというヴァイシャーリーという町は、現在の中インドのベンガル州パトナの北のベーサール付近に同定されます。
 ここは仏教史においても甚だ由緒あるところで、仏典の第2期結集(けつじゅう)がおこなわれました。ブッダ入滅から100年ほどのちのこと、紀元前3世紀前後のことで、この結集のあと、紀元前3世紀半ばにはアショーカ王が仏教に帰依して第3回の仏典結集がなされます。
 この第2回の仏典結集の前後、それまでの戒律(これを十事という)があまりに厳しすぎるので、ヴァイシャーリーの出家者たちがその緩和を要求しました。けれども戒律こそが仏道なんだと確信している連中は、そんなことを認めない。とくに高僧たちが許さない。よくあることです。
 そうこうするうちに、ブッダ教団は伝統を重んじる保守派の「上座部」(じょうざぶ)と、現実的で生活的な「大衆部」(だいしゅぶ)とに分裂します。これが仏教史上に有名な「根本分裂」ですが、その後も分派と分裂はもっと進み(枝末分裂)、初期仏教の結社の大半が「部派仏教時代」になります。
 こうしていわゆる「小乗仏教」が広まって、自己中心の解脱をめざす方向に初期仏教の全容が凝りかたまっていく。

ヴァイシャーリー(毘耶離)
古代インドの十六大国の1つヴァッジ国内にあった商業都市。

 しばらくたつと、時代社会というのはいつだってそういうものですが、どうもそれはおかしいんじゃないかという連中が出てきます。
 この新しい連中は、仏道というものは自分だけが救済されるのではなく、他者も一緒に救済するものなのではないか、修行だって自分のためだけではなく他人のためにおこなうのじゃないかと考えます。つまり「利他行」(りたぎょう)を主張する。そのほうが真の菩提(悟り)になると主張する。
 やがてこのような他者救済を唱える連中がだんだんふえて、その教えや行いを「菩提薩埵」(ボーディサットヴァ)と呼ぶようになります。「菩提」とは真の悟りのこと、それをやっているのが菩提薩埵、略していわゆる菩薩たちに当たります。この、他者を含む菩提を重視するムーブメントが「菩提乗」(菩薩道)で、そのことに矜持をもった連中が自らを「大乗」(マハーヤーナ)と呼称します。自分たちでそう名のったので、これに対してあいかわらず自己覚醒にこだわる部派仏教の連中を「小乗」(ヒーナヤーナ)と蔑称しました。
 こうして大乗仏教と小乗仏教とが分かれるのです。最近の仏教学は小乗仏教という名称が語弊があるというので部派仏教と呼んでいる。

仏教が伝播した流れ

 おそらく維摩居士は、こうした大乗仏教の勃興期の社会でそうとう目立っていた人物だったろうと思います。小乗と大乗のリミナルな分かれ目で目立ったのだろうと思います。
 それというのも、菩提乗はたとえば「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の「六波羅蜜」をまっとうするのを本来の活動の主旨とするのですが、維摩は在家にありながらも、この六波羅蜜に徹しているからです。六波羅蜜は六つの波羅蜜(パラミター)ということで、彼岸に到達するための六つの行目(ぎょうもく)です。“param”(彼岸)に“ita”(到った)という語源です。
 ところが、ここがおもしろいところなのですが、『維摩経』に次から次へと出てくる登場人物の多くも大半が菩薩たちで、当然ながら六波羅蜜をはじめとする彼岸修行をしてきたのに、それゆえのちのちの大乗仏教史を飾るほどのお歴々になったのに、それが維摩の前ではさっぱり立つ瀬がないのです。ウダツが上がらない。それどころか、仕事人でマーチャントな男にこてんぱんにやられ、その説教にほとほと聞きほれているのです。
 いったいなぜこんなふうになっているのか。維摩居士のどこが凄いのか。
 一言でいえば、矛盾を怖れていないからです。矛盾を「内」に感じるのではなく、「外」に使えるからです。
 矛盾というもの、よく見ればリバースモードになっています。行って来たり、入ったり出たり、表になったり裏になったりしている。それが絡まってどこかに止まってしまうのが矛盾です。だったらこれを内外に動かせばいい。
 ただしそうできるには、自分にも付着しているはずの諸矛盾を怖れていては、いけない。どうすればいいか。修行も大事だけれど、維摩は矛盾を怖れないだけでなく、自身の矛盾めく姿をあえて相手に見せるという方法に気がついたのです。
 維摩はこうすることによって、相手の立つ瀬の「瀬」や「際」をずばずば問うていくのです。自分の諸矛盾や弱さを平気で外に出し、それをもって相手に編集をかけるのです。そして、このときには容赦をしない。
 いったい維摩は相手に対してどんなふうにその「瀬」や「際」に迫るのか。『維摩経』を読む醍醐味は、その「瀬」や「際」をめぐる謎に擽られていくところにあります。

 『維摩経』は全部で14章立てになっています。仏典ではチャプターのことを古来から「品」(ほん)と訳してきたので、14品。長い経典ではありません。読み出すとあまりにおもしろくて、息継ぐ暇なくあっというまに読めるはずです。とりあえず構成一覧を示しておくと、次のようになっています。

 1「仏国品」(ぶっこくほん)
   ‥‥ブッダの集会説法。「理想の国土」(仏国土)
     とは何かが説かれる。
 2「方便品」(ほうべんほん)
   ‥‥維摩居士の話題に入るのだが、
     本人は病気らしくて登場してこない。
 3「弟子品」(でしほん)
   ‥‥ブッダの弟子たちが維摩の見舞いを断った
     経緯をいろいろ説明する。
 4「菩薩品」(ぼさつほん)
   ‥‥弥勒や宝積らの菩薩たちも尻込みをして
     しまった理由をいろいろ説明する。
 5「問疾品」(もんしつほん)
   ‥‥いよいよ文殊が見舞いに行って維摩居士
     との切磋琢磨の問答の火花を散らせる。
 6「不思議品」(ふしぎほん)
   ‥‥維摩による大胆な「無限定の限定」という
     解脱感覚論が披露される。
 7「観衆生品」(かんしゅじょうほん)
   ‥‥なんとジェンダーを超えて天女や女身を
     論じたりして、「人間」の意味が見えてくる。
 8「仏道品」(ぶつどうほん)
   ‥‥矛盾がこびりついた煩悩とそれを解きほぐす
     菩薩の意味があきらかになっていく。
 9「入不二法門品」(にゅうふにほうもんほん)
   ‥‥ついに語られる「不二の哲学」のリバースモード
     と恐るべき「維摩の一黙」。
 10「香積仏品」(こうしゃくぶつほん)
   ‥‥超菩薩のキャラクタリゼーションをめぐって
     メタファーがいろいろ駆使される。
 11「菩薩行品」(ぼさつぎょうほん)
   ‥‥これまで見舞いに行った連中が一人ずつ
     本音の感想を述べていく。
 12「見阿閦仏品」(けんあしゅくぶつほん)
   ‥‥自己と他者をめぐる真実の見方が語られ、
     維摩の正体が暗示される。
 13「法供養品」(ほうくようほん)
   ‥‥世界にひそむ因縁の本質の説明がなされ、
     天帝から大絶賛を受ける。
 14「嘱累品」(しょくるいほん)
   ‥‥ふたたびブッダが登場して、
     かくてなにもかもが大団円へ。

 これでだいたいの流れがわかるでしょうが、このうちの第4品までを序分、後半を正宗分(しょうしゅうぶん)といいます。文殊がご一党を引き連れて居士の家を訪れた第5「問疾品」からが正宗分というメインディッシュです。
 かんたんなドラマの仕立てとテーマ展開をかいつまんでおくと、冒頭の1「仏国品」はかなりおおげさです。仏典はどんな経典(スートラ)も開闢シーンがたいていおおげさで、あまり本気で読まないほうがいい。ハリウッド・アドベンチャーの冒頭シーンだと思って、お気楽に読めばいい。
 『維摩経』もヴァイシャーリーのアームラパーリー(菴羅樹園)の一角にどっかと坐ったブッダ(世尊)が、8000人の大比丘衆と32000人の菩薩を前に説法をしているという、一大ページェントから始まります。サッカー場か野球場並の群衆のごとく阿羅漢たちが集まったというべらぼうな話ですが、むろんそんなことはない。大きくケタを変えてある。菴羅樹園はマンゴーの森のことです。
 そこへ宝積(ほうしゃく)菩薩がしずしずとあらわれて、長者が多いリッチャヴィ族の500人の若者たちとともに日傘を捧げてブッダに供養します。すると、ブッダがたちまち500の傘を一つの巨きな傘に変じるという幻術のようなことをおこす。これも仏典にはよくあるマジックショーのようなもので、インド人特有の針小棒大な光景の描写によって、これからおこることが有り難いことなのだと知らせているわけです。いまでも東京ドームや武道館のイベントの開幕シーンで見せていることです。今夜の紅白歌合戦もそういう演出でしょう。
 こうして仏国土とは何か、理想の世界とは何かという説法がじょじょにくりひろげられ、ブッダは理想世界の建設のためには「直心・深心・菩提心」という三心が肝要だと言います。三心だけでなく、六度、四無量心、四摂法(ししょうぼう)、十善など、次々に九行ものメルクマールを説く。これらを認識して実行すれば、世界は浄化されて浄土になると言うのです。

刺繍釈迦如来説法図

 しかし、こんなことばかり並べられても、まさにお題目ばかりでよくわからない。実際にも舎利弗(シャーリプトラ)がブッダに質問をします。世尊はそんなことをおっしゃるが、この世界は浄土どころか穢土(えど)ばかりではないですか。これは矛盾しているのではないか。
 ちなみに実際の歴史上の舎利弗は釈迦十大弟子のトップを切る者で、ブッダよりも年長者だったためブッダの後継者になるだろうと期待されていたのですが、先に死んでしまいます。だからこの場面では、舎利弗はまだ悟りを開けないでいる段階の舎利弗ということで、小乗仏教が好きな声聞(しょうもん)の立場から質問しているという設定になっています。
 ともかくも、このように舎利弗は正直な質問をしたのですが、ブッダはこのとき自分の足指で地面をほぐして、三千大千世界を無数の宝飾でキラキラに輝かせましたとあって、ほかには何ら説得力がない。

舎利弗像(しゃりほつぞう) 乾漆造 彩色 奈良時代 像高 152.7cm
釈迦は舎利弗には一目置き、弟子の中でも上首に置きます。学問と徳行にすぐれ、人々の教化に努め、智恵第一の人と称されました。

 そこで『維摩経』は2「方便品」に移ります。ここはやっと維摩居士の姿があらわれるはずの章なのですが、実際に登場してくるのではなく、維摩がどういう人物なのか、その噂が語られるだけなのです。たいへん巧みな編集です。
 こんなふうです。「毘耶離城に長者にして維摩詰と名づくる者あり。かつて無量の諸仏を供養して、深く善本を植え、無生忍(むしょうにん)を得て弁才無碍なり。神通に遊戯(ゆげ)し、もろもろの総持を逮して無所畏を得て、魔の労怨を降(くだ)す。深法(じんぽう)の門に入り、智度をよくし、方便に通達し、大願成就す」。
 ニーチェ(1023夜)に『この人を見よ』という快著がありますが、まさにこの章は「この人を見よ」というふうになっている。維摩というとんでもない在家の仏者がいる、その男はいまは病気で臥せっているのでこの場には姿を見せられないが、これこれしかじかの凄い男なのだということが語られるのです。
 それにしてもやっと維摩が出てきたのに、その姿がなく、病気の維摩を通してその偉大がヴァーチャルに語られるのは、意外です。なぜこんなふうになっているかというと、これは維摩の方便なのです。作戦であり、魂胆なのです。

 というわけで、ここからはブッダが次々に弟子たちを見舞いに行かせようとする3「弟子品」、続いて菩薩たちを行かせようとした4「菩薩品」というふうになっていきます。
 しかし、さきほども紹介したように、全員がことごとく維摩に恐れをなして辞退してしまうことになる。これまたまことに奇妙な展開です。奇妙な展開だけれど、その理由を各自が次々に述べるという構成になっているので、その各自の体験報告から「見えない維摩」の驚くべき弁才無碍がしだいに立ち上がってくるようになっていきます。憎い編集構成です。
 たとえば、かつて維摩は大目連には「法(ダルマ)を説くなら混じりっけなしでいきなさい」と言い、摩訶迦葉には「かっこつけて貧者ばかりを応援するな」と言ったらしいのです。貧者ばかりというのは、慈悲心を示すために富者を避けて貧しい者ばかりのところで説法しているという批判なのですが、これはかなりきつい批判です。維摩は偽善を許さない。そんなことでメセナやCSRをやっていると思いなさんなよ、それより矛盾を吐き出しなさい、という勢いです。
 須菩提には、君は行乞(ぎょうこつ)をしているようだが、本気で物乞いするのなら君自身が落魄しなければいけないと諭したようです。これもかなりのパンチアウトです。そして、かの弥勒菩薩に対してさえ、あなたは未来の世でブッダ(覚者)になることを約束されているようだが、ではいったいその悟りのモデルはどこから得たものなのか、それが過去だと言うなら、未来とは何かと問い、弥勒を困らせたらしい。

呉道玄による維摩詰

 こういうことをみんながかつて維摩から言い渡されたので、それで誰もが怖じけづいてしまったのでした。
 ぼくが気にいっているのは光厳童子のエピソードです。光厳童子が毘耶離の大城を出ようとしたとき維摩に出会ったので、「どこからいらしたのですか」と訊いたところ、「道場からやってきた」と答えた。そのころ道場といえばブッダガヤの道場のことだから、ずいぶん遠いところからお見えになったのですねと訝ったところ、維摩は「どこもかしこも道場だ」と答えたというのです。まさにその通り。ジンセー、どこもかしこも道場です。
 このたぐいの話が次から次へと提示されるのですが、読めば読むほど引き込まれるとともに、維摩とはどんな男なのか、好き勝手を言っているだけじゃないか、実はそれほどたいした男じゃないのではないか、これで大乗仏教や菩薩道を説明することになるのだろうかとか、それにしてもつねに大胆不敵で、電光石火の問答を切り結むものだとか、いろいろ興味や疑問や期待が沸いてきます。

「人生が道場だ」
『維摩経講話』(鎌田茂雄著)より

 こうして4「問疾品」で、いよいよ最後の切り札の文殊菩薩が満を持して見舞いに行くということになるのですが、行ってみたら、なんと仮病だった、維摩はウソをついていたという意想外の事態が待っていたわけです。
 『維摩経』のレーゼドラマ全篇の進行を劇的なものにしているのは、この、病気で臥せっている維摩のところへ見舞いに行ったところ、それが仮病だったという最初のどんでん返しです。これですべてが劇的効果満点になっていく。これ、「伏せて、開ける」というぼくが大好きなやりかたでした。
 はたしてヴァイシャーリー(毘舎離)にいた維摩が実際にもそういう手を使ったのか、それとも仏典のハイパーエディターたちがそのように脚色したのかははっきりしませんが、おそらくは似たようなことがあったのだと思います。
 利休が秀吉に「庭の朝顔がみごとに咲いています。どうぞ明日の朝茶へお越しください」と言って、秀吉が行ってみたところ、その朝顔が全部ちょん切られていた。ムッとした秀吉が躙口(にじりぐち)から入ってみると、薄暗い茶室の床に一輪だけ朝顔が活けられて光輝くようであったという、あの話に通じる劇的効果です。いや、価値の本来を気付かせる方便です。
 この仮病の仕立てによって、維摩が文殊と問答をする「際」が俄然切り立ってきて、「問疾品」がぐいぐい迫ってくるのです。

文殊菩薩(莫高窟壁画)

 文殊との問答には、ぼくもいろいろヒントをもらいましたが、そのひとつは維摩が文殊に「不来の相にして来たり、不見の相にして見る」と言った場面です。
 これは文殊がたくさんの連中を引き連れてやってくるというので、部屋という部屋をからっぽにしておいて、ひとつだけ寝台をのこしてそこに悠然と横たわっていたので、文殊たちがびっくりしたとき、言い放った言葉です。
 維摩は「文殊たちよ、よく来たね。諸君は来ないで来て、見ないで見ているのだよ」と言ったのです。まったく怖いことを言うものです。ところがその意味が一同にはわからない。ついつい「なぜ部屋はからっぽなんですか」とか、「椅子ひとつないのはどうしてですか」と聞かざるをえなかった。
 すると維摩は「君たちは椅子がほしくて来たのか」「からっぽなのはこの部屋だけか」と強い問答を強いてくる。これにはみんなギャフンです。

 しかし、そう言われれば、そうなのです。誰も椅子に坐るために来たのではなく、維摩の話を聞きたくて来たのだし、部屋がからっぽだからといって維摩居士がそこにいればそれでいいはずでした。
 それにからっぽなのは、その部屋のことだけであるはずもない。からっぽは、どこにでもありうる。ブッダはとっくに「諸行無常、諸法無我」と言っていたのです。しかし菩薩たちは維摩を前にしては、そこをそのように単刀直入できないでいるのです。
 かくて維摩はここで「空」とはどういうものか、「席」とはどういうものかを説明する。たんにその主題を訳知りに論じるのではなく、まさに目の前で「空の部屋」「なくなっている席」を見せたうえでの菩薩道の議論です。『維摩経』はここに大乗仏教最大のテーマである「空」をとりあげたのです。
 それでも文殊たちは、まだどうしてもわからないことがある。それは、なぜ維摩が仮病の手をつかったのかということです。そこで維摩は、病気が真実か虚偽かをどこで決めるのかを問います。そもそも虚妄に陥る心だって病気かもしれないのです。実際、現代の精神病理学ではそうした虚妄を精神病とみなしている。つまり、病気は誰かが決めた席の症状にすぎないのです。
 こうして維摩は菩薩たちに「客塵煩悩」(かくじんぼんのう)を説き、諸君の心の中ですべての塵(矛盾)を“客なるもの”とみなせば、ふだんから煩悩から離れられるはずなのだと言い放つのです。

維摩居士(莫高窟壁画)

 以降の『維摩経』でも、ぼくが気にいっているところは幾つもあるのですが、とりわけ6「不思議品」と9「入不二法門品」が白眉です。
 『維摩経』が説いていることを仏教学的に集約すると、「空」と何か、「不可思議解脱」とは何か、「不二法門」とは何か、という3点に尽きています。そのうちの最大のテーマ「空」(空観)については、つまり大乗仏教がおこった最大のエンジンとなった「空」については、一応は『空の思想史』(846夜)や『大乗とは何か』(1249夜)にも千夜千冊してみたので、いまは省きます。
 そのかわり今夜は諸君を「不可思議解脱」と「不二法門」に向けて大晦日の行方知れずを誘い、除夜の鐘とともにおわりたいと思います。

 6「不思議品」のドラマは「問疾品」を受けて、舎利弗との「椅子」と「席」をめぐる議論に始まり、維摩が「無住」また「本来無住」を示唆すると、そもそも師子座とはどういうものかと問うところから、一気に加速します。
 師子座というのは古代インドで国王や貴人や高僧が坐る台座のことですが、仏教ではブッダの座をさします。それならば、このブッダの座はいつからあったのか。ブッダがいたからその座になったのか、だったらそのブッダはいつから覚悟していたのか。
 いろいろ推理してみると、この座は前世のブッダが雪山童子と呼ばれていたころから想定されていたというふうになります。しかし、過去にそういう座が物理的にあったわけではない。そうだとすると、師子座は何かの想定の中にあるもので、それが現在まで続いている。その想定には五蘊(ごうん)や三界や十二処や十八界がくっついているはずですから、現在まで引っ張ってくるうちに、これは世界大というものになるわけです。たんなる「椅子」なんて、どこにもないのです。
 ということは、何かを悟るということ、すなわち解脱(げだつ)するということは、このように部分をあまねくものの想定にすることができるかということにほかならず、それはさまざまなことが同事=同時であるように自身を仕向けることなのです。

狩野福信(洞春)による「中維摩居士・雲龍図」

 仏教では四摂法(ししょうぼう)といって、布施・愛語・利行・同事を重視します。布施は与えること、愛語は優しい言葉、利行は思いやりの行為、そして同事は相手と同じ立場に入って何かの先に導くことをいう。
 この同事を同時におこすべく、仏道では六波羅蜜を研ぎ澄まし、顛倒(てんどう)がいつでもおこるように準備し、あたかも芥子の中に須弥山を入れてしまうかのように、どんな部分と全体の関係も、どんな過去と現在の関係も、自在にリバース観相できるようにするわけです。それを維摩はふわりと「不可思議解脱」と呼ぶのです。
 『維摩経』にはこう書かれています。「諸仏菩薩に解脱あり。不可思議と名づく。もし菩薩、この解脱に住すれば、須弥の高広を以て芥子の中に入るるに増減するところなし」。どんなに部分と全体を入れ替えても、そこには不可思議という「不」が関与して、万事平気になるものだというのです。
 ひるがえって、維摩の仮病もからっぽ作戦も「不」の介在に果敢であったということなのです。かくして、ここから「不二法門」へ話がとんでいく。

「維摩図」東朱
栃木県立博物館所蔵

 われわれはつねづね精神と物質とか、生と死とか、黒白つけるとか、組織と個人のどちらを優先するとか、現実感と想像力をくらべるとか、勝ち組と負け組に分けるとか、罪と罰、優美とがさつ、思慮と行動、「きれい」と「ぶさいく」とか、都会と田舎とかとか、理系と文系とかとか、何であれ二つのものを対立させて見がちです。ダイコトミー(二分法)です。
 対立して見ているうちに、どちらかに加担しすぎたり、その絡みぐあいに巻き取られます。これが新たな矛盾や葛藤になって自分を襲ってくるのですが、仏教ではこれを「分別」と呼んで要注意に扱っている。
 当然、われわれの思惟や思考は世の中向けになっていますから、ふだんの基本活動は分類的にできていて、それゆえ物事や仕事を進めるには分別知は欠かせないのですが、だからこそ法や科学やスポーツなどの勝負事が確立してきたのですが、とはいえ、そのどちらかが絶対化される必要はないはずです。そもそも分別は「差別」(しゃべつ)だったのです。
 ですから二分法的に物事や仕事を考えていくと、どうしてもそのどちらかを選択するだけになります。この分別にのみ陥ってしまうところから抜け出るにはどうすればいいのか。ここをあえて高次に脱出しようというのが維摩の言う「不二法門」という方法です。二つのものをダイナミックな一つのものの動きやはたらきと見るのです。高次に見るというのが維摩の眼目です。

王振鵬による「維摩居士と不二法門の説法」
(Vimalakirti and the Doctrine of Nonduality)

 維摩は不二法門の一挙的把握のための例示や比喩や説得などを、9「入不二法門品」だけではなく、『維摩経』のそこかしこでぶっとばすがごとくに連打します。これが禅問答めいていてたいへん痛快なのです。
 たとえば、健康と病気。これも二分です。むろん健康であることや「亭主元気で留守がいい」のがいいに決まっているようですが、では健康であろうとしてそれに囚われるのはどうか。病気だからといって落胆してしまうのはどうか。
 ぼくの体験からしても、病気や手術はいろいろなことを気付かせてくれました。だから健康がマルで、病気がバツとは言えない。そのどちらでもありうるところにいるといい。これはまさしくリバース・エンジニアリングの高次編集状態が必要なのです。こういうとき維摩は、健康でも病気でもない「不二法門」に入ると言うのです。

「維摩居士図」狩野山雪筆 福井・善導寺

 不二法門は、いいかえればコンティンジェントであるということです。コンティンジェントとは「別様の可能性をもっている」ということですから、二者択一を超えているのです。
 またたとえば、仕事がうまくいくか、いかないか。これを売上高でみればコトの黒白が決まるけれど、スタッフの働きぐあいやクライアントの学習ぐあいからすると、成功とも言えないし、失敗とも言えない。そういう仕事はしょっちゅうあります。でも、これを最初から効率のいい仕事ばかりを前提にしてしまうと、すべてがルーチン化して、市場や技術の動向による転換ができなくなりかねない。
 こういうとき、あらかじめ不二法門に入っておいて、そこから次を窺うようにする。そのほうがずっと高次になっていく。
 不二とは「2にあらず」ということです。2ではないというのは、2になったら1に戻るか、もっと多くの数に入ってそこから「不二」という新たな自信をもつか、それともふだんから2が来たら、どんな2も1、1というふうに、別の2が来たらそれも1、1と見るようにするか、このどれかです。
 三浦梅園(993夜)はそこを「一即一一」と言った。1の中にいつも1、1を見た。これはものすごい見方です。反観合一という高次な方法です。維摩のやりくちもこの方法に近い。次のように言います。
 「世間と出世間とを二となす。世間の性として空なる、すなわちこれ出世間なり。その中において、入らず、出でず、溢れず、散ぜざる、これを不二法門に入るとなす」。「生死(しょうじ)と涅槃とを二となす。もし生死の性を見れば、すなわち生死なし。縛なく解なく、生ぜず滅せず。かくのごとく解せば、これを不二法門に入るとなす」。「有所得の相を二となす。もし無所得ならばすなわち取捨なし。取捨なきもの、これを不二法門に入るとなす」。
 この3つ目の言い分は、われわれはついつい報酬を求めることで何かをなそうとしているが、「取」と「捨」を同一の次元にとらえる高次な立場に立てば、取捨の区別なく、したがって報酬と無報酬を超えられるはずだというのです。
 かつて幸田露伴(983夜)は『閑窓三記』に「捨」というエッセイを綴り、「取ることを知りて、捨つることを知らぬは、大いなる過ちなり」と記しました。さすが、古典日本と近代日本を分割しなかった露伴です。

三浦梅園による「一二精麁図(麁=粗)」

 不二法門については、文殊もこう言います。「我が意の如くんば、一切の法において言(ごん)もなく、説(せつ)もなく、示(じ)もなく、識(しき)もなし。これら諸々の問答を離るる。これを不二法門に入るとなす」。
 これは不二に入るには、まず守って、次にこれを破って、さらにそこから離れるという「守・破・離」に似たことを説明しています。しかし、文殊の理解は不二のために言語からも離れようとしている。言語を離れるために言語を用いた。これは不二なのか、不二ではないのか。
 のちの経典『大乗起信論』では、絶対の真如は言葉で解くことはできないが、「言説(ごんせつ)の極、言(ごん)に依って言(ごん)を遣(や)る」と説明します。ぼくも30代半ばに、『遊学Ⅰ』(中公文庫)に「言葉から出て言葉へ出る」と書きました。道元(988夜)についての文章でうっすら見えたことでした。
 では、では、そこで維摩はどうしたかというと、これこそ『維摩経』全篇のなかで最も有名な場面になるのですが、悠然と、黙っていたのです。ただ黙したのです。一堂は凍りつきました。これが後世に有名な「維摩の一黙、響き雷の如し」と言われてきた、驚くべき結末です。

「維摩一黙(ゆいまいちもく)」(平櫛田中作)
足立美術館収蔵

 維摩居士は一黙した。たんに沈黙したのではありません。一黙という凝然不動を見せたのです。鈴木大拙(887夜)はこれをずばり「維摩拠坐」と名付けたものでした。座禅の境地と同じだというのです。
 いやいや、たいへんな結末です。こういうところが維摩居士という男の変なところであり、不抜にものすごいところなのです。ぼくはそういう維摩にコンティンジェント・モデルを感じてきたのです。
 以上、大晦日の告解でした。維摩居士が「仏教する仕事人」であったことに、すべてのヒントがあります。ぼくもそんな居士でありたいとも思っています。それでは、諸君、くれぐれもよい年を迎えてください。そして一黙。あけましておめでとうございます。

 

⊕維摩経⊕

∃ 訳注:長尾雅人(ながお・がじん)
∃ 発行者:中村仁
∃ 発行所:中央公論新社
∃ 印刷:三晃印刷
∃ 製本:小泉製本
⊂ 1983年7月10日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 一 仏国土の清浄
∈ 二 考え及ばぬほどに巧みな方便
∈ 三 弟子たちと菩薩たちの病気見舞い
∈ 四 病気の慰問
∈ 五 不可思議解脱の法門
∈ 六 天女
∈ 七 如来の家系
∈ 八 不二の法門にはいる
∈ 九 仏陀の食事をもらう
∈ 十 有尽と無尽という法の贈り物
∈ 十一 妙喜世界と無動如来
∈ 十二 過去の物語と法の委嘱
∈∈ 訳注 
∈∈ 解説 

⊗ 著者略歴 ⊗

長尾雅人(ながお・がじん)
明治40(1907)年、仙台市に生まれる。京都帝国大学文学部哲学科卒業。京都大学名誉教授。文学博士。学士院会員。昭和34(1959)年、学士院賞受賞。昭和40(1965)~41(1966)年、ウィスコンシン大学招聘教授。著書に『蒙古學問寺』『西蔵仏教研究』『梵文中辺分別論釈』などがあり、学位論文「中観哲学の根本的立場」のほか、「転換の論理」その他多数の論文がある。